読書。
『記号論への招待』 池上嘉彦
を読んだ。
もう一年ちょっと前くらいのことだったと記憶していますが、ツイッターで、
「言葉というのは頭の中で考えている言外のモヤモヤしたものを
整理したり伝達したりするために便宜的にそのモヤモヤを翻訳するツールなんじゃないか」
というようなことを書いたのです。
それで、「その言葉というものは不完全なもので、頭の中の言葉以前のモヤモヤした考え事や、
自然の風景でもそうですけれど、表現するときにはそのまんまの意味では、
つまり等価値ではできないで、言葉にすることで、その対象の考え事の本当のところから
こぼれおちるものがある」と、僕は考えていたんです。
だからこそ、表現のための語彙を増やし表現力を磨いて、本当の考え方にできるだけ近く、
言葉で表現・伝達できたらきっと今よりも面白くなるだろうとも単純に考えました。
さらに言えば、そうやって語彙や表現力が増したときには、今度はまた元に戻って、
頭の中のモヤモヤとした言外の考え事の濃度といいますか、
そういうものが逆に大事になってくると思えるのです。
言外の考え方の濃度を高めるには、感性を磨くことだと考えています。
いろいろと感じるセンサーが鋭ければ、それだけ、外の世界から拾ってくる
情報の量と言うものが増えますし、質も高まりますから。
ですが、感性だけを磨いても、語彙や表現力が拙かったら、表現ができなくて、きっと、
心の中に鬱積するものがあり、病んでしまうことも考えられます。
なので、結論として、感性を磨くのも、表現力を磨くのもどちらも、
ポジティブに生きていこうとするならば大切な要素なんじゃないかということになります。
…とまぁ、そこまで考えても、やっぱり完全に言葉で表現することは無理なんですが。
という僕の考えに対して、ツイッター上で某氏が「記号論」を薦めてくれたのです。
記号論というものを僕は知らなくて、その記号論という名前そして薦めて頂いた意図から推測するに、
どうやら言葉を記号として学問するものらしいという考えが頭に浮かびました。
それで、本書を購入したのです。
記号論で扱う記号というものは、その記号で表現された「意味を持つもの」です。
したがって、テストであるような、「(a)~(f)までの記号で答えなさい」という記号とは違います。
著者は、そのような記号は符号とよんだ方が、
この記号論をすすめていくのには妥当だとして区別しています。
本書では、記号の中から主に言語を代表させて扱っています。
言語が、記号の中でもとりわけその記号としての性質を説明するのに適しているというわけです。
そんな記号論の中から、その考え方が頭に残ったもの二つを紹介しましょう。
一つは、「表示義」と「共示義」という見方。
たとえば、「ピンク」という言葉には、表示義としては桃色という意味、
共示義としては、性的な感じという連想があります。
つまり、表示儀というのは、言葉そのものの意味であり、
共示義は表示義を踏まえたうえでのより高次の意味合いというものになります。
この表示義と共示義は一語だけでのものではなく、
一つの文章にもあてはめられます。
また例を出すと、「花の咲き誇る道」という表現をどうとらえるかでわかると思います。
文字通りの、植物の花が咲き誇る道ととらえれば、それは表示義であり、
花のようなう美しい女性たちが歩いている道ととらえれば、それは共示義です。
この件に関しては、以前、養老孟司さんが著書で、共示義のことを文学的表現としていましたが、
彼も記号論を読んでいたのだと思われます。
二つ目は、有契性と無契性というもの。
たとえば、赤く塗ったプラスチック板を見せると赤いボールを渡すという取り決めがあったとします。
この場合、赤いプラスチック板と赤いボールの間には、「赤い」という共通項があります。
こういう特別な関連性があるのを、有契性があるといいます。
逆に、白いプラスチック板に赤いボールという取り決めをすると、そこには特別な関連性は
ありませんから、無契性がある、という言い方をします。
この有契・無契は言葉にもあって、たとえば、「柿食えば、鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句の場合、
最初の「柿」の音韻のKと「鐘」の音韻のKが重なっているので、有契性があると考えます。
言葉の意味としても、有契性のあるものが溢れていますが、説明に苦慮するので、
今回は省略します、興味のある方は本書を読んでみてください。
それで、有契性のある言葉、それも意味の部分においては、それは病んだ表現であると
本書にちらと書かれていて、僕もそうだよなぁなんて思ったのですが、これは表示義と共示義の
共示義の方にも言えることだと思うんです。意味のスパイラルみたいになって、
記号表現(メッセージ)の受信する方の取りようによっては、いろいろな可能性がでてきて、
混乱しかねませんから。そこらあたり、きっとパワハラだとかセクハラだとかに使われたり、
受け取ったりするのは、共示義や有契性などなのだろうなぁと思えたりします。
長くなりました。
最後に、ちょっとこれはサッカーの男子日本代表にも言えることだぞと思った部分を書き抜きます。
___
共通性を踏まえての差異という「対立」の構造は、意味作用を生み出す「母体」である。
なぜなら、もし共通性ばかりであったなら、それは完全に均質な場であり、
完全に均質な場は安定していて何も起こる余地がない。
一方、差異ばかりであれば、二つの完全に相互に独立して干渉のない場が存在するだけで、
そこにはやはり何も起る余地がない。
共通性を介して両者が同じ一つの場に入り、そこで両者の差異が衝突する時に何かが
起こるわけである。
___
共示義で読んでみてください。
