Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『喰ったらヤバいいきもの』

2024-08-10 20:42:00 | 読書。
読書。
『喰ったらヤバいいきもの』 平坂寛
を読んだ。

怪物みたいな顔と姿形をしたオオカミウオを兜煮にしたり、隊長2mのオオイカリナマコ(有刺・有毒)をナマコ酢にしたり、バラムツという怪物魚(ワックスエステルという蝋成分だらけの身・とても美味だが必ずひどい下痢をする)を刺身で大量に食べたり、とにかく生きている姿としては怪奇生物だとか不快生物だとかにカテゴライズされ、食べ物としてはゲテモノに分類される生き物を追い求め、喰らう。そのレポート本です。全27生物収録+著者の半生記といった構成です。

そしてそのレポートは、自分が不快な目に遭う可能性の高さに怯まずに敢行される体当たり。著者は、生き物との触れ合い、それも食べるという行為で自らの体内に入れるレベルでの「わかりたさ」に突き動かされるようにそれに挑んでいる感がありました。そしてそのさまを楽しく面白いテンションで伝えようとしている。

「庶民的でとってもおもしろい兄ちゃん」の気質と、「自由な発想と果てしない好奇心をもつ研究者」の気質が、ケンカしつつなのかケンカせずなのかはわからないですけれども、一人の人物の中でコラボするようにしてレポを行い、写真に撮り、文章にしているといった感じもありました。

グロいところもちゃんとカラー写真です。でもまあ、グロすぎはしないか、と40ページくらいまでのところはそう思っていましたが、終盤になってでてきた、オオゲジという15cmくらいのゲジゲジが著者の顔の上を這っているところを自撮りした写真にはタジタジになりました。直視に抵抗がありますよ、こんなの。しかも食べてました。

雑学的に楽しめるんですけど、余談として載っているグリーンランドシャーク。最低でも400年生きて、死んだホッキョクグマなんかも食べるらしいんです。で、自らの肉には猛毒がある。……なんだ、おまえはって思っちゃいますよね。

中盤、著者の半生記を読むと、自分自身の天職たるものはなにか、自分の好きなものと適性の兼ね合い、社会に自分がはまることができるポジションがあるかどうかの探りなどで簡単には行かない人生が見えてくるのです。気持ちを決めて生き物ライターをされているけど、胸の内はまだ混然とした部分があるのではないのかなあ。

だけど、そうだったとしても、果敢にやり抜くがむしゃらさの勢いと、面白い文章を工夫するサービス精神とが、著者のなかで割り切れていない部分があるとしたとしても、それと合体を果たさせて、やっぱりどこか、読んでいてもうわべだけでおさまらず、よくわかんないけど爪痕的なものが読み手の中に残る感じがある記事になっている。そして、そこが、この著者の方の、魅力ある「味」なのでした。

といったところですが、最後にひとつ。沖縄本島の南、八重山列島にはサソリがいるんですね。小笠原諸島にもサソリがいる、と。つまり、日本にはサソリがいる。これはちょっと知らなかったです。




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『東京都同情塔』

2024-08-06 00:49:33 | 読書。
読書。
『東京都同情塔』 九段理江
を読んだ。

第170回芥川賞受賞作。

近未来。東京オリンピック前に、新国立競技場建設コンペでザハ案が選ばれ、その費用がかさむことで廃案とされた現実とは違い、ほんとうにザハ案の国立競技場が建った世界の、その近未来までの物語です。

始めの一行目から、
__________

 これはバベルの塔の再現。シンパシータワートーキョーの建設は、やがて我々の言葉を乱し、世界をばらばらにする。(p3)
__________

と述べられている。だけど、続けて書かれていますが、バベルの塔の神話のように神の怒りに触れて人々が別々の言葉を話すようになるという理由ではありません。各々の勝手な感性で人々が喋り出すことで、言葉の濫用、捏造、拡大が生じ、排除が起こり、その当然の帰結として、互いの言っていることがわからなくなる、というのです。独り言が世界を席巻する、と。

本作品を読み終えてからこの最初の段落に戻ってみると、それがどうしてなのか、についてぼんやり思いつくことがあります。シンパシータワートーキョーの目的は、とある社会学者で幸福学者であるマサキ・セトという人物の提唱したテーマでありアイデアであるものの実現でした。彼によってホモ・ミゼラビリスという呼び方をあてがわれたいわゆる犯罪者たち。セトは彼らを通常のように刑務所に送る存在とはしません。社会環境や家庭環境など、どうしようもない不可抗力といえる力によって可塑的な人格的変化をなされてしまった、あるいは犯罪を犯す状況へ追い込まれてしまったがゆえに、犯罪に手を染めざるを得なくなった可哀そうな存在であるのが犯罪者・ホモ・ミゼラビリスという人たちなので、彼らは人権を尊重され、哀れみや同情の元、人間回復のための豊かな生活を、外界から隔離されたタワーの中で生活するようにさせる、というのが、その思想でした。これはまさに、社会的包摂の極み、母性の極みなんです。日本は母性的な国だと言われますが、作者はそこを特徴づけて物語の背骨にしたのでしょう。

とてもセンシティブで、意見は分かれて当然で、そして議論がまったく終わっていない問題ですし、たとえ議論をしてもうまく片付かないような割り切れない問題だと思うのです、犯罪者に対するこういった見方と、ラディカルなまでの包摂の実現というのは。そういった、人間的進歩の追いついていない時期尚早の問題であるのに、この物語の中では、決断され、採択されて、シンパシータワートーキョーはできあがる。当然、反対派の過激派による攻撃はあるし、SNSなどでの誹謗中傷も激しい。タワーの建設は、「どのような異論も認められないほどの、圧倒的な破壊」(p87)なのですから。

