Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『メモリー・ウォール』

2022-01-31 22:25:16 | 読書。
読書。
『メモリー・ウォール』 アンソニー・ドーア 岩本正恵 訳
を読んだ。

6つの短篇を収録した作品。それぞれの話は独立していますが、「記憶」という糸で繋がっていたりします。アメリカでは数々の賞を得た作品であり、日本でも本屋大賞翻訳小説部門第3位にランク付けされたそうです。

どの短篇も夢中に読ませられる佳作でした。なかでも、ふたつの長めの短篇がとくにおもしろかった。表題作でありトップバッターの『メモリー・ウォール』がまずひとつ。近未来の南アフリカの都市が舞台で、その世界では人間の記憶を外部にとりだしてメディアに収め、VRでビデオを見るように体験することができる。三人称多視点、つまり群像物なのですが、アルマという認知症を患う上流層の老女が中心に位置して、彼女の記憶をめぐる話からはじまって、物語は拡大し深まっていきます。文学性かエンタメ性かといえば、本短篇集は文学性のほうに寄っています。しかしながら、『メモリー・ウォール』にしても伏線が張ってあり、作品が進んでいく原動力になっている「謎」の扉に差しこまれる鍵となっていて、読者を夢中にさせてくれる仕掛けになっています。物語そのものも、はじめて触れるアンソニー・ドーアの世界なので読者としても慎重になりますしラジオのチューニングを合わせるようにダイヤルを探っていくかのような読みだしになりましたが、最後まで読み終えてみると、入門編としても最適でしたし、物語そのものだってずいぶん楽しめました。本書の6つの物語の並び方もよいのです。

続いてふたつめは最後の短篇『来世』。ナチスドイツのハンブルクのユダヤ人孤児院が舞台です。そこで生活する少女エスターと親友ミリアムを中心とした12人の少女。その時代と、エスターが長い人生を終えようとする現代を往き来しながら進んでいく。この構造自体も面白いですが、物語自体に独特の推進力とさみしさや悲しみがあって、ぐっと物語のなかに入りこむ読書になりました。僕はこの作品が本書ではもっとも気に入りました。

これらの短篇に限らず、どんな年代の老若男女も作者はみごとに描きます。小説の土台となる「世界」だって頑健なつくりをしている。

本書は作者が30代半ばの時期の作品です。読んでいるとそこには圧倒的な知識量がすぐにうかがえるのでした。ブルドーザーのように書物をあさり、現実世界においても「これは○○というもの、あれは△△といって□□の役割をするもの」と普通はそこまで知らなくても困らないそれ以上までしつこく言葉で世界を分節して記憶してきたのだと思います。かといって知識量をひけらかすことはしていない。必要に応じて、知識の入った引き出しをあけ、ぴったりのものを取りだしている。(しかし、あるいはそれほど膨大な知識量ではないのかもしれない。限られた知識を無理なく自然な形で、その大切なひとつをひとつのかけらとして小説のなかにあてはめているだけなのかもしれない。そしてそうとは思わせない。ひねくれた見方になるけれども、つまりは自分の底を見せないためのワザなのかもしれない。)

だけれど、つよく自制する力があるのでしょう、バランスをとるためまたはくどくならないために、表現しているその解像度は高くとも余白が多いし、客体への距離感はどちらかといえば遠い。要するに、文章そのもので解像度をあげているというよりも、固有名詞など具体的な単語の結びつきで解像度をあげている感じがするんです。その結果、構築された物語の世界は、まるでほんとうにどこかで実在しているのかのような現実感をたずさえた強度を保っている。それがこの作者ならではの表現作法であり個性とも言えます。

簡単にいえば、抑制が効いているということですね。無駄話はしないのだけど、話はおもしろいタイプと表現するといいでしょうか。圧倒的な知識量が背後にあるからなせる解像度で小説世界が構築されているとしても、しっかり生命が住まう川は流れている感じ。それがないと無機質なものに沈んだ創作になっておもしろくなくなります。

