嘘つき。
松尾亜実との他愛ない会話の途中、永井朋樹はこころの裡でそっとつぶやいていた。
そこは亜実が働く喫茶店内で、朋樹は常連の客だった。マスターはカウンターの中、椅子に腰かけ腕組みをしながら背中を丸め眠りこけている。北海道の、雪のちらつく山間の田舎町、三月の土曜、午後二時。他に客はいない。
暗色の木製テーブルに左肘を立て頬杖をつき、丸いトレーを胸に抱えた笑顔の亜実の話を聞きながらつぶさに相槌を打っていた。また適当なことを喋っていやがるな。
亜実はいつも調子が良い。俺、サッカー選手のSが好きでさ、といえば、ああ、私も好きです、と返し、競馬に一時期ハマったことがあって、まあ馬券的にはマイナスだったんだけど、面白くて今でもたまにやるんだ、といえば、昔から興味があって機会があればやってみたいと思ってました、と応える。これは営業中だからなのかと思っていた。冬になれば雪に閉ざされひっそり寂しくなるようなこの田舎町でそこまで気を使って客を掴もうとしているのか、健気なものだと捉えていた。しかし、電話番号を聴いて、プライベートで話したり会ったりするようになっても、亜実のこの性格は変わらなかった。それどころか、今している話がまさにそうなのだが、作り話だとすぐわかるような、細部をはぐらかしたでまかせの嘘をたまにしれっとつくところなどが、何もない雪原に幾ばくかの望みを抱いて飛来した真っ黒いカラスのように、目立って見え少し滑稽で、そして悲しかった。
もしかして、そこまでして俺の好意を獲得しようと必死なのでは、とおめでたく考えたことすらあった。朋樹だって、亜実の顔やスタイルに惹かれていたことは間違いないのだから、亜実と寝ることができるかもしれない、と確信に近い期待を持った時期もある。だが、亜実はある程度の距離感を保ったまま、至近までは近づいて来ない。
朋樹は女に慣れたタイプではなかった。それどころか恋愛の駆け引きや口説き方のノウハウなどにはまったくの門外漢タイプで、つまり、気持ちだけが先行し、論理は付いてこず、戦略も戦術もない赤子同然の、いや、赤子だって親の注意を引くために泣きわめいたりする戦術があるのだから、朋樹の場合はもはや赤子未満レベルの色恋事への対応の仕方だった。亜実がある一定から近づいてこないのはわかるのだが、そこでどうするべきなのかが全くわからなかった。
だとしても後に、次の一手を打てず恋に腰が引けた姿勢が自分に馬鹿を見せずに済ませたのを知る。亜実の休日にマスターが朋樹にちらりとこぼしたのだが、亜実にはまったく朋樹への恋情はないようなのだ。それどころか、他に好きな男がいるわけでもない。夜空の遠い月を眺める眼差しで、理想の男を心に想い描いていもしない。では、もしや同性に興味があるのかと訝しんでみても、よく観察するとそれが訝しむだけ無駄なのがわかる。逆に同性を嫌っている風だからだ。
弄んでいるのか、と疑ったことだってある。でも、そういう意味での性格のねじれは亜実からは感じ得なかった。接客を受けたり他客への仕事ぶりを見たりしていて、よく気がつくし、誠意をもって仕事をこなしているように見えた。灰皿を取り替えに行ったり、世間話をしたりするのに、自らの愛嬌や見栄えの良さで相手に付加価値を感じさせて点数を稼ごうという計算は存在しないかのように、さっぱりした行為がそこにはあったからだ。ただ、嘘をつく種類のねじれを抱えているのだけが問題だった。嘘の元になっているのはなんなのだろう。嘘はどこから生じるのだろう。
ふとした拍子に、亜実はその場に立ったままぼんやりと視線を宙に泳がせ始め、二人の間に沈黙が訪れた。不意に店内に流れるジャズ演奏のBGMの存在感が際立ってくる。ビル・エバンスのアルバム『From Left To Right』。今までピンボケだったのに、急にリズムや調性に耳が向くのも束の間、亜実の発する言葉が再度そのBGMを本来のバックグラウンドへと押しやった。
「私のお母さんって、若い頃、女優になりたくて、芸能事務所に入っていたんです。贔屓目に見なくてもきれいな女性だと思うんですけど、もっときれいな人たちがいっぱいいる世界で、母はセリフもない端役を与えられて、華やかな撮影現場にはいても、出来あがった映画やテレビドラマを見てみたら映ってたり映ってなかったりしたみたい。そういうのばかりなのに心が擦り減っていってこの街に戻ってきたっていうんです。」
朋樹は何度か頷いて、続きを待った。
「芸能界にいた頃には、あの大物俳優の土門英三郎に目をつけられていたなんて言ってました。食事によく誘っていただいて、そしてそれだけでもなかったみたいで。」そういって亜実はほんの少しの間だけ目を伏せ、軽く下唇を舐めた。
「亜実のお父さんとお母さんはいつ知り合ったんだい?」
「母と父は中高一緒の同窓生なんです。母が東京に出ている間にも、たまに連絡を取り合っていたみたい。高校を卒業するまで、短い期間だったけれど付きあってたって聞いてますし。それで、母が帰ってきて三カ月目には結婚してるんですよ。それも出来ちゃった結婚。それで私が生まれたんですけど。」そこで亜実は悪戯っぽい眼差しを朋樹に向けた。そうなんだ、とだけ返した朋樹へもの問いたげな表情になって話を続ける。