そうなった世界では、それぞれが自分の思想にしがみつくものなのかもしれません。同情を是とするか否とするか、またその間のグラデーションもありますが、この作品内では、マサキ・セトの取り扱った問題について、それぞれの違った思想を持つ者たちがそれぞれ分断されていくという方向で語られる。

ここは、ザハ案の国立競技場がトリガーなのでした。ザハ案が実現したことによって、ifの世界、それは不安定な世界なのだけれども、到来している。シンパシータワートーキョーは、このザハ案の国立競技場への建築的な回答として作られていますし、この物語世界の呼び水なんですね。

それで、そんなザハ案に呼ばれてしまった世界は、再度いいますが、人間的進歩の追いついていない時期尚早な問題への答えを無理矢理作り上げて、それによって議論が終わっていないのに既成事実としてしまい、その既成事実は現在の人間の知力や感性の力の範囲を超えているがために、得体のしれない魔力のようなものが宿っている。その魔力の源に、母性や社会的包摂、同情といったものがあって、そういったものの、人間の言葉をバラバラにしてしまう劇薬的側面みたいなものを、本作は訴えているところがあるのかもしれません。



というところで、真面目な個人的読み解きはここまでとします。あと余談的な感想をいくつか。



こういう作品を読むと、思考力、思考体力、思考継続力とでもいったらいいのか、考えることをずっとやってこそ文学は誕生するみたいなひとつの考え方に行き着くところがありますね。あと、この作風、僕が今まで読んだものの中で唯一同カテゴリぽく浮かんだのが上田岳弘さんの『ニムロッド』。小説の質感が、ニムロッドぽい感じがします。

世の中の整理されきっていないもの。それは対立となっていたりするのだけれど、そういった情勢を背景音としてときに干渉されつつ生きる主要人物、といったように、世情が巧みにスケッチされていて、そのなかで物語が進むさまは、形態として明治時代だとかの文学とつながっていると思いました。明治時代から始まる近代文学の系譜にこの芥川賞作品もちゃんとあるぞ、という。作風のレイヤー構造を想定してみると、SFのレイヤー、ifのレイヤー、文体のレイヤーなどがあると思うのですが、近代文学のメインロードとしてのレイヤーもそこに重なっているのではないでしょうか。

それにしても、東京タワーにスカイツリー、そして物語の中とはいえ同情塔。狭いエリアに3つもタワーを建ててしまうのが日本的ですよね。パリならエッフェル塔のみでそれ以上要らないところが、市井の人にもアンティークの感覚が宿っている国民性の感じられるところではないですか。日本人は、古いものを愛でるのは好事家のみという国民性かな、タワーが三つたつさまを思ってちょっと考えるところがありました。

最後に。あった人の数のぶんだけ、自分というものは増えていく、増殖するっていうのを本作品のP111あたりで読みました。これ、まったく同じことを僕は自分の創作の最初期の頃に書いています(『結晶アラカルト』第二話という短編のなかにあります)。僕の場合は、中学三年の頃に、当時買ったYMOのCD『増殖』のジャケットの意味するところを考え続けて閃いたことでした。たぶん、これについての簡単な解説も読んでいる。中学の卒業文集に、増殖!って書いたくらいの、当時の僕としてはとても大きな気付きでした。まあ、なんていうか。九段さん、僕のはじめての小説をまさか読んでないよね、と思いつつ(いや、といいながら思いませんが笑)。



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『明恵(みょうえ) 夢を生きる』

2024-08-01 22:44:30 | 読書。
読書。
『明恵(みょうえ) 夢を生きる』 河合隼雄
を読んだ。

鎌倉時代の高僧・明恵(みょうえ)が若い頃から何十年も書き続けた、いわゆる夢日記である『夢記(ゆめのき)』は、散逸してしまったものも多いながらも、大半が現代に残されているそうです。その夢についてユング派心理学者・河合隼雄が読み解くのが本書なのでした。フロイト以前に、こんなに夢の素材が残されているのは稀有な事例だとか。

明恵上人といえば華厳宗の人ですが、浄土宗を起こして日本仏教界に革命を起こした法然を厳しく批判した僧侶として知られていると思います。ですが、だからといって、頭の固い守旧派というタイプでもないのです。たとえば江戸時代の終わりまで基本的なルールとなっていた北条泰時作成の「貞永式目」の基盤となっている考え方は、当時、泰時が明恵から大きな影響を受けたがため、明恵の精神が息づいたものとなっていると、山本七平は指摘しているそうです。日本仏教の歴史としては、法然の方がビッグネームで、明恵は名前が少しばかりでるくらいだそうですが、歴史の実際面においては、裏で大きな影響を与えた人なのかもしれません。

また、一人の人物としても、夢への向き合い方が軽薄ではなく、夢の持つ深長さを見損ねなかった人でもあったようです。著者が言うところをかいつまむと、夢というものはその時点での、その人物の精神レベルや人格的到達のレベルを反映していたりもしますし、深層意識が現われてきたり、もっと深い意識レベルに沈潜していることで見た夢には、共時性(シンクロニシティ)が発生したりします。そのような深い夢を見ながら、そういった夢を大切に扱い、日常にフィードバックするようなかたちで人間的に成長していったのが明恵であると言えそうです。ある種の、夢との理想的な向き合い方や付き合い方を成し遂げた人だと言えるのだと思います。

さて、明恵の見た夢自体とその解釈もおもしろいのですが、斜め読みでの引用と感想という形にしようと思います。ちょっと脱線気味に読んだほうが、僕にはおもしろかったので。



