Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『真夏の航海』

2020-06-28 23:52:01 | 読書。
読書。
『真夏の航海』 トルーマン・カポーティ 安西水丸 訳
を読んだ。

カポーティが生前、
出版を望んでいなかったとされる幻の原稿がこの作品です。
10代の後半に書かれたものだということですが、
恐ろしいくらいに「カポーティとして成立している」と言えるのではないか。
たしかに、日本で言えば、新人賞を受賞した作品くらいの程度かもしれないですが、
そこにはもう、後年のカポーティに見られる才気の筆使いがあります。
もっと直しや推敲をほどこしていると、他のカポーティ作品のように、
他の作家の作品にはないような、宝石のような芸術品になったかもしれない。
ただ、カポーティ自身にはなにかひっかかるものがあり、
そこまで仕上げず、そして出版はしなかった。

僕が考えるところだと、
長編『遠い声 遠い部屋』を書きあげて名声をものにする、
その伝説的なストーリーのための、
影での努力の跡なのではないか、ということになります。
ひとつ踏み台があって、ステップ、ジャンプというかたちで
『遠い声 遠い部屋』を世に出したのだけれども、
そこには『真夏の航海』という仕掛け(習作)があった、
という筋道なのではないかな、と。
まあ、カポーティは『真夏の航海』という作品があることは公にしていたようなので、
その努力の痕跡がのこるものは他者の目に触れさせたくない、
ということだったのかもしれません。

それにしても、刺激的でした。
中盤からどんどんカポーティらしい言い回しや描写がほとばしりだして、
読んでいると、ぐらぐら揺さぶられるんですよ。
「そうくるのか……!!」というように感じる言葉たちを、
浴びるように毎行毎行受け取る読書になっていって、強烈でした。
でも、すべてが繊細なんですよねえ。

内容は、17歳のセレブの少女グレディを主人公とするひと夏の人間模様です。
メインは恋ですが、相手役や脇役たちのキャラクターに深みがあり、
特に相手役のクライドの家庭事情が明かされる段になると、
急に物語の陰影が濃くなります。

カポーティは最初、いろいろためしつつ書き、
中盤以降は物語を本気で、そして夢中になって深めていって横にも流れさせながら、
そして文章自体での高級な遊戯も忘れずに没頭したのではないかなと思えました。

村上春樹作品なんかを読むと、
書き手と自分の距離がすごく近く感じられる時があり、
自分は著者と昔からの仲間なのではないかという思いに近い「好意」を持ったものですが、
カポーティの場合は読んでみると自分と近いものがありながらも
そこにはまったく異質なものがしっかりとあり、
でも「そこが」すごく好きで惹かれて、以前は読んでいました。

カポーティに対して、
彼が自分と違う意見を持つ者であっても、
そういう意見だとか思想や主張以前に、
「この人を気にかけていたい」
「親しみを持っていたい」
「まるで関わりのない他人という感覚ではいられない」みたいな気持ちが生じて、
僕に彼の作品を何冊も読ませることになった。

それで『冷血』なり『ティファニーで朝食を』なり、
ほかにいくつもの短篇を読んでみた。
やっぱりどうしても距離があるのだけれど、
それでも繋がっていたいなにかが作品にはあった。
そこのところでもっと理解が進むと、僕は一皮むけるのかもしれません。

で、今回の『真夏の航海』では、
これまでよりもカポーティに近づけた読書になりました。それも格段にです。
それはどうしてなのか。
『真夏の航海』がカポーティの厳しさにはじかれた、
不合格作品として付け入るスキがあるからなのかもしれない。
また、僕自身の小説を読む力がその経験値の上昇であがったためかもしれない。

都会的なものと土着的なものが混淆してのち、
みごとに洗練されて独自の芸術的な領域を開拓されたのだと、僕は勝手に解釈しています。
そして、それはカポーティの内でなされたことです。
どうやってかはわかりませんが、
カポーティの知性、
それも、現実を知り、生きていく世知を知り、
さまざまな知識を消化し蓄えるということを、
質的にも量的にも高くこなし、おまけに早熟というスピードもあった。
くわえて、言語的なセンスがあり、物語の構築力がありといったように、
小説家になる素養がケタ違いに備えられていた人だという感じがする。
で、そういった技術を前面に出すのだけれど、
作品に秘められているのは、
都会性と土着性のどちらにも通低するものがあったりする。

