Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『みどりのゆび』

2022-12-28 21:15:04 | 読書。
読書。
『みどりのゆび』 モーリス・ドリュオン 安東次男 訳
を読んだ。

60年近く前に翻訳された、フランスの童話。著者のドリュオンは小説『大家族』で有名な文学賞であるゴンクール賞を受賞した作家です。

小学校低学年の年齢に当たる少年チトは、町の大金持ちの両親やその大きな家で働く家政婦や庭師のおじいさん、両親の工場で働くかみなりおじさん、そして馬たちに囲まれて生活しています。学校へ通うことになると、まるでそのシステムに適応できず、すぐに退学することに。両親の指示によって庭師やかみなりおじさんに物事を学んでいくことになるのですが、そのうちに自分の家が武器工場だと知ることになります。

中盤までは横へと筋が流れていくお話だったのが、中盤からはそれまで語られた世界や人びとを濃く描くことによって物語の深みが増していきます。さながら、解像度を上げた部分を端的に、詩的な種類の言葉で語るというように。そういったクローズアップする技法だけではなく、物語の展開にも、ちょっとだけ哲学的なエッセンスを盛り込んだり、物事をフラットに見ることでわかってくる「そもそもの基本」に立ち返る考え方によって物語を通じて現実のベールをはがしてみたりしています。そういうやり方が、物語をおもしろくするんですね。

ネタバレになりますが、最後には、主人公・チトの属性が人間ではないものとして描かれます。チトが考えたこと、成したことを人間のままとしての行いにできなかったところに、著者の「人間への少しばかりの諦念」があったかもしれません。そこまで利他的で博愛的でみんなを幸せにしてしまう存在が、子どもだとしても人間であることに、現実をよく知るであろう作家の目にはほうっておけない食い違いが見えたのかもしれません。

さて、最後に訳者解説から、再び技法についての引用を。

_______

フランスの童話には、ひとつの特徴があります。おはなしの、筋よりもきめこまかさ、詩的なふんいきやことばのおもしろさを、たいせつにすることです。そしてそれらをうまく使って、まるで宝石のような、うつくしい文章をつくりだすのです。 (p213 訳者解説より)
_______

僕が物語を書くとき、それも最近の何作かを思い浮かべてなのですが、横の流れであるいわゆる「筋」と、その場その場で立ち上る縦の「味わい」を、意識して書きはしています。でも、そこにぎこちない部分があるというか、まるで数本の竹ひごの骨だけで簡素に組み立てた模型のような感じがちょっとします。肉付けや試みという点で、自分としては物足りないわけです。もっと自由にいろいろとやって楽しめばいいのに、どうもしゃちこばる(まあ、やれている要素もけっこうあるにはあるのですが)。たぶん、創作に使う時間がぎりぎりだからだろうな、と思いますが、そこは二倍の時間がかかったとしてもやっていくといいのではないか、と今回、本作品に触れて、そう感じました。

というように、物語世界を楽しみながらの、学びのある読書になりました。……よき。


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不安に蝕まれないために、孤独であっても持ちたくない孤立感。

2022-12-26 22:46:07 | 考えの切れ端
世の中全体、つまり世間一般的な多くの人たちはさまざまな不安を抱えながら生きています。その不安が強迫観念を生んだり、なんでもない他者の言動に悪意を読み取るなどの認知の歪みを生んだりします。そして不安は、個人を苦しめるばかりか、世の風潮や空気までをも強迫観念的な状態へとつくりあげているように僕には見受けられるのです。

<不安ってどこから来るのだろう?>
不安はほとんど孤立感によってもたらされる、といいます。

______

人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。こうしたことのすべてのために、人間の、統一のない孤立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人びととなんらかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう。孤立しているという意識から不安が生まれる。実際、孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。孤立しているということは、他のいっさいから切り離され、自分の人間としての能力を発揮できないということである。したがって、孤立している人間はまったく無力で、世界に、すなわち事物や人びとに、能動的に関わることができない。つまり、外界からの働きかけに対応することができない。このように、孤立はつよい不安を生む。  (エーリッヒ・フロム『愛するということ 新訳版』p23-24)
______

ここにさらに別方向からも、どうして孤立感は不安を生むのか、と考えてみます。思いつくのは、孤立してもなお一人でやっていける自信を持つ人なんてまずいないから、というのはあるのではないかということです。だからフロムの言っていることと合わせて考えてみても、他者と繋がり、相互に依存しつつ生きていくというのが最適解になるのだろうという一つの答えが導き出されます。

<「脱孤立感」のために。>
他者と繋がるには人を信じる力が要ります。信じられない他者とは有益な意思疎通や情報交換を望むのはなかなか難しいです。人を信じてこそ、言葉も信じられます。人を信じるには、他者がどういう人かを知る洞察力が要ります。だけど、出合い頭の洞察力だけでは洞察の精度は低い。ですからさらに、他者を知るための情報探求力が要るのです、他者の情報を多く集めてから洞察するために。
くわえて、洞察の一般的な基準となるものさしを知るために、自分が知りたい特定の他者の情報だけではなくて、世間一般の他者全般について、常識的な範囲やスタンダードな感覚を知るための情報探求も要ります。

他者と繋がること、そのために他者を信じること、さらにそれ以前に他者を知るための洞察力と探求力が要るというわけなのです。
ということは、裏返しにしてみると、洞察不良な人が他者を信じられなくなるのが論理的にわかることになります。洞察不良は認知の歪みからくるといいます。そして認知の歪みは不安からくるといわれますし、その不安は孤立感からきます。

つよい孤立感を持ってしまってもなお土俵際でねばれるように、次の一手を打ち逆転してくためには、ちょっとでも自分に自信があったほうが良いのです。孤立感に陥っても、自身に対する健全な範囲での自信を持っていれば、少しの間、その孤立感に耐えられて、孤立感を打破してくためのアクションを起こせる体力のようなものが残されているものなのではないか。

<ひとりきりで「自信を持とう」として陥る罠。>
自信がない人が自分でする処方箋が、権威を信用すること。自分での判断に自信がないので、自分が尊敬できる人に聞いただとか、ニュース番組で見ただとか、新聞や本で読んだだとかいった情報を信用して、絶対的とでもいえるような地位にそれを置き、寄り掛かるのです。
これは不健全なやり方で、ますます自分を信じられなくなる傾向を強めると思われます。つまり観念的なんです。実際に目に見えている現実よりも、他者から与えられた観念のほうが正しいとするのですから。喩えるなら、ほかほかのご飯を目の前にしても、誰かが権威的に「これは蝋細工だ」といったなら、その人は、これは蝋細工でできているから食べられない、と本気で思いそう行動してしまうような感じでしょう、極端ではありますが。

<「健全な自信」のため、コフートの自己心理学を用いる。>
では、健全に自分に自信を持つようにする、それも無理なくするにはどうしたらよいか。それには幼少時の父母からの声かけが大きな意味を持ちます。となると、大人になったら無理なのか、とお思いになるでしょうけれども、大人になっても友人などの声かけで効果が望めます。これにはコフートの自己心理学の考え方が使えるのでした。(コフートの自己心理学はフロイト学派から枝分かれしたもので、米国では主流のひとつに数えられる精神分析の手法です)

「鏡」「理想化」「双子」というのがコフートの自己心理学における考え方の三つのカギです。

「鏡」は、「すごいねえ」だとか「えらいねえ」だとかと褒めることで自己愛を支える仕組みのことをいいます。褒められることで自己愛が育ち、ずんずん挑戦する心が育ちます。

「理想化」は、たとえば子どもがテストで低い点数をとってしまったときや、いじめにあってしょげているときなどに、主に父親が「おまえは俺の子なんだから、頑張れば必ず成績は上がるよ」だとか「父さんみたいに強くなって、いじめたやつらを見返してやればいい」などと励ますことがそれにあたります。父親に権威があり、尊敬に値する存在だからこそ成立する仕組みであり、こうして子どもの自己愛が支えられるのです。

「双子」は、父親や母親よりも「親友」のような立ち位置の人からのふるまいによって効果があるようです。それは、自分がくじけたときに「俺だってよくくじけるさ」などと言ってくれることで、自分だけがダメなんじゃない、という気持ちを持てることで心が安定するのです。「自分はみんなと同じ存在」と思えることが大切なんだ、という概念なのでした。

理論上、これらを用いることによって自己愛が支えられることにより、自分自身に自信が持てるようになっていく。そうなれば、不安というものも、不健全なまでの量や深さまで抱えることも、かなり少なくなるのではないでしょうか。

<「人生って良いなー」と思うために。>
そうなれば、個人の生きやすさは向上し、つれて世の中の風潮の健全さも増すのではないか、そう僕は考えるのでした。
仕組みといいますか、道筋といいますか、そういったものは以上のように説明できます。ただ、人間は多様でいろいろな方がいるものです。様々な精神的傾向があり、医者にかかっていなくとも病の領域に足を踏み入れている方も珍しくありません。
それでも、健全さが広まっていって、世に「人にやさしい機運」が高まれば、少しずつ、生きづらさが解消されていく人は増えると思うのです。
ほんとうにちょっとずつでも、幸福感やQOL、いえ、そういう言葉を使わなくても、「人生って良いなー」って思える総時間が増えていけばいい。そう切に願いながら、本稿を書かせていただきました。
他者の役割ってものは、ほんとうに大きいですね。



参考文献:エーリッヒ・フロム『愛するということ』
     亀井士郎 松永寿人『強迫症を治す』
     和田秀樹 『自分が「自分」でいられる コフート心理学入門』
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『コフート心理学入門』

2022-12-23 20:01:09 | 読書。
読書。
『コフート心理学入門』 和田秀樹
を読んだ。

フロイトが興した精神分析学。その系譜にありながら人生の後年、独自の発展をさせた心理学の手法を考え、そして残したコフートの心理学について解説する良書です。とてもわかりやすいうえに、中身がしっかりしていました。

