Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

異性関係の「圧」

2024-11-30 23:58:26 | 考えの切れ端
これはあくまで、地味で穏やかな独身男性による空想からの思考実験なのですが。
しかしながら以下のような考え事が、小説執筆時の物語場面などに影響したりするんです。






「まさかあなたがわたしに不満を言うなんてことはありえないよね」とおそらく疑いなく考えているんだろうなあ、という、そういう種類の「圧」ってある。で、「何かあるならどうして言わないの!」とくる。わざわざ目に見える地雷を踏みに行きません。僕は日常に平穏を望むタイプです。

離婚はとても疲れるといいますけれど、こういう「圧」が張り巡らされている環境を打破することだからかな、と受け身の側に立って考えてみるとそう思います。ちょっと意見や提案を言っても、それを攻撃と受け取られて不機嫌になられてしまったりしがちなら、不満は避けたくなりますもの。「力関係で優位に立とうとするのは普通でしょ」っていう人が出しがちな「圧」なんじゃないかなあ。僕みたいな平穏な亀的人間からすると、マウントはできるだけ自覚してもらって、自覚したときは引っ込めてほしいのですよ。

でもって、こちらとしては我慢の限界があるから、気づかれないようにフェードアウトしていくのですよ。気づかせません。亀的人間ですから、私生活にはできるだけ波風を立てたくないのでした。


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『ガリレオ ――はじめて「宇宙」を見た男』

2024-11-25 21:52:19 | 読書。
読書。
『ガリレオ ――はじめて「宇宙」を見た男』 ジャン=ピエール・モーリ 田中一郎 監修 遠藤ゆかり 訳
を読んだ。

ガリレオの人物像とその時代を、カラー図画などをふんだんに使いながらコンパクトに伝える本でした。

キリスト教カトリック派の力が強大だった中世ヨーロッパ、聖書と齟齬をきたさないプトレマイオス説(天動説・地球が宇宙の中心で太陽をはじめ他の星はすべて地球の周りをまわっているとする説)と、異端視されるコペルニクス説(地動説・現在の太陽系観である、太陽が中心で地球もその周りをまわる星であるという説)が、どちらが正しいとも決着を見ていない時代にコペルニクス説を確信しつつ、実際に当時オランダで発明された望遠鏡の風聞を聴いて自ら光学を勉強しながら作製し、性能をアップさせたものへと改良していき、宇宙をはじめて肉眼以外で観測した人がイタリア人のガリレオ・ガリレイでした。

その観測によって、コペルニクス説の正しさを証明する明確な証拠をガリレオがつかんでいきます。木星に4つの衛星があること、金星の満ち欠けについてのことなどの観測からガリレオは考察を深めていったのでした。

しかしながら、妬みや嫉妬を持ったり、聖書に反するものの見方だとして旧来の秩序を守ろうと敵視してくる人たちがいます。それはイエズス会の神学者たちであったり、学者たちであったりしますが、その批判の内容は幼稚な言いがかりレベル(今で言えば、SNSの「クソリプ」のようなものかもしれません)のものだったりもして、ガリレオははじめこそひとつひとつ反論して打ち破っていったようではあります。

ここでちょっと、思ったことを書かせていただきますが、新しい思想というものは危険視されやすいものです。たとえばイエス・キリスト。彼は当時としてはまったく新しい思想を広めて同胞を増やしていき、それを危険視したユダヤ人の罠で裁判にかけられました。時代は下って中世ヨーロッパ。ガリレオは当時まだ主流のアリストテレスの科学を批判し地動説を支持し、キリスト教カトリックによる裁判にかけられました。キリストがかけられた罠を、その信者たちが、かつてのユダヤ人たちがキリストに対してしたのと同じように「新しい思想の排除」のため、ガリレオにかけた。皮肉が効いているというか、ミイラ取りもミイラになるというか、やっぱり内省や自己批判などが大切なのではないだろうか、と思うなどしました。