『真夏の航海』には、
カポーティの華やかな創作での活躍のなかで、
そういった特徴的部分を示唆するところがあると思いました。

読んでよかった。楽しめました。


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『樹木ハカセになろう』

2020-06-26 12:59:15 | 読書。
読書。
『樹木ハカセになろう』 石井誠治
を読んだ。

樹木に関する「なぜ?」に答える、
読んで洞察の仕方が学べるような本です。
岩波ジュニア新書ですから、中学生前後向けなのでしょうけれども、
オトナが読んでも発見だらけの内容でした。

トピックのひとつに、巨木になる条件がありました。
その育ち方、年輪の重ね方についてです。
日陰ですこしづつ育った木は年輪が細く堅くしまっていて幹が強い。
そのように育った木が、
周囲にあった巨木が倒れるなどして急に日あたりのよい条件になって急成長しても、
芯がしっかりしているから幹が弱くならず、しっかりと枝葉を広げることができるのです。
こういう木は、巨木になる素養がある。

逆に、植林して下刈りをし成長を早めた木は年輪が広く、柔らかい材になる。
材にしたときの強度に問題は無いのですが、
生きている状態だと腐朽が進みやすく、長生きできない。
つまり、生育を早くして幹を早く太くした木はそのぶん、腐りやすくなる。
こういう木は、巨木になれません。

このような話は、人間の生き方にもアナロジカルに感じられませんか。
こういう文言もありました。
「シンプルな構造であるほうが、環境の変化に適応しやすい。」
樹木に対する言葉なのですが、
それでいて、人間の生き方へのヒントにもなるような気がしてきます。

このようにして、人生訓のように考えてみることができるトピックがあります。
それとは別に、雑学的な刺激となるトピックもあります。

たとえば、
北米に生えている、ブリッスルコーンパインっていう松の写真があります。
世界一長寿の、樹齢4500年だそう。
(ここまで永く生きていると、もう死ぬ気がしないんじゃないかな。)
また、おなじく北米のジャイアントセコイア。
杉の一種で、115mあるものもあり世界一の高さ。
高層ビル30階建ぶんくらいあるようです。

というように、幅広く、わかりやすく、175ページの分量なのですが、
ぎゅうっとエッセンスをつめて、
樹木を各方面からまるごと味わってみる本となっています。
光合成の説明や根から水を吸収するメカニズムなどはもちろんのこと、
樹木の歴史に関する章もありますし、
さまざまな木の種類の個性を解説してくれる章もある。

「あ、これって違ったんだ。」と思った話もあって、
それは、幹に聴診器を当てて「水が流れるザーっという音が聴こえる」というものでした。
たしか、学校の先生から聞いたような気がしますが、これは間違いで、
枝や葉が風にざわめく音が幹に伝わっているのが聴こえる、というのが正解です。

あと、木の剪定についての話。
何も考えないで剪定している場合がけっこうあるとのこと。
葉を落としすぎたり、落とすべきではない枝を落としてしまったり、
木を枯らせる剪定が多い、と。
もともと、限られた空間の庭に木を生えさせておく伝統のある日本では、
木の剪定術の知識と技術はあったそう。
ただ、昨今の剪定された木を眺めると、
その伝承は途切れてしまったのではないか、と著者には見えてしまうそうです。

そんななか、樹木医という職業が1990年頃にでき、
森林インストラクターという資格も持てるように整備されてきたということです。
林業や森林管理の隙間の一部を埋めてくれる分野かもしれません。
いろいろ興味を持って知ろうとし、知識を深めるのはよいことですから、
その興味の対象が身近な存在である「樹木」であることだっていいのだし、
きっと、知れば知るほど樹木の分野の深さがわかり、
いわゆる「沼にはまる」ように楽しめてしまうと思います。
そして、前記のように、
人生のあり方についてのアナロジカルなヒントを得られたりもするでしょう。

子どものうちから興味を持つと、
大人になってから進路を取りやすいというのはあるでしょうけれども、
年輪の話のように、
巨木を目指して、少しずつ固めていくように基礎をやるっていうふうに、
今回の樹木にしてもなんにしても、
やっていくと強いのではないかなあという気がしました。