__________

コスモロジーは、その中にできる限りすべてのものを包含しようとする。イデオロギーは、むしろ切り捨てることに力を持っている。イデオロギーによって判断された悪や邪を排除することによって、そこに完全な世界をつくろうとする。この際、イデオロギーの担い手としての自分自身は、あくまで正しい存在となってくる。
しかし、自分という存在を深く知ろうとする限り、そこには生と死、善に対する悪、のような受け入れがたい半面が存在していることを認めざるを得ない。そのような自分自身も入れこんで世界をどう見るのか、世界の中に自分自身を、多くの矛盾と共にどう位置づけるのか、これがコスモロジーの形成である。
コスモロジーは論理的整合性をもってつくりあげることができない。コスモロジーはイメージによってのみ形成される。その人の生きている全生活が、コスモロジーとの関連において、あるイメージを提供するものでなくてはならない。(p101-102)
__________

→明恵は、その当時、バンバン!とイデオロギーを打ちだしていったたくさんの僧侶とは違い、母性的な包含のスタイルつまりコスモロジーのほうの僧侶だったと捉えることができるようです。著者は、現代においては、こういったコスモロジーの思想のほうが生じつつあると見ています。よって、明恵を見ていくことは、現代を創っていく上でのヒントになると言えるのでしょう。



__________

手水桶の水に一匹の虫が落ちて死にかかっているので、これを助けるようにと言う。良詮が驚いて手水桶を見にゆくと、果たして蜂が一匹溺れて死にそうになっていた、などというエピソードが述べられている。他にもこのような逸話が多く記載されており、(中略)深い無意識層にまで下降すると、このようなことがよく生じると、現在の深層心理学では考えられており、明恵の修行の深さが窺い知れるのである。(p152)
__________

→ただ、こういった共時性や偶然の一致などに対して、一般の人は首を突っ込まないほうがよいようなことも述べられています。激しい混乱を身に招いてしまうみたいになってしまいます。まあ、そりゃそうですよね。別の本(『たまたま』 レナード・ムロディナウ著)にあった知見ですが、「意味が存在するときにその意味を知ることが重要であるように、意味がないときにそこから意味を引き出さないようにすることも同じくらい重要である。」とありましたが、これはこういった共時性になどに対する精神衛生上大切な心構えであるでしょう。不用意につっこんではいけない。もともと通常の意識の弱い人や、極端に身体疲労している人などは、こういった体験で気がヘンになってしまうことも珍しくない、と書かれています。明恵はもしも現代にいたとしてもそうとう合理性の秀でた人で、ましてやその合理性は鎌倉時代当時ではありえないくらいのレベルにあったと考えられる人です。だからこそ、不可思議ともいえる共時的体験などをしても、健全でいられたのかもしれません。



__________

われわれは何か新しいものを得たとき、それによる喜びと、その背後において失われたものに対する悲しみとの、両者を共にしっかりと体験することによって、バランスを保つことができる。(p243)
__________

→選択をするということは、何かを得ながら何かを失うことだと著者が述べている部分です。このことについて、最近では「トレードオフ」と呼ばれていますよね。



引用はここまでです。あとは特に残しておきたいなと思ったトピックを。

少なくとも数世紀の間、警察も監獄も精神病院も必要とせず平和に暮らしたというマレー半島のセノイ族の話がありました。彼らは見た夢を分析する習慣があって、「では次に同じ夢を見たらこうしよう」と意識を介入させ、夢を「体験」していき、「体験」を蓄積していく。これが精神の健康を保つ、というのが著者・河合隼雄の弁です。ちょっと調べたら、別の著者による『夢を操る: マレー・セノイ族に会いに行く』という本が出てきました。こういった一民族の習慣が医療のヒントや知見となったりしないのでしょうか。まあ、どちらの本も30年以上前のものですけれども。

もうひとつ。

明恵が弟子に言っている、次のことが刺さりました。一人で修行すると、静かだし何ひとつ邪魔立てされず便利なように思われるが、実際は知らず知らず時間にゆとりがあることにごまかされて、なまけ怠ってしまう危険性がある、というのがそれです。僕も一人になれたらどれだけ読書や原稿が捗るかと思っていましたけれど、いま一人になってみると(仮の一人暮らし期間中です)明恵の言うことがよくわかるのです。でも、心身の調子はもう間違いなく上がってきたんですけどね。

といったところでした。河合隼雄さんの著書は膨大に残されているので、読んでも読んでもまだまだといった感じですし、その心理学の深さや難しさはどうしてもこういった読書だけでは消化して身につけることは難儀です。それでも、読みものとしておもしろいですし、ちょっとばかりの心得は僕でもつけることができるのが嬉しいところです。


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『Switch 坂道特集 坂道シリーズの創造術』

2024-07-24 21:24:08 | 読書。
読書。
『Switch 坂道特集 坂道シリーズの創造術』
を読んだ。

僕は、乃木坂46から入って、坂道シリーズがもう大好きです。こうやってスタイリッシュな雑誌で「坂道特集」が組まれ、乃木坂46・櫻坂46・日向坂46三坂道のセンター経験者たち計6人が一堂に会し表紙を飾っているその姿を見ると、まばゆい非日常感にくらくらきてしまうほどです。

6人を中心としたフォトやインタビューではじまり、衣装担当、作曲担当、振り付け担当などなどさまざまな、坂道に力を与える関係者たちのインタビューも重ねられていきます。読んでいくと、それまで見てきた可憐だったり凛としていたり青春の輝きだったりする若い女性アイドルさんたちがきらきらとした坂道シリーズのその表面ばかり眺めていたことに気付いてきます。

裏方。つまり坂道の背後では、クリエイティブがかけ算になっています。背後でのうねりというか、才気が躍動しているその様やその熱の断片を目の当たりにできる特集になっていると思いました。

そういったつくりになっていても、たとえば坂道89名がみんな回答している20の質問のコンテンツが合間に挟まれると、はっと彼女たちの魅力が瞬時に迫ってきて、ふだん目にしているアイドルグループの世界観のなかに吸収されてあっという間に、元通りのファン心理に戻っていたりする。それは、表に立つ、主役である彼女たちの力なのでしょう。

