Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『経済学的思考のセンス』

2019-06-22 23:59:43 | 読書。
読書。
『経済学的思考のセンス』 大竹文雄
を読んだ。

「お金がない人を助けるには、どうしたらいいですか?」
という小学5年生からの問いに、経済学ならばどう答えるか。
そこのところがこの本の書かれた発端になっている。

行動をうながすためのインセンティブを見ていったり設計したり、
また、統計データから相関しているものをどう読み解くか、
その因果関係への着眼点の持ち方、
それらが、本書のタイトルになりテーマとなっている
「経済学的思考のセンス」になる。

本書は2005年刊行の本ですが、
すでに行動経済学の考え方が取り入れられていたり、
格差や不平等に関する着眼点や論考にも先見の明があり、
現在でも通用する内容になっています。

最初は、イイ男ははやく結婚しているものなのか、
それとも、はやく結婚して守るものができたため、
あるいは妻に育てられたため、などによってイイ男になったのか、
といったおもしろトピックをとりあげて、
経済学的な視点といったものに慣れていく感覚ですすんでいきます。
それは、プロ野球監督の能力とはなにか、だとか、
オリンピックの国別メダル獲得予測に関するものだとか、
週刊誌の見出し的なトピックのものが多い。

中盤から最後までは
年金問題や格差問題を正面から扱い、
不平等というものにドスンとぶつかっていく硬めの論考になっていきます。
それは大まかに見ていくというのとは逆で、
ミクロな部分を仕分けしていくように、
そして、本書の前半部分で親しんできた
経済学的な着眼点と思考を用いての分析になっていきます。

低所得者は怠惰であるからそうなった、
つまり努力が足りないからだ、と考える日本人は多いそうで、
さらにはアメリカ人的な考え方でもあるようです。
ヨーロッパのほうでは、幸運や持って生まれた才能に大きく左右されるものだと
考える向きが強いそう。
これは、努力も幸運も才能も、どれもが低所得や高所得に影響するもので、
どれか一つというわけでもなければ、
どれが一番というものでもないのかもしれない。

また、努力が足りないから低所得なのだ、と考える向きの強いアメリカでは、
「今は低所得だけど、転職によって高所得を得られる可能性はずっとある」
というように、所得階層間での移動率が高い。
幸運や持って生まれた才能が大きく関係すると考えるヨーロッパでは、
所得階層は固定的。
日本はどちらなのかといえば、所得階層間の移動率は低いのに、
考え方は努力が足りなからだ、というもので、
なんだか組み合わせが悪いものになっている。
努力しても所得階層間の移動率が低いので、
努力が報われない可能性が比較的高いのに、
それでも努力が大事な要素であって、
運・不運や持って生まれた才能は努力よりも影響は小さいと考える。
よく日本人は「自己責任」という考え方をするので、
そういった場面での冷たさが指摘されることがあります。
こういう、社会の構造と心理のアンバランスさが
そういった日本人の意識を醸成しているのだろうなあと思いました。

アメリカ人のいう自己責任と日本人のいう自己責任ははっきり違ってきますからね。
努力すれば報われるアメリカンドリームの世界を前提とした自己責任と、
せいぜい大学入学までの努力が比較的報われて、
それ以降の努力は報われない世界を前提にした自己責任と、
まったく違いますよね。


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『トラペジウム』

2019-06-15 22:56:27 | 読書。
読書。
『トラペジウム』 高山一実
を読んだ。

乃木坂46の一期生で人気メンバーの高山一実ちゃんによるデビュー長編。
本作が<『ダ・ヴィンチ』に連載>の報を知ったときから単行本化を待ってました。
なぜなら、本作に先駆けて『ダ・ヴィンチ』のWEBにアップされた
著者の短編がおもしろくて好きだったからです。
その割に、買ってから読むまでの期間が空きましたが、
まあ、それはいつものことということで。

待望の読書になりましたから、
ついに読むんだ!と、溢れそうな喜びで鳥肌をたてながら、
本書のページを繰り始めました。
最初の三行からしてもう期待をスコンと打ち返してくれる。
チャプター1を終えました段階で、とっても好いなあと。文体が好み。

アイドルを目指す女子高生が仲間を集めていって……というお話ですが、
そのまま空想物語が展開されて終わりとはなりません。
しっかり身を切ってくれたというか、
血を流してくれたというか、
覚悟して書きあげてくれたよなあと、リスペクトの念。

きっと著者と同世代の人たちからすると、
本書に触れることによって、
高山一実という人に必要以上に霧がかかって見える部分があるかもしれない。
360度へ向けて放射するように言葉をあてていっている感があり、
そこを掌中に収めるように読むとなると、同じ世代では難しいかなと思いました。
でも、べつに、すべてをわかっていなくても人と人は付き合うもので、
同じようにこの作品と付き合うことはできますからね、
それでいて、要点をおさえつつ読了に至ることは難しいことではないし、
いろいろなヒントなんかを本書から引っ張り出して考えてみたり、
自分の肉にしたりする読者は多いのではないか。
がんばって書いていて、
ところによってはひいひい言ってそうに感じるところもありましたが、
そこも含めて、よい書き手がでてきたなと思いました。
出し尽くそうとしている。

