Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『朝の詩』

2023-08-31 23:31:41 | 詩作
べたつく肌と朝霞。
響く足音が耳にも胸にも心地よい。
わたしは歩いている。
道の端から生の謳歌そのものといったたくさんの虫の声。
わたしの気配にびくつきもしない。
するどく高い鳴き声がして、鹿がいる、と見回す。
でもその姿を確かめることはできない。

わたしを悩ませるものがまた、これから始まる。
区切られ、区別された世界の肩を持たなくてはいけない。
色味さえメリハリばかりが褒められるこの世界の肩を。
規律で仕切られるものを守り、
小さなものも大きなものも、
順序だてて仕訳ていくよう身体も気持ちも規定される。
わたしは、省いたり、取り去ったりする行いにいつまでもなじめない。
零れ落とさせたあれやこれやにわたしは親しみを感じるのだし。
なのに、そうであっても、誰かに決定された時間の「意味」によって、
甘みも旨みも感じられない営みへと押し出されていくのだ。

取り巻く乳白色が薄まっていく。
わたしの胸は自然と切なく詰まってしまう。
先取りしてしまうのだ、
目覚めきった世界を。
引き裂かれそうな想いが甦ってしまうのだ、
混じり気を嫌う世界が到来する予感に。

もっと呼吸をしなければ。
この朝を、もっと吸い込まなければ。
世界がこんな朝だけだったなら、
わたしは探しものなんかしなくていいのに。
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『日本人の美意識』

2023-08-27 23:35:36 | 読書。
読書。
『日本人の美意識』 ドナルド・キーン 金関寿夫 訳
を読んだ。

日本文学・日本文化の研究で名高い著者の代表作。論説やエッセイなど9編収録。和歌や古典、能、建築などを例に、日本人の美意識というものをあきらかにした標題作の論説から始まります。

日本の寺社建築の飾り気のない簡素な線で作られている単純性などに現われているように、日本人の美意識は禅の美学と相通じるものがあると著者は指摘しています。くわえて、モノクローム、曖昧性、暗示性、といったものを好む美意識についても述べていますし、その暗示性を発揮し保つために、均斉や規則正しさを避けるところがあったことを指摘しています。規則正しいものって、その目的がはっきり明確なるがゆえ、暗示的な要素が消し飛んでしまいます。

続く『平安時代の女性的感性』いう論説では、日本の文学は多くの傑作が女性によって書かれたことを指摘しています。いつの時代もそうだったわけではありませんが、八世紀から十三世紀にかけてめざましいものがあった、とあります。それまで中国の文化の影響で、男性社会で用いられる漢文こそが公式の文書となり、かな文字は女性が使うものとして軽んじられてきたわけですが、そのかな文字こそ日本人の感性が引き立つものでした。そして、女性作家の作品が持つ内面性が、『源氏物語』『枕草子』『更級日記』などにはよく宿っているわけで、現代の日本文学にとっても、明治以来、西洋文化の洗礼を受けても、そういったところが始祖となっていて、受け継がれているところなのでしょう。

日清戦争が与えた日本文化への影響という骨太の論考もあります。浮世絵の一種である錦絵がその当時人気があり、戦争画がよく売れたようですが、だんだん写真にとってかわられていく。演劇も、それまでの主流としての歌舞伎ではなく新劇の人気が出はじめますが、その理由は戦争劇にありました。歌舞伎の方法論ではうまく日清戦争を伝えられず、新劇の写実性がウケたわけです。そのころの民衆はまったくもって戦争支持で、戦況を伝えるニュースに多くの人たちが興奮していたみたいです。明治維新から太平洋戦争まで。どうして国が変わっていったのかをわかるには、その間の日清戦争と日露戦争の影響の大きさがあるのですね。世界的な、時代の潮流に巻き込まれもしながら、そうやって日本は国家主義になっていきます。

第一次世界大戦前に欧米で人気者になった元芸者の舞台女優についての論説も。芸名は「花子」。彼女を題材に森鴎外が短編を書き、ロダンは彫刻を何点も作った、と。たぶん初めて知ったことではないのだけど、初めて知ったのと変わらない知らなさでした。こういうことを知ると、その時代の幅の広さ、ダイナミックさがうかがい知れてきます。

一休和尚の論考もあるのですが、これがとてもおもしろかったです。一休さんで知られる一休宗純って、その神童時代から徐々に退廃してくような印象をその人生から受けます。酒を飲み、魚を食べ、女たちと交わった禅僧なんだけれど、当時の仏教界隈の不安定さと新たな立ち位置を見つけようという懸命さのために、そういった通常と異なる姿勢で生きることになったのかなあと思います。というか、一休は誠実であろうとしたその姿勢と当時の社会の風潮との化学反応の結果としてそうなっているふうな印象です。隠れて女遊びをする僧、教義を金儲けのために曲げる僧などがたくさんいたみたいですし、そういった在り方がメインストリームの時代だったようです。一休が残した数々の詩は文学作品としての評価はそれほど高くないそうなのだけれど、僧の身分で愛や肉欲の詩を残してなどいるその堂々としたさまが、まさに一休らしさなのかもしれない。「俺は隠し立てしない。これだけのことをやっている。悪いか」との開き直りのような叫びと挑戦。そんなふうに感じられるのです。僕が推測するに、一休のそうした行いって、偽善を働く僧侶たちが自分たちの行いを一休のように表沙汰にして平然と構えるようにさせるための誘い水でもあったのではないのでしょうか。もしも数多の僧侶たちが一休と同じように、自らの破戒を隠し立てしないようになれば、そこから一休は次の手を、それもすごく効き目のある絶妙な手を打ちに行ったのではないか。現状を覆し、より誠実な仏教界にしようとする一手の準備があったのではないか。まあでも、これはあまりにもピュアな信頼を一休に対して持ちすぎているのかもしれませんが。