この20の質問の、日向坂46のメンバーのところを読んでいると、ところどころで、ひとりの人物のおもしろいところが語られていて、その彼女のシルエットが浮き彫りになってきます。「バラード」のことを「オリーブ」、「ハーマイオニー」を「ネルソン」と言い間違えるYDK・山下葉留花さんがその人なのですが、彼女はここぞというところで繰り出せる日向坂46の大きな武器な気がしました。場面は限られるかもしれませんけれども。かわいくて、愛嬌のあるお顔をされていますし。

さて。坂道の可憐さやひたむきさ。たとえば乃木坂には体温のぬくもりのようなあたたかさや、キャンドルを並べたときのようなじんわりとしたあたたかさがあるけれど、最近急速に惹かれている日向坂のあたたかさはその名の「日向」のようにぽかぽかとあたたかい感じがいいのだと思うんです。乃木坂はちょっと私的なタイプのあたたかさであるのに対し、日向坂はどちらかというともっとオープンでぱっと瞬時に感じられるあたたかさのポテンシャルがあると思う。それは健康的なものであって、悪ノリみたいなもので生じる種類のものとは違うもので、包摂的なものとしての性質なのではないか、と。こういってしまうと興ざめなんですが、乃木坂はどちらかというと私的な母性で、日向坂はどちらかというと公共的な母性との違いみたいなものがあるのかもしれない。まあ、一面的に切り取った見方ですけどね。

字が小さいなかで(しょうがないです)ようやく読み終えてみると、これだけ個性や人間味があって、頑張られていて、活動表現のなかで一般の人たちを応援してくれたりして、かわいかったりきれいだったりたのしかったりする人たちが、あわせて90人近くいるということにあらためて圧倒されてしまいます。スタッフさんなど関係者の方々を含め、感謝の気持ちを。

今後も楽しみです。

著者 :
スイッチ・パブリッシング
発売日 : 2024-06-20

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『生き抜く力を身につける』

2024-07-19 20:30:31 | 読書。
読書。
『生き抜く力を身につける』 桐光学園+ちくまプリマー編集部・編
を読んだ。

本書は、シリーズ<中学生からの大学講義>第5巻にあたります。神奈川県にある私立桐光学園の中学生が、さまざまな学者、研究者、知識人の人たちから受けた講義を収録した内容です。

タイトルをそのまま信じると、なんだか「サバイバル能力」についてさまざまな角度からの示唆が得られるのではないかと思ってしまいましたが、実際に読んでみるとそこまでストレートかつシンプルではありませんでした。それぞれの講師役が、それぞれの得意分野の視座から見たこの世界を語っている。聴衆の中学生、そして読者にとって、経験したことのない新たな「世界の見え方」を体験させてくれるような中身です。

講師役は7人。大澤真幸さん、北田暁大さん、多木浩二さん、宮沢章夫さん、阿形清和さん、鵜飼哲さん、西谷修さんの順で収録されています。講義が行われた時系列は順不同です。

まず、大澤真幸さんが自由について講義されていますが、これが僕にとってはもっとも知的興奮が得られた内容でした。人の名前の大切さを、孤児院から引き取られてそれまでと別の名前で呼ばれ出したことで知性の発達が遅れてしまった子どもを引き合いにだしながら、「存在」というものを哲学していきます。そして、他者からの承認が得られることが「自由の条件」であることを解き明かしていく。その道筋を、講師から教え諭されるというよりは、共にその道を歩みながら学ぶ、というような話しぶりなので、おもしろいんです。

他の講義では、キャプテン・クックの話、地図の話、世代によってその若い時代というものは違うという話、イモリやプラナリアの再生能力の話、グローバリゼーションの話、コミュニケーションのありかたの話が展開されています。

やっぱり、僕が本書を読む前に望んでいた「サバイバル」というものについて直結する話はなかったのですが、サバイバルすること、つまり「生き抜く力」は、広くしぶとく考え抜く能力が必要でしょうから、そういった意味では、頭を鍛えようという気持ちにさせる内容だったと言えます。巻末に、本書へ続く4冊の広告が載っていて、それを読むと、タイトルこそ違えど、どれも「生き抜く力」を大テーマとして編まれているのではないかな、と思えました。読んでみなければわかりませんが、そういった種類のシリーズといった感じがしました。


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『エクソダス症候群』

2024-07-12 14:21:33 | 読書。
読書。
『エクソダス症候群』 宮内悠介
を読んだ。

未来の火星を舞台としながら、精神医療史を総括したうえで精神医療というものをクリアな目で見てみる試みのような性質のある小説でした。この分野の知識がない人には内容はむずかしいと思いますが、それでもすっきりとして無駄のない文体なので、すらすら読めてしまう。知識をかみ砕いて読者に伝えるワザにも長けた書き手という感じがします。

地球帰りの精神科医・カズキが働きはじめる火星の精神病院・ゾネンシュタイン。「突発性希死念慮(ISI)」と「エクソダス症候群」という、未来世界で問題となっている架空の精神疾患が物語のカギとなっています。

物語世界を築き上げるのには骨が折れそうな舞台設定なのですが、序盤からぐいぐい、そしてスマートに読者を本の中に引き込んでいく筆致でした。言うなれば「冷温な文体」で、落ち着いている。そのなかで、たびたび、突発的な動きが生まれて、そのギャップで引き込まれるところがあります。終盤にかけてはセリフ回しを巧みに使って独特の思想を露わにすることで読ませるつくりです。

宮内悠介さんははじめて読みました。第一印象として、構成力が洗練されている感じがしました。そして、社会性に優れている。社会、組織、仕組みなどをよく知っている。これはエンターテイメントを創るうえではそうとうの武器なのではないでしょうか。また、巻末の参考文献の膨大な量からしてよくわかるし、読んでいてもその中身からはっきり感じられるのだけれど、勉強量がすごい。知識量と、その処理能力がこの作家のストロングポイントなのかもしれない、まだ一作しか読んでいないのでわからなくはありますが。