コフート心理学は日本ではあまりなじみがありません。とくに心理学や精神医学の素人である僕にとっては聞いたことのない名前だったりしました。しかしながら、アメリカでは主流の精神分析学として現役の手法なのだそうです。反対に日本は、フロイトの手法に固執してしまっているところがあり、こういった発展した精神分析をあまり取り入れていない風です。

さて、一般に精神分析のカウンセリングは、神経症(不安症や強迫症など)には使えても精神病(統合失調症や躁うつ病など)には使えないとされています。さらに、それらの間に位置するようなパーソナリティー障害にもカウンセリングは適さないとされてきましたが、コフートの精神分析であれば、パーソナリティー障害にも使用できるのでした。

パーソナリティー障害には、境界性、演技性、自己愛性などがあり、本書ではとくに自己愛性をとりあげて解説されていました。では、自己愛性パーソナリティー障害の症状とはどのようなものか。それは次のような例だそうです。

ちょっと注意をしたり、間違いを指摘したりすると、それを悪意として読み取ってしまうらしく、すぐに怒り出してしまう。これは自己愛が傷つきやすいためだそう。このような反応といいますか、応答のようなものをしてしまうのが「自己愛性パーソナリティ障害」。僕の周りでも家族以外でこういう人がいますね。家族だとうちの親父もこの症状の範囲にあると思います。というか、注意や指摘などをしてくる相手によっては、僕もいら立ったりしますが、これも自己愛におそらく関係している。また、「自己愛性パーソナリティ障害」の人は、空気を気にするそうです。それでいて、自分の都合で周囲の人をないがしろにする。そういう人は、人間関係に苦労しますし、周囲も苦労したりするでしょう。つまり生きづらい。だからこそ、コフートの自己心理学によるカウンセリングや精神科などでの治療を試みたほうが楽になれると思います、決意はいるでしょうけれども。

自己心理学は「共感」「依存」が主要な要素としてあります。依存なんていうと、よくないイメージがあるものですが、健全に依存しましょう、というんです。「共感」「依存」の理論のなかでの主要な概念に「鏡」「理想化」「双子」の三つがありました。以下、見ていきましょう。

「鏡」とは、幼少期だとおもに母親がなるもので、たとえば子どもが初めて一人で立つことができただとか、テストでよい点を取って帰ってきたといったときに、「すごいねえ」だとか「えらいねえ」だとかと褒めることで自己愛を支える仕組みのことをいいます。褒められることで自己愛が育ち、ずんずん挑戦する心が育ちます。これは野心が育つともいえることで、「野心の極」とコフートは名付けたそうです。

次に「理想化」ですが、たとえば子どもがテストで低い点数をとってしまったときや、いじめにあってしょげているときなどに、主に父親が「おまえは俺の子なんだから、頑張れば必ず成績は上がるよ」だとか「父さんみたいに強くなって、いじめたやつらを見返してやればいい」などと励ますことがそれにあたります。父親に権威があり、尊敬に値する存在だからこそ成立する仕組みであり、こうして子どもの自己愛が支えられるのです。これを、コフートは「理想の極」と名付けました。

後年追加された概念が「双子」です。これは父親や母親よりも「親友」のような立ち位置の人からのふるまいによって効果があるようです。それは、自分がくじけたときに「俺だってよくくじけるさ」などと言ってくれることで、自分だけがダメなんじゃない、という気持ちを持てることで心が安定するのです。「自分はみんなと同じ存在」と思えることが大切なんだ、という概念なのでした。

本書では、ざっくりとではありますが、心理の多方面をあますことのないくらいに自己心理学で補填する項がたくさんあります。すべてご紹介するのは難しいので、いくつか引用しながら解説して終わりとします。


__________

精神疾患の中には、心の歪みが認知の歪みになって表われるものがあります。抑うつ状態の人なら、妄想にとらわれて「お金がないので、もうすぐ自分は破産してしまう」などと話すこともあるでしょう。でも実際には貯金もそれなりにあり、病気を治して職場に復帰すれば、そんな考えも消えて、問題なく生活していけます。(p71)
__________

→この「お金がないので……」は貧困妄想ともいうはずです(僕の父親にはこれがあり、時折さわぎます)。こういった認知の歪みは認知療法で解決を試みるとよいと言われます。他にも森田療法が例に挙げられていましたが、認知療法とともに、コフートの自己心理学のカウンセリングとの近似性があると指摘されていました。


__________

さらに問題なのは、行動に表れない心の中までパーフェクトを求める風潮が強まっていることです。人間は誰でも内心に邪悪さや欲望を抱えているので、誰かにイヤなことをされて頭に来れば、先ほどの話のように「あいつをブッ殺してやりたい」とか「死ねばいいのに」などと思うこともあるでしょう。それを本当に行動に移してはいけませんが、心の中で思うだけなら何の問題もありません。学校の教師が淫らなことをしたいという願望を持っていたとしても、実行しなければいい。そういう「ダメなところ」も含めてその人の自己が成り立っているのですから、「そんなことを考えるだけでも許せない」と否定されてしまったのでは、心の安定は保てません。(p134)
__________

→「あのひと、何考えてるかわからないわ」なんて訝しげな目をしてみたり怒ったりする人がいます。ですが、他人が何を考えてるか想像がつかないと不安だという心理がそこにはあると思うのです。ただ、そのあたりもグラデーションの領域で、「何を考えてるかわからない」と警戒したほうがよいパターンもあれば、「心の中まで潔癖じゃないと信じらないし、そんな人はふつうの人間ではない」とするような行き過ぎの、人間の心の中まで完璧を求めてしまう間違ったパターンもあるでしょう。本書で指摘されているのは後者の部分です。

もうひとつ。心の中で「あいつをブッ殺してやりたい」とか「死ねばいいのに」というのは普通でも、行動に移せばアウトだというのは多くの人がわかることだと思うのですが、たとえばそれを感情をこめて口にした場合はどうなのだろうと思いませんか。一般的にもそうだと思うのですが、僕の考えでもそれは精神的暴力になるので良くありません。第三者に「あいつ死ねばいいのに」と愚痴をこぼす場合でも、言い方次第で第三者の心を傷つけてしまうでしょう。どうしても第三者にこぼした場合なら自制して抑制した状態でこぼしてほしいですし、どうしても感情とともに吐き出したいときは、第三者の方向へ向かないことに気を付けて、あらぬ方向へ吐き捨てる感じで言ってしまうのが無難なのではないでしょうか。


__________

そういう周囲への同調のことを「追従」といいます。(略)そのため、自分には黄色に見えているものを、周囲の人々が「いや、これは赤だよ」「なんでおまえだけ黄色に見えるの?」などといわれると、ほんとうに赤かもしれないと思えてくるといいます。これが、「人間を錯乱状態にするいちばん簡単な方法」だという専門家もいます。長さや色彩といった単純なものでさえそうなのですから、物事の価値や意味といった曖昧なものについては、なおさら周囲の影響が強くなります。
(p146)
__________

→これは僕の場合、前職場でありました。こっちでは、これはこうだ、と確信していても、新入りで立場が弱いために、古株たちの否定と押し付けに屈せざるをえない状態になるとなお追従させられて、混乱・錯乱してしまうわけです。頭ごなしの否定がよくないんです。具体的には僕の場合、レジ操作がそうでした。古株たちが各々のやりかたでやっていることがあり、教えてもらっても、その都度否定されたりするわけです。いや、そんなんじゃない、こうだ、と言われて、次に別の人の時やると、そうじゃない、みたいな。これは職場での統一がなっていないという問題が大きいでしょうけれど、混乱や錯乱で頭を痛める原因になります。

と、自分に寄せた解説になりましたが、以上です。巻末にもありますが、このコフート心理学の理論は一般人同士でもやれることです。もっというと、他者のことを丁寧に考えられる人ならばやれていることだったりします。こういう理論は多くの人に広まるといいです。そうしたら、みんながみんな、人間理解が深まるし、生きやすいだけじゃなくて生産性が高まる社会になるのだろうなと思います。


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『クリスマス・イヴの夜』(自作小説)

2022-12-20 19:46:12 | 自作小説15

 真っすぐに落下してくる湿った雪片の数々が、ほんの少しだけその落下の軌跡によって街をモノトーンに近づけた、その様を僕だけは見逃さない。
 各々の商業ビルのウインドウから放たれるあらゆる彩色は、この先、冬が深まるにつれて次第に嘘寒くなり生気を薄めていくのを僕は知っている。支配的な立場になる黒や白やグレーといったものたちが、かすかな音すらも立てずに僕ら人間たちのこころの領域の内部まで侵食してくるからだ。それは間断なくあっという間に。わずかなたくらみだって感じさせずに。
 ある一線を越えるとやつらは、パンを浸したミルクのように音もなく、瞬間的な速度で世界に浸みわたって自分たちの支配下としてくる。無彩色のみを構成要素とする思想のようなものが、それまでの王の一族にとって代わり王座につくのだ。
 元号が変わったり、首相が交代したり、転勤になったり、新学期が始まったり、運命を感じる人と出合ったりといったようなはっきりとした転機じゃない。ごく秘密裏に、意識の暗渠のようなところで進行する物事だ。それでいて、侵攻のスケジュールはほぼ明確なものとして予定されているのだった。僕らはやつらの、罪な行為だとは言い切れないような侵攻によって、意識せずに意識が変わる。だけど、まだ今はその本番の時期じゃない。僕がその始まりの気配を逃さなかっただけの話だ。
 信号待ちで立ち止まっている間、そうやって湿った小粒の雪たちが落ちてくるのを見ていた。抵抗不可能な未来は受け入れるしかない。残念なことではあるけれど、ただちょっと憂鬱になるだけに過ぎないのだから、どちらかといえばなんてことはないほうだ。
 曖昧な分岐点を察知する力。なにも子どもの頃からの感性と言うんじゃないのだ。こんな動き方をこころがするようになったのは、松下悠里と親しくなってからだった。すべて彼女からの影響だ。