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悪口キャラの不思議。

2020-06-23 22:57:50 | 考えの切れ端
「なんでそんなに悪口を言うのよ?」っていいたくなる人っている。
それなりに付き合いが深くとも、
毎度会うたびに四方八方に悪口を飛ばしているのに接すると、
つきあいでうなずいたり笑ってやったりするのにもそのうち疲れてきて顔がひきつってくる。

で、自分では「毒舌キャラなのだ」と
そのポジションに居心地の良さを感じているのですよ、悪口の多い人。

悪口を言うことで、
自分が他者から悪く言われたりすることの予防線を張っているんじゃないかと思えるときがある。
「自分が悪口を言ったから、自分も何か言われました」と。
悪口は、自分の肉や骨を切らせないためのフェイクなのではないか。

自分がおかしいことをしたときに悪口を言われるのを回避するため、
または、自分はちょっと奇矯なところがあるのだけれどそこに目をつけさせないため、
悪口キャラ(毒舌キャラ)でいることで、
吐きだす言葉自体や、悪口という攻撃的ベクトルに他者の目を向けさせて
自分本体に手を触れられないようにする。

自分が攻撃されるときに、
「悪口を言っているからその反撃としてなのだ」
という理由が欲しいのだろうと思えるときがあります。
「けっして自分が変なんじゃないし、
自然なときの自分はどこもはみだしていない。
そんな自分が他者から何かを言われるのは自分が悪口を言うからだ」という予防線。
自信のない毒舌キャラ。

裏を返せば、
「自分は変だし、自然なときの自分はどこかにはみだしている。
だから、いつ誰かからいじられたり悪く言われたりするかわからない。
だから、カモフラージュとして、そしてある種のフェイント的な役割を期待して、
悪口を連発するんだ。それも先手で」
ということになる。

……ということなんですが、
すべての悪口キャラに当てはまるかどうかは……、
おそらく最大公約数的なものではありませんが、
まるでこういうタイプの人がいないわけでもないでしょう。

また、たとえば、
「先に言った方が勝ち!」
っていう場面ってあって、
これはこれでけっこうありふれているし、
マウントを取りにくる人は使用頻度の高い戦法だと思う。
今回考えてみたところの「悪口」の使い方も、
「先に言った方が勝ち!」なんですよね。
少なくとも、当人にはそう思えて、先手を打てれば気持ちは安泰です。

これって、ぜんぜん、良いことじゃないのだけれど、
どうしてこういうことになるかといえば、
負けたくないからです。
負けたらどうなるかが怖いからです。
負けたらもうずっと敗者のレッテルを貼られて、
敗北者の階層に落とされて這い出られないと信じているからです。
そして、そう思わせるだけの社会でもあるからじゃないですか。

こういうふうに考えてみると、
悪口ってくだらないな、という感覚がいちだんと強くなりました。

風刺や批判とかとはまた別なんですが、
風刺の体でいて悪口のものもありますよね。
じゃれあいだとか、ほんとうに頭に来てだとかで
悪く言ったりすることは僕にもあります。
でも無益な悪口はないほうがいいなあ。

あなたは、どうでしょうか?
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『ドラッカーに学ぶ自分の可能性を最大限に引き出す方法』

2020-06-22 18:30:27 | 読書。
読書。
『ドラッカーに学ぶ自分の可能性を最大限に引き出す方法』 ブルース・ローゼンステイン 上田惇生 監訳 井坂康志 訳
を読んだ。

経営学の父、P・F・ドラッカーの著作や言葉から、
著者ローゼンステインが、「この時代の人生の送り方」についての指針となる、
的を射ていてわかりやすいものを抜粋し、
体系的に編んだ本です。

ドラッカーは経営学の神様みたいに言われる人ですが、
経営学という言葉から連想されるような上手なお金の儲け方、
つまりお金やモノの動きなどよりも、
社会や人間の在り様に好奇心と探求心を持った人です。
仕事を通して自己実現できたらいいじゃないか、という理想の下、
それを実現すべく、方法や理論を考え、
そしてそれらを現実に落としこんでいくことに頭をしぼった。
本書は、こういったドラッカーの軌跡から多数生まれ出た言葉のなかから、
エッセンスを「よりよい生き方」のためにクリティカルにまとめてあります。
幸せになろうよ、という思想が背景にちゃんとあってのドラッカー経営学なのです。