ここからは気になったところを引用します。最初は、主要人物であるチャーリーのセリフから。
__________

「この病院では、貴族客が一人一ペニーで入場し、患者を見物して楽しんだそうだ。このとき、見物客は長い杖を持ちこんだ。患者を突いて興奮させるためにな」(p98)
__________

18世紀や19世紀の癲狂院の様子についてのところですが、こういった闇がやっぱりあるんですよね。人間の素地にはこういったところがあるので、誰しもちょっとは自分を律しないとと僕なんかには思えるのです。



次は知識としての記述のところを。
__________

かつて、ジェームズ・ファロンという神経科学者が、二十一世紀の初頭、自著でこんなことを明かした。自身の脳をポジトロン断層法スキャンにかけたところ、前頭葉や側頭葉の共感やモラルに関係する部位の活性状態が低く、典型的なサイコパスの脳であることが判明したというのだ。(p253)
__________

この科学者は、それでも自分は暴力などを働いたことがないし、社会順応したサイコパスだと結論したようです。それはそれだとしても、この引用部分にあるように、自制がきかないなど、前頭葉が弱いなあと思える人っています。また、自分本位で共感性が見られないなあと思える人もいるものです。たとえその人がサイコパスではなくても、老化によってこのような状態になることがありますし、僕は「サイコパス様症状」と口には出さずに考えることがあるんですが、そういったところと符合する部分でした。



最後、おまけですが、途中に朝鮮朝顔がててくるんです。「ダツラ」とルビがふってあった。村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』の「ダチュラ」とつながって「ああ!」と思いました。長らくあれは創作かと思っていたんですが、違いました。本作『エクソダス症候群』は村上龍『希望の国のエクソダス』のように、エクソダスが掲げられた本ですし、リュウという頼もしい脇役が出てきたりもして、宮内さんは村上龍さんの熱心な読者だたったりしたのかも、なんてちょっとだけ頭に浮かびました。まあ、わかりませんけども。

最初の方で書いたように、本作は冷温な進み方をしますから、すごく感情を揺さぶられたり振り回されたりするのを好む人には物足りないかもしれません。しかし、淡々と物語を味わいたい人には、文体が端正ですし、知識部分についていけたならば、すーっと読めてしまうに違いありません。僕は精神医療分野にはちょっと心得があるので、ひっかかることなくおもしろく読めました。


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『一生お金に困らない「華僑」の思考法則』

2024-06-30 15:10:26 | 読書。
読書。
『一生お金に困らない「華僑」の思考法則』 大城太
を読んだ。

世界中に散らばり、各々の土地に住み着く中国人たち。彼らは華僑と呼ばれますが、本国に居続ける攻撃的中国人とは違い、その境遇に適応するように身に着いた守りの哲学で生きているとされます。そして、困窮する者はいない。本書はそんな華僑たちの思考法則を教わり、自らもビジネスで成功した著者による柔らかな「生き方」「儲け方」の指南書です。46項目に分けて、解説してくれています。僕としては自分の価値観や考え方の死角にあるような話で、とても興味深かったです。

華僑の人たちに特徴的なのは、商売がうまいこと。「商魂たくましい」などと評されますが、人間中心に考えながらの「経営思考」と「サバイバル思考」がそこにはあります。他国でチャイナタウンを作り上げるように、華僑である彼らはコミュニケーションを重視します。けれどもシビアさもしっかりとある。

日本人は不安に苛まれる人だらけだと思いますが、華僑は不安を抱えていない、とあとがきで述べられています。かれらは家族や仲間を大事にし、仲間意識もすごく強い。その結果、「自分には信頼できる仲間がいる」という気持ちが支えとなっているのだそうです。

では、引用を中心に、内容を少し見ていきます。



著者がどうして華僑のA師匠に弟子入りしようと考えたのか。その理由が、なかなか日本社会を言い得ています。
__________

どこまでも学歴や肩書きがつきまとう日本社会では、10代・20代ですでに勝負がついており、私の経歴ではどうあがいても逆転できません。でもどうしても一発逆転したい。ならばゲリラになるしかない。ゲリラが装備すべきはルール無用の中国流だ、と考えたのです。(p14)
__________

→多くの人は心理的にブレーキが働いて、なかなかこうは考えられないのではないでしょうか。世間の空気を破ってしまうから、はみ出してしまうから、と従順に適応してしまうことって多いかもしれない。そこを、端的にこう述べてもらうと、ちょっとすっきりしますし、「ではどうするか」を考える土台にもなります。とはいえ、それにしても夢のない社会だなあ、と思えてくるのですけれども、だからこそいろいろな方面で頑張る人もでてくるんですよね、苦労はしますけど。



次は、華僑の師匠の元でいろいろと失敗をしてしまった著者の弁。
__________

おかげで私は、貴重な失敗をたくさん経験することができました。失敗から学べというわりに失敗を許さない日本社会では、そうはいきません。(p21)
__________

→日本人は失敗に対する免疫力が弱いと語られるところもありました。そういった日本人の個人的な資質を作るのは、失敗に対する世間的な価値観の強さによってなのかもしれないなあ、と思ったのですが、実際はどうでしょうね。失敗から学ぶことはトライアンドエラーであり、そうやって経験を積んで向上していくものですから、失敗をつよく糾弾されることで挑戦しにくい組織または社会というのはよくないですし、子jンとしてもそういった環境がストレッサーになるでしょう。



次は、「一番自分に合ったやり方選べば一番利益が伸びる」の項での太線部分を。
__________

最初に教えられたやり方にこだわらず、自分に最適なやり方何かと柔軟に考えれば道は拓ける。(p71)
__________

→教えられた通りにやってみて、それでうまくいかなかったら、「自分には見込みがないのだろうか」だとか「自分には能力がないのではないか」だとかと考えたりするかもしれません。でも、そうではなくて、ただやり方が合わないだけです。自分に合ったやり方を見つけたり、編み出していければ、ほんとうにその分野にまったく向いていないタイプじゃなければ、大概はうまくできる、ということなんだと思います。



