Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『一生お金に困らない「華僑」の思考法則』

2024-06-30 15:10:26 | 読書。
読書。
『一生お金に困らない「華僑」の思考法則』 大城太
を読んだ。

世界中に散らばり、各々の土地に住み着く中国人たち。彼らは華僑と呼ばれますが、本国に居続ける攻撃的中国人とは違い、その境遇に適応するように身に着いた守りの哲学で生きているとされます。そして、困窮する者はいない。本書はそんな華僑たちの思考法則を教わり、自らもビジネスで成功した著者による柔らかな「生き方」「儲け方」の指南書です。46項目に分けて、解説してくれています。僕としては自分の価値観や考え方の死角にあるような話で、とても興味深かったです。

華僑の人たちに特徴的なのは、商売がうまいこと。「商魂たくましい」などと評されますが、人間中心に考えながらの「経営思考」と「サバイバル思考」がそこにはあります。他国でチャイナタウンを作り上げるように、華僑である彼らはコミュニケーションを重視します。けれどもシビアさもしっかりとある。

日本人は不安に苛まれる人だらけだと思いますが、華僑は不安を抱えていない、とあとがきで述べられています。かれらは家族や仲間を大事にし、仲間意識もすごく強い。その結果、「自分には信頼できる仲間がいる」という気持ちが支えとなっているのだそうです。

では、引用を中心に、内容を少し見ていきます。



著者がどうして華僑のA師匠に弟子入りしようと考えたのか。その理由が、なかなか日本社会を言い得ています。
__________

どこまでも学歴や肩書きがつきまとう日本社会では、10代・20代ですでに勝負がついており、私の経歴ではどうあがいても逆転できません。でもどうしても一発逆転したい。ならばゲリラになるしかない。ゲリラが装備すべきはルール無用の中国流だ、と考えたのです。(p14)
__________

→多くの人は心理的にブレーキが働いて、なかなかこうは考えられないのではないでしょうか。世間の空気を破ってしまうから、はみ出してしまうから、と従順に適応してしまうことって多いかもしれない。そこを、端的にこう述べてもらうと、ちょっとすっきりしますし、「ではどうするか」を考える土台にもなります。とはいえ、それにしても夢のない社会だなあ、と思えてくるのですけれども、だからこそいろいろな方面で頑張る人もでてくるんですよね、苦労はしますけど。



次は、華僑の師匠の元でいろいろと失敗をしてしまった著者の弁。
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おかげで私は、貴重な失敗をたくさん経験することができました。失敗から学べというわりに失敗を許さない日本社会では、そうはいきません。(p21)
__________

→日本人は失敗に対する免疫力が弱いと語られるところもありました。そういった日本人の個人的な資質を作るのは、失敗に対する世間的な価値観の強さによってなのかもしれないなあ、と思ったのですが、実際はどうでしょうね。失敗から学ぶことはトライアンドエラーであり、そうやって経験を積んで向上していくものですから、失敗をつよく糾弾されることで挑戦しにくい組織または社会というのはよくないですし、子jンとしてもそういった環境がストレッサーになるでしょう。



次は、「一番自分に合ったやり方選べば一番利益が伸びる」の項での太線部分を。
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最初に教えられたやり方にこだわらず、自分に最適なやり方何かと柔軟に考えれば道は拓ける。(p71)
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→教えられた通りにやってみて、それでうまくいかなかったら、「自分には見込みがないのだろうか」だとか「自分には能力がないのではないか」だとかと考えたりするかもしれません。でも、そうではなくて、ただやり方が合わないだけです。自分に合ったやり方を見つけたり、編み出していければ、ほんとうにその分野にまったく向いていないタイプじゃなければ、大概はうまくできる、ということなんだと思います。



次は、人との距離感について。
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俗に夫婦関係は片目をつぶったほうがうまくいくと言われますが、ビジネスの人間関係も同じです。(p84)
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→価値観の違う人間同士でうまくやっていくためには、片目をつぶるような付き合いがのぞましい。価値観がいっしょだったならば、両目で見つめ合ってつきあえるけれども、そういった人ばかりの会社では、いちどうまくいかないと二の矢、三の矢が継げないと著者は述べています。二の矢、三の矢を継いでいくためにも、片目をつぶる関係の人間関係でできあがった会社のほうがいい、という考え方でした。



次は、お金に対する意識のところを。
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さて「お金は天下の回りもの」の解釈からもわかるように、日本人はお金というものをスピリチュアルにとらえる傾向があります。
一生懸命働いていればいつかは自分のところにもお金が回ってくるだろう、などと本当に真面目です。しかしそこにあるのは真面目さだけ。
お金が天から降ってくることなどあり得ません。自ら手を出してお金を得るための行動をしなければ、天下を回っているお金とは一生無縁でしょう。(p171)
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→華僑にはおごり・おごられのおごり合いの哲学があるそうです。そうやってお金を回して仲間を増やしたりします。また、投資する心理としても、お金を「回す」という意識でいるようです。けして、自然に「回る」のではないようです。そういった、ある意味でのお金へのきれいな執着が、自分にもお金が回ってくる仕組みとなっている。