ただ、硬質な小説作法の印象ですから、作者がこのあとどう自分のやり方に対して舵を切っていくのかには興味がわく(これは2010年の作品ですから、その後「どう舵を切ったのか」が現在の作風からわかることですね)。同じ象限に居続けて完成度を高めていくのか、解像度を維持したまま、より柔らかな表現の象限へ移動するのか。あるいは、もっと違った形へなのか。

ここまで全力で「小説家として小説を書くこと」にエネルギーを注いでやりとげるのはすごいことです。それ相応の犠牲だってなければできないと思います。後年、そこに失意を感じることだってあるだろうし、それが致命的になるものである可能性だってあるのですし。全力と覚悟の賜物なのでした。読んでよかった。


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『驚きのアマゾン』

2022-01-15 06:00:34 | 読書。
読書。
『驚きのアマゾン』 高野潤
を読んだ。

南米のアマゾン域に魅せられ、幾度も長期滞在を繰り返してきたカメラマンの著者によるアマゾン解説と体験記。

気候はもちろん、生存競争も激しくて厳しい自然の世界であるアマゾン。そこに住まう動植物たちの姿や性質には、各々が生き延びるための独自の特徴を備えているものが多いようです。川や湖のなかの魚たちにしても、鋭い歯を持つ魚はピラニアだけではないですし、硬い背びれや毒のトゲを持つ魚もいろいろといます。また、そんな魚を狙う鳥類やワニたちもいる。森のなかにはジャガーがいるし、ボア(大蛇)や毒蛇、毒蜘蛛もいる。ブヨや蚊やハチの大群がやってくることもあるし、噛まれると厄介なアリたちもいる。野営地を作ればホエザルの家族が樹上から糞尿をばらまいてきたりもするし、夜な夜な正体不明の怪音が聴こえてきて現地で雇ったスタッフともどもおびえることもある。地上では、ワンガナと呼ばれる野ブタの群れが、群れだからこそ実はもっとも強い動物としてジャガーたちも恐れているほどだそうです。ワンガナの群れが通ると、植物も小動物や昆虫なども食い荒らされていくのだと。イノシシのように気が荒くて、個体同士で小突きあってケンカしながら移動しているらしいところがユーモラスなのですが、人間としては出くわすと危険度の高い集団だということでした。

セルバティコと呼ばれる先住民の村で暮らすアマゾン案内人がいるのですが、彼らのアマゾンで生き抜く能力がすごいです。現代の便利になった世の中で暮らす人々のあいだでは絶えてしまった能力を発揮している人たちだと思いました。弓矢を使う能力の高さはまだ、西側諸国の人々であっても張り合える人はいるでしょうが、レメダルと呼ばれる鳥や動物の鳴き声をまねる技能で彼らとコミュニケーションするあたりなどは、セルバティコならではの能力でした。また、カヌアを使った川の遡下行の巧みさ、森の中での状況判断、そして生き抜いていくための知恵や力には、驚きを持って読み進めることになりました。『驚きのアマゾン』は、そういった人々への驚きも含んでいます。

著者がアマゾンを自分と同列かもしくは自分よりも高い存在として気を引き締めて接しているせいではないかと感じられるのですが、さきほどのワンガナの様子のユーモラスさのように、自然への目線が無機質とは正反対で、だからこそそこから紡がれる言葉が魅力的なところなんだと思います。読み物としてとても味がありました。漁の網に間違ってかかったワニが「しまった」という顔をして、それから目を閉じて動かなくなる。針をはずしたり網をはずしたりすると、どたどたと慌てて川の方へ走っていく。そういう野生の、ときに笑えてしまう味わいを短い言葉でそのまま伝えてくれるところが、僕らにとっては非日常の秘境であるアマゾンを伝える文章として信用できる感じがするんです。

それと、現地の人々の間に伝わる妖怪(マドレ)の言い伝えや、著者自身が感じたマドレ的体験についての項もあって、子どもの頃『ゲゲゲの鬼太郎』好きだった僕にとってはおもしろく感じられましたし、そういった、知識や言葉で分節の効かない現象のあることがアマゾンの豊かさ、それも行間に存在するような(あるいは余白に漂うような)豊かさの面でもあるなあと思えるのでした。