そうなんですよね、有名な話ですがガリレオは最後には異端裁判にかけられて、アリストテレス科学を暗に批判した書物などは禁書とされ、自らの信念ともいうべき地動説も捨てさせられます。ガリレオが異端裁判にかけられる一昔前には、ブルーノという人物がやはり地動説を支持したことを罪とされて火刑に処されています。ガリレオが禁固刑と、その後の監視処分で済んだのは(それでも厳しい処分ですが)、僕がこの本から感じ取るに、その対人関係の誠実さと柔らかさにあるような気がします。あからさまな敵への反論でも、感情的な文面で返していません。相手に対して、丁寧に説明し、責め立てて追いつめたりもしていません。そういった人間的な性質が、「ガリレオだから、火刑はきつすぎるか」とためらわせたのかもしれない。また、科学に明るい枢機卿や貴族との強いつながりを持っていたので、そういった処世的な柔らかさが自らの命を救ったのかもしれない、とも考えられると思います。

ガリレオって、愚直で、一歩一歩確実に歩いていくタイプだったぽく感じられるんです。だけれど、その歩みは日々続けられ、重い一歩が着実に積み重ねられて、常人との大きな差となっていったような感じがしました。天才的な飛躍だとか、軽妙なひらめきだとかはあまり感じられないほうですね。ただ、偏見や既成概念に捕らわれない人だとは言えそうです。なんていうか、ちゃんと世間の中にいる科学者です。象牙の塔で自分だけ最先端へ行っちゃうタイプではなさそうです。


最後にひとつ、引用を。
__________

コロンベが味方にしようとしたのは、まったく別の種類の人間、つまり無学で、口汚く、攻撃的で、「信仰の番犬」を自称する人びとだった。(p77)
__________

→コロンベという人物は、なんとしてでもガリレオをやっつけようと、仲間を集めてガリレオを非難する小冊子をつくってばらまいたりしています。しかし、取るに足らない内容で、ガリレオと彼の協力者たちは笑い飛ばしたと本書にあります。コロンベのような、ただ、当時の人びとに内面化されていた旧来の秩序を頑として守りたいだけで、新しい思想や発見を吟味する知性もない人がやるのが、上記引用のような仲間集めなのでした。これは現代にも通じている行動様式ではないでしょうか。怖いのは、そういった力が、終いにはガリレオを異端裁判へと向かわせていることです。コロンベのような困った人たちであっても、どうにかして説得するなどして包摂しないといけないのだろうか、と考えてしまうところでした。



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『人類と気候の10万年史』

2024-11-22 00:34:42 | 読書。
読書。
『人類と気候の10万年史』 中川毅
を読んだ。

古気候学者である著者によって、地球気候の最新10万年ほどの様子を福井県・水月湖に堆積した年縞などの解読を用いて解説しながら、そのメカニズムを解析するための挑戦的考察が語られます。

地球の気候変動というのはとてもダイナミックで、人類が登場してからでも海面の高さが100m以上変動するような事件が繰り返し起こってきたそうです。大きく、氷期と間氷期というように、寒冷期や温暖期が区別されますが、そこで働いている力が何かについて大きな示唆を与えたのが、およそ100年前に唱えられたミランコビッチによるミランコビッチ理論なのでした。

ミランコビッチ理論は、地球の公転軌道の変化によって、地球と太陽の平均的な距離が変化することで気候変動が起こる、とするもの。公転軌道が円に近い時期は太陽との平均的な距離が大きくなり、扁平な公転軌道のときには太陽との平均的距離が小さくなります。前者は氷期で、後者は間氷期にあたり、約10万年周期で繰り返しているそうです。この変化にくわえて、地軸の傾きの変化を考慮すると、過去の気候変動にさらに理由がつけやすくなるのでした。

ミランコビッチ理論は、天文学と気候学を結び付けたことでとても大きな功績がある、とあります。当時までの考えの範疇であったその壁には外があるんだということにはじめて気付かせたようなものだったのかもしれません。

本書前半部分では、ミランコビッチ理論を大きく扱いながら、カオス理論(ここで用いられたのは、ランダムなプログラム上でも、それぞれがバラバラな乱雑期と、歩調が同期する安定期があって、それらはトータルでカオス遍歴と呼ばれること)とも照らし合わせて気候変動のメカニズムを探っています。

そして後半部分からは本書の主役である福井県・水月湖の湖底に溜まる堆積物をボーリングして得られた詳細な年縞データに焦点をあてて、年縞研究の歴史からはじまり水月湖が世界のスタンダードの資料となるまで、そして、そこから見えてくる鮮やかな古気候の様子が語られます。前半部もエキサイティングなのですが、後半部からもぐいぐい読ませてくれる読み物になっています。

