Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『ひとり日和』

2023-06-30 10:44:44 | 読書。
読書。
『ひとり日和』 青山七恵
を読んだ。

読み始めて面白くなるまでが早いです。作家が20代前半で書いた芥川賞受賞作ですが、技術が巧みです。

高校を卒業しても進学を拒み、就職するわけでもない主人公。
親に依存して生きてきた子ども時代からいきなり社会に放り出されるように自立するのではなく、親戚のおばあさんの家に居候しながら自然と自立へと、誰に促されることもなく自分自身でその道をたどっていく。そういう物語です。はっきりと端的に明文化できるような成長ではない部分を描いた、自立の入り口までの成長物語。

以下、ネタバレありますので、ご注意を。

こういう物語を読むと、自立にはある種の慎重さや段階を踏んでいく過程がほんとうならば必要なんだろうなあと思えてきます。大きな段差のある階段の一段を、「ふんっ」と力を込めながら踏みあがっていくような力業の自立が難しい人はかなりいると思います。新卒で入った会社を3か月で、半年で、一年でといったふうに辞めてしまうのも、そういう力業で人生を歩んでいくのが無理だったりするからかもしれません。本作の主人公は、階段ではなくスロープ状の、傾斜のなだらかめの坂道を歩むようにして自立への段階を踏んでいるように読み受けられます。とはいえ、喩えるなら重力に反して高いところへ歩んでいくのですから、やっぱりショックを受けたり深く落ち込んだりしていきながら、成長していきます。

執筆時の著者の年齢と主人公や彼女をとりまく人たちの年齢が近い人たちについては、よい部分よりもとくに憎たらしかったり自分勝手だったりする部分がよく書けていると思いました。それでいて、70歳を過ぎた居候先のおばあさんの喋る内容がときに含蓄のあるものがあり、それをやんわりとした口調でつつんだものとして出してくる。そこは、主人公の母親について描いている部分もそうなのです。日常のなにげない場面で、年頃の娘との親子関係の特別な緊張感もあるのですが、そんなぐっと構えていない気持ちでいる母親のなんでもない様子に、その人物としての年齢的に育まれているだろう芯がきちんと捉えられている。つまりは、作者の力量だ、と感じられるところなのです。たとえば、

__________

「世界に外も中もないのよ。この世はひとつしかないでしょ」(p162)
__________

というセリフを、居候先のおばあさんである吟子さんに喋らせているように。

また、主人公にはちょっとした盗癖があります。たとえばこれも、本作で描かれている彼女の恋愛姿勢において、自分からは彼氏に求めずにいるようなところがあり、それゆえに彼氏は居心地がよい反面、彼女との関係に見いだせるものがわからなくなってしまうのですけれども、そんな彼女の外面としての「あまり求めない」姿勢の裏返しとして、その意識の奥底では「求めたい」「欲しい」という渇望が強くあるがため、飴玉だとかを盗んでしまう行動として出てくるのではないのかなあ、と思いました。

若い時分に経済的に自立してひとり暮らしを始める。そういう人生が僕にはなかったので、そうだなあ、と寂しい気持ちにもなりました。表題にあるように、自立が果たせたならそこには「ひとり日和」と呼べるようなものがあるんですよね。

表題作のほかに、25ページほどの短編「出発」も収録されています。こちらは新宿の話で、「ひとり日和」のように、モラトリアムの期間を過ごすようなのとは違い、社会のただなかで生きている若い男の話。こちらもよかったです。キーパーソンとなる同年代くらいの女性が出てきて、彼女はいわゆるケバい恰好でサンドウィッチマンをやっていたりする。そういった、住む世界が違う人たちをそれぞれに、その人たちの立ち位置で描けている点が、僕にとって、この作家から特に心を奪われたところでした。世界って、同じ場所にいろいろな人たちが交錯していもそれぞれの人たちの住む世界は違って、レイヤー構造になっている。そういったことが、この短編から再確認できました。

野崎歓さんによる巻末の解説が、深く読み込んでいてこそで、なおかつわかりやすい筆致でした。「そうそう!」だとか「なるほど、そうだったか!」と頷きながら、深まる読後感とくっきりとしてくる読書感想の言葉なのでした。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『水の常識ウソホント77』