「ちょっとひっかかりませんか?芸能界から引き揚げてまもなく結婚して、一年もたたずに私を産んでるんですよ?」
わからないな、と朋樹はめがねを外し、尻のポケットからハンカチを引き抜いてレンズを磨きだした。
「んもう。朋樹さんったら、鈍いー。私の父親、芸能界のドンかもってことなんですよ。」めがねをかけ直した朋樹は、また吹っかけてるな、と舌打ちしそうになるのをみぞおちに力を入れて堪え、
「DNA検査でもやってみたらおもしろいかもしれないよ?もし本当だったら、そのうち巨額の財産が舞い込むかもしれない。」と抑揚のない声で一気に話した。亜実は嬉しそうに、
「いいんです。きっと向こうは取り合わないだろうし、私だって両親の仲を裂きたくないですから。食い下がろうとも思いません。私が火種になるより、家族がバラバラになるのを防ぐほうが、財産を分けてもらうよりもずっと大事ですもん。」
真っ当な内容を可愛げのある語尾で結んでいたが、朋樹には小憎らしい心象としてそれは映った。自分が土門英三郎の娘だと?言いたい放題じゃないか。こんな遠方の田舎にいる人間に確かめようはないし、向こうの世界とは世界が離れすぎていて関係者の耳に入ることもないし、だ。まったくの安全地帯。可愛い顔をしながらその性格なのは、天は二物を与えず、のひとつの例だろうと思った。
朋樹は、はあっと気づかれないようにそっぽを向いてため息ををひとつ漏らす。惜しいよなと小さく独り言ちていると、亜実はいつしかバックヤードに消えてどうやらスマホをいじっている。
「あれえ?またアプリが消えてるなあ。この、インストールしたのに気がつけば消えてる現象ってどういうこと?もう、調子悪いなあ、私のスマホ。」
声だけがした。
翌月曜日。そのニュースを朋樹は昼休みに知った。ニュースとは、土門英三郎、七十歳、心筋梗塞で急逝との報だ。
節約のため昼休みの間照明を暗くした事務室の自席でコンビニから買ってきた弁当を口に運んでいるところに、通路を挟んだ右方の席に座る総務課長の平林南津子が、あらあら、このあいだ時代劇で見たばかりなのに、と驚きの声をあげ、それで知ったのだった。
四十歳を超える平林によれば、土門の人気のピークはおよそ二十五年前だという。彫りの深い顔が彼の二十代時にはどこか親父臭く映り、当時からスターではあったが、大がつくほどの人気ではなかった。もともと映画を中心に仕事をしていた土門だったが三十歳を過ぎた頃から出演作品がみるみる減り、巷間の話題にも上らない忘れ去られた俳優のひとりという位置にいた。そのままでは、昔売れたことのある芸能人が取り上げられる「あの人は今!」というような、屈辱と引き換えに今一度の脚光とチャンスが与えられるテレビ番組から取材を受けることになっていたかもしれない。
しかし、土門には四十歳を前にして運が向き、そんな番組に拾い上げられる前にチャンスが訪れる。ギャラの安さと濃くて男臭い顔の作りを覚えていたディレクターの一声により起用されたシェービングフォームのCMでブレイクのきっかけを掴んだのだ。元々の古臭さを感じさせる二枚目顔が、加齢によって刻まれた皺と酒好きゆえの少々くたびれてきた皮膚の感じによって自然に演出、装飾され、二十代の時の場違いに浮いた雰囲気を払拭して見せていた。幸いなことに、売れない期間を長く過ごしていても、眼光の鋭さはますます冴えていたほどで、テレビ画面から射すくめられた同世代の女性たちが、まるで何か事情を抱えたために中年を迎えてからデビューすることになった二枚目俳優の登場とでもいった彼に対する新しいイメージで彼のCM出演を受け取り、人づてに聞いて認知するのではなくて、一人ひとりが垂れ流しのテレビ放送の砂漠の中から自らが独力で見つけだした感覚で、彼の再登場を歓迎した。つまり、同時多発的に彼への関心が高まったのだ。それほどのインパクトを中年女性たちに与えたのだった。それからは、映画にこだわらずテレビドラマの仕事を引き受け始めた。刑事物、時代劇、若者が見る軽いラブコメディー、ホームドラマ、来る仕事来る仕事ほぼどれでも引き受け、すべての役をそつなく演じた。その結果、土門英三郎の人気は、女子高生から老年女性まで幅広い層に広がるのだった。それどころか、その男臭さゆえに男性からの力強い支持も出てきた。土門は、あのシェービングフォームのCMから五年と経たずして、一躍国民的なスターダムの座に君臨することになる。大逆転劇だった。
「でね、そこからなのよ、力を手に入れた土門英三郎は本当によく遊んだらしいわよ。長年の鬱憤を晴らすかのように。」平林は愉快そうに目を三角にして、なおも豊富に蓄積された芸能情報の抽斗から土門情報を抜きだす。
「何年か前には隠し子騒動だってあったじゃない。そこら中の女に手を出したって週刊誌に書いてあったわ。」
「じゃ、こう、亡くなってみたら、遺産相続に名乗りを上げてくる見知らぬ人がでてくるかもしれないですね。それこそ、ドロドロの争いになったりして。土門の遺功もなにも愛憎と欲の雨に降られてドロドロで、名前も土門から泥門なんて揶揄されたりして。」
「それ、あながち冗談で済む話じゃないかもね。心筋梗塞で突然死なんだから、遺書だって遺してなさそうだし。本妻とその子どもたちに災難が降りかかるかもだよね。おー、嫌だ嫌だ。」言いながら、目をさらに鋭い三角に変形させる平林なのだった。