最後に、序章の部分での一文から。
____

(アマゾンに)通う回数がかさむにつれ、しだいに「自分はまだ何も知り得ていないのだ」と思うことの大切さを認識した。
____

知らないことがまだまだある、それも想像すらしなかった知らないことがたくさんある、ということがわかることって、知らずに視野が狭くなったり近視眼的になったりしていがちな多くの現代日本人にとって大切なことなのではないでしょうか。自分は何も知り得ていないのだ、という気付きや驚きが、その後の自分の伸びしろを拡げもするだろうし、傲慢さを弱くするだろうし、なによりも人を誠実なほうへと近づけていくのではないか。

そういった意味での、「己を知る」機会を与えてくれる本でもありました。実際にアマゾンに何度も足を運び長期滞在をした著者に比べたら、読者としての気付きは微々たるものだとは思います。それでも、アマゾンというすごく豊潤な世界を、端的に飾り気なく語ってくれる読み物ですから、やっぱり得られるものはちゃんとあるんです。読むという行為でアマゾンという世界に触れ、驚きながら、それとは別に己を知れるのです。これはもうすばらしい読書体験になりました。



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noteをはじめる。

2022-01-13 15:00:34 | days
noteをはじめました。こちらです。

noteでは小説を中心に更新していきます。

小説はブログでもずっとアップロードしてきましたが、レイアウトとしてはnoteのほうが読みやすいです。よろしかったら、noteで僕の小説を味わって(あるいは味わい直して)みてください。また、創作大賞にも応募しました。応援して頂けるとうれしいです。

それでは、次回は書評・感想での更新になります。よろしくお願いいたします。

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『図解 人類の進化』

2022-01-06 19:53:46 | 読書。
読書。
『図解 人類の進化』 斎藤成也 編・著 海部陽介 米田穣 隅山健太
を読んだ。

ブクログの献本企画で当選した本です(ありがとうございました)。

人類の誕生から現在まで、そして短くではありますが未来の人類にまでをも視野にいれた、人類史の概説・入門書として楽しめる本です。二部構成という形で、第一部では進化論の誕生と進歩の話、DNAの話や年代測定の話、大きなスケールでの気候変動の観測やメカニズムの話などがつづいています。各章それだけで一冊の本になるくらいのものを短くまとめているので解説なしででてくる用語に難儀する部分はあったのです。けれども、人類学の成り立ちを知るうえで、生命科学や地質学や物理学や歴史学なども大きく関係する学際的な姿を知っておくことで、人類学そのものを隠すことなくをまるごとイメージすることができますし、人類学を志す方にとっては優先的に知っておくべき学問がなんであるかがわかりますから、道筋をぱーっと照らしてくれる体裁になっていました。第一部で紹介されて解説される部分はもう、第二部でぞんぶんに人類学の髄を楽しむための鍛錬であり、より人類学を立体視するための視野拡張にあたるものだと思います。

そして第二部の「人類の進化」の部分はこの本の佳境で、ずいぶん面白かった。アウストラロピテクス類などの猿人から原人、旧人、新人と一直線に進化して今にいたるわけじゃないことは前に読んだことのある人類史の本からなんとなくわかっていました。それでもうろ覚えになっていて今回の『図解 人類の進化』ではっきり、数多くの途絶えた系統があることが理解できました。そして、原人も旧人も、どうやら段階的にアフリカから出発して世界に広まってそして途絶えていったのだと。新人が最後のトライとしてアフリカから出ていって世界に広く住まうことに成功して今日にいたる。偉大なるアフリカですよ。進化の起こる土地。だからひとえに、70万年前の原人の化石がでたから、アフリカを出発したのがその頃だし僕らにつながる祖先がその原人だ、ということではないんです。あくまで原人は先発隊のような先輩だったのであって、現生人類(ホモ・サピエンス)への遺伝的な繋がりはどうやら無い。僕らの祖先は20万年前頃にアフリカを出た、アフリカでそこまで進化を遂げた種なのだと考えられる。