というところですが、1990年発表の書籍でも、今読んで色褪せた感じはありません。現代でも生き続ける、その掘り下げられた思索と分析なのでした。本文は翻訳文なのですが、これがまたとても読みやすく、まるで翻訳ものではないかのようにするすると読めてしまうことうけあいです。海外の文化で育ってきた人物による視点だからこそ、当の日本人としたって、「なるほど、そうだったのか」と、それまでよくわかっていなかったような、はっきりしていなかった曖昧な認識を明確な言葉にしてくれているというところはあるでしょう。ちょっと大げさな喩えではあるのですが、水面に身を映す程度でしか自分の姿を見たことがなかった人が、磨かれた鏡で自分の姿をしっかり確認できた、みたいな客観的に自分を見られた経験に近いものが、本書にはあるかもしれません。


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『ニムロッド』

2023-08-19 05:12:45 | 読書。
読書。
『ニムロッド』 上田岳弘
を読んだ。

仮想通貨・ビットコインのマイニング(採掘)や実用化に失敗した「駄目な飛行機」たち、そして高くそびえる塔といったモチーフを反射板みたいにつかいながら語られる物語。

デジタルの圧倒的な大波をざぶんと浴びせられ、そののちデジタルの破片をたくさん身体に受けたままアナログの立場で書いた小説、といった感覚でした。なんていうか、乾いていてシンプルで、それでいて割り切れないような生々しい複雑さの結び目のようなものがある。

主人公の中本哲史はIT企業の社員で、新設された採掘課の課長。運営するサーバーコンピュータの空きを使ってのビットコインの採掘を命じられる。主人公の名前はビットコインの創設者とされるナカモト・サトシと同じ名前です。このリンクがまた、この小説の乾燥した読み味に一役買っているような気がします。

恋人の田久保紀子は大手外資企業で、人には話せない企業秘密を抱えながらシンガポールへ飛んだりしながら大きな仕事をしている。

友人であり同じ企業の名古屋支社に勤務するニムロッドこと荷室仁は、小説家志望で新人賞の最終選考で3度落ちたことで鬱病をわずらい、そこからいくらか回復した状態で物語に登場する。

この中本哲史を中心としたこの三人だけの物語です。遺伝子のコードやプログラムのソースのように、小説がそれを読む人の心になにかを記載する作用を期待して小説を書いているのではないか、という仮説があります。それは夢想なのだろうけれど、この空っぽの世界を支えているのはそういった行為かもしれない、と。この部分に、僕はかなり同意しましたね。

150ページほどの中編ですが、その文体による読み心地が僕には好ましかった。帯に、「心地よい倦怠と虚無」とありますが、その倦怠や虚無は、この世界をそれまでよりも少しだけわかってしまったからこそ宿る種類のものなのではないか、と思いました。

著者の、他の作品もそのうち、読んでみたいです。


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『いじめを生む教室』

2023-08-05 07:03:29 | 読書。
読書。
『いじめを生む教室』 荻上チキ
を読んだ。

いじめから抜け出すためのいろいろな情報を載せているサイトである「ストップいじめ!ナビ」https://stopijime.org/ の代表理事である荻上チキさん。彼による、いじめのデータと知識及び、そこから考えていって子どもを守るにはどうしていったらよいかまでを示してくれる本。いじめの認識を本書がアップデートしてれます。

いじめは誰もが経験するものだということが、アンケート調査からわかっています。そして、何度もいじめに遭うハイリスクな層の存在があることもはっきりと認知されてきました。くわえて、いじめはエスカレートしていきます。そうなる前に、なんとか止めることが大切になります。

「自殺するくらいなら学校から逃げろ」という言い分が、ネットでもメディアでも見られることがあります。しかし、そうやって逃げた子どもたちをサポートし、受け入れ、学校から逃げたことでその後の生活の不利益にならないような仕組みが整っていないことがあげられている。また、道徳の授業をいじめ抑制のものとしよう、という言説がありますが、モラルを押し付けたり、「いじめをしないようにしましょう」と精神論を押し付けたりする性質のものであれば意味がないと述べられている。道徳の授業をするなら、ハイリスク層のひとつである性的少数者への理解を促すだとか、そういった種類の授業にしないと効果がありません。