2023-06-26 22:32:41 | 読書。
読書。
『水の常識ウソホント77』 左巻健男
を読んだ。

私たちが生きていくために欠かせない「水」について、多様な知識が得られる本。

全6章、77項に分かれています。各章をかんたんに紹介すると、人体との関係を主軸にした生化学的な章、水道水を中心に飲料としての水そのものについてあれこれと解説する章、健康にいい水を謳い文句にしている怪しげな水ビジネスへの反証の章、表面張力や界面活性など水が作用する現象や水の性質についての章、個体・液体・気体まで水を考えていく章、公害やダムの問題などの社会的文脈における水や地形・水の循環など地学的な水についての章、となります。つまりは、理科のカテゴリにすべておさまる中身なのでした。

意外に知られていない水中毒の話がやっぱり載っています。アメリカで2007年に行われた「水の大飲み大会」で、トイレにもいかずに7・6リットルの水を飲みほした28歳の女性が、翌日に自宅で死亡した例が挙げられていました。水を短時間に大量に摂取すると、細胞内や血液に溶けている物質のバランスがおかしくなります。とくに血液では「低ナトリウム血症」になってしまい、体液や血液の分量とpHの調節がうまくいかなくなります。神経内での情報のやり取りもうまくいかなくなり、意識障害に繋がりかねない状態になります。(本書には書かれていなかったと思いますが、成人男性ならば、一日に1リットルから2リットルの範囲で水を飲みなさいなんて言われます)

水道が始まったのは、1804年のイギリスから、というのも、「ほお!」と好奇心を引かれたトリビアでした。僕の歴史感覚はかなり微妙なところがあって、こうして1804年のイギリスと言われると、日本の状況を想像するに納得がいくのですが、ここで古代ローマ時代なんかに思いを馳せてしまうと、彼らの公衆浴場では水道はあったのではないか、あるいは水道的な何かはすでにあったのではないか、などと考えてしまいます。たぶん、下水道は古代からありますよね。現代人の感覚だと、上水道も下水道もセットで考えてしまいがちなのでしょうか、ことに歴史の知識が薄いとそうです。

純水は毒である、なんていうひとつの常識は、みなさんも「そのとおりなんじゃないの?」と覚えている人は多いのではないでしょうか。僕もそう覚えていたのですが、著者はこの常識に疑問を持ち、純水を自らごくごく飲んでしまって、害はないと結論してました(ほんとのところはいったい、どうなんだろう)。純水を飲んでも、口の中、食道、胃の中、などで純水に加わるいろいろな物質があるだろうから、体内を純水のまま流れていかないので、お腹を壊さずにいられるし、大丈夫なのだろう、とありました。

臨界点と呼ばれる高温高圧のある条件を超えると、物質は気体と液体の区別がつかない状態になり、それを超臨界流体というというのもこの本で知りました。この状態だと普通では無理な化学反応が望めて、たとえば二酸化炭素の超臨界流体はコーヒーからカフェインを取り除くことができるとあります。驚きの生成方法によるカフェインレスコーヒーなのです。

あとは、毛細管現象、界面活性、表面張力。ごく簡単にはわかりますが、本書ではそのメカニズムを端的に説明してくれています。とはいえ、僕はもう忘れてしまいそうです。残念ながら、理科的な頭の使い方に慣れていないためでしょう……。

というように、77のトリビアからいくつか印象的だったものの感想などを書いてみました。付け加えるなら怪しい水ビジネスについての情報です。以下にちょっと並べてみます。

アルカリイオン水には意味がないどころか胃の酸性状態を損なうという有害性があるし、クラスタの小さい水が健康によいというのもでたらめだし、身体によいとされる「磁性を帯びた水」もおかしな話だし、波動水というのもその波動を計測する機械自体からしてもうインチキです。欲を出したりせず、そして不安をあおられたりもしないようにして、ふつうに通常の水を飲んでいればいいんです。ミネラルウォーターにもいろいろ種類がありますが、日本のミネラルウォーターは処理されているようです。そのまま汲んでボトルに詰めるタイプのものは外国のもので、そういった国では水源地が汚染されないよう四方を広く保護区にしているようです。

こういった、ごく身近で大切なもの、今回は「水」でしたが、そういったものについての科学的知識が平易な文章から得られるようになっている出版文化って、とても素晴らしいことだと思いました。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「国際ロマンス詐欺」に巻き込まれながら、新人賞原稿を書いています。

