Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』

2024-01-31 23:51:41 | 読書。
読書。
『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』 町田そのこ
を読んだ。

5つの短編が繋がっていく、連作集。著者のデビュー作です。第15回「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞作、「カメルーンの青い魚」を皮切りに、時間的にも空間的にも広がっていき、味わいが深まっていく世界でした。

受賞作はもちろん面白いのだけど、その後に書いていったのであろう、その次に続いていく作品群を読んで、その受賞がさらにジャンプ台になって飛躍していったんじゃないかと思えてしまうほど、筆力も構成力も油がのっていってこちらはぐいぐい読んでいくことになり引き込まれながらたびたび、すごいな、とも思ってしまう。

一作一作の構成力や仕掛けがよく考えられているし、アイデアも優れているのだけれど、連作としてその5編を通しての構成も「よく創ったなあ!」と著者の労力、大げさな言い方になってしまいますが、つまり全霊をかけたというか、心血を注いだというか、ほんとうにエネルギーを懸けたなあ、ということがわかり、賞賛とねぎらいの気持ちいっぱいになります。それはもちろん、作品世界を十分に堪能して楽しんだあと、気持ちが本書とシンクロするようにまで没入した読書体験を経てのものです。

5編を通しての構成について言うと、各々の物語で重なる人物がいることで、数珠のようにつながっていますし、魚というモチーフが貫かれていて作品を通しての色どりというか、本書一冊のひとつのトーンとして機能しているとも感じました。

ネタバレにするともったいないと思いながらも、本書の三篇目にあたる中編「波間に浮かぶイエロー」から印象的なセリフをいくつか引用して紹介します。これらの部分でストライクだと感じられた方ならば、本書を手に取って満足の読書体験を得られそうです。

__________

だからわたし、いままでずっと信じてきたの。自分に自信を失いそうになっても、高橋さんの言葉を思いだしたら頑張ろうって思えた。この世界のどこかにわたしのことを想って生きているひとがいるんだから、頑張って生きなくちゃって。(「波間に浮かぶイエロー」p151)
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いくら言葉を貰っても、それじゃ勝てるはずがない。力を尽くして得たものだけが、新しい力をくれるんだよ。誰かからもらおうとしちゃダメだったんだ。(「波間に浮かぶイエロー」p174)
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→名言には二種類あると僕は考えていて、それは、受け手に傷痕を残すものと、受け手の迷いを弱くするものとがそれ。このふたつは後者の名言。
__________

ホテルでキスされたときなんて死んでもいいと思ったって。都合よく使われただけなのに、最高の思い出のように語るのよ。(「波間に浮かぶイエロー」p199)
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→ここを読んで、男ってそういうものだよね、と思ってしまうように、僕もこのセリフを吐くような種類の男なのだよなあ、とちょっと目じりが下がる思いがするのでした。

なんていうか、生きていくことを描いていますね。応援であり、寄り添いであり、励ましであり、慰めであり。そういった「大変だけど生きていこうよ」というようなベクトルが、本書に息づいています。

とっても良かったです。


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『TRIANGLE MAGAZINE 02 日向坂46 小坂菜緒cover』

2024-01-26 21:36:05 | 読書。
読書。
『TRIANGLE MAGAZINE 02 日向坂46 小坂菜緒cover』 小坂菜緒 金村美玖 正源司陽子
を読んだ。

日向坂46のメンバー、小坂菜緒さん、金村美玖さん、正源司陽子さんを50ページずつフィーチャーした写真集。それぞれインタビュー付きです。それぞれのメンバーのカバーがあるのですが、僕は小坂菜緒さんのバージョンにしました。

本書のはじまりである小坂菜緒さんは「再会」がテーマです。旅館の一室にて、急須でお茶を入れている写真のたたずまいの美しさ。鎖骨がきれいでした。あと、表紙と同じ撮影セッションの何枚かも秀逸ですね。フリルのついた刺繍のすてきな衣装を着てらっしゃるのだけど、淡い光の加減もあいまって、幻想的非日常の時間が捉えられています。瞬間的にこの写真集の中に連れて行かれていってしまう、そんな引き寄せる強い力を持つ写真群だと思いました。

というか、全部すごく胸をときめかせてしまう写真たちです。小坂菜緒さんの抜群な魅力がそこにあります。きれいでかわいくて、ときにどこか儚げな感じがあり、秘めている心の動きをなんとなしにこちらが感じたときに一本の紐でつながりあう気持ちになって、つまり心惹かれる(引かれる)ことになるんです。

最後にインタビューがあります。全然出張ってこない小坂さんだし、自分から「いま、こういうことに取り組んでいます!」なんて公言しないほうですし、謎を秘めている感じがあります、秘密という香水がわずかに香るというように(それもまた魅力なのです)。それが、インタビューによって少し小坂さんのパーソナリティが垣間みえるのでした。