そのためには、
パラレルキャリア(副業)やセカンドキャリアが大切なのだよ、とドラッカーはおっしゃっている。
なかでも、パラレルキャリアでは、ボランティアやNPOを推奨しています。
社会をよりよくするために力を注ぐことで、自分のこころが生きいきしてくる。
個人が幸せになるためには、そういった利他的活動が必要だという考えを基軸になっている。
また、複数の世界で活躍することで、
得られる学びや経験がそれぞれ別の世界にフィードバックして、良い効果があるとも述べています。
「私の知る限り、充実した人生を送る人は二つ以上の世界を持っている。
一つだけというのは寂しい。政治の世界にその手合いは多い。」(2005年4月 インタビューより・本書8ページ)

そして、知識社会となった現代では、
生涯学習あってこそだ、と時代の本筋を看破したうえで処方箋を述べています。
そこでは、人に教えることも学ぶことになるのだ、と教えてくれる。
非常勤講師でもいいし、職場での指導役でもいいのでしょう。
もっとかんたんな行為だと、たとえばこのブログで僕がやっているように、
読んだ本の内容をいくらか教示するために記事として書きしるすことだって、
教えて学ぶ、という種類の行為かもしれない。

これは! と思い、胸に残ったのは、サーバント・リーダーについてのいくつかの文章でした。
サーバント・リーダーとはなんぞや? と言葉の意味を知りたくなるところですが、
フォロワーに対して「自分の指示通りに従ってください」と他律性でしばって動かすのではなく、
フォロワー自らが考えて、自律的に価値ある貢献をするようになるために促すリーダーのタイプのことだそうです。
まとめると、サーバント・リーダーもフォロワーもそれぞれ自律的に、
職場や組織のコンセプトの中でプラスの価値を生みだす、そういった状況をよしとする考えです。

こういうのは、リーダーの資質のみならず、フォロワーの人間性や価値観と、
彼ら同士の相性も深く関係するものだと思うのですが、
僕はどっちかというと得意な方です(手前みそですが)。
子ども時代、わりかしリーダー的な立場でしたが、
あまり目立たないタイプの友だちのおもしろいところを無理なく引き出すことは何度とあったと思う。
そうして、友だちたちが存在感を増していって、仲間全体が粒ぞろいになることをよしとしました。
サーバント・リーダーはそういう感覚のあり方でしょう。

というところですが、
自己啓発本ですから、のめり込み過ぎないで、
自分をちょっと振り返って確かめてみる感じで読むといいと思います。
人にあれこれ「こうするといい」「これじゃだめよ」みたいに直されるのがイヤな人は、
自己啓発本を読むとちょっと疲れるでしょう。
けれども、本書はあまり文章量が多くなく、読者が自分で考える時間を考慮してある作り方なので、
距離を取りつつも検算するように客観的に自分をみてみるのに適しているのではないでしょうか。

ドラッカーはあたたかな経営を目指した人という感じのする人です。
本書ではなくとも、彼のその知性を一度だけだとしても通過しておいてみる、のは、
決して徒労ではないはずだと思います。


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『果しなき流れの果に』

2020-06-19 23:52:09 | 読書。
読書。
『果しなき流れの果に』 小松左京
を読んだ。

SFの大家である小松左京の傑作とされる作品。
手塚治虫『火の鳥』を子どもの時分に読んでいたときに、
びしびし受けとった強大な知的な刺激と似たような感覚の刺激を
本作からも受けながら読んでいきました。

太古を描いたプロローグを皮切りに、
1965年ころ(執筆当時の時代)の日本から本編がはじまります。
とある古墳内部の白亜紀の地層からでてきた砂時計。
どうしてこんなものが、といった問いから、壮大な物語がスタートする。