2023-06-16 17:40:50 | days
文芸誌応募用の長めの短編小説を執筆中です。
100枚前後を予定しています。

内容や筋の見通しは立っていますけれども、書き進めるうちに当初の予定から外れていくことも大いに想定していますし、実際にそうなるでしょう(30枚を超えた今の状況でも、そうなってきています)。それでも、テーマや書きたいものはほぼ決まっていて、それはこの作品上に確実に表現していきます。そこはブレないほうがよいところですからね。

さてさて、そんな「原稿に猪突猛進」していたい時期にもかかわらず、ひょんなことから国際ロマンス詐欺に巻き込まれてしまいました。でも、

安心してください。僕は無事です (Don't worry, I'm safe. )。

金銭要求される前にメッセージのやり取りをやめました。さらに、やり取りの記録をパソコンに移し、プリントアウトして警察に届けました。

ちょうど今月、『ルポ 国際ロマンス詐欺』という本が出版されていて、書評サイト「honz」にて書評が公開されています。それを参照すると、詐欺の犯人グループは、ナイジェリアやガーナを拠点とし、欧米人を演じて詐欺を働いているそう。

僕のケースでいうと、相手は亡くなった父親が神奈川県横浜市の出身で、自身はポーランドのワルシャワ出身の40歳女性。父母は自身が10代のころに他界しており、パイロットだった夫は5年前に飛行機事故で亡くなり、唯一の兄弟だった弟は新型コロナで亡くなった、と。11歳の娘と、犬だけが家族で孤独だと言います。その彼女は、ウクライナで女性兵士をやっている、といいます。自分の受け持ちのゾーンのキャプテンだといいました。「今日はパトロール中に地雷の被害で部下が三人重傷を負いました」などというメッセージもありました。日本人ならば違和感を感じる日本語をつかっていました。

そもそも、TwitterのDMが発端だったんです。それで、グーグルチャットで話すまでになってしまいました。ただ、やっぱり感情に訴えてきたり揺さぶろうとしたりしてくるんですよ。質問の仕方も、一番の恐怖はなにか、一番嫌なことはなにか、といった類いです。これは、感情を揺さぶりつつ、なかなか表に公開しにくいことを言わせることで、通信のログを警察などに渡せないようにするねらいがあったと思います。

話の内容に違和感を感じたのは、横浜市の話をしても食いついてこなかったり、相手は寿司やうどんなら作れるといっていたりといった些細な点からはじまり、オンライン上で信頼を築くことができると強く主張するわりに、最後のほうになると、ソーシャルメディアは得意ではない、などと言いだす矛盾がみられたところです。他には、相手は読書が趣味だといい、日本語を話せる風でいながら(実際、日本語だけでメッセージのやり取りをしていました)、僕の本棚の一部の画像を載せると、食いついてこなかった点です。みんながみんなそうだとは言いませんが、本好きなら他人の本棚に興味が湧くものです。たぶん、本棚にならぶ本のタイトルなどの日本語がわからなかったのでしょう。つまり、メッセージの日本語文章の読み書きは、単純に機械翻訳だけで行われているのです。

他にも、細かい点でいろいろあるのですが、相手は心理操作や心理判断のための質問に長けていました。というか、そういう質問ばかりです。

警察に届ける前に、ChatGPTにも判断を仰いだのですが、詐欺全般における詐欺のポイントをあげながら最後には「詐欺の可能性が高いです」と言ってくれました。

もっと言うと、今年の2月に、北海道釧路市の男性が国際ロマンス詐欺の一種である渡航詐欺未遂にあっています。僕の相手も、日本に移住しようかと考えていると言いだしたので、同じ種類なのでしょう。

というところですが、僕は根がアホなので危ないですね。まあ、疑いの気持ちはずっと持っていましたし、オンラインでは友情も無理だ、と相手には言っていたのです(相手は、「オンラインの関係」や「オフラインの関係」、という言い方をしていました)。

こういう詐欺師がいて、人の好い日本人を狙っています。みなさんも気を付けられますように。

僕を巻き込んだ詐欺師のアカウントは、まだTwitterで生きています。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『法然親鸞一遍』