また、文化史的視点からの自然環境を重く見るような考察がありましたし、「人種」という観方についての倫理的な考察もあるのが僕にとっては嬉しかったです。そういう見方が含まれていると、より複数の観点から人類を眺めることができると思うのです。安直なモノの見方が差別や偏見などを生みますし、より大きなスケール感を持って人類史の知識を学んでいけると隘路での行き止まりにハマりにくいのではないでしょうか。

最後のほうでは日本人の成り立ちについての仮説(置換説・混血説・変形説)などが語られてもいます。現在、定説になっているのは、広い意味で混血説に属する二重構造説だそうです。この説を見ていくと、縄文人の直系のように現在につながっているのがアイヌ人で、本土の人間たちは渡来人たちとの混血が深まり縄文人としての血が薄まっているようです。沖縄人もアイヌ人に近いという説が昔からあり、この二重構造説を構成するミトコンドリア分析や骨形態解析などからも、おそらく祖先は同根なのではないかというような結論が導かれていました。つまり、アイヌ人と沖縄人は縄文人の血が比較的薄まっていない。比べて、本土の人たちは薄まっている。その違いがあるだけで、先祖は同じように縄文人である可能性が比較的つよく見られるようなのでした。

それと、日本の旧石器時代は30万年前くらいから、なんて僕が子どもの時には教わったり本で読んだりしたものですけれど、その研究はねつ造が元になっていて、現在は5万年前くらいからということになっているんだそう。人類史的には比較的おそくホモ・サピエンスが渡来してきたということでしょう(そして彼らが縄文人になったのでしょう)。

勉強して知っている人にとってはなんのことはない知識なのでしょうけれども、僕のような「学問のおのぼりさん」はきゃーきゃー言っちゃいます。そんな面白みのある読書でした。


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謹賀新年2022

2022-01-02 20:53:20 | days
あけましておめでとうございます。
北海道の僕の住む街はつよい寒波に見舞われて、元日の昨晩には‐17度を記録するほどでした。掛け布団に毛布にと、もこもこになって眠ったせいで夜中に汗をかいて目覚めてしまい、初夢は見たのだろうかよくわからずで、そのまま明け方まで目が覚めたまま……。

さて、昨年の今の時期の僕は、前年よりももっと本を読みたいし小説を書きたいし、と野心的に構えていたはずです。しかしながら、読書量は少なくなり、書いた小説は三十数枚の練習短篇のみ(『春の妻』がそれです)。原因は悪い家庭環境にとうとうほんとうに耐えられなくなってきたことにあります。つまりは、不定愁訴と片付けられてしまう以上の体調面での不調がはじまりました。

それまでの胸の痛みはほとんど治まったのですが、入れ替わるように2月からめまいと頭痛と耳鳴りが始まる。それもひどい時には気を失うんじゃないかというめまいでした。血圧計で計測すると、症状がでたときには血圧の高いほうが115だとか108だとか低くなっていました(通常時はたいてい125から135くらいの間です)。父親の怒鳴り声がピークに達した時にそうなることが多く、その後には大声やわめき声や文句などを聴いた時にも症状が出ました。どうやら血管迷走神経反射というストレス症状なのだろうと判断し、お医者さんにかかって頓服薬をたまに飲むようになりました。

そんなめまい等の症状が治まるのが10月です。でも夏ごろにだいぶよくなっていてこのまま症状は無くなるかに見えていたのです。しかし、コロナワクチンの摂取が誘い水になったようでぶりかえしていたのです。それでもめまいから回復したのだからよくやく原稿などに本格的にとりかかれるかなと思っていました。実際、無理しない程度に執筆を始めてもいたんです。それが、年の暮れが近くなったころに、不調がはっきりと顕在化してきます。