途中、……これはネタバレになりますが、
老人たちを踏み台にしてのしあがっていくところ、
弱者を踏み台にして!と思わないで済むのは
老人たちもバイリンガルで、けっこうな猛者だという設定もあるのですが、
これはひとつの年長世代へのカウンターであるととらえることができます。

年長世代による環境問題やエネルギー問題、年金問題などの、
若い世代への押し付けってありますよね、
そして、年長世代が経験や知識を活かして力を握ったままでいようともする。
そのくびきを受けるのが若い世代。
そういう構造を、さりげなくそして軽々と逆転させてしまった痛快さがあります。
まあ、これを読んでいる僕だって著者よりもずっと年長者ですから、
そこに痛みのようなものを感じはするのですが、
「反旗を翻す!」みたいな、頑なで感情的なものというより、
著者の知性でそうしているのだろうというような、
若い世代と老年世代の和解の可能性はあるだろうね、
という目測めいた予感を感じさせもするのですが、
そこには、本書にちりばめられた著者ならではのやさしい眼差しが
一役買っているのでしょう。
かといって、いじわるな表現が読者のこころをつついたりもして、
そこに、葛藤を経て成長していまの姿となった著者の軌跡をうかがえもするんですよね。
著者が深く自己省察するタイプの人であることがわかる。

というところですが、
デビュー長編にして緩急をつけていたり、
最後はしっかり締めていたり、
お見事といいたい。
総じて面白く読めました。
そして、しっかと受け取ったという気分です。


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『ある広告人の告白』

2019-06-09 01:16:40 | 読書。
読書。
『ある広告人の告白』 デイヴィッド・オグルヴィ 山内あゆ子 訳
を読んだ。

伝説的な世界的広告人であるデイヴィッド・オグルヴィが、
自ら語る「広告業について」。
そのとりとめのない語り口に、
端的さはあまり感じられないのですが、
それをひょうひょうとしたものと取るか、
うまくはぐらかしているものと取るか、
豊かさと取るか。

まるごと受けとめるような気持ちで、
少しずつ読むとよいかもしれないです。

クライアントの獲得、そして関係を持続させるポイントから始まり、
今度はクライアント側の心得を説き、
それからコピーラインティングの基本姿勢やイラストレートの効果にも触れ、
1960年代当時の広告批判への回答と態度を示して終わります。

広告ははたして善なのか悪なのか、というむつかしい問いがありますが、
本書でも最後の方でそこについての考察が述べられる。
欲望を刺激し、消費を高めるという意味での広告は、
資本主義の世の中では経済を回す活力になり、
善とされるものだと思います。
しかしそれは、人々を堕落へいざなっているのではないか。
人々を、浪費の道へ背中を押しているのではないか。

まず、オグルヴィは、
商品やサービスを広告する際に、
それらの「情報を与えるための広告」ならば、
消費者に役立ち、かつ広告業も広告主も儲ける、
WinWinの関係になる、というようなことを述べている。
それでもって、当時の経済学者などから害悪だと言われた
「攻撃的な広告」については、
実は儲かるものではない、と教えてくれる。
「攻撃的な広告」とは、たとえば、こっちの石鹸はこうだ、あっちの石鹸はこうだ、
などと同じ種類の商品同士の広告でパイを奪い合う種類のもの。
だから、広告が真に力を発揮し社会貢献する、
つまり美徳と自己利益が合致するのは、新製品の広告だし、
そういった広告こそ、「情報を与えるための広告」になっていることを示します。

まあでも、そういった論旨をつかむのにもちょっと骨が折れるような、
カフェで長時間、相手に話をし続けているような、
オグルヴィ氏のエッセイになっています。
どちらかといえば、あんまり論理的にまとめられていないし、
話がその時その時でいろいろな方向を向きます。
ですが、さきほど書いたように、それが豊かでもあると思うんです。
そういう文章から、各々が各々なりに解読しあるいは都合のいいように誤読し、
それぞれがそれぞれなりに本書からエッセンスを自分のものにする。
試されるのはクリエイティブな読み方でしょうか。

広告の世界へは興味はありますけれど、
本書を読むにあたって、やっぱり距離のある世界だとあらためて思いましたね。
それは、その世界の全力傾注性にでもなければ、遊びの感覚にでもなく、
たぶん、広告ビジネスのゲーム性にあるのかなあと、なんとなく感じました。
権謀術数うずまく、なんていうと大げさだけれど、
そんなビジネス世界を生きていくことのひとつの構えを冒険譚みたいに読める感覚が、
ひとつ、本書から感じたところです。
駆け引きや計算、心理戦、そういったものも、
著者はある意味でゲームみたいに楽しんでいるように読み受けられる。

そういったところに端を発して、
たとえば僕の稼ぎ仕事であるサービス業にこういうのを応用すると、
職場に立つときにはかなり自分をつくったりというか
演技をするというかが必要になると思うけれど、
それよりももう少し踏みこんで、
働く側も消費者も気持ちよくお金のやりとりができるような、
化かし合いではない仕事の仕方に面白みがある、
と僕自身は感じていることを確認したりでした。

自分の商売がどういう過程でお金を得ているかを忘れたくないし、
そうやって得たお金のありがたみも忘れたくないんですよね。
サービス業であれば、
いっぽうの金儲けと、もういっぽうのおもてなし、
それらが齟齬なく両立する論理を持つと強いと思う。

といったところです。
本書はそういった「ひとり議論」のタネにもなりましたよー。


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