現代編の序盤こそ、なんだか文章がうまくないと感じる部分はあったのですが、
SF色が濃くなった段階から、水を得た魚のように筆致が冴えていきます。
それどころか、展開される話のスケールのダイナミックさと、
それを上滑りさせない説得力が、ぐんぐん読み手を夢中にさせていく。
また、内容のぶっとび具合と現実的に書いていく部分の両輪がしっかりしていて、
地に足がついたような状態で、ふわふわするはずだったSF世界を歩いているような、
味わい深い濃密な没入感を感じることができました。
そして、論理性と直観性が卓越しているなあと。

以下、ちょっとネタバレになるんだけれど、書き残しておきます。

知的生命の存在のレベルに「階梯」があると仮定して描き、
知覚され得ないような、より高次の存在をとらえようと試みたのですね、小松左京は。
小松左京的な「高次の存在の実在」を是とすると、
偶然・虫の知らせ・セレンディピティなどの「たまたまなこと」に意味を付与できます。

「たまたまなこと」が連続するとそれに意味を見出したくなる人っていて、
答えを求めて妙な方面へ歩いて行っちゃうこともあります。
だから、意味のないことにわざわざ意味を引きださないことって大切。
だけど、小松左京は虚構の範囲内に、物語に包んだかたちで意味を引き出してみせた。

「虚構の範囲内」という距離の取り方と、
「物語に包む」という咀嚼とアレンジの仕方で、
うまく料理しないと毒になるものを摂取可能にしたのだと思う。
ただ、小松先生自身は、僕が思うに、
「階梯」の概念は現実におそらく信じていたのではないかという気がする。
それだけの見事さがあります。

それにしたって、
これだけの大風呂敷をひろげて読み手にしっかり期待させておいて、
その期待に期待以上に応えるかたちでちゃんと幕を閉じる。
それをやったのが34歳くらいの段階の人ですよ。
すごい!! と冗談抜きで脱帽しちゃいます。
そのうち、また別の小松作品を味わいたい気がむくむく起きました。
おもしろかった。

ちなみに、読んだ版は1997年版の2014年・第10刷版です。


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『東京どこに住む?』

2020-06-14 20:47:25 | 読書。
読書。
『東京どこに住む?』 速水健朗
を読んだ。

人口移動の東京一極集中が顕著になってひさしいですが、
本書は、その東京のなかで特にどこに人口が集中しているのかを明らかにし、
なぜ東京に人が集まるのかについてまず考えていきます。
さらに、東京のみならず世界的傾向として大都市への人口移動の傾向が高くなっていること、
そのことについても、さまざまな学者の説を引きながら、なぜかについて論じています。

かつては、東京の西側(皇居を中心にして西側)の方面に
住居を構えるのが定石だったそう。
郊外の一軒家にしても団地にしても、東京の西側が理想とされたのだ、と。
「西高東低」なんて言われ方がしたくらいだそうですが、
いまや、東京中心地や東側の下町方面へ、人口移動が盛んになってきているみたいです。

そこには、職住近接という流行が存在する。
さらに、職住近接を肯定する、集積の論理が働いているようです。

長い通勤時間はかかるけれど、比較的広い住みかと都心よりも安い家賃の郊外を選ぶ人と、
家賃は高いけれども、通勤時間の短縮で時間に余裕が持てることを選ぶ人がいる。
両方を天秤にかけて、どうトレードオフするかをそれぞれが考えて決めている。
そのなかでも増えてきているという都心周辺や東側の湾岸地域に居を構える人たち。
そこには、住居の近くにおいしい居酒屋やバルがあるだとか、
わざわざどこかへ出ていかなくても楽しめるお店が住処の近くに増えたことが、
そういったライフスタイルの変化を促している、と著者は述べている。

そして、集積の論理によって、さまざまな人々が混じり合うように接点を持つと、
商売も文化も、いろいろなことが正のスパイラルに乗っていくことも論じられる。

集積の論理の点ではアメリカのポートランド
(アメリカには2つポートランドがありますが、オレゴン州のほう)
を例に解説されています。
そこでは、住んでいる人たちの意識が「本当にいいもの」志向で、
なおかつ、それを自分たちでやっていこうとうしている。
根本に自主性や自律性があるんです。
そして、そんな魅力的な「本当にいいもの」の揃った町が、
ぎゅっと自転車移動圏内に凝縮されていて、
買い物に便利なうえに楽しいし、
異分野の人たちの密な交流からさらにおもしろいものが生まれたりする。
集積の論理とは、そういった「かけ算性」の論理だと思います。
本書では、また違った角度から語っている箇所がありますので、
興味のある方は手にとって見てください。