たとえば、思春期を迎えてから控えめな性格が強くなったそうですが、それまではアイドルが大好きで、AKB48の「ポニーテールとシュシュ」を有志5人でクラスのレクリエーションにて披露したとあります。人間形成の基盤のところにそういった面があったんですね。あと、今の素の自分はオタクだ、とありました。動画配信でアニメの話をしていましたし、ゲームをしてるという話もありました。アイドルのお仕事は大変でしょうから、減ってしまったエネルギーをどうやって充電するかは人それぞれでしょうが、小坂さんはそういったやり方でOFFになったときのご自分の生活を作っていて、そうやってまたお仕事をしに行っている感じがします。

そして、アイドル美学についても短く語っています。小坂菜緒さんご自身が好きで憧れていたアイドルさんたちと同様に、全部見せるのではなく、幻想を抱かせる存在でありたい、と。気を抜くと低い声でしゃべってしまうこともあるけれど、貫きたいとつよい気持ちを示していました。

ちょっと引いた目で考えてみると、こういう言葉がアイドル当事者からでてくるというのは、漫画&アニメ『【推しの子】』の星野アイの影響なのかもしれないですね。受け手としては、虚像としてのアイドルという在り方を『【推しの子】』から具体的に知り、アイドル当事者としても、自分がイメージを売る存在であることが受け手にはっきりわかられた後になったのを知っているので、その自覚を持っていることを隠さない。まあなんていいますか、そのほうが逆にしらけないのかもしれないです。

そうはいっても、小坂さんは、久しぶりの動画配信ではちょっとうにうにした感じで低めのテンションでやってましたし、その8日後だったかのこの写真集のプロモーション動画配信のときは、前と違ってアイドルとしての完成度が高くてびしっと決まっていました。振り幅があります。

さて、どうしてこんなに小坂菜緒さんについて長く書くのかというと、僕の「推し」だからです。最高にまいってしまう人なんです。9カ月の休養を経て、復帰してくださったのが、大変だったと思うのだけど、ほんとうに嬉しい。このあたりのいきさつもインタビューページに書かれています。


金村美玖さんは「白昼夢」がテーマ。艶めかしさのある非日常感が色濃く感じられる。というか、異世界感すらある怪しげな官能性すら感じます。藍色の浴衣姿の写真と、花柄ワンピースの写真がとくに好みでした。ぐっときます。

インタビューを読むと、すごく腑に落ちました、金村さんはどういう人なのかがぴったりはまった感じがある。目立ちたがりでがつがついく反面、繊細な面もあり、そしてまじめ。カメラなどやりたいことがわかっていて、目標に向かって走り始めたようなところがあるように感じました。そして、建設的にひとつずつ構築していく考え方がよくわかります。積み上げていく、というしっかりした考え方です。今、大学生として写真の勉強をされているそうですが、こうやってひとつひとつ積み上げていく方ですから、この先何べんも壁に当たったとしても、頭を回転させて、そして労力をかけて、その都度自分の道を作り上げていき、アイドルとは違う何者かにもなろうとやっていくのだろうなあと思いました。


正源司陽子ちゃんは「君は空色」がテーマ。<16歳の少女は、すごいスピードで輝きを増してくるくると表情を変えていく。いろんな空模様があるけど、そう君こそが空色。>というリード文がとてもよく言い得ています。「X(旧ツイッター)」で本書のアカウントがメイキング動画を多数アップしているんですけど、写真ではとらえきれない、表情の移り変わりの魅力はそこで知ることができますので興味のある方は見てみてください。16歳ど真ん中な健康的な空気感の写真がずらりと並んでいます。制服にグレーのカーディガンを羽織って淡い光の中にいる写真、白いキャップと白いスウェット姿の写真がとくに好きでした。めちゃくちゃかわいいです。

インタビューでは、日向坂46加入のきっかけがいとこの五百城茉央さんの乃木坂5期生加入だったことだと話されていて、五百城さんが乃木坂に入ったと聞いたときには、「目が飛び出るほどビックリしました」とあります。そして、晴れて日向坂に加入が決まったときには、東京で五百城さんに直にそのことを伝えると彼女に喜んでもらえて、たまたま東京に来ていた五百城さんのご家族と合流したら、みんな「アゴが外れるくらいビックリしてました(笑)」ということでした。

「しょげこ」こと正源司陽子さんは原石なんて言われ方がされて期待されていますけれども、もうなんだか言葉にできないなにか良いところがあります。今から注目していると、いろいろと素敵なところが見られると思います。

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『新宿・歌舞伎町』

2024-01-24 22:31:02 | 読書。
読書。
『新宿・歌舞伎町』 手塚マキ
を読んだ。

働く人も客も、新宿歌舞伎町でしか救われない人がいる。そんな歌舞伎町でグループ企業を持つ、元人気No.1ホストの著者が、歌舞伎町とはどんな街なのかを、自分の想いや経験を乗せながら綴った本です。

