読書。
『フラニーとズーイ』 J.D.サリンジャー 村上春樹 訳
を読んだ。
妹・フラニーの章と兄・ズーイの章からなる、
訳者・村上春樹さんいわく「議論小説」でしたが、たいへん揺さぶられて面白かったです。
最初、フラニーの章を54ページまで読んだときには、
彼女の精神危機ぶりが読み手にまで伝染する力を持っているくらい、
巧みな心理を突いていて、
こういった純粋さのようなものを求めるタイプの人に肉薄しているというか、
フィクションだとわかっていても、
まるでそのもののような真実を描き出しているように読み受けられた。
したがって、強い嫌悪感すら感じたのです。
若い時の傷口を開かされたみたいな感覚ですよ。
フラニーの心理を読むにつけ、あかんあかん、
そっちサイドに引っ張られるもんじゃないんだよ・・・って思いました。
言うなれば、フラニーのような精神状態は、
社会生活を送れなくなる精神状態です。
よくもまあ、サリンジャーはそれを描き出したものです。
ぼくはそこで邪推した。
これはサリンジャー自身の精神の危機を写実的に書いただけの、
著者の呪いだ、堕落だ、というように。
むかし、『ライ麦畑でつかまえて』を読んだこともあって、
あの危なさを思い出し、サリンジャーを心底から共感してしまう人は、
社会的生活は送れないとまで言いきる気持ちになりました。
ジョニー・デップなんか『ライ麦畑』が大好きだけど、
あれを大好きだということで自分のポジショニングをしているような感じがしてしまう。
エゴ的っていうか、そういう意味合いに、それこそフラニーの章をよむとなお一層。
しかしですね、
サリンジャーはちゃんとわかっていて書いていた。
そんなフラニー的精神状態などはそれをほんの一部のものだとして内に宿している、
大きな大きな包容力を持った人だったのでした!
最後まで読むとしっかりわかる。すごい。
ここからはネタバレ的になります。
フラニーの章では、人間はこうあるべき的な理想像が純粋すぎて、
愚かさだとか汚さだとかは「ありえない!」レベルに考えて
(というか、生理的に受け付けないものとして)描写しています。
さらに、主人公のフラニーは純粋で弱い立場にいてそこから考えて発言し、
マッチョさとは正反対の立場にいます。
そういう純粋さっていうのはきっと一度は強くあこがれる人っていると思うのですが、
そういうタイプの人がサリンジャーのこの毒にやられるような。
フラニーを批判すると、純粋さなんてものは絵空事のなかのものだということです。
自分の内部を純粋にしていこうとすると現実と齟齬をおこしますし、
綺麗ごと過ぎると思う。
そして、ズーイの章では、ぼくが考えたこれらのことと遠からじな議論が、
濃い宗教色の光を放ちながら展開されるのでした。
これはほんとうに最後のネタバレにつながるところなんですが、
「太ったおばさん」という言い方、なんて気のきいた言い方だろうと思いました。
イエスもそこらのみんなもみな、「太ったおばさん」なんです。
癌を抱えている、ね。
ぼくなんか、そういうことをシンプルにストレートに言っちゃうのが
考えの浅いバカみたいに思えちゃいますよ。
ひねりというか、それこそ表現力です。
サリンジャー、内容も文章の巧みさもすごかった。
『フラニーとズーイ』 J.D.サリンジャー 村上春樹 訳
を読んだ。
妹・フラニーの章と兄・ズーイの章からなる、
訳者・村上春樹さんいわく「議論小説」でしたが、たいへん揺さぶられて面白かったです。
最初、フラニーの章を54ページまで読んだときには、
彼女の精神危機ぶりが読み手にまで伝染する力を持っているくらい、
巧みな心理を突いていて、
こういった純粋さのようなものを求めるタイプの人に肉薄しているというか、
フィクションだとわかっていても、
まるでそのもののような真実を描き出しているように読み受けられた。
したがって、強い嫌悪感すら感じたのです。
若い時の傷口を開かされたみたいな感覚ですよ。
フラニーの心理を読むにつけ、あかんあかん、
そっちサイドに引っ張られるもんじゃないんだよ・・・って思いました。
言うなれば、フラニーのような精神状態は、
社会生活を送れなくなる精神状態です。
よくもまあ、サリンジャーはそれを描き出したものです。
ぼくはそこで邪推した。
これはサリンジャー自身の精神の危機を写実的に書いただけの、
著者の呪いだ、堕落だ、というように。
むかし、『ライ麦畑でつかまえて』を読んだこともあって、
あの危なさを思い出し、サリンジャーを心底から共感してしまう人は、
社会的生活は送れないとまで言いきる気持ちになりました。
ジョニー・デップなんか『ライ麦畑』が大好きだけど、
あれを大好きだということで自分のポジショニングをしているような感じがしてしまう。
エゴ的っていうか、そういう意味合いに、それこそフラニーの章をよむとなお一層。
しかしですね、
サリンジャーはちゃんとわかっていて書いていた。
そんなフラニー的精神状態などはそれをほんの一部のものだとして内に宿している、
大きな大きな包容力を持った人だったのでした!
最後まで読むとしっかりわかる。すごい。
ここからはネタバレ的になります。
フラニーの章では、人間はこうあるべき的な理想像が純粋すぎて、
愚かさだとか汚さだとかは「ありえない!」レベルに考えて
(というか、生理的に受け付けないものとして)描写しています。
さらに、主人公のフラニーは純粋で弱い立場にいてそこから考えて発言し、
マッチョさとは正反対の立場にいます。
そういう純粋さっていうのはきっと一度は強くあこがれる人っていると思うのですが、
そういうタイプの人がサリンジャーのこの毒にやられるような。
フラニーを批判すると、純粋さなんてものは絵空事のなかのものだということです。
自分の内部を純粋にしていこうとすると現実と齟齬をおこしますし、
綺麗ごと過ぎると思う。
そして、ズーイの章では、ぼくが考えたこれらのことと遠からじな議論が、
濃い宗教色の光を放ちながら展開されるのでした。
これはほんとうに最後のネタバレにつながるところなんですが、
「太ったおばさん」という言い方、なんて気のきいた言い方だろうと思いました。
イエスもそこらのみんなもみな、「太ったおばさん」なんです。
癌を抱えている、ね。
ぼくなんか、そういうことをシンプルにストレートに言っちゃうのが
考えの浅いバカみたいに思えちゃいますよ。
ひねりというか、それこそ表現力です。
サリンジャー、内容も文章の巧みさもすごかった。