といったところです。最後にふたつほどトピックを紹介して終わります。

・今でも週刊誌などの記事になっていたりしますが、2013年発刊の本書のなかですでに、「これからは中国で水が売れる」という話がありました。この頃から、中国では水道の蛇口から汚水が出るなどという水質汚濁問題は周知の事実だったらしいです。こういった情報からスピーディーに動くのが華僑や中国のビジネス。この頃から、中国富裕層は高級ミネラルウォーターを欲しがっていたようで、「『華僑』は市場の独占を狙っています」などと書かれていました。知る人だったなら、北海道の水源地が買われていく理由がはっきりわかったんでしょう。中国の水質汚染問題なんて僕は知らなかったです。(p63-66)あたりでした。


・華僑のA師匠が口するという「後院失火(ごいんしっか)」ということわざ。家が火事だったら外の敵と戦えないの意味で、つまり、家庭に火種があれば火消しに追われてビジネスに集中できない、と。これは、まさにまさに、ですねえ。(p202)あたりでした。


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『プレヴェール詩集』

2024-06-29 12:23:08 | 読書。
読書。
『プレヴェール詩集』 プレヴェール 小笠原豊樹 訳
を読んだ。

この詩集は、プレヴェールの主要著作のうちの四つから、60篇余りを訳者が選り抜いて訳したものです。

プレヴェールはシャンソンの名曲『枯葉』の作詞家で他にもシャンソンの名曲をいくつも出がけており、他方、『天井桟敷の人々』や『霧の波止場』などの古い映画で脚本を担当した人です。まったく知らなかったのですけど、フランスの国民的詩人だそう。1900年生まれ、1977年没(ついでながら言うと、僕が生まれた日の二日前に亡くなっていました)。読んでみて、わかるなあ、というタイプの詩はとてもおもしろかったです。

エンタメ的な柔らかくて甘い口当たりを期待してはいけません。とっつきやすい言葉が並んでいても、一文や単語同士の距離感による効果によって、読者が感じるものは、もっと尖ったものになっていると思います。

また、詩作というものはだいたいそういうものが多いですけれども、消費耐久性の高い感じがあります。何度読んでも味わいが褪せにくい。そして、その意味の飛躍に憧れながら読んでいると、何かが解放されていくような読み心地になりました。

死や殺し、暴力などがけっこうよく出てくるのだけれども、それらがないとこれらの詩は、茫洋としてしまうのかもしれない。表現における暴力は、それはそれでなにかを解き放つようです。なにを解き放っているのか? よく考えると、それは「生」なのかもしれない、と思えてくる。

「朝寝坊」という詩なんかはわかりやすくておもしろい種類の作品でした。「庭」という詩は、永遠の一瞬という言葉がでたあとに、パリのモンスリ公園でのくちづけがでてきます。「永遠の一瞬」と「くちづけ」これはイコールでつながりますよね。ウディ・アレン監督によるパリを舞台としたタイムトラベル映画である『ミッドナイト・イン・パリ』でも、主人公とヒロインがくちづけをしたとき、「永遠を感じた」というセリフがあったような覚えがあります。プレヴェールのこの「庭」が元ネタだったらおもしろいです。



あと、「はやくこないかな」という詩。このなかでの一節が個人的に笑えたので、引用しておきます。

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はやくこないかな しずかな一人ぐらし
はやくこないかな たのしいお葬式
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→まったくそうだな! と思ってしまいました、不謹慎ながら 笑



訳者解説部にある、若きプレヴェールを評した、生涯の仲間となるデュアメルの言葉も引用しておきましょう。
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「その驚くべき個性、ありとあらゆる因襲や権威にたいして反抗的な、絶えず沸騰している精神、そのすばらしい喋り方」(p273)
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→活気ある精神、エネルギーに満ちて、なにかを創造するに違いない人、といった感じがします。



最後に、訳者・小笠原豊樹さんがプレヴェールの詩についてやさしく解説してくれているところを引用します。第二次世界大戦後に出版された詩集『ことば』などは、フランスで大ベストセラーとなったそうです。それをふまえて。
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プレヴェールの詩を読んで味わうには、なんらかの予備知識や、専門的知識や、読む側の身構えなどがほとんど全く不必要であるからです。プレヴェールの詩はちょうど親しいともだちのように微笑を浮かべてあなたを待っています。それはいわば読む前からあなたのものなのです。(p281)
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『家族シアター』

2024-06-26 22:06:42 | 読書。
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『家族シアター』 辻村深月
を読んだ。