酒を飲まない僕は水商売の世界をほとんど知らない。日本一の歓楽街である新宿歌舞伎町についても、知っていることがまるでなかったです。

まず、飲み屋のシステムから。セット料金、ドリンク代、サービス料、テーブルチャージ、指名料と、ホストクラブなどの飲み屋では、こういったもろもろの料金が合計されて会計がいくらとなります。だから、慣れていない人にすれば、「ぼったくりだ!」となる、と著者は書いています。さっきも書いたように、僕は酒を飲まないし、こういったお店に行った回数は片手で足りるほどでもあり、料金体系ってほんとうによく知りません。まあ、セット料金とドリンク代くらいはまだわかります。ですが、それにサービス料が20%ついて、テーブルチャージや指名料が加算され、消費税が10%かかるといくらくらいになるか、ざっと頭に浮かびません。経験を積めば、感覚的に「このくらいだろう」というのはわかるようになるのでしょう。それが、夜の街で「遊び慣れた」と言えるようになった人の、ちょっとしたスキルといえるものなのかもしれないですね。


ここからはいくつか本文を引きながら、本書の匂いを嗅いでいただこうと思います。
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新宿のクラブのママさんたちは、うちの会社(ホストクラブなど数社)のスタッフを可愛がってくれる。お客様を紹介するだけではなく、人としての成長を促すように接してくれる。その日の飲み代だけでは語れない価値があるのだ。(p66)
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→お金のやり取り以上というか、それとは別のところで、<人としての成長を促してくれる>というような相互に働きかけ合うモデルって、たとえば芸能もそうだったりするところはあるんじゃないですかねえ。強引にくっつけると、タニマチ文化と通じるところがあるように思えます。ただ、後述しますけれども、ここで言われているスタッフたちが、自分たちのフィールドではよからぬ行いをしながら金を稼いでいたり、力を誇示していたりするんですよ。成長を促してくれるような働きかけみたいなのものも、そうされる人の強さによって役に立つか立たないかというのはあると思うんです。そして、成長しようとする者も、素直な気持ちでいるのがいちばん成長に適しているとしても、周囲に舐められないように、そうできない、ということもある。基本的に負のスパイラルの中にいる状況なのではないでしょうか。
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17時頃には開店前の準備をする人たち、出勤するホストやキャバ嬢で街が色気づいていく。私はこの時間が好きだ。戦闘態勢を整えたホストやキャバ嬢が引き締まった顔で街を闊歩している。みな自分が一番だと思うくらいの自信を持った表情をしている。それがプロだ。(p69)
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→そのときの彼らの気持ちのベクトルが好いんでしょう。これは、「やるぞ」と決めたときの人間は大概いい表情をしますが、そういった表情のことですよね。モデルの人たちがランウェイを歩くときも、こういった感じに近いのではないでしょうか。水商売のほうはもっとギラギラしているとは思いますが。それでも、この文章はこの本で好きな箇所のひとつです。
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この時間(19時から午前1時まで)は「陽」の時間だ。期待が蠢いている。そう、水商売とは期待させる職業だ。期待に応える職業ではない。遠足に行く前日を作るようなものだ。期待は、良くも悪くも裏切られる。期待通りにいくことなんてほとんどない。欲望は次から次へと欲望を生む。満たされることは永遠にない。(p72)
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→プラトンが自著で主人公に立てたソクラテスに語らせたのは、欲望は穴のあいた大甕でずっと満たされることはない、そしてそれが欲望のままに生きる人間の姿でもある、というようなことでした。そういう姿で生きると、善く生きることはできない、としたのです。だから、節度を重んじた。そういう哲学でした。新宿歌舞伎町の基盤にある哲学はプラトンの哲学と真っ向から対立する部分があります。どうしてそうなのか。世界の情況的に、歌舞伎町的世界じゃないと生きていけない人たちというのが、マイノリティとしてくくられていても、それでも多数いるからかもしれません。そういった世界でこそ、サバイブしていける、サバイブしていく気になれる、そういった人たちがいる。また、歌舞伎町的世界の外の世界(大多数が住まう世界)が完璧だというわけではないのだし、プラトンが目指した世界に完璧な現実味があったとも言えないとは思うのです。どんな世界の秩序からもあふれてしまう人っているわけです。ある意味で別世界ですから、大多数が占める「ふつうの世界」のルールとは違うルールが働いていて、そこでやり直しが効く人がいるのだと思います。ただ、まあ、暴力が制止されにくい世界なんですが。


こうやって読み進めていくと考え就くことがあります。社会が「力」というものをすごく使って強硬なまでに秩序を保とうとやっていると、はたまた、世の中の空気が秩序を守る方へとひどい息苦しさをもたらしながらでも強制していくと、たぶん社会や世の中なんかもヘルニアを起こして、歌歌舞伎町的世界・舞伎町的拝金主義だとかってそれにあたるのではないか。良いとか悪いとかは抜きにして、人間ってそういう出口へと自然に向かうんじゃないでしょうか。