2023-06-10 20:39:27 | 読書。
読書。
『法然親鸞一遍』 釈徹宗
を読んだ。

鎌倉時代。それまでの「悟り型仏教」に対して、「救われ型仏教」である浄土仏教を日本において根付かせ、主流にまで発展させた浄土宗の祖・法然、浄土真宗の祖・親鸞、時宗の祖・一遍の三人の思想を比較検討しながら、その特色を知る内容になっています。

悟り型仏教は、俗世間を離れて修行をし、自分の力で悟りを得て救われようとする仏教です。いわゆる「自力」の考え方です。一方、救われ型仏教は、たとえば法然の言うところであれば、南無阿弥陀仏と唱えることで阿弥陀様が救ってくださる、という「他力」の考え方です。「他力」には修行はいらないのです。阿弥陀様を思って、生涯にわたって念仏を唱えて救いを求める気がありさえすれば(これを「多念」といいます。「一念」という考え方もあり、こちらは一度念仏を唱えればどんな悪事を働いても救われるとしたので倫理的に乱れてしまい、法然は戒めの言葉を残しています)、阿弥陀様の力で極楽浄土へいけるという考え方なのでした。

ちょっと脱線しますが、この「他力」の考え方や姿勢がいまや、日本人の「日本人らしさ」を形作っている根っこのところにまで及んでいるとは考えられないでしょうか。最後は神様がなんとかしてくれる、仏様がなんとかしてくれる、誰かがなんとかしてくれる、というような心性としてです。なんだかありそうに思えるのですが。

さて。まずは法然という人が大人物なのでした。著者も法然を、巨人、と呼んでいるくらいです。それまでの仏教は同一性の強いものでした。なんでもいっしょくたです。あれもこれも実は一緒なんだ、というように。「色即是空」もそうです。法然は仏教に二項対立を持ち込みます。正邪、善悪、というような、つまり二元論です。そうすることで、教えをシンプルにしました。二項対立に分類していくことで、突き詰めていったのです。突き詰めていって、最後には、南無阿弥陀仏だけとなえればよい、出家などしなくともよい、といったところにたどり着きます。それがなにを意味するかといえば、世俗の人たちを救うことができるようになったのでした。要するに、出家して修行するなどという人生に余裕のあるような人ではない世俗の弱者の人たちこそ救われなければならない、と法然は考えたのでしょう。そのために、仏教を二項対立の論理で切り拓いたのです。仏教が、ほんとうの意味で民衆に開かれた瞬間だったといえそうです。

続いて親鸞。親鸞は法然の弟子で、法然の教えをさらに哲学的に考えていった人です。そこには永遠に吹っ切れない迷い、自分への疑いがあります。非僧非俗なんていう宙ぶらりんな立ち位置に自分を置きずっと悩み続けますが、それはどうやら彼がとても誠実に仏教に挑んだためなのでした。そこには、無宗教的な現代での内省の仕方に通じるものがあるような、先鋭さがある気がしました。認知的不協和に苦しみながら、法然の思想をより専門的に深めていったのが親鸞です。

最後に一遍です。現代において時宗は少数派です。しかし、法然、親鸞、と続いて、一遍が浄土仏教を完成させたという学者もいるそうです。反対に、浄土仏教を堕落させたと考える学者もいるそうですが、著者はどちらかというと前者の考え方で、さらには、法然、親鸞、一遍を同一線上で語ること自体が違うのではないか、との立場で考察を進めていくのでした。念仏を唱えながら踊りを踊る「踊念仏(日本の芸能の端緒ともいわれます)」が有名な一遍は、法然がそれ以前の同一的世界観の仏教に二元論を持ち込んで広めた浄土仏教を、同一的世界観に回帰させつつも浄土仏教自体は維持します。アクロバティックなのです。また、聖俗の逆転をしたという特徴もあります。聖俗の逆転とは、出家者こそ一番ランクが低く、世俗の身でいながら往生するのがもっともランクの高い者だとしたことです。これは、従来の考え方とは逆なのでした。

そういった三人を一人ずつ見ていき、最後に比較するのですが、読んでいてなかなか難しい論理展開のところもあります。なぜならば、仏教の昔の著作からの引用があるのですが、その論理展開が難しいからです。昔の人も難しいことを考えていたものだなあ、と感慨深さもありながら、読解となると著者に頼るほかないところがありました。