 一年前の晩秋を思い出す。僕らは二十七歳だった。
 市民公園の並木道をはずれた、夏は青々と芝生の茂っていた木々の間のあたりに幾重にも積み重なった落ち葉を、悠里は真っ赤なアクリルの手袋をはめた両手でかき集めては宙に放り、舞う落ち葉を浴びてはまたかき集めて放るのを繰り返していた。ベージュのダッフルコートには落ち葉の屑が無数にくっつき、枯れゆく十一月の風景に溶け込むためのカモフラージュを施しているかのようだったが、彼女がそんなことを意図していないことは彼女に聞くまでもなくあきらかで、でもどちらにせよ、その行為の小さな女の子のような幼なさに、こちらの肩の力がすっと抜けるのだった。眉も目じりも下がったし、かけた声はいつもよりすこし高くなった。
「悠里、ねえ、きみいくつだよ」
「落ち葉をいっぱい浴びたい年頃」
「そういうのはさ、ティーンまでが期限なんじゃないのかな」
 悠里の色白の頬は寒さで赤みがさしている。いつもながら、年齢よりもずっとみずみずしく張りのある肌をしていてきれいだと思う。茶色がかった長い髪は後ろでピン止めされていて、コート同様にいくつもの落ち葉の屑をまとっていた。
「人生が終わるまでが期限なんだよ」
 それが悠里の価値観だった。
 さらにこの一年前まで同じだった職場で初めて彼女と顔を合わせたときから、僕のこころは眩いオレンジ色に光り出すかのように敏感に反応した。きゅん、とときめくというよりも、これからの冒険にわくわくする感覚に近い。そんなこころの、広大な世界への旅立ちの予感を、悠里から感じさせられたのだ。彼女と仲良くなってみたい、と強く願った僕を、自然ななりゆきのなかで悠里は受け止めてくれた。
 悠里は人生を楽しむ人だ。迷惑をかけない範囲で空気は読まず気兼ねもしないし、トラブルを呼び込まない程度に人目を気にしない。
「わっ、ちょっと。口に入ったって。ぺっ、ぺっ。待った待った」
 他人事として傍観していた僕に悠里はまさかの落ち葉を浴びせた。それも大いに。でも、着込んでいた鉄壁のダウンジャケットからはさらさらと落ち葉は滑り落ちていく。
「つまんないねえ」
 悠里は赤い手袋の両手を下げ、立ったまま首をかしげて見せる。そしてそのとき、初めて彼女に誘われたのだ。
「今度、つきあいなよ。児童養護施設にアポ取ったから」

 アポを取っていたのはクリスマス・イヴの夜だった。現地近くの駅中で集合した。悠里はキーボードの入った細長い黒いバッグを肩からぶら下げ、その他の道具類を入れたピンク色のキャリーバッグを路面に転がしている。僕には、司会をやってもらうからね、といって縞模様の大きなトートバッグとセットリストの書かれた小さなノートを渡してきた。ノートによれば、僕は開始とエンディングのあいさつと、各曲紹介が割り振られていた。
 七時からの開演だったのだが、キーボードのセットはもちろん、悠里と僕の二人でお客さんになってくれる子どもたちの椅子を並べたり、チョコやクッキーやせんべいを入れたささやかなお菓子袋や歌詞を書いた紙を配ったりするので、四十分ほど前から施設に入れて頂いた。
 クリーム色の壁の一部には色紙の輪っかや画用紙を切り抜いて色付けした「メリークリスマス!!」の文字などで飾りがなされてはいたのだけれど、ちょっと寂しい仕上がりのように僕の目には映ってしまい、いやそういうんじゃないんだ、と無理やりこころの裡で打ち消す瞬間があった。これはきっと、偏見。
 悠里はキーボードに脚をつけて演奏する位置に立たせたあと、客席から見える側に「Merry Xmas」と手書きされた長さ30cmほどのプラカードをぶら下げた。言うまでもなく僕は、サンタクロースのあの赤い服を着させられている。顔がぼうっと熱い。
「はじめようか」
 悠里に促されて僕は、彼女が持ってきたハンドマイクに声を通す。
「レディースアーンドジェントルメーン! いや、こんばんは。今夜はどうもありがとうございます、そしてメリークリスマス!」
 大げさな身振りで客席に催促すると、客席の三十人ほどの子どもたちははっきりした口調で、メリークリスマス! と返してくれた。でもまだまだ四角四面だ。はじめましてな悠里と僕に、気を許してなんかはくれない。それでも、十歳に満たないような男の子から高校生くらいの女子たちまで、みんな行儀よく椅子に座ってこちらを注目してくれている。
 そこから悠里は特別な時間を作り上げていったのだった。

 悠里はキーボードをピアノの音色にセットして『ジングルベル・ロック』を歌う。ちょっとハスキーなのだけど甘く響いてくる、強烈な魅力を持った歌声だった。ワンコーラスだけ歌い終わると演奏を止め、簡単な自己紹介とあいさつをはじめた。
「メリークリスマス。わたしは松下悠里といいます。鍵盤を弾きながら歌ってる動画をいくつかサイトにあげているんだけど、40万回再生されたものもあります。その曲も今日は演るので、みなさん楽しんでもらえたらと思います。今夜はクリスマス・イヴに時間を作ってくれてありがとうございます。……みなさん、ほんとに楽しんでね。良い曲ばっかり演りますから。聞きやすくて印象的な歌ばかり選びましたから。じゃあ、初めはとってもメジャーな『ジングルベル』をみなさん一緒に歌いましょう」
 動画をアップしていたなんて悠里は一度も僕に告げたことはない。ここにきてずいぶん驚いたのだが、僕は今人前に出ているものだから、もちろん知ってたし実は自慢したかったくらいなんだよね、という表情をさっと作って大きく頷いてみせた。
 悠里はキーボードをオルガンの音色に変えて前奏を奏で始める。僕は与えられたマラカスでリズムを刻んでついていった。たかがマラカスといえど、カラオケ屋でおどけたときにしか使ったことがないくらいなので、今回は必死だ。
 歌が始まる。一緒に歌いましょう、と言ってもさすがに子どもたちはなかなかついてこない。渋っちゃうのはまあそうだろうなあとは思った。悠里は気弱になんかならず、どんどんそのマイク越しの歌声を艶やかなものへと昇華させていく。さあみんなも、と悠里の歌声のその音が誘うのだ。悠里の声と自分の声を重ねてみたいという欲求が生まれるような歌声なのだった。
 最初は最前列に座った小さな子たちからだった。音程がずれがちだったし、歌詞もカードを見ながらでもあやふやになっていたりしていたのだけど、一緒に歌ってくれて笑顔がはじけていた。
「さあ、後ろのみんなも!」
 子どもたちの笑顔を反射するかのように悠里の笑顔もはじけた。ツーコーラス目にはいると、大きな子たちもいっしょになって歌ってくれた。前列の小さな子たちは、満面の笑顔で後ろを振り向き、その笑顔を受け取った大きな子たちも晴れやかな笑顔で返す。
 うまくみんなで乗ることができている。みんなで音楽会のスタートを決めることができた。悠里のハスキーで甘い歌声がリードするみんなの歌声が施設内にこだますのを、僕はマラカスのリズムを間違えないように気を付けつつ振りながら味わっていた。
 『ジングルベル』が終わると、待ちきれなかったという風に自然と拍手が沸いた。讃え合うかのような喜び合いの仕方としての拍手だ。開始五分かそこらですでにとてもとても良い時間だ、と僕はこの音楽会に参加していることに胸を張った。
 次は『やさしさに包まれたなら』。アニメ映画でも有名な歌だ。悠里は鍵盤の音色をおもちゃのピアノのような音に変えた。音色に合わせたちょっと拙いような可愛らしいポルカのようなアレンジをした伴奏がはじまる。今度は歌いだしから子どもたちは歌ってくれた。僕もマラカスでついていきながら、身体全体で味わうようにして音楽を体験した。曲が中盤までくると、客席から手拍子が生まれた。一拍目からの手拍子ではなく、二拍目から入れてくるあたり、センスがある、と感心した。
 曲が終わると、前列の子どもたちがきゃあきゃあと声を上げて喜んでいた。後ろの席の大きな子たちにはその様を見ながら可笑しそうに身をよじっている者もいる。悠里も笑顔で会場を見つめているが、その瞳にはまだまだこれからという静かな炎の影がちらついている。
「踊れる人、踊っていいよ!」
 悠里はそう短く声を出すと、出し抜けに高音からのグリッサンドの下降で次の曲をスタートした。遅れまい、と僕はハンドマイクで「『ダンシング・クイーン』!」と曲紹介した。鍵盤の音色は硬めの音に加工されたピアノ音と弱めのストリングスの重ね合わせの音だった。僕はマラカス片手に手拍子を煽った。すぐさま子どもたちは反応を返してくれる。
 ほんとうに迫力ある演奏だった。原曲の跳ねたベースラインを活かしたアレンジが凝っている。よくこんなに指が動いて弾けるものだ、脱帽だ、と今夜のうちで何度目かの感心をしてしまった。そして、その演奏の労力に比例して曲のノリがとてもいい。
 踊っていいよ、と言われてももじもじしてしまうのは無理もないことだけれども、悠里の歌と演奏にはその壁をぶち破る強さがあった。サビまでくると小さい子たちが足をばたばたと動かしながら立ち上がる。ほどなく大きな子たちも立ち上がり、それぞれが自分なりに音楽に合わせて身体を動かし始めた。
 音楽会は最高潮を迎えた。
「みなさんありがとう、そしてどうでしたか?」
 『ダンシング・クイーン』を終えて少々息を切らせながら悠里は会場に話しかけた。小さな子たちは、楽しかった、と応える。大きな子たちからは、最高! の言葉も届いた。
「よかった。みんなが、全員が楽しめたみたい。ねえ」
と急に僕に話を振るので、マラカスをかかげてサッサッと二度鳴らして、ほんとに、と言うと、子どもたちが小さく笑う声を立てたのが聞こえた。今夜はもうそういうキャラクターでも良かった。みんなが楽しんだのだし、もちろん僕も楽しくて、そして一役買えたのだ。
「じゃ、最後。みんなで『きよしこの夜』。歌いましょう」
 悠里は鍵盤の音色をパイプオルガンに変更した。伴奏が始まり、みんなで喜び楽しみ興奮した夜が落ち着きを取り戻していく儀式のような曲だ。空気が清浄で透明なものに変わっていくのを感じた。それはおそらく、子どもたちもそうだったと思う。みんなで一緒に歌いながら日常に戻っていく、まるで長く運動したあとの深呼吸のように。歌と伴奏がともに終わる。音楽会は成功だ。参加させてもらってとても良い経験になった。