仕事が終わると、朋樹は喫茶店『びぃ、くうる』へ向かった。亜実は土門の死についてどんな反応をするだろうか。平林に詳しい話を聞いた後なので、先日の、あれは嘘だと決めてかかっていた、亜実が土門英三郎の娘かもしれない件についても話直したい気持ちがあった。店内に入り、マフラーをほどく。どの席を取ろうか。老夫婦が一組と、小さい女の子を連れた三十代半ばくらいの夫婦の計二組の客が窓際のボックス席にいた。『びぃ、くうる』は喫茶店とは謳いながら、そこは田舎の店で、夜になるとちょっとだけ田舎にしては洒落た軽食食堂になる。マスターは根室出身だったから、エスカロップなんていう珍しい料理も出すし、サンドイッチから親子丼まで、手軽に出せる料理が十二、三、メニュー表に掲げられていた。
朋樹はカウンター席に腰かけ、あまり迷いもせずカルボナーラを注文する。マスターが、ほいきた、カルボナーラね、と返事をするその横で亜実はボックス席に配膳する料理を持ち出すところだったが、いつになく表情に翳りがあるのが気になった。土門の死を知って、自分の生みの親が死んだのだと本当に考えているともとれるような表情だ。料理を運び終えて引き返してくる亜実を朋樹は呼びとめた。戸惑うように視線は泳ぎ、愛想がほんの気持ちぶんだけの珍しい薄さだ。
「やっぱり、ショックだったの?あの訃報だけど。」
「ええ。」
「父親かもしれないからだよね。」
「いえ、それもありますけど。またか、と思って。」
「ん、またかって?最近、身近に不幸が続いているのかい。」
「いえ、そういうんじゃなくて。」亜実は話をしたくないようで、そこで会話を打ち切り幾分急ぎ足でカウンター内へ入っていった。そのとき、ちょっと怖くて、とぽつりと漏らしたように朋樹には聞こえたが、呼び止められるような雰囲気ではなかったので、いろいろ訊ねたい気持ちをいったん腹に飲み込むことにした。
スマホでニュース記事を流し読みしながら待っていると、はい、おまち、とマスターがカウンターの中からカルボナーラの皿を差しだしてきた。湯気に乗って立ち上る、食欲をそそる旨そうな匂いが鼻腔中いっぱいを刺激して、それに連動するように空腹感が増す。空っぽの胃の輪郭がはっきり感じられる。熱々のねっとりと濃厚でミルキーなソースがアルデンテのパスタに絡むカルボナーラはこの店一番の自慢の一品だった。
至福の味わいを堪能し終わると、朋樹はソーダを注文した。朋樹の後に入店する客はいなく、やがてボックス席の二組も会計を済ませて帰っていった。これで亜実と話ができるかなと朋樹はずっとタイミングを窺っていたのだが、そんな目論見を吹き飛ばすようにマスターが「亜実ちゃん、今日はもうあがっていいよ。」と声をかける。いや、亜実と少し話がしたいんだけど、と言いかける朋樹をマスターは目配せとともにやんわりと左手で制し、「ほら、亜実ちゃん、もういいよ。」と再び促すのだった。亜実は、はい、わかりました、お疲れ様でした、とお辞儀をすると、機敏な動作ですぐさまエプロンを外し、そそくさとコートを羽織って出入り口に向かい、もう一度、お疲れ様でした、と頭を下げると店から出ていった。
あっけにとられた朋樹を、元来の優しい眼差しで見下ろすマスターが、
「さて、話をしたいんだったな。何から話そうか。」とガードを解いたボクサーのようにぶらりと両手を下げた構えで言った。
「いや、マスターと話したいんじゃなくて、亜実と。」
「わかってるよ。土門英三郎だろ。その話をするつもりだからな。中休みにいろいろ聞いたよ。」そう聞いて、そうか、マスターのほうが自分よりも亜実の言動について感づいている部分は多いのだろうな、と朋樹は悟った。なにせ、週に五日はいっしょに働いて同じ時間を過ごしているのだから。
「まず、ひとつ断っておくけど、亜実ちゃんにはよくあることだから。」
「元気がないことがですか?俺があの子と会うときは、ほとんど機嫌も愛想もいいけどな。」
いつしかマスターはタバコを右の人差し指と中指に挟み、吸ってもいいかどうかを身ぶりで朋樹に尋ねた。朋樹は、どうぞ、の意味で左の手のひらを差し出した。
「元気がいいとか機嫌がいいとかじゃなくてな、土門英三郎の死のようなことだよ。本当によくあるんだ、亜実ちゃんには。」
「ええと、まだマスターの話がわからないんですが。身近に不幸が多いのかってさっき本人に訊いたら、そうじゃないって言ってましたよ。」
「シンクロニシティ。」マスターは言いながらもくもくと煙を吐き、くるりと向きを変えて、回すのを忘れていた換気扇のスイッチを押した。朋樹は、そういうことか、とやっと話が見えてくる。