昔ながらの“閑静な住宅地”とは逆に
「住宅地によいバルがあって」など、
ほどほどに賑やかな住宅地の方に人々の好みがシフトしていってる、と本書にあります。
そしてそういう集積の仕方が町の活性化の源だ、と。
(この集積の論理を押さえないコンパクトシティ推進には意味はないのでしょう)
働く場所、住む場所、食べる場所、買う場所。
それらが近接してこそなんですよねえ、集積の論理っていうのは。
静かなところが好きな僕はちょっと疲れそうだな、と思いました。

本書ではほかにもさまざまなトピックを扱い、多角的に東京一極集中について述べている。
いかにも「新書」というような読みやすさと軽さとまとまりのよさ。
そして著者の情報処理に抜きんでた力をぞんぶんにいかした類の本、といった印象でした。


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『銭湯図解』

2020-06-07 17:46:59 | 読書。
読書。
『銭湯図解』 塩谷歩波
を読んだ。

あたたかみのあるイラストで図解されたさまざまな銭湯。
都内の銭湯が中心ですが、千葉や徳島など地方の、
個性が強かったり愛情にあふれていたりする銭湯もピックアップされています。

著者の塩谷さんはもともと建築設計事務所で働いていた女性です。
『銭湯図解』も建築図法である「アイソメトリック」という技法で描かれている。
内部構造を、角度をつけて俯瞰的かつ微細に描いてあります。
まるで箱庭を眺めているような心はずむ楽しさを感じながら眺めてしまいました。
画風も水彩絵の具による彩色も、やわらかであたたかい。

ひとつの銭湯につき、見開き二ページで図解をし、
解説にそのあとの二ページ、合計四ページを費やしています。
解説文では、著者が設計に携わっていたことをほうふつとさせる、
造形に対する事細かな描写とゆたかな語彙が、
穏やかめの泡風呂のような心地よい刺激を読者の脳にもたらすでしょう。

僕は銭湯という世界をまったく知らなかったのですけども、
こんなに豊潤で色濃く、ポジティブな世界があるんだなあ、と
抽象的な部分ではそう感じました。
また、電気風呂やジャグジーなどのお風呂の種類もそうですが、
浴室の装飾や配色にしたって、作り手も楽しめるし受け手も喜べるし、
っていうWin-Winな業界なのだなあということも知ることができて、
今までずっとこの世界を知っていた方々が羨ましくもなりました。

都内だと料金はたいてい、460円だそうです。
そのほかに、ドライヤー代やアメニティ料金がかかったりもする(無料のところもありますね)。
著者は、風呂上がりによくビールを呷っているようで、飲食できる銭湯も多いみたいですから、
そういう楽しみもあわせて銭湯へ行く計画を立てると楽しそうです。

名前も知らない人と、湯船で裸の付き合いをする。
あれやこれや、短い時間にくだけた気分で言葉を交わす。
からだはぽかぽかで、日ごろの疲労で凝った肩や腰の筋肉もほぐれていく。
そればかりか、いっとき、気がかりなことや不安なことだって忘れていたりもして。
視界には富士山のペンキ絵。雄大。
こんなどかーんとゆるまった空間なんて、
いそいそとした世知辛い通常の世界からみごとに切り離されている感があります。
そういう世界がちゃんとあった、っていう発見ができてすごくよかった。
また、仕事として『銭湯図解』は良質のエンタメです。
著者に拍手を送りつつ読了、と相成りました。

著者 : 塩谷歩波
中央公論新社
発売日 : 2019-02-20

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『マーケティングの基礎と潮流』

2020-06-04 21:39:19 | 読書。
読書。
『マーケティングの基礎と潮流』 西尾チヅル 編著
を読んだ。

マーケティング全般について、教科書的位置づけのできる本です。
(というか、たぶん大学の教科書として使われているのではないかな)
マーケティングを大まかかつ網羅的にあつかう内容で、概論といった感じ。
素人にとっては、商売の「攻め」の部分についての視界がぐっと広がります。
ということは、より「世の中について」わかるようになるんですよね。