 感慨にふけってしまい司会者として最後のあいさつをするのを忘れていた。さてなんて言おうか、と考えていると悠里のキーボードからまだ音が発せられているのに気付いた。不思議な印象の音だ。エレクトリックピアノの硬くて丸い音と、切なく訴えるような電子音が混じり合っている。そんな音が、一定のリズムで高音の単音として奏でられている。なんだろう、と子どもたちも僕も悠里を注視した。悠里は頭を下げて、ただ右手の小指で打鍵し続けている。
 そこからセンチメンタルな旋律が始まった。悠里、なんて切ないメロディーを奏でるんだ、そう不安に似た思いを抱きつつ、僕は曲に耳を傾けながらその先を信じた。悠里の演奏する旋律にどんどん和音が重なっていき、テンポも少しずつ速くなっていっているようだった。そのうち、リズムとして鳴る低音があることに気づき、センチメンタルな印象が薄れていくのを感じた。曲調が移行し始めている。客席の子どもたちも息を飲むようにしながら、悠里の音を受け取っている。
 曲はついに八小節を単位としてほぼ同じ演奏を繰り返す曲になった。そこに悠里のハスキーで甘い歌声が即興の音として重なり合う。序盤のセンチメンタルさとはうって変わりどこか野性的で、それでいてショーを思わせるような華やかさもあった。
 八小節の二回目の繰り返しの終わりの頃だった。悠里のキーボードから音の一つひとつが放射状に飛び出しはじめた。音が、淡く透明なさまざまなパステルカラーの、ゴルフボールほどの大きさの球体となって、僕たちの過ごすこの場所、空間にあふれ漂いだしたのだ。揺れながら宙を進み天井や窓まで行き着くまでに無色になって見えなくなる。けれども、無尽蔵というくらいに、球体はどんどん生まれてくるのだ、悠里のキーボードから。
 離れがたいその時間へ、幻を見ているのだ、これは幻を見てしまっているのだからどうにか目覚めないと、と目の前の出来事に抗う気持ちを持たないとどうかしてしまいそうな気もしてくるのだけど、かたやこの幻のような光景を信じたうえで、あえて飛び込んで溶け込むことこそがこの時間のただしい解釈の仕方なんだ、と主張してくる自分もいて、詰まる所、そちらのほうの勢いが強かった。
 だけど、幻は幻じゃなかった。みんな、その球体が見えていた。そこにいるみんなが、驚きを飛び超え、うれしさや楽しさに満ちたりたような思いおもいの表情を浮かべていた。ある小さな男の子はきょろきょろと目を動かし、ある小さな女の子はひとつの球体を飛び跳ねながら追いかけ、またある大きな男の子はもはや目を閉じ、いくつかの涙の粒を頬に転がして小さく幾度か頷いていた。
 僕らは少しばかり、表現しがたい時間の中にいた。そしてそんな空前の幻想時間は、悠里がだんだん曲の音量自体を小さくするように弱く弾いていくことによって日常の世界へ無理なく着陸していった。見事なパフォーマンス。僕らは夢を見た。

 今年は、老人介護施設に付き合いなよ、と言われた。またマラカスかい、と聞くと、手拍子でもいいよ、と返されたのだけど、僕はたぶんまたマラカスを握ることだろう。
 僕の肌に落ちた雪はとけ、蒸発する。
「わたしは音楽で色を届けたいんだよ。なにも雪の世界が悪いっていうんじゃないんだけど。でもちょっとした憂鬱さに人生が負けてほしくないんだ」
 さあ、テイクオフ。今年もその日は近い。 

<了>
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『「300億円赤字」だったマックを六本木のバーの店長がV字回復させた秘密』

2022-12-13 22:34:38 | 読書。
読書。
『「300億円赤字」だったマックを六本木のバーの店長がV字回復させた秘密』 足立光
を読んだ。

小説仕立ての、マーケティングの考え方を知る本。ビジネスを扱っていても、堅苦しさがまったくなく、すいすいと読めてしまいます。もしかすると、小学校高学年の人でもおもしろく読めるかも。

中身は地に足がついたマーケティング論なのですが、平易な言葉でシンプルにマーケティングの考え方を学ぶことができます。著者はコンサルティング会社やP&Gなどを経て、日本マクドナルドのマーケティング本部長として、業績を瀕死の状態からV字回復させた方。マクドナルドの商品や、近年展開されたキャンペーンが具体例として出てくるので、マック好きな方にとっては親近感をもって読めるでしょう。かくいう僕も、にわかですが隠れマックファンで、たまにドライブスルーを利用しているクチで、おもしろいなあと思いながら読んでいました。ダブルチーズバーガーやフィレオフィッシュが恋しくなったりもして。

さて、では中身を。
どうすれば業績があがるのだろうか? という課題を抱えた、洋食屋の三代目を継ぐことになった祐介が足立(著者)の経営するバー・夜光虫に足を踏み入れることで、マーケティング話が始まっていきます。祐介の洋食屋はバイト店員のよからぬSNS投稿で炎上し、客がよりつかなくなってしまって困っている。いっぽう、足立は不祥事によってイメージと業績が落ち込んだマクドナルドを再建している。祐介はどうしても話が聞きたいし、足立は話好きだしで、そうして長い夜が幕を開けるのでした。

話題性が大事でポジティブな話題性によって、それまでの悪いイメージ、停滞したイメージを覆していく。そればかりか、波に乗ってからも「話題性」なのです。楽しさがマクドナルドの大きな魅力ですし、エンタテイメントを途切れさせないことなんだなあと、僕はそう捉えて感心しました。

ライバルは同業他社のモスバーガーか、それともオリエンタルランド(ディズニーランドなどの会社)か、と問うところがあるのですが、答えはやっぱりひっかけになっているかのように、オリエンタルランドなのでした。楽しさをどちらが多く創れるか、みたいなライバルなんでしょう。

同業他社よりも、他業種をライバルとする。ちょっと脱線しますが、これって創作の姿勢に役立つことで、同業他社としてのたとえば小説を読み漁ることも勉強になるけれども、賞を取るくらいまでになりたかったら、他業種、すなわち美術・音楽・映画・ドラマなどなどから勉強するのがいいのだろうと思えてきます。小さい枠の中で発送するよりか、業種の垣根を超えたところでの発想を目の当たりにして、小さな枠をはみ出す思考でいたほうがおもしろいものが出来たりするということです。そのためには、感性と理解力、そして応用力あるいは類推力が大切なポイントとなるのでしょう。

また、序盤でなにげなく語られた教訓めいた内容ですが、こういうのがありました。アドバイスに振り回されて潰れていかないために、自分で自分自身をまず分析しながら仮説を立て、自分の目指すところを見定めて、頂くアドバイスの取捨選択をしていける賢さが大事だ、と。これって目からウロコ。その通りですよね。アドバイスをくれる人に気を遣って言うことを聞こうとするのは、自分を大切にしないことに繋がる可能性が在るんです。そこは自己中でもエゴでもなく、ある意味でのしたたかな自己成長戦略だと位置づけておくとよいことだろうと思いましたし、こういったスタンスでいることを、ほんとうに多くの人におすすめしたいです。

あとは、広告を打つよりか、自社PRやSNSなどの口コミなどで第三者に話題にしてもらったほうが、信頼感や親近感を持ってもらえるのではないだろうか、ネガティブな雰囲気も変わるのではないか、というところがあります。これってたとえばブログをやっていくことにも生かせそうだし、そうやってみることは面白そうです。

さらに、激しい飲み会の話。仲間意識を強く持ちお互いを印象付けるためには、おなじ飲み会でも、激しい飲み会が好ましいと著者の足立さんは考える。これは、創作においてもそうだろうな、と考えさせられました。小説の中で、激しいシーンのシーケンスが、その小説表現を読者に強く印象付ける。殴り合いなどのバイオレンスじゃなくても、激しい言い合いなんかでも、その激しくて真剣で感情的な部分は読者を揺さぶるのだろうと仮説が立ちます。

というように、僕は創作に寄せて、この小説仕立てのマーケティング論を楽しみました。対立構造、既出のアイデアを取り入れて新たにつくる、意思決定に義理人情はNGなど、他の数々のマーケティング方法論においても、やっぱり小説づくりに役立つアイデアです。おもしろいもので、すべての道はローマに通ず的なのでした。

最後に、まとめます。
難しい理論は抜きで、現実的で実際的な、一歩一歩のあゆみのようなやり方でだって、突破口は見えてくるんじゃないか、と読者は本書から感じることになると思います。個人経営の洋食屋の三代目が主要キャラとして、マーケティングの達人・足立の話を聞くという体裁でしたが、まさに、自営業者の商売戦略の助けになるような内容でした。商売がうまくいかなくて、まるで骨折してしまったかのようだ、なんて表現するとしたら、本書はその骨折した箇所にあてる副木になり、それからリハビリを助ける理学療法士となってくれるような感じでしょうか。自分で歩く力を身に着けるため、まず自分のあたまで考えてみようとするそのスタートラインへ引っ張ってくれるかのようでした。それも、ほんとうのはじめの一歩からです。知識というより、考え方の基礎を雑談の中で学べるなんて、最高ですよね。そういった本なのでした。