「ああ。亜実の言うことが現実のなにかと関係するかのようになにかが起こるっていうんですね。土門英三郎がお父さんかもしれないなんて話をした途端に当の土門英三郎が死んでしまう。ね。思い出してみれば他にも心当たりはありますよ、確かに。実は俺もこの間シンクロニシティや偶然について検索してますからね。好きな歌の歌詞にでてきたんですよ、シンクロニシティ。共時性ともいうでしょ。知ってますよ。で、仕舞いにはよくわかんないサイトに辿り着いてスマホがフリーズして困ったんだよなあ。あれからスマホの調子がよくなくて。まあそれはいいとして。でもね、単なる偶然の一致ですよ。そんなの気にしているほうがおかしいというか、気に病むことなんかないと思うけど。女の人にありがちなんですよね。たとえば占いが好きな人。あとスピリチュアルだとか信じやすいじゃないですか。本当だとか嘘だとか別としてもそれ以前の段階でって感じでまずは信じちゃう女の人は多いと思う。そういうのと結び付けて言ったら怒られるかもしれないけど、オカルトな考え方をしちゃうっていうか、しやすい女性って多いように思えるんですよね。亜実もそうなんじゃないんですか?」
「朋樹はそう考えるんだな。女に多いというのは言い過ぎかもしれないがそれもわかる。でもだな、ずっと一緒にいる俺がいうんだ、あれはガチだ。お前が偶然を検索したときの気持ちのほうが正しい。たぶんそのとき、亜実のこともチラついていたはずだ。」
「ずっと一緒にいる、ってなんかいいな。羨ましいです。」朋樹は軽く微笑んでグラスのソーダで喉を潤したが、マスターにしてみれば、ずいぶん茶化されたような印象を持った。
「おい、真剣な話。」マスターは吐き捨てるように呟き、タバコの煙を深く吸い込み、そして換気扇のほうを向いて吐き出した。
しばらく間が空いた。考えをまとめるように自然と太い眉に力を込めていたマスターがタバコを揉み消してまた話を始めた。
「あのな。噂をすれば影というだろ。おまえはその程度のシンクロニシティと捉えているのかもしれないけどな、そのくらいのレベルのシンクロニシティでもないんだよ。まあいい。俺が亜実ちゃんのシンクロニシティに気づきはじめたときは、おまえの思っているようなシンクロニシティだった。うちは中休みにラジオをつけていることが多いんだけどな、不意に亜実ちゃんが、あるミュージシャンの話題を始めて、そのミュージシャンの何曲もある代表曲の中から、ひとつの歌の名前を口にして、あれは本当にしびれる曲だと言ったんだよ。そしたらだ、ラジオのDJが急に、リクエストが届いておりますとそれまでの話を中断して曲紹介を始めたんだ。それまでの話となんの脈絡もなく選ばれたその曲は、そのときまさに亜実ちゃんが口にした曲だったよ。」
「まあ、不思議といえば不思議には思います。亜実はどう反応してました?」マスターを見ずに朋樹はそう言った。
「亜実ちゃんは、きゃあと嬉しそうな声をあげて、すごいすごいってはしゃいでたかな。そのときはまだ、その程度だったんだ。そのうち、夢でな、バスガイドさんに『乗っていいですよー』と促されてバスに乗りそうになったんだけど何故か乗れなかったらしくてだな、そこですぐに目が醒めて、妙にはっきりした夢だなあと思いながらテレビをつけたらロンドンでバス爆破テロが起こったニュースが流れてたっていう嫌な段階にまでエスカレートしていく。」
「それ、亜実の嘘なんじゃないですか?マスターには前にも言ったけど、あいつよく嘘つくように見えるんだけど。面白がってってわけじゃないようだし、悲劇のヒロインってわけじゃないだろうけど、特別な自分を自分で演出して嘘ついてたり?」
「亜実ちゃんが嘘か本当かわからないことをあれこれ喋るようになったのは、シンクロニシティが頻繁に、そしてもう少し進んでからなんだよ。長い時間、間近で見てる俺が言うんだから信じろよ。」
「その『間近で』だとか、距離の近さをアピールするの、やめてもらえませんか。」細くした横目でマスターをじろりと睨んで朋樹は言った。マスターは続ける。
「それから、いろいろとその意味を考えることにがんじがらめになって苦しみ始めたよ。気にするんじゃない、とも言ったんだが、やっぱり本人は気持ち悪いものなんだなあ。トイレ目当てのお客さんが来そう、なんてぼそっと言ったと思ったら、いつもはそんなお客さんなんて来ないのに、その時に限ってやってきたりね。もうさ、シンクロニシティと第六感の混ぜこぜだぜ、亜実ちゃんのは。あることないこと喋るのは、そういう気持ち悪さの連鎖から逃れるために自覚的にやってることだと思うよ。」
そこまで話が進むと、朋樹は自分が持つ亜実像に勝手に刻みつけていた下卑た落書きのような嘘つきというレッテルが自然と薄らいでいく感じがした。
「それって、亜実はもしかして精神的に危ういんじゃないんですか。ただの嘘つきとして見ていたときも危ういなと感じていたけど、マスターの話を聞いたら、もっと亜実自身は深刻な状況にいるような気がしてきた。」
「おまえ、やっと状況を飲み込めてきたようだね。それで今度は土門英三郎だよ。あれこれ適当に喋っただろうことにまで、シンクロニシティが浸食を始めたというか、逆に、亜実ちゃんがもうそこまでシンクロニシティの世界にずぶずぶに足を踏み入れてしまっているというか。俺もさ、助けてやりたいじゃない。ネットでいろいろ調べて関係のありそうな本をさ、ユングの本なんだけど、見つけたんだよ。これがめっぽう難しくて深いところまでわかんないんだ。」
「ユングって、心理学者のですか。」