いじめはどうして発生するのか。その理由の一つとして、学校や家庭でのストレスの発散として行われる、というものがありました。加害行動によってストレスを発散するのです。学校は細かい規則で生徒を縛ります。そのなかにはブラック校則と呼ばれるくだらないものもあります。生徒たちは、本や漫画の持ち込みが赦されず、休憩時間中も校内あるいは教室内に縛られ続けるなど、ストレスフルな生活を強いられている。これが大人社会であれば、疲れたらちょっと煙草を吸いに行くだとか、コンビニに買い物に行くだとか、リフレッシュを自分で行えますし咎められないのですが、それが子どもたちには許されず、ストレスの発散が加害行動へと流れていってしまう。

そして、加害発散をしたことを咎められても、言い訳をして逃れようとすることが多い。その言い訳のタイプも分類されています。

__________

人は罪悪感を「中和」しようとする。そのための典型的なテクニックのことを、「中和の技術」と呼びます。中和の技術は5種類に分類されます。分類は以下の通りです。
「責任の回避」
「危害の否定」
「被害者の否定」
「非難者への非難」
「高度の忠誠への訴え」
この5分類のいじめ行為になぞらえてみましょう。「自分がやりだしたんじゃない」(責任の回避)、「これはいいじめではなくふざけていただけだ」(危害の否定)、「この子が生意気だから懲らしめていただけだ」(被害者の否定)、「そんなことを注意される筋合いはないし、そもそもお前は人に注意できる立場か」(非難者への非難)、「クラスのノリを乱すのがいけないんだ」(高度の忠誠への訴え)。いかがでしょう。これらのフレーズは、いじめの場面において非常によく使われる「言い訳」です。<p131-132>
__________

→もしも被害者に何かしらの要因があったとしても、それを暴力・加害で解消・発散しようとするのが間違いなんです。暴力行為はもうそうだけで悪いのです。反対に言えば、こういった「中和の技術」を用いているなあとわかった時点で、その人にはそういう技術を使わないと気持ち悪く感じる心理が生じているわけで、つまり、意識の奥ではいじめの自覚があるということだと思います。

また、「善・悪」の意識のほかに、「アウト・セーフ」の意識もあることを、本書はつまびらかにしています。これは悪いことなんだけど、今この場ではセーフであるというケースがあります。たとえば、赤信号。渡ってはいけないのですが、「車が来ていない」「急いでいる」「警察がいないから」「みんなの渡っている」などの理由でセーフと判断されてしまいます。この心理が、いじめにつながる、人をいじるふるまいと直結しています。

また、いじめの被害について、こういう文言がありました。

__________

直接暴言を吐かれた人の作業の処理能力、創造性、報告意欲、他人をサポートする意欲などが下がるのはもちろんのこと、他人が暴言を吐かれるのを目撃しただけの人にも同様のことが起きることがわかっているのです。(p96)
__________

これは大人のDVでもそうですね。僕にもあふれるほどの経験があるくらいです。


ここからはちょっと余談というか、個人的な感想を含んだ内容になります。

いじめはだんだんエスカレートするといいますが、個人的経験から言えばDVもそう。たぶん同じ方法論で語れる種類のものですよね。子どもたちへのアンケートで、他人を叩いたり自傷したりしたことのある子は日常でのストレス感受性が高く、他人を叩いたりしない子はストレスをあまり感じていない、という結果がありました。前者のタイプはストレスの加害発散と表現されています。予防としては、大人の目によって抑えつける、というのがあるのですが、ストレス緩和つまり環境改善だとか、発散方法をもっと健全なものに代替できるように付き添いながら教育するとかありそうな気がしました。大人のDVの場合だったら、大人の目にあたるのは社会性を濃くすることでしょうね。

性的少数者や生活保護受給者への差別意識が社会にはあって、でも教室にはそれを持ち込まないことが大切だと説かれていました。でも、それはわかるのだけれど、そうやって育った子どもたちはやがて大人になり、差別意識にまみれた社会で暮らさなければいけなくなります。だから、いじめは教室だけの問題ではないし、社会でも正面から取り組まないといけないのだと思うんです。平和を保てた教室の空間よりもよっぽど劣っている社会の空間のほうが、構成員も多いし強靭で無差別的で、それにそれまでの慣性もあって、成人してきたそれまで子ども社会にいたまともな若者たちを飲み込んでしまいがち。これがなかなか社会がよいほうへと変わらない素因のひとつだと思うのです。社会が、若者を社会の色にすぐに染めてしまいます。また、それとは別に、社会に足を踏み入れる前に触れたり眺めたりしてきた社会への準備段階で、若者が抗わずに効率的な適応をしてしまうのも社会が変わらない点ではないでしょうか。

社会勉強と社会にある勉強しなくていい点とが、シームレスなんですよ。だから、仕事やルールを覚えていく段階で悪い色にも染まっていきがちです。線引きが難しいからです。差別意識に話は戻るけれど、これってたぶん無くならなくて、それらに対処する心持ちや姿勢ってものを培う努力はずっと必要なんじゃないかなあと思うのです。そして、その努力が人間性を高めもするので、その苦労、苦しみはほんとうに嫌なものなのだけれども、引き受けないといけないものなんじゃないでしょうか。


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