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『大地のゲーム』

2022-12-12 21:27:51 | 読書。
読書。
『大地のゲーム』 綿矢りさ
を読んだ。

近未来の日本。未曾有の大地震が起こり、大きな被害を受けたのち、さらにまた同規模かそれ以上の大地震が一年以内に起こると警告されている時代。大地震以来、被災地の大学内で暮らす学生たちのひとりである女性の主人公と、その混乱に乗じて頭角を現してきたリーダーと呼ばれる男性の学生。リーダーは彼独自の思想をもって学生らを魅了していく。主人公もいつしか、その一派に属するようになっている。

90%の確率で訪れるとされる二度目の大地震に怯えながら暮らす学生たちは、まず一度目の地震と、それに派生したある事件などによって、大きなカルチャーショックを受け、生き方が危ういほうへと変容している。それでも行われる学祭に向け、リーダーは渾身の演説を段取りながら、自らの台頭を目論んでいる。破局へ向けた残酷な猶予期間に蝕まれながら、主人公を含め、半壊したような生活と精神性をなんとか保ちつつ、それぞれがそれぞれの極限の生のなかにいる様子を読むような小説でした。

以下、ネタバレがあります。ご注意を。




学生たちは早い話、制御がきかなくなってきているのです。大学生という年代の人たちは、子どもでもないし、大人としてもまだまだ経験が足りないのだけれど、頭は回るわけです。浅薄だったり、考える範囲が狭かったりしながらも、それでも固定観念や先入観がないぶん、大人たち以上にすぐれた新しい考え方や発見が出来たりもしますし、高い「安定性」よりもアンバランスな「突破力」を持っていると考えたほうがしっくりきたりします。

そんな年代の彼らに襲いかかった大地震。その災厄によって、かれらは身体や環境、生活などとともに、心までも根本から揺さぶられている。幼さだってまだまだ色濃く残る彼らに、その衝撃が背中を押すことで、自暴自棄のような行動と衝動を発現させている。そこには、先ほども書いたように、自分たちの頭が回ることからくる過信も大きくあるでしょう。そんな賢い自分たちが考えても答えが出ない状況への絶望。それは人生の経験値が低いからこその早計な絶望でもあるのですが、そこはまあ若者に「ダメ」と叱るのは酷というものかもしれない。また、その自暴自棄の出口はなにか、と考えると、変化や変革なのかなという気がします。スマートに、理性的に変化や変革を創っていくということが、傑物でもなければ若者にはうまくできないのかもしれない。そこを、リーダーは成そうとしているようなところがあります。

リーダーの説く持論は、自助と共助ですが、まあ僕もそこは頷ける部類の話でした。それ以上に、ミステリアスで蠱惑的なのに可憐な感じのあるキャラクター・マリがその少ないセリフの中で発した言葉のほうに、共感するところがありました。
_______

「受け止めがたい辛いことは、生きているうちに何度か起こるよ。でも起っちゃったあと、どれだけ元の自分を保てるかで、初めてその人間の本当の資質が見えてくるんじゃないの。なにも起こらなかったときは良い人なんて情報は、なんの役にも立たないよ」(p107)

「強くなんかない。でも予想外の不幸を、免罪符のように振り回す人間には、ちゃんと自分の考えを言いたくなる」(p108)
_______

そんなマリは、リーダーとくっつくのですが、主人公の世界からは彼らの世界にはほんのちょっとしか入ることはできない。この小説の文学的深みを握るのは、見方によってはリーダーとマリにあるというように考えられるのですが、そこは住まう世界が違う主人公のほうに、この物語の軸はあるのでした。ただ、それでこそ、よりマスに近い物語になったのだと思います。

小説を読みながら、その技術的な部分というか、緩急や抑揚みたいなところを気にしていました。激しさのあるシーケンスを多用する試みがなされているなあ、なんて思いました。表現の幅を広げるための想像力の使い方だと僕は考えますが、僕自身もそういうところを試したいと考えているところなので、なるほどなあ、とある部分ではちょっと冷静な自分としてこの小説を読みました。それでも、最終章のカタストロフィーの部分は引き込まれてしまって、分析だとかよりも物語自体の味わいのほうに気を取られてしまいました。ただまあ、それはそれで、真っ当な「物語の享受」なのだと思います。

震災の記憶が生々しい方にはつらいかもしれませんが、そうじゃなければ、読むことで読者が自分なりに物語から引き出すことができるなにかが宿っている小説だといえる作品でした。

久しぶりの綿矢りささんの作品でしたが、またそう遠くないうちに別の作品を手に取ろうという気になりました。


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『歴史とは何か』

2022-12-08 20:04:18 | 読書。
読書。
『歴史とは何か』 E・H・カー 清水幾太郎 訳
を読んだ。

初版は60年も前に発行された岩波新書の名著と言われる本。6つの講演をテキスト化したものです。最近、新訳版が発刊されましたが、今回僕が読んだものは、それとは違います。クラシックな名著であり、読み下すのにはちょっと労力がいりました。

序盤にまず、「歴史とは何か」についての著者としての最初の答えが示されます。歴史とは、現在と過去の対話である、と。相互的なのです。今が変われば、過去も変わるし、そうやって過去が変わると、今にも影響が出てくる。そういうインタラクティブなものだというとらえ方は、たとえば僕が学生の頃の社会科の授業ではまったくでてこなかったです、本書が世に出てしばらく後の時期だったのに。

ともすれば、歴史とはゆるぎない事実について、その真実をつきとめるもの、ととらえてしまいます。絶対不変の真実があって、それをつきとめるのが歴史なのだ、と。しかし、著者が説得力をもって解説する歴史とは、そういうものではない。可変的なものであるし、どうしても歴史家の主観が混ざりこむものなんで、完璧であることはありえないのでした。

だからこそ、著者は微に入り細を穿つような事実収集による歴史考察を否定しています。しかしながら、ちょっと脱線して考えたのは、この事実収集の方法論って、事件の捜査では奨励されることであり、歴史の方法論とは真逆だったりするのではないか、ということ。分野によって違ってくるわけで、「これはこうだったからあれもこうでいけるに違いない」という不注意な類推はいけない、ペケなんだ、ってことが学べます。本書でも、歴史から学ぶ点などについて、不注意な類推は避けるように、と注意喚起されていました。

考えさせられながら肯いたのは、「巨大な非個人的な諸力」つまり、諸個人の力についてのところ。名の知れぬ数百万の人たちこそが諸個人の力といわれる力で、そういう大きな数になったときに、政治力となる、といいます。フランス革命しかり、です。そうであってこそ歴史となるわけで、歴史とは数である、と著者は主張している。また、諸個人の力が、彼らが誰ひとりとして欲していなかった結果を招くことは珍しくない、とも解説しています。というか、歴史をねじまげる力がある、と。二度の世界大戦や世界恐慌などがそうだと著者はさまざまな歴史家の主張を引きながら述べています。

また、「社会」vs「個人」という対比、つまり「社会」か「個人」か、という見方ですけれども、そういった見方はナンセンスだ、とあります。社会に反抗する叛逆者であっても、社会に対する個人としてとらえるよりかは、社会の産物であり反映である、と著者は考えている。このあたりも、納得しました。著者は、歴史についての絶対がない、ということでもそうでしたが、ある領域の「外」を設定することの間違いを何度も説いている。歴史についての絶対的で客観的な「外」はないし、社会についても社会に対するその社会の「外」に位置する個人というものはない、とします。この発想というか、発想を考え抜いたひとつの強い知見が、本書のひとつの強靭な柱になっているようにも読み受けられました。

あと、おもしろいのはp46にあった以下のような内容のところです。自分に有利な施策は推進しようとし、不利益な施策は阻止しようと努力するのは、当たり前のこと、というのがそれでした。欧州的な、闘争の世界観ですね。こういった世界観が常識として根付いている。スポーツの世界でのルール変更が、力のある欧州有利に働くことは多々ありますけども、その考え方の根っこはこういうところにあるのでしょう。

脱線した箇所になりますがもうひとつ、ちょっとおもしろいところを。
_______

「時代が下り坂だと、すべての傾向が主観的になるが、現実が新しい時代へ向かって成長している時は、すべての傾向が客観的になるものだ」(p185にてゲーテの引用)
_______

いろいろと考えさせられるところのある言葉です。僕は創造性にとって客観性は外せない要素だと思っていて、たとえばこれからつくるまだ目には見えないものをイメージする段階においても、それが主観的だとすぐに現実から逸れたりずれたりしがち。人間の主観は、客観が手綱をひいて操縦しないと意図しない方向へ走り出してしまう感じがある。時代が新しい時代へ成長しているときに、客観が手綱をひいてやらなければそのせっかくのかけがえのない創造はバランスを欠いたり、崩れたりしてしまう。創造への本気の態度は、必ず構築を達成する、という態度ではないでしょうか。そのための客観。時代が下り坂だと主観的傾向になる、というのは、下りの時代的なネガティブな気分に押し流されて自分を見失ってしまわないために、自分を自分のなかに繋ぎとめて下り坂を転がっていくのを防ぐための主観なのではないでしょうか。時代との同期を断ち切るための、主観。人間って、時代の隆盛と衰微を意識的にとらえると、それが無意識に落ちていくとそこで主観や客観の使用度合いを変えるくらいのことを自動的にやると思うんですよ。そんな具合に、人間ってできていますよね、たぶん。

最後に、「理性」についての考察の部分を。たとえば、精神分析を作り上げたフロイトを、その仕事の成果から、「理性」を拡張した人物と著者は位置付けています。フロイトに限らず、新たな知の発見は、「理性」を拡張するのです。「理性」の拡張、という言葉の使い方、そういった把握の仕方は、60年以上前の論説でもいまなお新しく、僕にとっては新鮮な風のようでした。