「そうだよ。ユングが言うには、人間の深層意識はみんな繋がっているらしいんだ。それを集合的無意識と言う。人間だけに限らず、犬も猫も魚も虫も草木も繋がっているっていう説なんだよな。そしてシンクロニシティを生むんだ。俺の見立てだと、亜実ちゃんはその集合的無意識の底なし沼にハマっていくところだね。なあ、朋樹、おまえさ、大学出てるんだから俺より本読めるだろ。ユングの本にあたってみてくれよ。あのままじゃ、亜実ちゃんの精神は破綻しかねないよ。強い娘だけどな、でも抵抗の仕方もわからんやつにタコ殴りにされてるようなもんなんだから、持たねえわ。」
「それ、ほんとに当てはまってるんですかね。病みそうになるくらいなら病院に行かせたほうがよくないですか。」マスターは大きくため息をついて、
「それは最後の選択肢だよ。まずは頼む、朋樹。俺とおまえでなんとか、できるだけやってみないか。」真っすぐな視線を投げかけられているのに気付き、朋樹は瞬間身じろぎしたがすぐに、そうですね、わかりました、とマスターに応えたのだった。そして、独りでいるとき、どんな顔をしているのだろう、と亜実を想うのだった。
照明が薄暗く、剥き出しのコンクリートに囲まれ冷えびえとした四角い空間内で、キーボードやマウスを操作する際のカタカタ、カチカチ鳴る音が重なり合い、いっそう無機質な雰囲気を醸し出している。七名ほどのヲタク的な風貌の---無精髭にぼさぼさの長い髪、度の強いメガネが共通項で、あとは太り過ぎたり痩せ過ぎたりしていて中肉中背なのは見当たらない---男たちがパソコン仕事に従事している。エレベーターが開き、中からその空間内に滑り込んできたスーツ姿の中年の男が一人に声をかけた。
「どうなってる、ゴーストは。」
「ぼちぼちっす。」滑舌悪く、太った男が答えた。男の傍らには冷凍のものを温めたピザや、オレンジジュースの大きな紙パックが置かれている。
「出現頻度はどうなんだ?」スーツ姿はどうやらイライラしているようだ。仕事をしている男たちを含めて、この場所全体に嫌悪感を感じているようだ。
「相変わらずっす。でも、昨日は多かったかな。ちょっと例外とも言えましたよ。」太った男は画面から目を離さない。集中を強いられるのが、この仕事の一番の困難な点だった。
「昨日は多かったのか。何か大きな事件はあった日だったかな。特に思い当たることはないが。」思案気にそう言ったスーツ姿に、男はピザの皿の下に敷いてあったスポーツ紙を抜きだして一面を見せた。
「土門英三郎、死去、七十歳。」
「そんなのはいいんだ。それで、自動でのログ取りはまだできないのか?いい加減、ミスユース検出くらいできてもいいんじゃないのか。」苦い表情で男を睨みながらスーツ姿は言った。
「前にも言いましたが、ネットワーク上へのゴーストの出現から消滅まで、まるでこちらのコンピュータの奥まで干渉されたんじゃないかと思えるくらい、ログすら残さないっすからね。いくら数百回観察してきたとしても、パターンとして落としこめないっすよ。頼りは私らの記憶と筆記用具。そこは変わりません。」
「おまえたちの記憶をベースに、パターンを人工的に作ればいいんじゃないのか?」
「ゴーストの特徴は、消滅の仕方にありますからね。ログすら消去させてしまうパターンを記録するっていうのが、無いものを記録する行為になってしまって、無理なんすよ。かといって出現のパターンはありふれていて、こっちでパターンの網を作ったらゴースト以外のほうが膨大に記録されることになるんじゃないっすかね。」
「となると、やっぱり、記憶と筆記用具頼みなのは変わらないのか。同様の理由で、アノマリ検出も無理なんだな。」スーツ姿は顔を歪めて、傍らの机を爪でこつこつ叩いた。
「そうっす。形跡が残らないっすからね、異常としても記録されないんすよ。誰が名付けたか、ゴーストの名前通りなわけで。だからこそ、俺らが集められたわけで。」
「わかった。引き続き、頼む。」そう言い残して、スーツ姿はまたエレベーター内に入る。ドアが閉まりその姿が消えると、七名の静かなため息が無機質な空間に漂った。
帰宅した朋樹は暖房をつけ、鞄とコンビニ袋を床に置くなり着の身着のままベッドに仰向けに寝転がった。『びい、くうる』でマスターと亜実の話をした夜から二日経っていた。朋樹はあの話を頭の中でどうしたものかとまだ転がし続けている。あの晩は、マスターの話の新鮮味と迫力味とに押されて、わかりました、と言ってしまったものの、集合的無意識というものがどうも胡散臭く感じられ、亜実はそんな御大層な世界に足を突っ込んでいるのではなくて単なる珍しいといった程度の偶然の連続によって自らの立位置がわからなくなっているに過ぎないのではないかと思えてきた。心の中で、バカバカしい、と呟く。
しかし、万が一、それが本当だったとしたら、そう、それが事実だったとしたら、自分の不明さによって、亜実を救える可能性を放棄してしまうことになる。調べてくれ、抵抗する術を見つけてくれ、助けてやってくれ。マスターに託され唯一の頼みの綱になった朋樹自身の気持ちの方向ひとつで、暗闇に惑う今の状況のまま、さらに暗い未来へと進路を取らざるを得ない亜実に別の道を照らす光が出現するかもしれないのだ。