歌舞伎町で働く人のマインドとして強いのは「一円でも多く稼ぐんだ」というものだと本書から読み受けられます(そのマインドがひとつの救いでもあるようにも読めます)。そんなマインドでのマネーゲームのプレイヤーとなることって、実は民衆への政府の思惑と実は一致してることだと思い浮かびました。マネーゲームのプレイヤーであるか、はたまた末端の労働力として働けるだけ働かせられる者であるか。そういうような、経済の奴隷的価値観で、たとえば政府は民衆をうながし国家の財政の成長や安定化を図ろうとしているように感じられますから、為政者の本音の部分では、「一円でも多く稼ぐんだ」というマネーゲームに心血を注げ、というのがあるのではないか。
やれるだけやるというマインドで金を稼がせて、何か問題が出てきたら規制をかけたりし、はみ出た部分だけを取り締まって、あとはまた自由にさせてやるから稼げ、とやります。そういったやっぱりマネーゲームというべき世界観に放り込むのが世界なのだから、だったら歌舞伎町的でだっていいじゃんか、となってもおかしくはありません。
まあでも、そういったマインドに丸呑みされずに、苦しみながらでも生きていく人たちがけっこういたりもするので、それがこの世界のいいとこだと僕は思うのでした。

あとですね、本書を読んで批判的に思うのは、話が自分に不利になりそうになるとはぐらかしたり、それしかできないだけのことを重い決断のように美化してみせて言い張ったりなど、現実でもそうやってしのいできたんだろうなということです。いわゆる空っぽの弁論術、ゴルギアスの弁論術を武装しているんだろう、と。まやかしを駆使しないと体面を保てないわけです。歌舞伎町世界では、弱い部分をさらけだしたらやられるだけで、空虚さが幾重にも絡まり合っているからこそ生きられる世界だし、逆にそうじゃないと生きられない世界なのかもしれない。本質がどんななのか知っててもいわないだろうし。しらふじゃいられない世界は、しらふでいてもいけないのかもしれない。
しかし、ゴールデン街になると話は別のようです。ここでは、人は裸になって語り合いぶつかり合って、磨かれていくものもあるという話でした。

そういうところなのですが、本書を読んで得た知識と抱いたイメージで新宿歌舞伎町をはっきり一言で言ってしまうと、「非道を許容する世界」となります。近づきたくない人も多いでしょうし、ちょっと体験してみたいという人も多いでしょう。

最後に、巻末部分から引用します。
__________

この本は、家にいられない人の物語。歌舞伎町が居場所の人たちの物語だったんだ。自分らしくいられる場所が、家じゃない人はたくさんいる。人との関わりでしか自分を確かめることができない人もたくさんいる。社会には善い人も悪い人もいる。できる人もできない人もいる。誰だって、元気なときもある。落ち込んでいるときもある。自分じゃどうにもできないときもある。助けて欲しいときもある。綺麗に線引きなんてできない。1人1人として、この街で、立っている。(p240-241)
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生きていく選択肢が、歌舞伎町しかないっていう人は存在するんですね。


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『「いき」の構造』

2024-01-17 19:35:01 | 読書。
読書。
『「いき」の構造』 九鬼周造 藤田正勝:全注釈
を読んだ。

京都大学教授で哲学者の九鬼周造による1930年刊行の論考、解説・注釈付きです。

日本人が何かに「いき」を感じる感覚、「いき」を自ら表現するふるまい、それをよしとする価値感、そんな「いき」がどういったメカニズムで成り立っているかを言葉にできる範囲のぶんだけ言い表しています。著者は「潜勢性」と表現していますが、現在で言えば暗黙知のようなことであり、「いき」を構成するそのものあるいはその現象は存在していても、言葉にならないものについては、諦めています。というか、「いき」には、概念的分析と意味体験とがあり、後者について言葉で表現を尽くすことはできないものだし、さらに通約不可能性(それぞれがそれぞれの論理を持っていて、お互いに通じはしないというようなこと)があるとしています(p150あたり)。こういったところは、序文では覇気に充ちていた著者のブレだといえばブレなのかもしれませんが、取り組んでみたら思いのほか難しい対象だったということがあったのかもしれません。

「いき」は媚態、意気地、諦めという三要素があるとしています。媚態については、「いき」の基盤をなすもので、これは欧米にもあるとしている。意気地と諦めという要素が入って、そこに日本文化としての「いき」が生まれる。武士道の理想主義と、仏教の非現実性があいまって作り上げた価値感覚だ、と著者は述べています。



さて、ちょっと横道に逸れます。「いき」の要素の三つ目としての「諦め」についてですが、運命に執着しないことからくる無関心としてのものと説明されています。なるほどそうか、もしかすると、日本人の無関心気質ってこういうところにあるのかもしれない、と思いました。