まず、11月の下旬に白内障を発症していることがわかりました。まだ軽い状態ですが、ゆくゆくは手術になるのかもしれません。そして、12月の上旬には持病が悪化して薬が増えました。これは頑張り次第で改善できることなのでそれほど悲観はしていません。厄介なのがこれから語る三番目の不調です。11月上旬から右胸と背中から肩甲骨、右肩にかけて痛みが出るようになりました。順繰りに痛くなるというか、痛みの強さが順番に各所で強まるような感じです。それが11月中旬から寝ても覚めても痛みがひかなくなりました。12月8日に病院で、食道が悪いのだと思うのですが、と診察していただくと、薬を出すから2週間飲んでみるように言われました。それでよくならなかったらまた来てください、と。それで飲みはじめて2,3日で頬に肉がついてきたのがわかりました。特に体重は増えていません。それまで頬がこけていたようです。でも、肉が戻るのだから薬が効いている証拠だと思い、飲み続けたのですが症状は7割ほど残ったまま。咳もごくわずかの頻度で出ます。また通院したところ、これはしばらく薬を飲み続けた方がいい、とひと月分の薬を処方して頂きました。検査の話も出ましたが、時期が年末でしたし、僕自身が乗り気ではなかったのでそれは次回までの様子を見て決める、ということになりました。

それから一週間ほど経ちますが、24時間痛むことはなくなりました。痛みの強さも軽くなった。暴飲暴食しないこと、消化の悪いものや辛いものなどを避けること、コーヒーも極力控えること、間食も控えることをほぼ守っています。お医者さんからは休養を取った方がいいとも言われましたが、年末は年末で掃除があり調理があり雪かきがあり、でそう休めるものではありません。それでも、早めに布団に入って横になったりしているおかげで良くなってきているのだと思います。次の通院日までもっとよくなればいいなあと願いつつ、コーヒーを我慢して正月を過ごしているのでした。間食しないぶん、ダイエットにも繋がっているようです。

ということで、今年はまず体調の回復が優先になります。昨年よりもペースは落ちるかもしれませんが、それでも読書感想・書評はやっていきますし、書きかけの小説も仕上げたい。取りかかっている小説はまた練習作ではあるのですが、「練習作」と念頭に置いてとりかかったほうが、内容的にも技術的にもチャレンジできるようで、僕には向いている作戦でもあります。

辛抱しつつ、うまく発散できるようにし、無理はせず、時々はぐだぐだだらだらと過ごして「不真面目だけど誠実に」というスタンスを持てるようにしていきます。自分を大事にするためには、ときどき不真面目に過ごすことは大切なんです、きっと。真面目だけど不誠実っていうのは困りますが(アーレントに「凡庸な悪」を気付かせた、ユダヤ人強制収容所の所長・アイヒマンはそうですね)、不真面目だけど誠実にはときに必要なスタンスなのではないでしょうかねえ。そのあたり、理屈で考えると「真面目」ですから、第一感の感じるままに休息をとれるようになってゆきたいです。

皆さんもお身体、健康にはお気をつけください。まだコロナが収まってもいませんし、公衆衛生に気をつけつつ、他人を傷つけたりしない範囲で「不真面目だけど誠実に」を僕と共に実践しませんか? きっと心身はそういった姿勢を欲しているのではないでしょうか。特に僕くらいの40代真っ盛りのひとは、無理が体調に出やすくなっていると思います。無理されるよう、できる場面では適当にやっていくくらいでいいですよね。

最後に。僕が大好きな乃木坂46のメンバーたちの、そのなかでもとりわけ大好きな、最高にかわいくて素敵で魅力的な生田絵梨花さんが紅白歌合戦でご卒業されました。卒業おめでとうございます、そして今までありがとうございました。たくさんの元気をもらい続けた生田さんが乃木坂46から飛び立たれることは、喜ぶことでもありながら実に寂しいことでもあります。ある意味で、彼女の活動する姿を支えにもしていたなあと、今になって痛感しているんですよ。これからも生田さんを応援します、でも、2022年は僕も心理的にすこし離れたところで自分を作っていきたいなあと思います。

そんなところでした。

それでは、また!
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