実践的なものや具体的なものを挙げて、それを賞賛し、他方で理想や綱領のような抽象的で観念的なものを非難する、そういったあり方が保守主義。保守主義は、「理性」を現存秩序という前提に従属するものと位置づけてしまいます。つまり、現存の秩序は絶対で、揺るぎないものとし、誰によっても揺るがせてはならない、とする。しかしながら、保守主義と相対する自由主義は、「理性」の名において現存制度などの秩序に挑んでいくもの、社会の基礎をなす前提に向かって、根本的挑戦を試みる、という大胆な覚悟を通して生まれてきたものだ、と著者は述べています。そのうえで、著者の立場として、歴史家、社会学者、政治思想家がこの仕事に進む勇気を取り戻す日を待ち望んでいる、と言い切っていました。そして、自由主義のほうが、大きなクリエイティブという感じがしました。

というところですが、内容がぎゅっとみっしり詰まっていますし、わかりにくい論理展開だと思う部分もたくさんありました。読み切れていないところ、誤読しているところもあるでしょう。だとしても、よい出合いでした。著者とぶつかりあいながら、でもときに肩を組みながら、読み終えたような読書です。しゃべり言葉といえど、骨太です。著者の頭脳の強大で強靭で柔軟なさまをみてとれると思います。そういった人物がいること、こんなに考えることができる人間っているんだ、と知ることは、本書の内容を知ることとは別に、人生の糧となるものだと思いました。


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カタールW杯での日本代表の健闘を讃えながら。

2022-12-07 20:51:30 | スポーツ
とてもよくがんばっているなあと感激しながらW杯を見ていました。
あのドイツに逆転勝ちし、コスタリカ相手にはひどかったですが、グループリーグ最終戦でまたしても強豪のスペインを相手に逆転勝ち。観ていて、何度震えたことか!  これが見たくて代表戦をみてきたんですから。それも本番中の本番であるW杯で下した、というのはとても大きかった。VIVA!日本代表! ベスト8のかかったクロアチア戦で、ご存じのようにPK戦での敗退となりました。でも、よくやったなあ、と拍手をいつまでも送りたい気持ちでした、もちろん、苦味を感じながら。

で、これ以上の成績を上げられるための強さはなにか、と考える。もっともっと、代表が高みに上っていく姿をみたいのです。彼らは国民を多く巻き込み、一体となることを「力」ととらえていました。これはずっとそうですよね。それ自体はまず、いいとして。

前回の敗退で国民から「グッド・ルーザー」と言われて、そこに違和感を感じたと言っていた選手がいました。悔しさもみんなで共有したかったわけで。それで、僕はそこだ! と思った。そこなんですよ。そこまでの一体感を求めるのは、過度なんです。「グッド・ルーザー」と言われたそこのところでのズレを感じたときに、まずチーム内、そしてできれば個々人で抱え込め、と思った。

大勢と共有しないと耐えられない、のであれば、逆にそこは強くなるためのチャンス。共有できないと落ち着かないだとか力が湧きにくいだとかの状態を克服するため、一体になれない辛さを孤独として持ち続けること。孤独を飼いならす。そういった精神性の問題だと思います、もうここまで代表が強くなれば。女子代表のほうは、というか、日本の女子ってそういうとこできてるでしょう、多くの場合。男子はすぐに「みんなで!」と本気で言っちゃいます。

日本人の女子たちが、つよくて美しくて素敵で、っていう人が多いのは、男子に比べてそういった孤独面での違いがあるように思いました。それがサッカー男子選手のなかでも育まれていくと、……というか、社会全体として変化が見えてくれば成績はあがるのではないか、と僕は考えます。

以上でした。
(でも、代表、よかったです)
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『ツイてるわたしの予想屋稼業』

2022-12-04 00:00:01 | 自作小説14

 今週のオークスも先週のヴィクトリアマイルに引き続いて予想が的中した。払い戻し、馬連で27.8倍。頭流し5点の買い目だったし、乗ってくれたみんな、けっこう儲けたのではないかな。これでわたしの的中率は七割を超えた。回収率なんて400%を超えたはず。春のGⅠ戦線も後半にはいって、波に乗っているのだ。

 レース確定後、ツイッターのアカウントにお礼のコメントが殺到しだした。

<今週もおかげさまで払い戻し28万円です!ありがとうございます!>

<足向けて寝られませんわw、馬屋お七さん、ずっとついていきやすwww>

<よっ!令和の天才美女馬券師お七様!さすがやわ!おおきに!!>

<なんでわかちゃうんです?!?!……こんなに儲けられるなんて夢みたいですよ!!!>


 続々とコメントを寄越す人たちは、馬屋お七こと、わたしの予想を買った人たちだ。

 競馬歴5年の28歳と公表しているが、実際のわたしは競馬歴3か月の22歳。大学卒業間際まで就活を真面目にやらず遊びに遊んでしまい、さてどうしたものだろうと焦り始めたとき、久しぶりに会った飲みサークルOBの高野さんにちらっと冗談めかして相談したらこの仕事というべきなのか、方法というべきなのかを教えてくれた。競馬予想のAIを内緒で譲ってくれたのだ。

 わたしはつくづくツイてる女だと思う。なにせ、人に恵まれるのだ。たとえば、講義によってではあるけれど、出席確認やノートの書き写しに困ったことがない。バイトだって、困ったときには向こうからすぐに手助けしてくれる人が何人もいた。だいたいの男の人は下心バレバレだったけれど、そこはうまく、わたしははぐらかすことができる。

 すぐさまツイッターで馬券的中の報告ツイートをした。成果をひけらかすような印象にならないように気を付けながら、当たったというインパクトだけを端的に伝える。これは炎上防止策をほどこした次への宣伝なのだ。「陽」の部分だけじゃ妬まれる。「陰」の部分への配慮をするのも、わたしのネットスキルだった。

 世の中には思いのほか、ギャンブル下手のギャンブル好きが多数いるもの。そういう人たちをおびきよせる蜜として、購入金額部分を画像処理してぼかした的中馬券画像を載せてあげる。そのほかに、ちょっと露出が激しめの服を着こんで、顔までは写さないまでも、胸元や上半身のラインを官能的に魅せる自撮り画像を載せたりもする。彼らの金銭欲を、性欲まで喚起させて押し込んでやれば、わたしの予想サイトの会員になろうか迷っている男ならばURLをポチりやすくなることをアクセス解析データからよく理解している。そんな彼らは今、儲けている。わたしの存在が、人助けになっている。



 さて、高野さんから譲っていただいた競馬予想AIの話をしておこう。このAIは、ユーザーが比較的自由にカスタマイズできる仕様だ。ユーザーの使い方によってAIの性格は変わり、出る予想もがらりと変わる。

 出走する競走馬のデータを引っ張ってきて読み込ませることはもちろん、コース、距離、枠順などの基本データ、馬場のクッション値や天候のほか、天気予報サイトから仕入れる風向きと風の強さの情報なんかも読み込ませる。調教のタイムや騎手のデータ、調教師のデータ、血統と生産者のデータもあるし、わたしは日曜日のメインレースしか予想しないのだけれど、前日の土曜日のレース傾向も参考データとして読み込ませることができた。

 まだまだ細かい、距離適性や走破タイムなどのデータもあり、それらのなかから、ユーザーはどのデータを優先させるかその優先順位を決めてAIに予想させるのだ。たとえば血統最優先で、そのあとは騎手、枠順、競走馬の通算成績……みたいにパーセンテージを振り分けていって、ユーザー好みの予想をクリックひとつで瞬時にはじき出せるようになっていた。

 わたしはこの、カスタマイズのやり方にセンスがあったらしい。初めに手ほどきしてもらった高野さんの説明がクリティカルだったせいもあるだろう。素人なのに、数レース試行錯誤するだけで、今とほぼ変わらない精度のカスタマイズAIができあがったのだから。わたしはほんとうにツイてる。

 ただ、自分で馬券を買うのだとすると、やっぱりギャンブルなのだからリスクがある。賭け金の額面だってじゅうぶんに考えなきゃならない。極端な話だけれど、少額を賭けて何度か当たったとしても、外れたときに大きな額を賭けていたのでは、的中率が高くても負けてしまう。

 AIには「自信度」という予想信頼度の評価がつく。でも、経験上、信頼度AでもCでも、あまり精度に変わりはなかった。このあたりはAIであっても難しいのだろうと思う。自信度Aを信用して大損することは十分にありうる話だった。

 高野さんはわたしに、自分で馬券を買うというリスクをとらずに、WEB予想屋デビューしたらどうか、と提案してくれた。わたしの馬券予想サイト自体は彼が作ってくれるというのだ。予想を売るのならば、それはれっきとした商売。ギャンブルを相手にしてはいても、やっていることはギャンブルではなくて販売業になる。こうなるとずいぶん安全なほうだ。予想がそれなりに当たって評判になれば、ふつうのアルバイトよりも稼げる、と高野さんは愉快そうに微笑んでいた。そうして、今のわたしがあるのだ。

 今週の的中ツイートも終わり、やっと一週間の終了。追い切り調教のある水曜日からまた、次の日曜メインレースのデータ収集がはじまる。来週は日本ダービーだ。高野さんによると、日本の競馬のなかで最高峰のレースなのだそうだ。





 問題が起きてしまった。日本ダービーの二日前の金曜日の午後。もうとっくに枠順が決まり、競馬ファンの多くが馬券検討の最終段階にはいっているだろう頃だった。

 わたしは大学時代にゼミが一緒だったことで友人になった奈々美とチェーン店のカフェにいて、おしゃべりを楽しんでいた。奈々美は大学院を目指し研究生として大学に残っていてわりと時間の融通が利き、わたしのようなWEB予想屋なんていうわけのわからないふらふらと遊んでいるのとあまり変わらないような人間とはつるみやすかった。

 就職して五月病の危機をくぐり抜けた同窓生たちの近況に奈々美は詳しく、わたしはテーブルにノートパソコンを置いてダービーの情報収集に余念がなかったのだけれど、奈々美の話し方がとても巧みで笑わせてくることもあってうんうんと何度も頷きながら会話を楽しんでいた。1時間半ほどそうしたあと、奈々美が大学に戻るというので、わたしはまだここに残ることを伝え、とりあえず化粧室に立った。このカフェであと少しだけデータの吟味をするつもりだったのだ。化粧室からテーブルに戻り、PINを入力して画面をデスクトップ画面に戻すと、競馬予想AIアプリのアイコンが見当たらない。その代わりに見慣れないテキストファイルが無題の状態で貼りついていた。開くと、<もうやめておけ>の一行だけがあった。