というところですが、特に注意を引かれたところを以下に引用します。

_____

河合隼雄は『中空構造日本の深層』の中で、一神教を基盤とした西欧の中心統合構造では相容れない要素を周辺に追いやるので正と邪や善と悪が明確化されていくのに対して、中心を形成しない構造は対立するものを共存させ適当なバランスをとりつつ配置される、と論じています。(p65)
_____

西欧型の中軸構造は、それに沿わないものを周縁に追いやる、排除する性質で、一方の日本の中空構造は、それこそすり合わせをしていく構造になっているんです。ここで推察するように考えが及んだのは、日本の自動車産業のすり合わせ技術についてでした。日本のすり合わせ技術は世界に誇るピカイチさだとテレビだったか本だったかで知っていますが、そういった日本の技術力の元にあるすり合わせのメンタリティはこの中空構造からの影響なのかもしれない、と思えたのです。これも、先ほどの「他力」の話と同じく、日本人の心性としての部分について思い当たったことです。

そんなわけで、久しぶりに仏教の本を読みました。またそのうちに、今度は悟り型仏教のほうに触れてみたいです。仏教は魂の科学だとして、科学者が仏教者にいろいろ尋ねていたこともあるとかないとか。科学と符合するものがそこにあったとして、それって古人の内省力の比類なき強靭さを証明するものだったりすると思うんです。すごいものですよね、人間って。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『犬のかたちをしているもの』

2023-06-09 11:50:25 | 読書。
読書。
『犬のかたちをしているもの』 高瀬隼子
を読んだ。

2019年、第43回すばる文学賞受賞作。

ひらがなに開いた言葉づかいを中心とした、比較的、やわらかな文体です。とげとげした感じのしない純文学です。

概要を簡単に。主人公は卵巣の病気のために、子どもをつくれるともつくれないとも言い切れない身体です。これまでの交際歴をふりかえっても、付き合いはじめこそ性的な関係を持ちますが、3か月も経つとセックスレスになる傾向を持っています。嫌悪感というか、身体的に拒否してしまうところがある。それで、現在の彼氏は、それでも主人公を愛している、と関係を続けていくのですが、お金の関係で他の女性を妊娠させてしまいます。その女性が、予定外の妊娠だったのだけれども中絶はしたくないから産む、その子どもを主人公と彼氏にもらってほしい、と提案のようなお願いをしてきます。主人公はなし崩し的に子どもをもらう方向へと傾いていくのですが、どうなるのか、という話です。

こういった特殊な設定でのリアリティ小説なのですけれども、彼氏にしても妊娠した女性にしても、ちょっと特異な行動をとってしまっていて、それがこの物語のひとつの回転軸となっている。でも、彼らはちゃんと社会性の範囲内での振る舞いをしています。もうひとつの回転軸は主人公の女性の身体性だと思います。

最後の20ページほどにそれまでよりも力強いうねりのようなものがあり、そこを経てたどり着くラストを終えて漂う余韻に、ある種の納得と、作品となにかを共有したというような感覚を得ました。

本作は落ち着いたテンションでの語り口ですが、冷たいわけではなく、適度にほんのりとしたあたたかみと、やわらかさが宿った作品という印象です。

以下に、中盤で印象的なセリフをふたつ引用して終わりにします。

__________

(主人公の彼氏の子を宿しながらも、中絶はしたくないという女性(ミナシロさん)のセリフ)

「だって掻き出すんでしょ? 一応、生きてるものを」(p54)

→子どもを堕ろすことについてちゃんと知らないし具体的に想像したこともなかったですから、はっとしました。
__________


__________

(地下鉄の改札を入ったところで父親くらいの年の男にぶつかられる主人公。わざとぶつかってきた人だと、彼女は思う。フラストレーションが溜まってるんだ、と。)

むかつく、こんな街で、こんな世界で、よく子どもなんて産もうって、思えるな、みんな。(p58)

→僕はやっぱり、女性の世界への想像力がさまざまな方向で及んでいないので、こうやってこのような文学から知ったり推し量ったりするのです。改めてそういったことを感じました。
__________

作者の高瀬隼子さんは昨年、芥川賞を受賞されました。この作品のあとどういった進化をされたか、表現への踏み込みがどう深まったのか、興味がありますので、またそのうちに別の作品に触れてみようと思います。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする