読書。
『小学五年生』 重松清
を読んだ。
17の短編、すべての主人公が小学五年生です。
ませている子もいれば、生意気な子もいるし、
おとなしめの子もいれば、影の薄そうな子もいる。
そういういくらかはっきりとしたキャラ立てをされて、
出てくる少年たちではありますが、
17人の少年、すべての要素が、きっと、重松清という作者の中にあるのかもしれないし、
読んでいる人の中にも、17人の中の多くと符合する性質を備えていることでしょう。
昔はよく思ったんですよ。
伝記とか人物特集とかを読むと、
「あぁ、彼と彼を合わせた性格がこの偉人だな」だとかって。
同じように、漫画とかドラマとかのキャラの誰と誰をプラスすると、
友達のA君になるなぁだとかもありました。
前者は、偉人や有名人は概して人間の幅が広いことを物語っているし(?)、
後者は、いかに虚構の人物が一面的であるかを物語っていやしないでしょうか。
僕は意外と、人間性をはじけさせて生きていないので、
秘めた部分の未知性があるとともに、
しっかり制御されていてこそ生きていられるというような、
自己完結的性分が板についていたりします。
以前、予備校の先生に、「アンバランスのバランスっていうのもあるんだよ」
なんていう言葉をいただきましたが、僕の場合は、
通常あまり周囲に負荷をかけるような態度を取ることはありません。
意図せず負荷をかける場合はあるでしょうけれど、
他人にもたれかかるようなことは、あまりしない。
みんなそういうものかなとも思いますね。
仲の良い人には別ですが、だんだん、年と共にでしょうか、
そういう仲でいられる人との付き合いも減ってきました。
と、何を語っているのでしょう。
人間性の幅の広さは、目に見えるところ以外に、
見えないところにも、ポテンシャルのようなものとして眠っているものなんだ
って言いたいんです。
何か、事をなすような人は、そのポテンシャルの部分を顕在化して、みんなからしたら
可視化されているような状態になっているような気がするな。
つまり、潜在的にしろ顕在的にしろ、人は多くの要素を持っているわけで。
潜在的に持っているよという人と、顕在的に持っているよという人の違いが
あるのではないかな。
顕在化することを、「その要素が発現した」と表現するといいかもしれない。
そこはもう、自己をクリエイトするっていうものに近いかもしれないですね。
産みの苦しみというか、大変さがあって、潜在的な要素を顕在化できるのではないかな。
そういう、自分の潜在性に気付かせてくれるのが、
こういう、10歳~11歳の少年の心理を扱った小説だったりします。
自分の潜在性に気付いて、それを発現できるかどうかは、
その心理なり思考なりをわざとらしくでもなぞったり、
パクるように実生活に落としこんだりすることにヒントがあると思います。
ある要素が自分にもあるなと思ったら、それを顕在化させるために、
真似をしてみろ、と言うのです、早い話が。
そっからでも広がっていくような気がしないですか。
ただの空論にすぎないかなぁ、そんなことはないと言いたいのだけれど。
最後に言っておきますが、
そんな、くどくどわかりにくい、潜在だの顕在だのは一切この本には出てきませんので。
もっと読みやすくてわかりやすくて、ときに心がキュンとするお話が収録された本です。
そこから何を考えるかは、読んだ人の自由ですから、
僕はこう考えたに過ぎないのです。
『小学五年生』 重松清
を読んだ。
17の短編、すべての主人公が小学五年生です。
ませている子もいれば、生意気な子もいるし、
おとなしめの子もいれば、影の薄そうな子もいる。
そういういくらかはっきりとしたキャラ立てをされて、
出てくる少年たちではありますが、
17人の少年、すべての要素が、きっと、重松清という作者の中にあるのかもしれないし、
読んでいる人の中にも、17人の中の多くと符合する性質を備えていることでしょう。
昔はよく思ったんですよ。
伝記とか人物特集とかを読むと、
「あぁ、彼と彼を合わせた性格がこの偉人だな」だとかって。
同じように、漫画とかドラマとかのキャラの誰と誰をプラスすると、
友達のA君になるなぁだとかもありました。
前者は、偉人や有名人は概して人間の幅が広いことを物語っているし(?)、
後者は、いかに虚構の人物が一面的であるかを物語っていやしないでしょうか。
僕は意外と、人間性をはじけさせて生きていないので、
秘めた部分の未知性があるとともに、
しっかり制御されていてこそ生きていられるというような、
自己完結的性分が板についていたりします。
以前、予備校の先生に、「アンバランスのバランスっていうのもあるんだよ」
なんていう言葉をいただきましたが、僕の場合は、
通常あまり周囲に負荷をかけるような態度を取ることはありません。
意図せず負荷をかける場合はあるでしょうけれど、
他人にもたれかかるようなことは、あまりしない。
みんなそういうものかなとも思いますね。
仲の良い人には別ですが、だんだん、年と共にでしょうか、
そういう仲でいられる人との付き合いも減ってきました。
と、何を語っているのでしょう。
人間性の幅の広さは、目に見えるところ以外に、
見えないところにも、ポテンシャルのようなものとして眠っているものなんだ
って言いたいんです。
何か、事をなすような人は、そのポテンシャルの部分を顕在化して、みんなからしたら
可視化されているような状態になっているような気がするな。
つまり、潜在的にしろ顕在的にしろ、人は多くの要素を持っているわけで。
潜在的に持っているよという人と、顕在的に持っているよという人の違いが
あるのではないかな。
顕在化することを、「その要素が発現した」と表現するといいかもしれない。
そこはもう、自己をクリエイトするっていうものに近いかもしれないですね。
産みの苦しみというか、大変さがあって、潜在的な要素を顕在化できるのではないかな。
そういう、自分の潜在性に気付かせてくれるのが、
こういう、10歳~11歳の少年の心理を扱った小説だったりします。
自分の潜在性に気付いて、それを発現できるかどうかは、
その心理なり思考なりをわざとらしくでもなぞったり、
パクるように実生活に落としこんだりすることにヒントがあると思います。
ある要素が自分にもあるなと思ったら、それを顕在化させるために、
真似をしてみろ、と言うのです、早い話が。
そっからでも広がっていくような気がしないですか。
ただの空論にすぎないかなぁ、そんなことはないと言いたいのだけれど。
最後に言っておきますが、
そんな、くどくどわかりにくい、潜在だの顕在だのは一切この本には出てきませんので。
もっと読みやすくてわかりやすくて、ときに心がキュンとするお話が収録された本です。
そこから何を考えるかは、読んだ人の自由ですから、
僕はこう考えたに過ぎないのです。