次は、人との距離感について。
__________

俗に夫婦関係は片目をつぶったほうがうまくいくと言われますが、ビジネスの人間関係も同じです。(p84)
__________

→価値観の違う人間同士でうまくやっていくためには、片目をつぶるような付き合いがのぞましい。価値観がいっしょだったならば、両目で見つめ合ってつきあえるけれども、そういった人ばかりの会社では、いちどうまくいかないと二の矢、三の矢が継げないと著者は述べています。二の矢、三の矢を継いでいくためにも、片目をつぶる関係の人間関係でできあがった会社のほうがいい、という考え方でした。



次は、お金に対する意識のところを。
__________

さて「お金は天下の回りもの」の解釈からもわかるように、日本人はお金というものをスピリチュアルにとらえる傾向があります。
一生懸命働いていればいつかは自分のところにもお金が回ってくるだろう、などと本当に真面目です。しかしそこにあるのは真面目さだけ。
お金が天から降ってくることなどあり得ません。自ら手を出してお金を得るための行動をしなければ、天下を回っているお金とは一生無縁でしょう。(p171)
__________

→華僑にはおごり・おごられのおごり合いの哲学があるそうです。そうやってお金を回して仲間を増やしたりします。また、投資する心理としても、お金を「回す」という意識でいるようです。けして、自然に「回る」のではないようです。そういった、ある意味でのお金へのきれいな執着が、自分にもお金が回ってくる仕組みとなっている。



といったところです。最後にふたつほどトピックを紹介して終わります。

・今でも週刊誌などの記事になっていたりしますが、2013年発刊の本書のなかですでに、「これからは中国で水が売れる」という話がありました。この頃から、中国では水道の蛇口から汚水が出るなどという水質汚濁問題は周知の事実だったらしいです。こういった情報からスピーディーに動くのが華僑や中国のビジネス。この頃から、中国富裕層は高級ミネラルウォーターを欲しがっていたようで、「『華僑』は市場の独占を狙っています」などと書かれていました。知る人だったなら、北海道の水源地が買われていく理由がはっきりわかったんでしょう。中国の水質汚染問題なんて僕は知らなかったです。(p63-66)あたりでした。


・華僑のA師匠が口するという「後院失火(ごいんしっか)」ということわざ。家が火事だったら外の敵と戦えないの意味で、つまり、家庭に火種があれば火消しに追われてビジネスに集中できない、と。これは、まさにまさに、ですねえ。(p202)あたりでした。


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『プレヴェール詩集』

2024-06-29 12:23:08 | 読書。
読書。
『プレヴェール詩集』 プレヴェール 小笠原豊樹 訳
を読んだ。

この詩集は、プレヴェールの主要著作のうちの四つから、60篇余りを訳者が選り抜いて訳したものです。

プレヴェールはシャンソンの名曲『枯葉』の作詞家で他にもシャンソンの名曲をいくつも出がけており、他方、『天井桟敷の人々』や『霧の波止場』などの古い映画で脚本を担当した人です。まったく知らなかったのですけど、フランスの国民的詩人だそう。1900年生まれ、1977年没(ついでながら言うと、僕が生まれた日の二日前に亡くなっていました)。読んでみて、わかるなあ、というタイプの詩はとてもおもしろかったです。

エンタメ的な柔らかくて甘い口当たりを期待してはいけません。とっつきやすい言葉が並んでいても、一文や単語同士の距離感による効果によって、読者が感じるものは、もっと尖ったものになっていると思います。

また、詩作というものはだいたいそういうものが多いですけれども、消費耐久性の高い感じがあります。何度読んでも味わいが褪せにくい。そして、その意味の飛躍に憧れながら読んでいると、何かが解放されていくような読み心地になりました。

死や殺し、暴力などがけっこうよく出てくるのだけれども、それらがないとこれらの詩は、茫洋としてしまうのかもしれない。表現における暴力は、それはそれでなにかを解き放つようです。なにを解き放っているのか? よく考えると、それは「生」なのかもしれない、と思えてくる。

「朝寝坊」という詩なんかはわかりやすくておもしろい種類の作品でした。「庭」という詩は、永遠の一瞬という言葉がでたあとに、パリのモンスリ公園でのくちづけがでてきます。「永遠の一瞬」と「くちづけ」これはイコールでつながりますよね。ウディ・アレン監督によるパリを舞台としたタイムトラベル映画である『ミッドナイト・イン・パリ』でも、主人公とヒロインがくちづけをしたとき、「永遠を感じた」というセリフがあったような覚えがあります。プレヴェールのこの「庭」が元ネタだったらおもしろいです。



あと、「はやくこないかな」という詩。このなかでの一節が個人的に笑えたので、引用しておきます。

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はやくこないかな しずかな一人ぐらし
はやくこないかな たのしいお葬式
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→まったくそうだな! と思ってしまいました、不謹慎ながら 笑



訳者解説部にある、若きプレヴェールを評した、生涯の仲間となるデュアメルの言葉も引用しておきましょう。
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「その驚くべき個性、ありとあらゆる因襲や権威にたいして反抗的な、絶えず沸騰している精神、そのすばらしい喋り方」(p273)
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→活気ある精神、エネルギーに満ちて、なにかを創造するに違いない人、といった感じがします。



最後に、訳者・小笠原豊樹さんがプレヴェールの詩についてやさしく解説してくれているところを引用します。第二次世界大戦後に出版された詩集『ことば』などは、フランスで大ベストセラーとなったそうです。それをふまえて。
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プレヴェールの詩を読んで味わうには、なんらかの予備知識や、専門的知識や、読む側の身構えなどがほとんど全く不必要であるからです。プレヴェールの詩はちょうど親しいともだちのように微笑を浮かべてあなたを待っています。それはいわば読む前からあなたのものなのです。(p281)
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『家族シアター』