厄介な状況になったもんだ。左手の甲で両目を覆ったまま、胸につかえてすっきりとしないもやもやを感じた。膠着してしまった儘ならぬさゆえか、声にならない喚きをあげて、ベッドの上、激しく右に左に転がってみる。身体を反らせたり逆をやったり、とにかく閊えたものを発散させたい。そうやってひと通り暴れ終わっても、胸のぼんやりと重い不快感は拭い去れなかった。身体はほんのり熱く、脈拍も少し上がっていたが、すっきりはさせてくれない。震える肩もそのままに、朋樹はベッドから降りてコンビニ袋からから揚げ弁当を取りだす。気分を変えようという心積もりもあった。しかし、食べながら、ポケットからスマホを抜き出して、気が進まないながらも集合的無意識について調べてみることにした。自己の内部での紆余曲折の結果、渋々ながらもようやく腹が決まったのだった。
床には本屋で購入したユング心理学の本が置いてある。こちらはまだ十数ページしか読んでいないが、それだけでも難解な固有名詞や言い回しに読解がついていかず、ほとんど理解できなかった。腹を決められなかったのは、最初にこの高く厚い壁にぶちあたったからでもあった。
ひとしきり検索して、詳しそうでわかりやすい記事をいくつか読んだ。人間だけに限らず、生きもの全体の無意識は繋がっている、というのが主だった見解だった。読み進めていくうちに、朋樹は気づきだす、その集合的無意識自体がひとつの完成された世界のようであることを。そして集合的無意識という共有世界に、人間や他の生物たちは無意識にアクセスし、そこから情報を得ているのではないかというイメージに導かれるのだった。もしくは、集合的無意識世界に、無意識的に接続されていて、そこから一方的に、つまり自分ではコントロールできない状態で情報を与えられ、かつ引き出されているイメージが浮かぶ。どこか仏教みたいな話だな、と朋樹は感想を持った。集合的無意識を応用すれば、輪廻転生する魂や意識だって論理づけられるのではないか。魂の集まる場所が集合的無意識の世界であるとできるのではないか。だが、集合的無意識を実証するのがほとんど無理なのだから、応用したところでそれもまた仮説にすぎないし、それはそれでトンデモ系と呼ばれるオカルトな仮説にされてしまう運命をたどるように思えた。
朋樹は再びためらいだす。そんなトンデモ系に分類されるような話を俺は信じて、そこから救助策を講じねばならないっていうのか?これは狂気だ。
一息ついてテレビをつけると、土門英三郎を追悼する特別番組が放送されていた。よくバラエティ番組で司会をしている四五歳を過ぎたくらいの男が、作ったような神妙な顔をして泣き顔のゲストたちに話を振っているところだった。朋樹には、その声音がすでにわざとらしい。追悼番組と銘打たれ、視聴者とともに死者を悼む趣旨なのだろうが、司会者はわざわざいろいろなコメントを引きださなければならないし、集められたゲストだって巧みという意味ではなくその場に添うという意味で上手い話をしなければいけない。仕事なのだ。哀切を売るショーなのだ。
そんなことを考えながら、朋樹は眺めるだけといった体で画面を見ていた。不意に「ブツリガク」だとか「リョウシロン」だとか、場違いな言葉が耳に入ってきた。音でしか判断がつかなかったその言葉に、「物理学」や「量子論」として本来の意味を宿すまでには何秒かかかった。土門英三郎の死からどんな話の流れになっているのか、朋樹は番組に意識を傾注した。司会者のそれからの話を聞くところだと、土門英三郎は晩年、現代物理学の量子論に魅せられ、時間があれば関連する本を読み、思索にふけっていたという。数式はまったくわからなかったらしく、もっぱら量子論の一般書に頼って勉強していたようだが、それでもその知識の深みは、理系の大学生と対等以上に話をできるほどだったらしい。撮影の休憩時間には、共演の俳優を捕まえて量子論をわかりやすく説明したうえで、意見を求めることが好きだったようだ。そこまで説明がなされてから、番組は量子論の説明VTRに移っていった。まるでNHKの教養番組みたいになったな、と朋樹は苦笑しつつ、でも、土門英三郎の意外な面をこの際よく知っておこうと思い、集中を切らさなかった。
VTRでは、量子論を成り立たせているシュレーディンガー方程式が正しいものであるという前提の元、その標準解釈であるコペンハーゲン解釈から解説が始まった。量子論には他にパラレルワールドを認める多世界解釈などがあり、どの解釈がシュレーディンガー方程式を説明する本当の解釈なのかはまだ決まっていないのだそうだ。ただ、完成された方程式があり、それをどう解釈するべきなのかに、物理学者たちは何十年も頭を悩ませているということだった。
量子論というものはミクロの量子、つまり、電子や光の粒子など通常の物理学では説明がつかないミクロの原理を説明したものだ。コペンハーゲン解釈によると、量子は人間に観測されることであらゆる可能性から、ひとつの結果としての姿を現すものだそうだ。いろいろな可能性が重ね合わさったぼんやりした状態から、人間の観測、つまり人間の意識を介してひとつのはっきりした状態に決まる。それを専門用語で収縮と呼ぶ。