 わたしは戦慄を覚え、震える手でノートパソコンをたたむとすぐに店を出た。



 WEBではAIを使っているとは公表せず、自分自身の論理で競馬予想をしているという体裁にしていた。でもこれまでに数回、DMで、「AIを使っているだろ」というようなものが送られてくることがあった。バレちゃってるのか、と思いつつ、笑って無視していた。また、よくわからないものに、「予想家を賭けの対象としているサイトがある」というものもあった。それは仮想通貨を賭けて行われていて、WEBの深いところにある会員制サイトだと続けてあった。わたしも賭けられているのだろうか、と一瞬思ったのだけれど、だからどうだっていうのだろう、自分にはちっとも影響の及ばないことだろうなと判断した。だって、どうせ勝手にやってることなのだろうから。

 高野さんにこの話をしたとき彼は、知っている、と言っていた。高野さんも参加しているんですか? と意地悪く冗談で訊いたのだけれど、どことなくバツの悪そうな生返事で否定していたのを覚えている。奇妙だといえば奇妙だった。



 私は高野さんに電話した。AIがノートパソコンから消されてしまったこと、気味の悪いテキストファイルが残されていたことを話すと、高野さんはいらだったような口調ですぐに会おうと言った。またあのAIを譲るからダービーの予想をがんばれと言うのだ。

 わたしはさっきまで奈々美とコーヒーを飲んでいたカフェに戻り、高野さんが来るのを待った。一時間も待たずに高野さんはやってきた。高野さんは会社員のはずだからスーツ姿でやってくるのだと思っていたのだけれど、チノパンツと青緑色の薄手のパーカー姿でうっすら無精ひげを生やしていたし、頭頂部の小さな寝ぐせなんて直していないままだったくらいなので、あれ、と思ってちょっとびっくりした。すぐにUSBメモリを渡されてそこからノートパソコンにAIをコピーする。おかえり、わたしのAI。

 高野さんは、これからカスタマイズのし直しが大変だろう、邪魔になるから俺は帰るわ、と小声でもごもごと言ってコーヒーも注文せずに店を出ていった。今日は休みだったのだろうか。体調不良だったのかもしれない。



 AIアプリのカスタマイズはほどなく終わった。一息つくと、わたしはなんとなしに気持ちにひっかかり始めていた「予想家を賭けの対象としているサイト」についてのDMをツイッターのログから掘り起こし、差出人にDMを返してみた。もっと詳しく、と。しばらくして<あんた、騙されてるぞ>というメッセージが返ってきた。

 そのとき、わたしはなぜか、この言葉を意識の奥でちょっとばかり予期していたような心持がした。




 帰宅してすぐ、携帯に着信があった。スワイプして電話に出る。高野さんからだった。

「さっきはばたばたして済まなかったよ。今は家かい?」

 カフェの時とは違って、いつも通りの落ち着いた口調の高野さんだった。

「こちらこそ、すみませんでした。ちょうど帰宅したところです。おかげさまで、ダービーのデータ入力までは終わりました」

「そうか。目下4連勝中だもんな。もう外れる気がしないんじゃないか?」

「そうですね。もう当たる気しかしません」

 予想にたいしては順調すぎて自然と笑い声が漏れ出てしまった。電話の向こうで、高野さんも大きな笑い声をたてている。そして笑いながら、あのさ、と言うのが聴こえた。

「あのさ、そろそろ勝負してみなよ、おまえも。きっとダービーも的中するって」

 わたしもそのことについてはちょっと考えていた。AIの予想にわたし自身も乗って儲けたらいいのではないだろうか、と。

「ちょっとだけ、買ってみようかな」

「いや、大勝負しなって。実はな、おまえにこのAIを使わせられるのは、ダービーまでなんだ。悪いけど、予想屋稼業も今週までにしてもらう」

「え、急ですね」

「そう、急だよな。すまない。でも、だいぶ稼いだろ? 俺もさ、おまえがこのAIをこんなにうまく使いこなすなんて思ってもみなかったんだよ。まったくすごい成果だよ。天才」

「いえいえ、高野さんのおかげですから」

 いまや予想屋として評判になりたての時期にいた。あまり有名になりすぎる前にこの稼業をたたむのは悪くないかもしれない。有名になりすぎるとたぶん、詮索や干渉の嵐に見舞われることになるだろうから。

 予想の売り上げはここまでうなぎのぼりで、特に先週のオークス予想の販売分が大きく、携帯で貯金額を確認すると胸が熱く高鳴るほどだった。

 でも――――。







 翌日の夜まで、わたしはじっくり考えた。

<あんたがダービーの一番人気。それもダントツ。>

 わたしは再び、あのDMの相手とやり取りをしている。予想屋の予想が的中するかどうかを仮想通貨の賭けの対象としているサイトに、残念ながらしっかり巻き込まれているのをわたしは知った。

<そうなの? でもまた当たってしまうと思う。そのほうが喜ばれるんでしょう。>

 そう返信すると、すぐに相手からメッセージが返ってきた。

<わかってないな。今回、あんたはかなりの人気を背負いながら外すんだろ。いや、外れることになる、が正しい。それで胴元が大儲けする。>

<外れる確率はだいぶ低いよ。>

<わかってないのは当たり前なのかもしれないが、その愛用のAIが罠なんだ。>

 この相手にもAIだとバレていた。もうしらばくれるのはよすことにした。どうせ、今週を最後にわたしはWEB予想屋を引退するのだし。

<ダービーのデータ収集に間違いはなし。馬場も良馬場で開催されることはほぼ間違いないみたい。今回は不確定要素が低いとAIの評価を待たなくてもわかるレベルだけれど、それでも的中率七割まで育て上げたわたしのAIがミスすると思うのね?>

 この相手は、わたしの頭脳をブレさせようとしている。でも、そんな小手先の言葉に翻弄されるものですか。わたしはわたしの知らない予想通貨の賭けサイトでの一番人気におそらく応えるだろうし、わたしもはじめて自分のお金をつぎ込んで馬券を買って、引退してもしばらく楽ができるくらいのお金を手に入れるの。

<信じるか信じないかはあんた次第だ。でもダービーでそのAIは最後だと言われただろう? 仮想通貨の賭けサイトもダービーまでで閉鎖される。こういうのはマジョリティに露見する前にやめるってたいてい決まってるものなんだ。いいか、ここからが重要なポイントだし、胴元をやってるヤツが気に食わないから教えてやるんだが、ちゃんと読めよ。AIの内部パラメータが、ダービーの週に自動で改変される仕組みになっている。だから、AIの出すダービーの予想はでたらめなんだ。気が付かないだろうけどな。いくら頑張ってAIに情報を詰め込んで情報の優先順位を教えてやろうが、まともに動作はしないよ。ある種の時限爆弾だったんだ。で、ダービーの予想は出力させたか?>

<まだ出していない。>

 すぐにAIアプリを立ち上げ、最後の仕上げの操作をしてダービーの予想を出させた。一番人気の馬をAIも本命にしている。でもその結果に、わたしはどことなくねじくれたものを感じた。このDMの相手を信じ切っていたわけではないのだけれど、AIが時限爆弾的な罠だと言われた影響なのかもしれない。混乱するな、と自分をなだめるように落ち着かせようとした。それでも胸騒ぎがする。いつものAIじゃないように感じる。きっと錯覚なのよ、と頭から払拭しようとしたのだけれど、肩や太ももに走った緊張感は抜けず、ノートパソコンの上に漂う両手の指は細かくわなないていた。

<AIを提供してきた人物にはバレないほうがいいだろうな。もしも、あんた自身も馬券を買ってみろよ、なんて言われていたとしたらやめとくんだ。さらに大金を賭けろとまでそそのかされていたなら、それはお前を金銭的に堕としめて身動きを取れないようにするためだ。あとで何かあったときに反撃も復讐もできなくするためにな。>





 わたしはツイてない。つくづく、ツイてない。

 就活を前にした時期、キャバクラ勤めで安易にお金を手に入れて、遊びに遊んでしまったのには理由がある。

 ひとつは大好きな彼氏を取られたこと。高校時代から付き合っていたその彼氏があるとき、ふらっと部屋を訪ねてきた。部屋には先に遊びに来ていた同じ飲みサークルに所属する女がいて、彼氏とその女がちょっと意気投合したふうで気にはなっていたのだけれど、知らない間に連絡先を交換されていて、さらに知らない間に親密になっていて、ある日、よくわたしも歩く商店街への通りで二人を見つけてしまった。なんで? と思って声をかけてみたら、そういうことなんだ、と軽く言われて目の前が真っ暗になった。それでヤケになったこと。

 もうひとつは、その出来事のすぐあと。二つ下の弟の奏太が交通事故に遭い、それからずっと意識が戻らないことだ。わりあい、というか、世の中の姉弟の平均値と比べてもおそらくずっと仲の良いほうの姉弟だと思う。いろいろなことを相談し合えた仲でもあった。

 わたしは彼氏に裏切られたことでぐちゃぐちゃに泣き、もう枯れたと思っていたはずの最後の涙以上の涙を奏太の事故で流し、奏太の意識が戻らないことで、少しずつ感情面の平衡感覚を崩していった。もうすべてがどうでもいい、とそのときどきの楽しさだけを求めて慰めにするようになった。

 そして、今、信頼していた高野さんから罠にかけられているのかもしれない状況にある。サイアクだ。現在だけの話でもない、ずっと、ずっとサイアクだったのだ。

考えれば考えるほど、憂鬱になっていった。



 ふと思って時刻を確かめると、ダービーの予想をサイトに更新する期限まであと一時間を切っていた。このサイアク中のサイアクの最中に、わたしはどう行動したら正解なのだろうか。