2024-06-26 22:06:42 | 読書。
読書。
『家族シアター』 辻村深月
を読んだ。

家族との関係が主軸となっている7つの短編が収録された作品。

作者の辻村さんは、人のいろいろな「だめな部分」をうまく描いています。まるで隠さず、ときにぶちまけられているように感じもするくらいなときがあります。そういった「だめな部分」を起点に人間関係のトラブルなんかがおきるのだけれど、だからといって、その欠点を直してよくなろうよ、と啓発的にはなっていない。「しょうがないもんだよねえ」、とため息をつきつつ、その上でなんとかする、みたいな話の数々でした。

相田みつをさんじゃないですが、「だって、『にんげんだもの』」。そういう前提があってこその作品群だよなあ、と感じました。それはある意味で、人に対して肩の力が抜けていると言えるのです。ただ、「やっぱり優れている!」と思うのは、そうやってゆるく構えたその背後に分析的な思考が隠れているところです。だからこその、ドスッと効いてくる一文やセリフが要所で出てくるんです。

また、「キャラクターが立っている」とはこういう作家のワザのことを言うのだろう、という気がしてきました。キャラクターがしっかり立っていて、読み始めてすぐにとてもそのお話の現場との距離感が近く感じられる。なんていうか、読んでいてわりとすぐに、キャラが溶け込むかのようにこっちになじんできますし、その結果、物語に入り込みやすいのです。

といったところで、三つほど本文から引用して終わります。



『私のディアマンテ』で娘が、主人公の「母」に言うキツイ一言↓
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『自分は親だから、謝らなくてもいいって思ってるよね。そんなふうに血のつながりは絶対って思ってると、いつか、痛い目見るよ』(p120)
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『タイムカプセルの八年』のなかでの、主人公である「父」が開き直るかのように得る気づきの一文↓
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実在しないヒーローの抗力は、放っておいてもいつか切れる。子供がいつの間にかサンタの真実を知るように。一年きりで終わってしまう戦隊物のおもちゃを欲しがらなくなるように。効力は一時的で、しかもまやかしかもしれない。けれど、まやかしでいけない道理がどこにある。大人が作り出したたくさんのまやかしに支えられて、子供はどうせ大人になるのだ。(p206)

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『1992年の秋空』から。主人公である「姉」が、年子の妹の逆上がりの練習を手伝った放課後に感じたこと。これは、この物語全体を表す一文でもありましたし、そもそもこの一文が意味することをテーマとしている小説ってたくさんあるでしょうし、書き手としては扱いやすく、でも作り上げるには深いテーマなのかもしれないです↓
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誰かが何かできるようになる瞬間に立ち会うのが、こんなに楽しいとは思わなかった。(p250)
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辻村深月さんの作品は四つ目ではないかと思いますが、だんだん作風がわかってきました。どこまでも底が知れない感じがしていたのですが、ちょっと輪郭がつかめてきたような気がしています。彼女の作品、また少し空けてからですが、さらに読んでいきたいです。


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『ヤフーの1on1』

2024-06-25 23:02:06 | 読書。
読書。
『ヤフーの1on1』 本間浩輔
を読んだ。

「LINEヤフー」に合併するより前に出た本です。合併後もこの「1on1」は続行されているのか、気になるところです。

「1on1」とは、たとえば週に一回の頻度で一度につき30分の時間を業務内に取り、上司と部下が一対一で差し向っておこなう対話のことです。そこで行われるのは、上司から短い問いかけに応えるような形で部下が自らを語っていく、部下の内省を深める対話です。そのために、上司は講習を受けています。主に、コーチング、ティーチング、フィードバック、進捗確認の四つで構成されます。上司に求められる技術はその他、レコグニション(承認。本書では、その人をそのまま受け止めることにあたります)とアクティブリスニング(頷きや表情などで傾聴する技術)です。

どうしてこのような直接利益に結び付かないセッションを行うのか。人事担当でヤフーに「1on1」を普及させた著者は、経験学習のため、そして「個人の才能と情熱を解き放つ」ため、と言い切ります。

経験学習は、「1on1」によって部下の内省が深まることで、その内省によって経験が学習されて身についていくこと、そしてそれによって考える力がつき、自分なりの考え方が培われていくことを意味します。「コルブの経験学習モデル」によると、人が経験から学ぶときには、<具体的経験→内省(振り返り)→教訓を引き出す(持論化・概念化)→新しい状況への適用(持論・教訓を活かす)>というサイクルをたどる、というものだそうで、これが目指される「経験学習」です。

いっぽう、まるで漠然とした標語のような「個人の才能と情熱を解き放つ」はどうか。これは、本書の中で多角的に語られていますが、なかなか含みがあるというか、豊かな意味性があるというか、内容が生きている言葉だと思いました。トライアンドエラーをくり返しながら自らの適正に気付き、それを活かす形で仕事していく。そうすると、やりがいと成果が大きく得られやすい。会社から与えられる仕事をこなすより、自分で自分がいちばんうまくできる仕事を選んでおこなう、つまり「アサインよりチョイス」という言葉も書かれていました。また、「個をあるがままに活かす」ですし、個人の「人としての強さ」を増させようという言葉でもあるようです。そのため、「1on1」がその助けとなっていく。

では、「1on1」の要となる、コーチング、ティーチング、フィードバックについてみていきます。

コーチングとは、部下が内省しながら自力で答えを見つけるために上司がサポートすることです。上司はYES・NOで答えられない的を広くとった質問をすることが主体となります。「どうして怒ってしまったの?」「どうしてAさんは言う通りにしなかったんだろう?」などという質問がそうです。これを部下は、その都度かんがえて言語化していきます。その過程と出てきた言葉と考えが大事なのでした。

次にティーチング。これは、教えることなので、社内のルールではこうだよ、など、コーチングの必要のないような規則や手順などを教える技術です。

最後にフィードバック。これは、あたまは周りからこう見えていますよ、ということを教えることです。部下が何かひとつ仕事を終えたとき、その姿が周囲からどう見えていたかを、好意的にも否定的にも教えることで、部下は自分ってそんな感じなんだ、という気づきが得られる。まあ、知りたくないことも多いでしょうが、本書ではいろいろ知ることが大事だとしています。そこでまた内省が働くきっかけになったりしますし、道を逸れている場合にフィードバックを起点として立て直すことができます。

といったところですが、「コミュニケーションは頻度」という名言が出てくるんですけれども、なるほどそうなのか、とちょっと頭に留めておこうと思いました。3か月に一度、長い話をするよりも、短い話をちょくちょくする関係を構築したほうが、お互いの関係はざっくばらんに近づくようです。

また、「仕事はお金を稼ぐための苦役である」という認識が、労働に対して強いと思いますが、そこに一石を投じて、できれば価値観を変えてしまえるような職場・会社にしたいという著者の思いも、この「1on1」にはあるようでした。

あと、こういう箇所があります。由井俊哉さんという人事コンサルタントの方との対談部分から。

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由井:多くの経営者は、そこを我慢できないんです。そもそも経営者は、元から強い価値観を持っていて、誰かと対話しなくても自分から動いて切り開ける人なので、まどろっこしいプロセスが必要な人のことを理解できないのでしょう。

本間:そういうリーダーがトップにいる企業では、1on1なんて必要ないでしょうか。

由井:いえ、した方がいいとお私は思います。(p218)
__________

というところなのですが、どうして「1on1」をしたほうがいいかといえば、トップダウンで言われたことだけやる社員だと、現場での判断力が、「1on1」をしている社員にくらべて劣るからだといいます。そして、昨今の仕事の現場では、現場での判断力がモノを言う。そこで後れを取ると、稼げない時代になっているからでした。そして、人を大事にするからこそ、「1on1」をやるんだ、という心構えがすごくこめられている本でした。

ただ、この「1on1」はヤフー用にカスタマイズされてこそはいても、たとえば前述の由井俊哉さんは、前にいたリクルート社ですでに文化となっていたと語っています。また前に読んだ本によると、任天堂の社長だった岩田聡さんも、HAL研究所時代に「1on1」と言えるような面談・対話を行っていたのを読みました。そんな奇異な手法ではないということですね。わかる人にはわかっている技術だと言えるのではないでしょうか。

それと、余談ながら言ってしまうと、本の造りとしては、まず作ってみようという動機があり、勢いがあれば中身はついてくるというようなノリだと思いました。だから、けっこう空気を含んだおにぎりみたいに、突き詰めすぎていないし、わざとらしいくらいにわかりやすく、イメージを感じてほしいというテーマがあるように感じられもするのです。それはまるで、僕個人が「会社」というものに共通して嫌な感じを覚える時代時代のトレンド的というか、そういった強制的かつみなが進んで飲み込まれる、やっぱりノリとでも言うべきものが本書の中にもある感じがする。ある種の、選民性、優勢民であろうという潜んだ欲求から匂うものであって、それが本書にもある気がするのです。たとえば、何人かとの対談がありますが、そこではまるでアジェンダ(議題・テーマ)が踏まえられていないことでの失敗面として出来上がってるような、ほとんど益のない中身となっているような対談もあります。まあでも、読者はこのビジネス本の勢いにのって、まず雰囲気やイメージをつかめ、という狙いなのかもしれません。

では、最後に、これを会社など仕事面ではなく、家庭に応用したらどうなのか、を考えて終わりにします。

まったく内省しない家族の誰かによって、いろいろと不利益・迷惑を受けているならば、まず、話し合いの場をなんとか作って率直に伝えたりするべきでしょう。だけれど、その誰かによっては、自分が自分と向き合うことを強く恐れるため、「おまえと話をすると具合悪くなるから、もうやめだ」などと打ち切ったりすることがあります。また、話が核心に及ぶと、そのとたんに露骨なくらい話を別な方向に変えたり知らんぷりや聞いていないふりをしはじめたりします。これは僕の経験としてあります。それでですよ。こういう家族を相手にどう内省してもらい、自分の行動や性向を自覚してもらうか(まあその家族の誰かは確信犯的に自己中をやってる場合もありますが)。

コーチングやフィードバックという技術がここで活きるのではないでしょうか。これ、応用すれば、自分と向き合えないタイプの「内省しない家族」に使えるのではないかと思いました。テーブルに差し向ったりL字型に座り「1on1」で話し合うことができないのならば、なにかあったその瞬間に「それはこっちにしてみればこういうふうに受け取れるし、客観的にこういうふうに見えていたりするしこんな意味が含まれている」と一言二言。その家族に放ってみればいいのではないか。ゲリラ的なフィードバックです。そのためには、何かあったときにはまずいろいろこちらが考えておかなければいけません。こういうタイプの人は似たような迷惑パターンの振る舞いを何度も繰り返すものですから、それらの行為や意味合い、影響を言語化しておいて、何度目かのタイミングで言えたらいいと大成功だと思います。

不意打ちみたいにはなりはするけれども、相手はそれではっと気づいたりするし、そうしたことが継続的にできれば、総合的に時間はかかっても、いろいろな点での内省が自然とその人の中で行われるだろうし、自覚もなされたりしそうです。ただ、こういった「指摘」「その振る舞いの意味を教える」などはもしかすると干渉の部類に入るのかもしれません。こっちが干渉をするならば、相手からの干渉もある程度飲まなければいけないような気がしてきます。干渉が嫌な人は、そこで躊躇しますよね、僕みたいに。


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