VTRで、有名な思考実験だという「シュレーディンガーの猫」の解説がはじまった。それはこういうものだった。外から中が見えない箱の中に、一匹の猫を入れておく。箱の中には放射性物質とその検出器、さらに検出器と連動して作動する毒ガス発生器もセットしてある。つまり、箱の中で放射線が検出されると毒ガスが出て、猫は死んでしまうという寸法である。放射性物質がいつ放射線を出すかはわからない。ただし、十分間に五〇%の確率で放出されることはわかっている。ということは、十分後に猫が死んでいる確率は五〇%。量子論の考え方でこの実験を見ていくと、箱の中の猫は、観測者が箱の中を確認するまで生きている状態と死んでいる状態が重なり合っている状態で存在する、となるそうだ。生死のどちらの状態でもある、と。現実的に考えると、馬鹿なことを言うな、と吐き捨てたくなる。死んでいるときは死んでいるし、生きているなら生きている。だが、量子論のコペンハーゲン解釈で扱うミクロの世界では、生死のどちらの状態でもあり、人間の観測によって、その結果が決定するという考えが通用するのだそうだ。
VTRはそこで、ここからが土門の追求した世界観だとして、人間の意識にクローズアップしていった。観測という人間の意識の働きかけによって収縮し現実が決まるのが量子論の世界ならば、人間の意識とはなんなのだろう、と考えていたそうだ。量子論の概念の一つである量子もつれの解説がはじまる。量子もつれとは、たとえば量子Aと量子Bがあり、お互いが何光年離れていたとしても、量子Aの性質が決まった瞬間に量子Bの性質も決まるというものだ。それは光の速度は超えられないというアインシュタインの理論からは外れるが、現代では実際に確認されている遠隔作用であるそうだ。次に非局在性の概念の解説。量子もつれは、宇宙の果て同士でも起こるという。そしてその量子もつれはこの宇宙のすべてが繋がっていることを示していると考えてもおかしくはないことになり、それを現代物理学の世界では非局在性と呼ぶ。
さらに、人間の脳をミクロに見ていくと、ニューロンが電気信号を用いて情報のやり取りをしているのだから、そこに量子世界との関わりが必然的に浮かび上がり、となれば、人間の脳内でやりとりされる電子という量子情報は、宇宙のどこかと繋がっていて、瞬間的に宇宙と繋がり合い、やりとりされるものだとなる。VTRはそこでまとめにはいった。土門英三郎の頭にあったのは、人間の意識は宇宙と繋がっている、という考えだった。件の「シュレーディンガーの猫」で喩えられる量子世界の、観測によって現実が決まる事実も、観測する人間の意識が宇宙と繋がっていて、その何がしかのやりとりがなされるから結果が決定されるのかもしれない、と土門は考えていたそうだ。そして、「土門英三郎、魂の最終結論」と文字が画面に躍って、VTRは最後の短い解説を始めた。土門英三郎の考えでは、宇宙には意識の元になるものが充満していて、生きものたちは誕生する時点で意識の元を宇宙から呼び寄せて肉体内に捉え、生物として完成する。死を迎えたならば、意識をもたらしたその意識の元は再び宇宙に帰っていく。長らく、その意識の元のことを、人類は魂と呼んだ。だから、自分は死んでもまた宇宙に帰るだけなのだから、怖くないどころか楽しみなのだ、とよく目尻に皺をよせながら語っていたのだという。以上が、土門英三郎が量子論から導き出したある種の死生観だった。
壮大で難解な話にスタジオの芸能人たちはしばらく圧倒され沈黙していたが、それは画面のこちら側の朋樹も同じことだった。いや、厳密には同じではない。朋樹のそれは、芸能人たちの完結したそれに比べて異質で何かの引き金になっていた。言葉にならない霧状の思考が土門の量子論による引き金によって何かを告げたがっている。
すっとテレビを消した。視線は壁掛けのカレンダーの辺りに定まってはいるものの、本当に見えてはいない。注意は頭の中にある。ぼんやりとしながらも確かにうごめく何かが言葉になって浮かびあがってくるのをじっと待っていた。形になる過程を妨げないように、形になろうとしているものを壊さないように、呼吸とまばたき以外の動きを自制した。
これはあれだろ、ええとなんだっけ。やっとその程度の言葉が脳内に浮かぶ。ここまで来るともう、ぼんやりしていた思考を釣り上げられる段階に入っている。
すぐに、土門の量子論が語る意識と宇宙の繋がりって、集合的無意識の考え方とかなり近いのではないか、と具象化を見たのだった。無意識の集まる場所を、土門の量子論が意識の在り処だとする宇宙だと考えてみれば、イメージがしっくり収まるのだ。両者はたぶん同じことをいっている。だとすれば、亜実がこの領域に足を突っ込んでいるのだと仮定すると、その意味とはなんなのだろう。
朋樹はごろりと床に仰向けに寝そべり、帰宅したときのように天井を見つめた。ところどころ糸状に伸びかかる埃が目立って見えた。
意味はこういうことだろうか。集合的無意識あるいは量子論的宇宙の意識が、亜実に知らせたいことがある。亜実の個人的なことだから、亜実に偶然の連続を引き起こして出来あがる特異な状況から何かを気づかせたがっている。もしくは、全人類に関わるような知らせなのだが、亜実が特別伝えやすい体質をしているから利用している。そのどちらかだとしか朋樹には考えられなかった。とはいえ、ここまでに発展してきたこの思考は狂気じみているとも感じられて、即刻投げ出してしまったほうがいいのではないかと朋樹は逡巡する。