無関心のよくないところは、「わたしは誰にも関心を持たれていない」という強い孤独感を感じたときに、脳(心理面)が自動的に被害妄想を作り出すらしいことです(そういった論文があると、スティーブン・グロス『人生に聴診器をあてる』にある)。そういうわけで、無関心は人が病んでいく契機になるということだともいえるのではないか。だから、この見地から言えば、人は適度に承認欲求を満たされる必要があるんです。

承認欲求については、強すぎる人がいるから言われるのかもしれないですが、「承認欲求なんか持つな」と言われがちな風潮だったりしませんか。思いついたんですが、そう否定的に対処してしまうのは、無関心をよしとする「いき」の精神・気質にそわないものだからというのもあるんじゃないでしょうか。

「いき」は、
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命をも惜しまない町火消、寒中でも白足袋はだしの鳶の者、法被一枚の「男伊達」をとうとんだ(p41-42)
__________

ものだとあります。つまり、「いき」とは死のようなものを隣り合わせにしても意気地のある態度がひとつの要素としてある。だから「いき」のなかに、意気地とともにある諦めについても、無関心が精神面において「死」を隣り合わせにするものだとしても、それをよしとしてしまう精神性として成り立っているのではないか、と類推できると思ったのでした。

というか、承認欲求なんて「いき」じゃないからやめろ、というのが根本・本音なのでは? そんなわけで、日本人はつめたい、だとか言われて、実際そういう面がありもするけれど、その精神性を下支えしているのは、「いき」の精神性なんじゃないだろうか、という推測話でした。「いき」の精神性についてもまあわかりますし、実際そうやって生きているところがありますけれど、かたや無関心すぎるのには僕は反対だし「いき」を生粋にやりとげようとも思わない、っていういわゆるダブスタ的な考え方で揺れているほうが、マシな部分ってあったりしないでしょうか。



閑話休題。

九鬼周造は東京生まれの人だから、江戸文化の「いき」を日本の文化として位置付けたのだと思う。たとえば女性の化粧について、江戸では薄化粧を「いき」としたのに比して、上方では濃い化粧をよしとしていたとあります。そういったところに、本当ならば優劣はないのでしょうが、上方のそれを著者が評価するところはなかった。江戸の薄化粧は「いき」であり、「いき」は世界に負けない日本文化であるとしている。

本書では、「いき」を世界に類のない日本独自の文化(それも質の高い文化)と位置付け、日本人に自負心すら振りまくような態度もちらっとでてくる。「いき」は、日本独自のもので、他の追随をゆるさず、孤高のものだ、つまり、日本文化の優れていて尖ったところである。ゆえに、日本は世界の中でも劣ったものではないというプライドすら感じられるのです。他の国にない感覚を持っていて、さらにそれは優れていて文化的な高みにあるというか、日本人の感性の質の高さをあらわし、それは世界に対して「どうだ!」と胸をそらしてみせられるようなものだ、という自負心が感じられもしました。1930年くらいという時代なのか、ナショナリズムが感じられるところがごく一部にあるのです。きっとコンプレックスの作用もあるかな、と思いました。

というところですが、それにしても、注釈・解説なしには読めなかったです(解説があっても難読なのだけど)。巻末解説でわかったのですが、著者が自ら駆使する論理には、本記事のはじめに書いたように、ブレてしまっているようなところがあるし、それ以前に語句が難しく、素で読んだら無理といった感じです。もうね、「注釈した方 Good Job!!」なのでした。


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いろいろと考えてしまう人には旅がいい。

2024-01-15 11:35:30 | 考えの切れ端
平均的な人よりも、いろいろと考えてしまう人。他の人は10個考えている程度なのに、自分は15個考えていて、他の人はそのうちの1個についてひとつかふたつかの可能性を考えているところ、自分はよっつもいつつも可能性が思いつき想像できている、そういう人は物事を決断するのにエネルギーがとても要る。

頭が良くて思慮深いところがあるってことなんだけど、そういう人って、状況の複雑さがほんとうにきちんと見えてしまっていて、だから、決断がしにくい。けっして決断力がないわけじゃない。そこを無理に決断しなくてはならなくなるから、エネルギーを大量に使う。

そういう人が「旅」をすると、それも「一人旅」をすると、選択や決断の経験を身近なところでいくつもすることになって、性格的だったり思考面だったり、まあ「これだ!」とは決めて言えないけど、なにかがこなれてくる。そうすると、個人的な生きやすさへ近づけるんだと思う。

否が応でも進まないといけなくなるのが「旅」ですもんね。選択と決断はしないといけないし、その選択への責任、決断への責任はついてまわる。旅する人が成長していって強くなっていくのって、そういう面が大きいのかもしれなくないですか。観光して見聞するのもとても好いのだけど、選択と決断の面に人生の栄養がある。