『記号論への招待』 池上嘉彦
を読んだ。
もう一年ちょっと前くらいのことだったと記憶していますが、ツイッターで、
「言葉というのは頭の中で考えている言外のモヤモヤしたものを
整理したり伝達したりするために便宜的にそのモヤモヤを翻訳するツールなんじゃないか」
というようなことを書いたのです。
それで、「その言葉というものは不完全なもので、頭の中の言葉以前のモヤモヤした考え事や、
自然の風景でもそうですけれど、表現するときにはそのまんまの意味では、
つまり等価値ではできないで、言葉にすることで、その対象の考え事の本当のところから
こぼれおちるものがある」と、僕は考えていたんです。
だからこそ、表現のための語彙を増やし表現力を磨いて、本当の考え方にできるだけ近く、
言葉で表現・伝達できたらきっと今よりも面白くなるだろうとも単純に考えました。
さらに言えば、そうやって語彙や表現力が増したときには、今度はまた元に戻って、
頭の中のモヤモヤとした言外の考え事の濃度といいますか、
そういうものが逆に大事になってくると思えるのです。
言外の考え方の濃度を高めるには、感性を磨くことだと考えています。
いろいろと感じるセンサーが鋭ければ、それだけ、外の世界から拾ってくる
情報の量と言うものが増えますし、質も高まりますから。
ですが、感性だけを磨いても、語彙や表現力が拙かったら、表現ができなくて、きっと、
心の中に鬱積するものがあり、病んでしまうことも考えられます。
なので、結論として、感性を磨くのも、表現力を磨くのもどちらも、
ポジティブに生きていこうとするならば大切な要素なんじゃないかということになります。
…とまぁ、そこまで考えても、やっぱり完全に言葉で表現することは無理なんですが。
という僕の考えに対して、ツイッター上で某氏が「記号論」を薦めてくれたのです。
記号論というものを僕は知らなくて、その記号論という名前そして薦めて頂いた意図から推測するに、
どうやら言葉を記号として学問するものらしいという考えが頭に浮かびました。
それで、本書を購入したのです。
記号論で扱う記号というものは、その記号で表現された「意味を持つもの」です。
したがって、テストであるような、「(a)~(f)までの記号で答えなさい」という記号とは違います。
著者は、そのような記号は符号とよんだ方が、
この記号論をすすめていくのには妥当だとして区別しています。
本書では、記号の中から主に言語を代表させて扱っています。
言語が、記号の中でもとりわけその記号としての性質を説明するのに適しているというわけです。
そんな記号論の中から、その考え方が頭に残ったもの二つを紹介しましょう。
一つは、「表示義」と「共示義」という見方。
たとえば、「ピンク」という言葉には、表示義としては桃色という意味、
共示義としては、性的な感じという連想があります。
つまり、表示儀というのは、言葉そのものの意味であり、
共示義は表示義を踏まえたうえでのより高次の意味合いというものになります。
この表示義と共示義は一語だけでのものではなく、
一つの文章にもあてはめられます。
また例を出すと、「花の咲き誇る道」という表現をどうとらえるかでわかると思います。
文字通りの、植物の花が咲き誇る道ととらえれば、それは表示義であり、
花のようなう美しい女性たちが歩いている道ととらえれば、それは共示義です。
この件に関しては、以前、養老孟司さんが著書で、共示義のことを文学的表現としていましたが、
彼も記号論を読んでいたのだと思われます。
二つ目は、有契性と無契性というもの。
たとえば、赤く塗ったプラスチック板を見せると赤いボールを渡すという取り決めがあったとします。
この場合、赤いプラスチック板と赤いボールの間には、「赤い」という共通項があります。
こういう特別な関連性があるのを、有契性があるといいます。
逆に、白いプラスチック板に赤いボールという取り決めをすると、そこには特別な関連性は
ありませんから、無契性がある、という言い方をします。
この有契・無契は言葉にもあって、たとえば、「柿食えば、鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句の場合、
最初の「柿」の音韻のKと「鐘」の音韻のKが重なっているので、有契性があると考えます。
言葉の意味としても、有契性のあるものが溢れていますが、説明に苦慮するので、
今回は省略します、興味のある方は本書を読んでみてください。
それで、有契性のある言葉、それも意味の部分においては、それは病んだ表現であると
本書にちらと書かれていて、僕もそうだよなぁなんて思ったのですが、これは表示義と共示義の
共示義の方にも言えることだと思うんです。意味のスパイラルみたいになって、
記号表現(メッセージ)の受信する方の取りようによっては、いろいろな可能性がでてきて、
混乱しかねませんから。そこらあたり、きっとパワハラだとかセクハラだとかに使われたり、
受け取ったりするのは、共示義や有契性などなのだろうなぁと思えたりします。
長くなりました。
最後に、ちょっとこれはサッカーの男子日本代表にも言えることだぞと思った部分を書き抜きます。
___
共通性を踏まえての差異という「対立」の構造は、意味作用を生み出す「母体」である。
なぜなら、もし共通性ばかりであったなら、それは完全に均質な場であり、
完全に均質な場は安定していて何も起こる余地がない。
一方、差異ばかりであれば、二つの完全に相互に独立して干渉のない場が存在するだけで、
そこにはやはり何も起る余地がない。
共通性を介して両者が同じ一つの場に入り、そこで両者の差異が衝突する時に何かが
起こるわけである。
___
共示義で読んでみてください。