だが、朋樹は投げ出す方向には転ばなかった。ノートパソコンを立ち上げ、週に一、二度更新しているほとんどアクセスされることのない匿名のブログに、土門英三郎の死と亜実の状況を絡めて、まるで他人に読ませるのではなく自分の頭を整理するためだけのようにキーボードを叩き殴りながら記事を書いた。それは亜実の状況を記事にした最新のもので、これまでにも6回、亜実についてブログ記事を書いていた。最初の記事は微笑ましい朋樹の片想いの話だったのだが、今回の記事は、読者にとっては書き手の精神が際どいところにあり、もはや綱渡りをしているような印象を与えるものになっていて、朋樹自身もそれは自覚して書いていた。でも、書かずにはいられなかったのだ。溜めこむと本当にどうにかなりそうだったから。
記事を書き終わり読み返す。気づけば夜半を過ぎていて、遠くで鹿の鋭い鳴き声が寒気を貫くのを耳にした。それをきっかけに朋樹は考えるのを中断し、照明を消してベッドにもぐりこむ。それから冴える頭をなだめて眠る努力をした。
暦の上では春が近いがまだ冬といったほうがいい北国の軽やかな朝の陽ざしがカーテン越しに部屋に仄かな明るみを与える。そんな時間になって朋樹はやっと眠りに落ちたのだが、ほどなく目覚まし時計が鳴り響き、頭までかけた掛け布団の中から無理やり目のしょぼついた顔を出したのだった。それはまるで約束された長い冬眠から途中で無理やり叩き起こされたみたいだった。
軽自動車を運転して職場に向かう途中、昨晩考えた集団的無意識と量子論的意識観の繋がりについてが頭をもたげてきて、嫌々ながらまた考えてみたが、意外にも思ったより突飛な考えではないように思えた。だが、それがなぜ亜実に降りかかっているのかを考えると頭が痛くなった。
仕事では大きなミスをしてしまった。パソコンで作った表の計算式がおかしくて、真っ当な計算結果が出ていないことを、課長の平林に怒られた。終日、その表を直すことになった。
結局、一時間半残業をして、『びぃ、くうる』へ直行した。亜実は休みだった。マスターに、昨日の晩観た『土門英三郎追悼番組』に出てきた量子論的意識観とそれによる土門的死生観について昨日書いたブログ記事をなぞるように事細かに話をした。マスターにも誰にも、現実世界で関係のある人たちにブログの存在は教えていなかった。
「量子論かあ。半導体で使われている理論だったよな。それくらいしか知らないが、論理的に考えを突き詰めていけば人間の意識が宇宙と繋がるとなるとはね。おまえの言うように、集団的無意識と親和性がある話のような気がするよ。」
他の客が引けたので、またカウンターの内と外でやりとりしている。
「でしょ。だけどどうして亜実がそれに深く干渉されてるように見える、もしくは干渉しているように見えるかが謎なんですよね。どんな目的、意図がそこにあるかが見えてこそ、量子論的意識観も集団的無意識も仮のものじゃなくなるってことじゃないですか。」
マスターは真顔のまま、顎の無精ひげをさする。
「なるほどな。だがな、朋樹。俺がけしかけるようにしてお前に調べてもらっていて悪いんだが、はたしてほんとうにそうなのかなあっていう気がしないか。お前が夢中になって突っ走るように取り組んでくれたのはわかるし頭が下がる。それもお前の二六歳という若さがためでもあるよな。だよな、お前二六歳だったろ?それが俺は三九歳だよ。お前より長く生きていて人生経験を積んでいてだな、現実感ってものを強く持っていると思ってるし、物事を肯定しつつも疑う作法だって身についている。そんな俺が言う。これは現実的か?」
「いやいや、だって最初に言い出したのはマスターでしょ。それに亜実は苦しんでるんでしょ。今さらそんなこと言われてどうしろってんですか。」
睡眠不足で、仕事でもミスのためこってりとしぼられ、そして今、昨晩の成果を無いものとされそうになっている状況の朋樹は下を向く。泣きたくなってきた。
「たとえば、別の角度から考えたほうが、亜実ちゃんのためになるかもしれない。」朋樹を見降ろしたままマスターは首をひねる。
「別の角度ですか。わからないな。」朋樹は俯いたままだ。
「偶然ってどのくらい珍しいのか、あるいは珍しくないのか。そっちで考えられないか。そのほうが亜実ちゃんを救えそうじゃないかなあ。」マスターは頭を掻いた。
「まったく、マスターには振り回されちゃいますよ。」朋樹は突っ伏した姿勢になりこもった声で答えた。そして、コーヒーを飲み干すと、それじゃ、と挨拶をし『びぃ、くうる』を出てアパートへ帰った。
駐車場に車を止め、鞄を抱えてアパートの入口へと寒さのために駆け足で向かっていく。2階の自室へ向かうために階段を上がろうとするが、どうしてか照明がついていなかった。悪態をつきながら一歩一歩確かめて階段を上る。すると、後ろで衣擦れの音と人の気配がし、朋樹は何だろうと身体をこわばらせた。そして複数の人間の足音を聞いたかと思うと、朋樹はがっしりと身体を押さえられ、湿り気のあるハンカチか何か布のようなもので口を塞がれた。声はまったく出せなかった。そして、いきなり両耳に脱脂綿を詰め込まれたみたいに、世界の音が急に遠くなった。まもなく、彼は気を失った。