僕はとんと旅をしなくなりましたが(というか在宅介護でできなくなりました)、若い頃は一人旅をしたのを思い出します。でも、実に数少なかったのだけど。で、行先がせいぜい東京だったんだよなあ。
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手持ちの札でやっていきませんか。

2024-01-12 13:23:11 | 考えの切れ端
プラトンの『ゴルギアス』をこのあいだ読んでいてびっくりしたのですが、「手持ちの札でとにかくやるしかないんだから、それで精一杯やるんだ」っていう考え方が古代ギリシャの時代にはあったと、その時代に生きた主人公のソクラテスが話していました。

手持ちの札がしょうもなくても、それで頑張るしかないんだ、っていう人生訓について僕は、10年前後前になりますが、東野圭吾さんの小説で知ったのがたぶん初めてで、なるほどその通りだなあ、と膝を打ったのを覚えています。しかし、古代ギリシャの時代からあった考え方だったんですね。

ただそれ以前に、「こんなクソ手で勝てるわけがない! だから降りる!」という選択のありかたがあることを、かっこいい女性ロックミュージシャンが、ハスキーな歌声で歌っていたのを好んで聴いていたりもしました。現代ではこういう歌がヒットしたものですが、この、「だから降りる!」というのは、おそらく短い時間範囲での「気分」としてのものです。

歌は、シェリル・クロウの「Leaving Las Vegas」のことなのですが、あの歌詞は人生そのものでもあるよなあ、という読み方をしました。そういう寓意が感じられて、というわけですね。ちなみに、ほんとうに大好きな歌です。



さて。一般の人が、普段づかいの言葉や態度だったとしても、けっこうちゃんとした教育って子どもたちにできるはずなのですけども、それが難しくなるのは、公教育のシステムや社会環境を作っている社会システムの影響ではないのでしょうか。どうしてかというと、「ローコスト・ハイリターン」を求め過ぎて、一歩ずつの歩みが軽んじられるからです。

「親ガチャ」という言葉を用いて嘆息する人たちも、「手持ちの札がクソ手だ」と言っていることと同じで、大きなリターンが難しい、と嘆いている面はありますよね(どうしようもないくらいの苦難のなかにあったりする人もいらっしゃるので、すべてがそうだなんてまったく言えませんが)。

シェリル・クロウの歌のように、手持ちの札を見て降りたくなるのは、人生をこの手札でやっていくにはコストがかさむしリターンもハイにはならなそうだ、という見通しから来るのではないでしょうか。そういった「効率性重視」の価値観を土台として世の中を作っていくと、効率的にできない状況になったときやそういう状況だとわかったときに、「もうどうでもいいわ」という気分になりがちだと思うんですよ。人間ってそういうはっきりした弱さがしっかりあるでしょう?

ローコスト・ハイリターンを実際に為した人をみて、「自分はあいつのような良い目を見ることができない」と嘆いてすさんでいくのです。良い目を見ることが最上のものという価値基準を信じ切っているからそうなるのですけど、そんなの関係なく村上春樹的「小確幸」でもいいのですけど、日常のほんとうに些細な平穏だとか喜びだとかの重み・手触りをもっと信じていいのではないでしょうか。



国や会社も、この資本主義でグローバル競争でっていうシステムのなかで、個人を煽ります。もっと稼げ、効率的かつ合理的に仕事をしろ、そしてたくさん買え、と。欲望のままにふるまうのがいちばんだ、と経済学の偉い人が言ったのだから、その通りにせよ、と。でも、そういうのは人間として不自然なんです。それはひとつに、自制心を持つのも人間だからだというのもあります。

世の中、人間観・世界観についてあんまり考えないですし、議論の俎上にもほとんどのぼりませんけれども、そういった「人の原点」的なものを考えの的(まと)にするのは大切。だって、何事も人間観や世界観を起点に動くでしょう。個人的なふるまいにしたって、人付き合いの仕方、人との接し方も、人間観や世界観に規定されていますよね。

人間観や世界観を洗ったうえで、グローバル競争なり資本主義なりをやりなおせばいいのになあ。
そう、年の初めに思うのでした。
手持ちの札でやっていこうとできる人こそ、善く生きられそうではないですか。

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『九つの物語』

2024-01-10 22:41:51 | 読書。
読書。
『九つの物語』 J・D・サリンジャー 中川敏 訳
を読んだ。

アメリカの伝説的作家・サリンジャーの自選短編集。すべての短編がよく創られていると思いました。そのなかでも、特にお気に入りとなった4つの短編についてだけ、感想を書いていきます。