僕はマーケティングに関わったことはありませんが、
ずっと、心理学を実践として多用している分野だなあというイメージをぼんやりと持っていました。
でも、今回、本書のページをめくってみれば、
思っていた以上に人間心理の盲点をついてくるような商売上の戦略に、
少しばかり怖さすら覚えました。
これほど人間の心理や行動原理といったものを俎上に載せてしまうのか、
と、想像以上だったんです。
マーケティングとその周辺の学問に深く浸りすぎると、
人をコントロールすることに違和感や咎める気持ちを感じなくなるかもしれない。

わかりやすい例では、アメリカの選挙の票集めもマーケティングですよね。
あれはもう振り切ってしまっています。
罪悪感だとかとは別次元で、いそいそとマーケティングが行われている印象です。
というか、どうやっても選挙活動の性格としてマーケティング的要素は取り払えないのだから、
それならやれるだけやってしまえ、という発想なんでしょうか。

閑話休題。

本書は、マーケティングの概念からはじまり、
消費者行動を考え、広義での製品のデザイン、価格の考え方、
広告や消費者からのフィードバックなどのコミュニケーションデザイン、流通させ方のデザイン、
そして、サービス業のマーケティング、
消費者と企業のあいだで関係性を築くリレーションシップ・マーケティング、
最後に、ブランド構築のブランド・マーケティングでひととおりざっくりと学べます。

顧客生涯価値やブランド・エクイティなど専門用語も盛りだくさんで、
それらをキーワードにいろいろ検索すると、知見に幅が出そうですし、
そういった言葉を知っておくだけで、自らの今後の選択肢が増えていくでしょうし、
意味をちょっとわかっているだけでも、持ち合わせる視点が増えるでしょう。

この本を起点に、何冊も焦点を絞った本が生み出せることがわかります。
それだけ、広い分野です。
お金が絡むだけあって、それだけ必死に掘られてきたんじゃないかと思うくらい。

ただ、まあ、マーケティングの手法や視点といったものには、
消費者にバレていないものだとして裏側で考えるものだというスタンスを感じます。
だから逆にマーケティングは周知のものとしたほうがよくて、
みんながわきまえているという前提で、そこから何ができるのかが大切じゃないのか。
そこにこそ、世の中を豊かにしていく鍵が眠っている気がしませんか。

「ここまでこうやってお客様の事情にあわせて弊社の商品を勧めるのは、
顧客生涯価値の視点やリレーションシップマーケティングの観点から行っている、
と言えるものではありますが、
それよりずっとお客様視点というものを大事して、
お客様に満足し喜んでいただくことが豊かさの創造でもあり、重視しているのです。」
というほうが、モノとして存在しない無形のものを生みだすことだとしても、
働く人はみんなクリエイターになれますよね。
「そんなきれいごとを!」
なんて冷たく、あるいは興奮しておっしゃる人もいるでしょうが、
それでちゃんと回るんだから、わざわざ汚くしなくていいぶん、よくないですか。

もちろん、現場の人はたいてい、マーケティング的に仕事をしてはいないですよね。
そこにマーケティングの視点を持ちこむと、
現場の人は戸惑ってしまって、ギクシャクした仕事ぶりになると思います。
さらにそのギクシャクした段階を経て、いやらしい仕事ぶりになるでしょう。
その後、ひとまわりして、マーケティングの視点を持ちながらも、
初心のサービス精神で働ける人にやっとなれるのではないか。
こういった考え方を導入した時のパイオニア世代はたぶんにこうなるだろうと推測します。

消費者の側も、ほとんど人がマーケティングの考え方や概念をふまえるようになると、
きっと原点回帰がはやくなって、
消費者の満足と、労働者の働きがいとが両立するような現場になりそうな気がします。

情報は「他者が知らないほうが得をするもの」なのでしょうが、
みんながその情報を踏まえると(コモディティ化すると)
よくなるっていうものもたくさんありますよね。
手の内はみんなバレてるんだから、小手先の方法でやってもしょうがない、
っていうことになって、かえって豊かになる場面って想像できませんか。
それって、成熟、なんだと思います。


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