 携帯がバイブした。母からだ。こんなときになんだろう、とうざったく思いながら出てみると、涙声でつよく、

「奏太が目を覚ましたの! 奏太が!」

と、このサイアクの状況の真っただ中になんなの、と訳が分からなくなるくらいうれしい知らせをしてくれた。
 ああ、なんてうれしいことが! こんなとき、奏太に相談できたなら! 病院に駆けつけたかったけれど、ごめん今夜は無理だから明日の朝に行くね、と母には伝えた。

 奏太に相談できないのはわかっていたけれど、どういうわけなのか、そのとき胸の内に清冽な風がつよく吹き抜けた。わたしは、覚悟というものを決めたのだった。


 その瞬間わたしは、自信を持っていいのだ、という内なる声を聴いた。まったくもってその通り、とでもいうかのような確かな手ごたえに似た気持ちが自分の胸に宿っているのを感じたのだ。もはや迷うことはないのかもしれない。いや、迷わない、それは自分の意志として。

 AIを使いながら、これまでのわたしはずっとAIの思考を辿るように考え続けてきた。自分の考えから出た答えとAIのそれとを照らし合わせて間違い探しをするようにそのつど復習を試みてきていたのだ。そうしているうちに、なんとなく、AIの考え方がわたし自身にもわかるようになってきた。AIだったらたぶん、こういう答えをはじき出すよね、と思ってAIアプリの予想出力ボタンをクリックすると、八割くらい当たっていたことがある。AIに頼っていながら、わたし自身がAIのような競馬予想の思考を、感覚的に持つようになっていた。

 そんな自分のセンスを信じようと思う。



 高野さんを不審に思うと、その不審さはだんだん真実のように思えてきた。わたしは狙われてしまったのだ。他人からの親切さに飢えていることを瞬時に見抜かれたのだ、おそらくは。わたしの弱点は高野さんの生温かな手で巧みに扱われた。彼にとっての都合の悪い想像など少しだってわたしの頭には浮かばないように、しっかり囲われたゆりかごで揺らされて、きゃあきゃあ喜んでいたに過ぎなかったのかもしれない。

 それでも、わたしは自分自身を信じよう。

 わたしの今回の行動は、正真正銘のギャンブルになる。奈々美がもし事情を知っていたならば、「人生、かかっちゃってるけど?」とやめるように諭してきたかもしれない。




 考えられるだけ考えて、区切りをつけ、答えをだして予想屋サイトを更新した。それからすぐに思い切った金額を賭けたのち、眠れない夜をベッドの中で過ごした。ダービーのことと奏太のことを交互に考えていると鼓動が速いまま落ち着かなった。

 そのうち思考はさまよいだして、ひとりでに奈々美のことを考えたり、子ども時代のささいな記憶をたどったりしはじめ、そうこうしているうちに、脈拍は通常程度まで遅くなり、陽が昇りはじめたころにうとうとしだし、数時間は眠ることができた。

 まだ午前八時前。身支度をして部屋を出る。長い眠りからやっと目覚めた奏太が入院する郊外の病院へとわたしは急いだ。





 奏太は起こしたベッドの背もたれにもたれながら身体を起こしていて、気怠そうな表情のまま懐かしい笑顔をつくってわたしを迎えてくれた。病室に入ったわたしは、すべてが透明な無のようになったその瞬間と溶け合って、言葉という言葉がなにも浮かんでこない。そのまま、奏太を抱きしめていた。

 奏太はまだ、目覚めたばかりで頭がうまく回らないらしい。胃腸も弱っているので、食べたいものをお見舞いの品にするわけにもいかず、もう少し元気になったらなにを食べたい、などと家族みんなで和気あいあいに奏太を囲んだ。

「あまり長い時間居ると奏太が疲れるだろうから」

と母が言って、両親とわたしは昼頃に病院を出た。近くのファミレスに誘われたのだけれど、近況についていろいろ訊かれると面倒なので、また今度ね、とやんわり断り、そのまま駅まで歩いた。電車に乗ってみたものの、まっすぐ部屋に帰るのもなんとなくためらわれ、途中で下車した街でぶらぶら当てもなく歩いてみたりした。

 やっと覚えた空腹のために、道すがらの昭和モダン風の喫茶店に入る。ピラフを注文した。彫り細工がなされた木枠の壁掛け時計に目をやると、あともう少しでダービーの発走時刻を迎えるころだった。でも、わたしはレースを見ようという気分になりはしなかった。見たところで、わたしにできることなどなにもない。なるようになるだけなのだから。

 ピラフを食べ終え、食後のコーヒーを飲み干したころ、携帯で口座の確認をしてみた。

 そういうことよね。

 わたしは会計を済ませ、駅を目指した。







 一週間後、わたしは奈々美と台湾の小さなお店でかき氷を食べていた。インスタに載せたくなるようなカラフルでたのしげなかき氷だ。

「あんた、騙されてたぞ」不意に低い声で奈々美がいたずらっけな表情でささやく。そして、声をもとに戻して「高野って最低だよね」と眉をしかめた。

「こんなに頭を使ったことも、勘を信じたこともなかったよ」

 わたしはマンゴーソースのかかった部分を細い金属製のスプーンでつつきながらそう言って、さらに続けた。

「奈々美、ありがとうね。でもさー、もうちょっとわかりやすくやってくれてもよかったんじゃない? ちょっと不満は残ってるのよね。オトコ言葉がしっくりきすぎだったし」

「いやいや、あたしだって怖々とやってたのよ」

 奈々美が、だから感謝してよね、とウインクするので二人で小さく笑いあった。

 奈々美は高野の元カノだった。わたしはまったく知らなかったのだけれど、どこでどう人は繋がっているものかわからないというひとつの例のようだった。
 
 結局、わたしはツイてたのだろうか。……いや、もうやめよう、すべてを運か不運かで考えるのは。ツイてるだとかツイてないだとか、運だけで見てしまうとめくらましになることが世の中には多すぎるし。

 わたしは以前のように現実から目をそむけたくない。そうであれば、結果をツキだけで判断しないことが第一なのだろう。ツキだけで判断すると、自分の今の実力だってわからなくなるものなのだから。大切な、地道だったりするそれまでの過程だってふっとんじゃう。

 そう、ツキなんていうものをあまりに信じてきたから、自分がわからなくなるのだ。罠にハマるときは、ツキに乗ろうと思ったときだったりしないだろうか。だからわたしは、頼りなくても自分の足で地面に立ち、これからは自分の力で歩くことをやめないでいたい。へとへとになったら、ちょっと休憩をとればいいだけ。わたしは自分の人生の歩き方を自分で決める。もうツキには決めさせない。

 かき氷の店を先に出た奈々美がわたしへと振り返りながら、

「夜は屋台だね、楽しみだよね」

と両腕を広げてくるくる回ってみせる。

「そうだね。全部こっちがおごるんだから、遠慮なくなんでも食べてよね」

「ふふふ、ツイてる!」

「わたしさ、“ツイてる”なんていう言葉を本気で使いたくなくなったね。謙虚さの表れっていう意味なら有りなんだけれど。そういった意味としてしか、わたしは使いたくなくなったな、なんか」

「それはちょっとばかり傷が深めかもね」

「でもまあ、傷と引き換えに得たものは大きかったわけ」

「この、金持ち」

「というか、そっちじゃないほうのが、もっと大きかったの」

 ときおり通りを走り抜ける柔らかな風が気持ちよくて、この風をお土産にできたらいいのにな、と病室の奏太を思い浮かべた。そして、いつか奏太を連れて一緒に台湾を訪れる日のことを夢見た。

 奏太を想ったあのとき、胸の内を舞った清冽な風。わたしはずっと、忘れないでいたい。


<了>
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掌編アップロードのお知らせ。

2022-12-03 13:45:12 | days
仕事を辞めてから、というか仕事中からずっと頭が動かない状態に陥っていました。

ネットニュース記事にタイムリーなものがあったのですが、どうやら職場いじめにも遭っていたといえる状況だったようで。みんなにお菓子を配っていても、僕ははぶかれるだとか、仕事がひと段落して他に仕事があればと古株の人に声をかけると、「いたの、いると思わなかったわ」と言われて、そのうち笑われ出すだとかがありました。気にしてたらだめだ、という気持ちでいたのですが、そうすると相手は図に乗りだしますし、こっちはどんどん小馬鹿にされていきます。バカに対して謙虚にふるまうと、なめられたりバカにされたりしだす、というのをツイッターで読んだことがあります。それか、と思ったり(毒)。

最近はそれなりによくはなってきているのですが、それでもなかなか思うようにはいかなくて。考えてみれば何年も家庭を原因とした不調を抱えていますが、それがデフォルトだととらえてやれることをやっていこう、と。

仕事を辞めるにあたり、執筆状況の不満も家族にうったえました。巻き込まれすぎて1/10をできなくても我慢している、と。それに、不調なので寝ていることも多く、かんたんにこっちに助けを求めてくるのを、受け付けないで寝ていることで、家族もそれになれてきたのかもしれなくて、僕は以前にくらべて少し、自分の時間を取り戻しました、今のことろはですが。

それで、本を読みながら考えたりしつつ、リハビリのように一本、掌編を書きました。タイトルは、『ツイてるわたしの競馬小説』。

すでにカクヨムのアカウントページnoteのアカウントページにアップロードし終えています。しかしながら、なにも反応はいただけておらず、もっと頑張らねばなと思う次第で。

エンタメとしてはサービスや内容の起伏が足りず、純文学としては技芸や芸術性や独自性が足りないのかな、と自己分析しています。そういったところに留意して、次の執筆をしていきます。次元大介の「面白くなってきやがったぜ!」じゃないですけども、状況が悪くなり追い込まれていろいろとやる気が出るようなところはあります。ひとりでやる仕事だからかもしれません。

そういった作品ではありますが、本ブログにも明日中にアップロードを予定しています。明けてすぐの時間帯に予約投稿しようかと。

どうぞ、よろしくお願いいたします。
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