さて、ここからは雑学的部分をひろっていきます。

全球凍結という過去に地球がすべて凍結した時期がありますが、それを打破したのは火山活動だったらしいことが述べられていました。凍結状態によって白い地表面は太陽熱を跳ね返して地面が熱を保持することもありませんでした。そうして寒冷化がさらに進んていった中、火山活動で出る二酸化炭素が地球を暖めたようです。排出された二酸化炭素を吸収する植物はなかったしおなじく二酸化炭素を吸収する海洋は閉ざされていました。それで次第に濃度が増していき、温室効果が得られていった、と。

全球凍結状態での人類の生存は厳しいですが、逆に長い地球の歴史上で何度もある温暖期は、温暖化と言われる現在よりもさらに平均気温が10度も高かったらしいです。どでかいトンボなんかが滑空していた時代で、その気持ち悪さや恐怖のせいではないけれど、これだって人類の生存は厳しそうではないでしょうか。

現在の地球の気候はこれでもまだ寒冷期の範囲に入るみたいで、すなわち寒冷期に特化して繁栄した生き物が人類だから、そのうち地球のダイナミックな気候変動に適応できず淘汰されないかな、と悲観的な想像が浮かんできました。戦争で、とか、小惑星で、とかを待たず、地球の気候のリズムが理由で滅ぶ、あるいは大打撃、というシナリオです。

以下は箇条書き的に。

◇水って4℃のときが一番重いとのことでした。それよりも温かいとき、冷たいときは、4℃のときに比べて軽いのでした。4℃の名を冠したブランドはこの特徴に意味づけしてるでしょうね。

◇現在の温暖化は、人間活動によるものだと言われますが、その起源は産業革命にある、という主張を聞いたことってありませんか? これが実は、人間が農耕を開始し森林を伐採しだした時期からだそうなんです。かなり古くから温暖化を促進させているんです。そのせいか、数千年で終わることの多い間氷期が終わらず、1万年以上も温暖な気候がいまも続いています。これには、2万年以上続いた間氷期があることが最近わかってきていて、単純に数千年のパターンに当てはまらないことがわかってきたそうです。

◇IPCCによると、今後100年間で5度の平均気温上昇などと言われています。これが、過去の気候変動の様子だと、変わるときはわずか数年で5度や10度上昇したようなんです。自然な気候変動ってまさに激変してみせるようで、なかなか容赦がないなあと思いました。


最後に、これは、と思った箇所の引用を。
__________

歴史的に見ると、ほとんどの古代文明は1年の不作であればなんとか対応できるだけの備蓄を持っていた。だが、不作が2年続いても耐えられる文明は少ない。3年以上連続する不作は、現代の日本ですら想定していない。だが、現実問題として、歴史に残るような大飢饉の多くは、天候不順が数年にわたって容赦なく続くことによって発生しているのである。(p177)
__________

→江戸時代の、天明や天保の大飢饉は上記のような天候不順によっておこったそうです。冷夏が5年以上継続したとのこと。


とここまで書いても、まだ本書には盛りだくさんなトピックと、それぞれのトピックを深掘りした考察にあふれていて書ききれません。講談社科学出版賞受賞作でもあり、読み応え十分だったので、気候のメカニズムの最新知見についてちょっと興味を持たれた方はぜひにと思います。




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『R62号の発明・鉛の卵』

2024-11-19 22:42:29 | 読書。
読書。
『R62号の発明・鉛の卵』 安部公房
を読んだ。

20代半ばで芥川賞を受賞した安部公房が、30歳前後に書いた12の短編を収録した作品集。

どれもシュールで実験的で、ユーモアやウイット、アイロニーに笑わせられる場面もちらほらあります。毒が盛られたような内容の話であっても、おかしみを感じさせるシーンをちゃんと作られているため、シリアスになりすぎずに、フィクションの中身と適度な距離を保ちつつ、楽しめるのでした。また、そこのところをちょっと角度をかえて考えてみると、たまに水面に浮かんでくるあぶくのように、ここぞのところで効果的に滑稽さが仕組まれているからこそ、これは小説つまり虚構なのだ、と読む者は踏まえることができるんだなあ、とひとつ気づくことになりました。知的な距離感を構築するような文体と構造なのかもしれません。