まず、「バナナフィッシュに最適の日」。
精神面がかなり危いところへ追いつめられている男・シーモアの話でした。その男の姓はグラスといいますが、サリンジャー作品にはこのグラス家について、数々の作品を用いながら連作というかたちで立体化しているそう。それも作家が成し遂げてきた仕事の中の大きな範囲を占めていると解説にあります。前に、『フラニーとズーイ』を読んだときはまるでなにも知りませんでしたが、『フラニーとズーイ』もグラス家の作品だったようです。
さて、作品自体は、表現重視で、枠内にとどまらないような創造をしていると読めましたが、構造としては最低限の要の部分を持っていて、それが自由な表現の筆致のねじを締めているようにも思いました。どうやって書いたのかはわかりませんが、本作は初稿の段階ではけっこう支離滅裂になりやすいタイプの作品のような気がします。それを、直しや推敲の段階で意味が通っていくように形作られていったのではないかなあと推測するところです。象徴的な部分だとか、印象的な部分だとか、そのちりばめ方は僕としては好みのやり方でした。


つぎに、「コネチカットのよろめき叔父さん」。
エロイーズとメアリー・ジェーンが久しぶりに再会し、エロイーズ宅で酒を飲みながら歓談している。エロイーズの小さな娘は妄想癖があり、メアリー・ジェーンは「たいした想像力よ」と言う。エロイーズは、昔好きだった男の死の真相をメアリー・ジェーンにようやく話し、そこから一気に心がくじけていく。最後の数ページがその場面で、内に宿していた苦しみや辛さを抑え込んでいられなくなり、それまで気丈でドライで皮肉屋だった姿が、ぐらっと反転します。急に壁が崩れて中身が見えてしまうみたいなふうでもあります。そこで、哀れみを誘われるというか、読んでいて「あなたも戦って生きているんだね」という気持ちにさせられるのです。それまでの長いメアリー・ジェーンとのやり取りからは、薄っぺらく生きているふうに見せている感じがするのだけれども、重くのしかかる人生から目を逸らせなくなってきているシーンが、ペーソスとなっていました。
「そうやってペーソスへと導くのか!」っていう、逆算して作ったよね? と思える話の流れがよかったです。積み重なっていったものが、主人公の心理がこらえきれず反転した時に、そのペーソスの下支えをしていました。
元彼との記憶。それが、とても大切なものなのがわかるのです。でもだからといって、「大切だった」なんて書かれていやしません、というよりも、そんなのを書いちゃいけないんです。でも、読み手にはわかる。そういう形として作品になっていて、そういう小説作法のようなものは書き手にとっての学びになります。

__________

「自分の女房は、ずっと前から男がそばにくるといつも吐き気がするほどいやだったんだ、なんて思いたがるのよ、亭主ってものは。あたし、冗談いっているんじゃないのよ。話す分にはかまわない。でも、正直にいっては駄目。決して正直にいっちゃいけないってことよ。もし、昔ハンサムな青年を知っていたといったら、すぐつづけて、ハンサムすぎてといわなくていけないわ。そして、気の利いた青年を知っていたといったら、己惚れ屋さんだとか、知ったか振りだった、とか言わなくちゃだめよ。そういわないと、機会をとらえるたびに、亭主にその男のことでがみがみやられるわよ」(p49)
__________

→サリンジャーは男性ですが、こういった女性世界での世知、賢さをよくわかっているなあと感心しますね。またそれだけ、女性たちがふだん、平気な顔をして生活していながらも、とても神経を使いつつ行動しているということを知っている人だった。ただ、「ちょっと待てよ?」というふうに引いた目で眺めてみると、これは現代においては男性世界にも言えることだということもわかります。男性も女性にたいして、正直に言っては駄目だったりします。がみがみやられますから。サリンジャーが活躍した時代においての、女性と男性の力関係の一面がしのばれる一場面でした。


「笑い男」。
こういう話が大好きで、もう最高でした。たかだか20数ページの分量を過ごす時間で、僕にとってはおおきく気持ちが温まり、潤う作品でした。10歳の少年が主人公で、彼を含めた同年代の少年たちを放課後バスに乗せ、野球やフットボールをさせたり、雨の日には博物館へ連れて行ったりする22,3歳の男がいるのです。この集まりをコマンチ・クラブといい、男は団長と呼ばれる。団長は子どもたちに、笑い男という即興話をたびたび聞かせるのですが、子どもたちはこの話の面白さの虜になっていて、団長が続きを話し出すと、集中して聞き入っている。そして、腹の底から笑ったり、おののいたりしている。そんな笑い男の話がたびたび大きく挟まりながら、団長に恋人があらわれてその人生模様を10歳の少年が、よくわからないながらも眺めていて、印象だけをつよくこころの刻んでいくような話でした。たくさんのユーモアやウイットの言葉が心地よく、少年たちが喉輪攻めをしあうなどくだらなさと童心に帰るようなほのぼのした感覚を得るところも多く、まあ一言でいうと、愉快。そそして、切なさもあって、ほんとうに好きな毛色の話でした。
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「あたし、遅れたかしら?」彼女は団長にほほえみかけながらいった。
 それはあたしは不器量かしらと訊くのも同然のことだった。
(p95)
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→団長の恋人の女子大生はきれいな人なのですが、ここでのこういう表現の仕方は好みです。うまく書くものだなあ。