巻末の解説を読むと、人間中心主義から180度翻った位置取りを作家は取るスタンスだというようなことが書いてあります。戦後すぐのころのアヴァンギャルドの思想がそういうものだったようです。だから、「棒」ではデパートの屋上から落ちた男が棒になったり、死のうとしていた男がその死と引きかえにロボットにさせられる契約を結ぶ「R62号の発明」など、人間と無生物が架橋されて物語られている。つまりは、人間も無生物も、そして「犬」という人間の言葉がわかり人間に勝るような犬がでてくる話もあるように、動物も、三者が対等(等価値)なものとして小説のパーツを為しています。そして、それらが、現代の読者である僕にとっても、相当おもしろいのです。

また、校長とケンカして前職場を去った男性教師が田舎の学校に呼ばれるところから始まる「鏡と呼子」は、その後の長編『砂の女』につながる作品だと思いました。パッケージと視点が違うだけでメカニズムは同じです。田舎の人たちが持つつよい猜疑心を見抜いていて、そこに確信があります。

本作の最後を飾る「鉛の卵」も秀逸です。1987年に冬眠装置にはいった男が、機械の故障によって目覚めたのは80万年後の世界。そこのところのとても大きな飛躍を、作家の豊かな想像力と、それを地に足をつけさせる論理力で、夢中になって読ませるものにしています。

すべての作品が、荒唐無稽でありながらも読むものの心をとらえます。そんなのありえない、と鼻で笑えそうなのに、「でも、待てまて、なにかがそこに、確かに存在している」感じがはっきりとあります。だからこそ、優れた短編小説なのでしょう。文体もきりっと締まっていて、すばらしい見本のようでした。




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『LGBTを読み解く――クィア・スタディーズ入門』

2024-11-06 00:05:16 | 読書。
読書。
『LGBTを読み解く――クィア・スタディーズ入門』 森山至貴
を読んだ。

性的傾向の少数派のひとたちのなかでも、レズビアン(L)、ゲイ(G)、バイセクシャル(B)、トランスジェンダー(T)という比較的知られている傾向のタイプから頭文字をとって「LGBT」とよく呼ばれます。しかしながら、性的な傾向、それは自身の性に対する違和感のあるひとがいますし、いわゆる男らしさのつよい男もいれば、女らしさのつよい女もいるわけですし、性愛対象も、男⇔女という異性愛に限らず、男⇔男、女⇔女があれば、肉体は男でも性自認は女で性愛対象は女という傾向の人もいるわけです。

つまり、LGBTと言ってしまえば、性的少数派をすべて網羅して言ってしまえていることにはならない。反対に、LGBTという言葉に性的少数派というバラエティの豊かさが無視され単純化されて押し込められてしまう危険性すらあります。……ということをまず考えさせられてスタートする本でした。

また、スタートラインとして踏まえておくべきこととしてもっと大切なものが以下の引用です。
__________

意外かもしれませんが、セクシュアルマイノリティを見下す心が見え隠れする人がよく使う枕詞は「私はセクシュアルマイノリティに対する偏見を持っていませんが……」です。曲者なのは最後の「(逆説の)が」で、当然ながらその後に続くのは質問や疑問の体を取ったセクシュアルマイノリティへの否定的な言葉です。それが否定的なニュアンスを持つものだからこそ「偏見ではない」前置きで宣言するわけですが、宣言すれば「偏見」でなくなるわけでは当然ありません。文句は言いたいが自分が「善人」であることは手放したくないという本音が透けて見えている辺り、むしろ痛々しくすらあります。(p7-8)
__________

→善人でありたいという希望ではなくとも、自分は模範的な人でありたいだとか、正しい人でありたいだとか、また他の分野ではそうやって自分を律して正しく生きてきてなかなかうまくやってこれた人が、この性的な分野では対応できない、ということもあるのではと思います。対応できないくらいややこしくもあるし、生まれた時点からの家庭環境や社会環境などの影響から植え付けられた鋼鉄の先入観もあると思います。セクシュアルマジョリティのひとは、だからこそかなり自覚的にならないと、意図せずとも差別してしまったり、差別意識に気付けなかったりするでしょう。僕も思い当たります。今ここで、女装をして女性らしいふるまいをする生殖的に男性の人と会話するようなことになったら、たぶんけっこう混乱してしまいます。まず、セクシュアルマイノリティの人たちの知識がなく、会った経験がほとんどないので、ここまで生きてきた社会の流れ・慣例をベースに行動してしまうようなオートマティック性が働くだろうからです。だから、やっぱり、知って、学んで、ということは大切なんですね。