最後に、「エズメのために――愛と惨めさをこめて」。
ノルマンディー上陸作戦から始まるドイツへの反撃前夜。イギリスで任務を待つアメリカ兵の男が主人公です。彼が教会でその姿をみとめ、その後喫茶店でおしゃべりをした13歳の少女・エズメ。長いおしゃべりのあと、必ず手紙を書く、とエズメに言われて別れた男。ほんとうならば短編小説家でありたいという主人公に、エズメは、自分のために小説を書いてくださらない、とお願いします。
本短編は二部構成なのだけれど、後半の、神経衰弱に陥った兵士の話では、そこにエズメからの手紙が出てくるのですが、「エズメのために」というタイトルから考えて、前半の主人公が書いた創作にあたるのかなと思います。

前半の、少女エズメそして弟のチャールズとのやり取りに力があるからこそ、それが後半部への「溜め」になっているんだと思いました。子どもたちの心理の動きが生きいきとしているし、そればかりか、彼らの挙動や表情、言動には理由や事情があるからこそ、といった造形がなされていました。作家(サリンジャー)が、自分が創る世界に深く潜行してこそのワザですね。
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エズメよ、彼は本当に眠たくなったのだよ。本当に眠たくなって眠れば、彼はそのうちに精神と体のあらゆる能力が無事な人間に戻ることができるのだよ。(p161)
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まさに、愛と惨めさを扱った、あたたかな短編へと完成する上記↑の締めくくりがぐっときましした。神経の疲労が激しいときって、寝て起きてというのはあくまで習慣的な行為にすぎず、本当に眠くなって寝て、本当の眠りを得られるという具合にはいかないものなんです。そのため、寝ているはずでも神経の疲労は回復しないどころか、ますますかさんでいきます。体験的にサリンジャーは知っているんでしょうね。これもまた、素晴らしい短編でした。


というところです。紹介した4つの短編が僕個人の好みを反映したものでしたが、その他の5つの短編もおもしろいのです。今月、柴田元幸さん翻訳の文庫版『ナイン・ストーリーズ』が発刊されたようですから、そちらを読んでみてもよさそうですね。


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2024年もよろしくお願いいたします。

2024-01-05 20:27:26 | days
年明けから能登半島で大変な災害がありました。
被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。

そのような時節ですが、当ブログ家主・ますく555から本年のあいさつをさせてください。

2024年も、これまでと大きくは変わらず、読書感想・書評を中心に更新していきたいと考えています。おそらく年50冊前後になります。また、公開できる範囲で、執筆した自作小説をアップロードしていきます。どうぞ、よろしくお願いいたします。

まだ、具体的な予定は固まっていませんが、文芸誌の新人賞を1つか2つ、応募したいです。それぞれ100枚から200枚くらいの分量になると思います。昨年以上に注力しなければ達成できませんので、心してかからねばなりません。昨年の9月に応募した文學界新人賞についてですが、風の噂によれば、こういった新人賞の最終選考まで残った人には電話連絡があるのだとか。その連絡時期が具体的にいつなのかはわからないのですが、もう締め切り日から3か月ちょっと経っていてその連絡がないのならば、個人的に最高の結果を出していたとしても、最終選考まで行かなかったということになるのかなあと考えているところです。まあ、3月に発売される文學界4月号に選考結果が掲載されますから、一次選考は通過したのだろうか、とまずそこを確認する運びになります。一次選考を通過することこそが難しい、という話もあるくらいなんですよね。堅い関門です。ちなみに、応募作品の出来については、エンタメではなく純文学という分野への挑戦でしたが、自信はありました。

エンタメ作品を書くにしても、もっと学ばないといけない面があります。シンプルに、エンタメ作品を読むことがそれにあたります。あとは、語り方と、読者を楽しませ、飽きさせない話の展開を高いレベルでやる技術ですね。また、新人賞に応募するならば、技術だとか構成だとかをかなり作りこまないといけないかなと思ったりもします。

純文学作品を書くならば、これももっと純文学作品に触れることが必要ですし、書く段になれば、表現というものを、まるで荒馬を解き放つみたいにして自由にさせてやりながら書くというような冒険的なやり方も必要だと考えています。それでいながら、文章一つひとつ、それ自体の強さ、美しさを追求することも必要だろうなと。

まず、今月半ばくらいまでには、どういうふうに原稿を書いていくかの計画を、ある程度決めたいです。応募原稿のための試行錯誤や実験という色合いの強いものにはなりますが、短編をここやnoteにあげていきますので、そのときは、よろしければお楽しみくださいませ(ほんとうは、「ぜひ、読んでみてください」と言いたいですけども)。

というところでした。

本年もよろしくお願いいたします。
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