また、p33に構造的差別という言葉が出てきますが、差別は人々の「心」の問題ではなく社会構造の問題だ、というのがその意味です。男らしさや女らしさを求め、異性婚しか認めない、というのは、社会の構造から来るものです。そういった前提を疑うことで割を食う人が減り、社会が滑らかになっていくきっかけが生まれるのがこういったセクシュアルマイノリティの問題へのアプローチの仕方なのではないかとも思います。うまくこういった問題に取り組めれば、社会はもっと角が取れたものになるかもしれない、なんていうイメージが湧きます。

さて、この問題から生まれたクィア・スタディーズという学問分野・批評分野があります。クィア・スタディーズには三つの基本的な視座があります。それは「差異に基づく連帯の志向」、「否定的な価値づけの積極的な引き受けによる価値転倒」、「アイデンティティの両義性や流動性に対する着目」です。その解説については本書やネット検索に譲るとしますが、アイデンティティの流動性については、一言残します。

アイデンティティの流動性を保持し自由度を高めることが大事で、アイデンティティを固定化し一つところに繋ぎ止めて流動性を否定する風潮に異を唱えるのが、クィア・スタディーズの姿勢のひとつなのですが、これにはとても賛成です。アイデンティティがあってその上にイデオロギーや価値観が乗っかるのではないかと考えると、なおのことアイデンティティの流動性を認めることをつよく言っていきたい気持ちになりました。

人が変化すると、変節だとか矛盾だとかの言葉を突きつけてその人を見下したり批判したりする風潮はつよいです。それはあまりに人間を枠にはめた思考からくるんじゃないでしょうか。枠にはめておくと情報処理面で楽ができますから、もう変化するなよという抑圧といったらいいでしょうか。いやいや、そこで楽をしないことは人生に不可欠のコストではないのだろうか。ただまあ、ころころと変化する人は詭弁や欺きを用いているということがあるから、騙されたくない心理の強さが関係してるところはあるかもしれないですが。

というところで。

セクシュアルマイノリティについて知ろうとし、できるだけ理解したいという姿勢を持とうとすること。それは、個別性というものを知っていくことですし、まず人の個別性に目を向けて考えていこうという考え方のクセをつけることでもあるかもしれません。集団社会のなかで他者に無関心な姿勢で生きていると忘れがちになりそうな、「ひとりひとりは違う」という大前提を忘れないことが、マイノリティの人たちの生きづらさを軽減する方法の大きな一つではないかな、と気づかされました。「ひとりひとりは違う」というのは、セクシュアルマイノリティのことに限らず、精神医学的なパーソナリティ障害のタイプから見えてくる個人それぞれの傾向というのもありますし、パーソナリティ心理学の本を読むと知ることができるようなさまざまな心理的な部分の個性的傾向というのもあります。

こういった、人それぞれの個別性を考えていくことは、すなわち人中心、人優先で世界を考えていくことに繋がっていくでしょう、社会中心、資本主義中心、国家中心のメンタリティが優勢かもしれない今日のありかたへのカウンターとなって。現今の社会というのは、個別性を考えず、集団の構成要素としてできるだけ同じような人たちを求めるところがあります。もう少し言うと、人は皆あまり深く考えずに、作業なり仕事なりにいそしめ、という経済偏重のありかたがそれです。想像するな、というわけです。想像したり考えすぎたら動けなくなるから、想像するなというわけですけれども、それはそれでひとつの生きる方法として使える姿勢ではあります。でも他方、想像しないからこそ戦争が起こり、他者への想像を排した人間が戦闘を行えるんですよね。だから、「想像してごらん」と歌う歌が支持されたわけでして。

僕の今年はどうやらこういったあたりをよく考えるような星のめぐりのようです。深く考えずに読んだ本が、こういうかたちで繋がってゆくのでした。




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