家族との関係が主軸となっている7つの短編が収録された作品。

作者の辻村さんは、人のいろいろな「だめな部分」をうまく描いています。まるで隠さず、ときにぶちまけられているように感じもするくらいなときがあります。そういった「だめな部分」を起点に人間関係のトラブルなんかがおきるのだけれど、だからといって、その欠点を直してよくなろうよ、と啓発的にはなっていない。「しょうがないもんだよねえ」、とため息をつきつつ、その上でなんとかする、みたいな話の数々でした。

相田みつをさんじゃないですが、「だって、『にんげんだもの』」。そういう前提があってこその作品群だよなあ、と感じました。それはある意味で、人に対して肩の力が抜けていると言えるのです。ただ、「やっぱり優れている!」と思うのは、そうやってゆるく構えたその背後に分析的な思考が隠れているところです。だからこその、ドスッと効いてくる一文やセリフが要所で出てくるんです。

また、「キャラクターが立っている」とはこういう作家のワザのことを言うのだろう、という気がしてきました。キャラクターがしっかり立っていて、読み始めてすぐにとてもそのお話の現場との距離感が近く感じられる。なんていうか、読んでいてわりとすぐに、キャラが溶け込むかのようにこっちになじんできますし、その結果、物語に入り込みやすいのです。

といったところで、三つほど本文から引用して終わります。



『私のディアマンテ』で娘が、主人公の「母」に言うキツイ一言↓
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『自分は親だから、謝らなくてもいいって思ってるよね。そんなふうに血のつながりは絶対って思ってると、いつか、痛い目見るよ』(p120)
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『タイムカプセルの八年』のなかでの、主人公である「父」が開き直るかのように得る気づきの一文↓
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実在しないヒーローの抗力は、放っておいてもいつか切れる。子供がいつの間にかサンタの真実を知るように。一年きりで終わってしまう戦隊物のおもちゃを欲しがらなくなるように。効力は一時的で、しかもまやかしかもしれない。けれど、まやかしでいけない道理がどこにある。大人が作り出したたくさんのまやかしに支えられて、子供はどうせ大人になるのだ。(p206)

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『1992年の秋空』から。主人公である「姉」が、年子の妹の逆上がりの練習を手伝った放課後に感じたこと。これは、この物語全体を表す一文でもありましたし、そもそもこの一文が意味することをテーマとしている小説ってたくさんあるでしょうし、書き手としては扱いやすく、でも作り上げるには深いテーマなのかもしれないです↓
__________

誰かが何かできるようになる瞬間に立ち会うのが、こんなに楽しいとは思わなかった。(p250)
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辻村深月さんの作品は四つ目ではないかと思いますが、だんだん作風がわかってきました。どこまでも底が知れない感じがしていたのですが、ちょっと輪郭がつかめてきたような気がしています。彼女の作品、また少し空けてからですが、さらに読んでいきたいです。


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『ヤフーの1on1』

2024-06-25 23:02:06 | 読書。
読書。
『ヤフーの1on1』 本間浩輔
を読んだ。

「LINEヤフー」に合併するより前に出た本です。合併後もこの「1on1」は続行されているのか、気になるところです。

「1on1」とは、たとえば週に一回の頻度で一度につき30分の時間を業務内に取り、上司と部下が一対一で差し向っておこなう対話のことです。そこで行われるのは、上司から短い問いかけに応えるような形で部下が自らを語っていく、部下の内省を深める対話です。そのために、上司は講習を受けています。主に、コーチング、ティーチング、フィードバック、進捗確認の四つで構成されます。上司に求められる技術はその他、レコグニション(承認。本書では、その人をそのまま受け止めることにあたります)とアクティブリスニング(頷きや表情などで傾聴する技術)です。

どうしてこのような直接利益に結び付かないセッションを行うのか。人事担当でヤフーに「1on1」を普及させた著者は、経験学習のため、そして「個人の才能と情熱を解き放つ」ため、と言い切ります。

経験学習は、「1on1」によって部下の内省が深まることで、その内省によって経験が学習されて身についていくこと、そしてそれによって考える力がつき、自分なりの考え方が培われていくことを意味します。「コルブの経験学習モデル」によると、人が経験から学ぶときには、<具体的経験→内省(振り返り)→教訓を引き出す(持論化・概念化)→新しい状況への適用(持論・教訓を活かす)>というサイクルをたどる、というものだそうで、これが目指される「経験学習」です。

いっぽう、まるで漠然とした標語のような「個人の才能と情熱を解き放つ」はどうか。これは、本書の中で多角的に語られていますが、なかなか含みがあるというか、豊かな意味性があるというか、内容が生きている言葉だと思いました。トライアンドエラーをくり返しながら自らの適正に気付き、それを活かす形で仕事していく。そうすると、やりがいと成果が大きく得られやすい。会社から与えられる仕事をこなすより、自分で自分がいちばんうまくできる仕事を選んでおこなう、つまり「アサインよりチョイス」という言葉も書かれていました。また、「個をあるがままに活かす」ですし、個人の「人としての強さ」を増させようという言葉でもあるようです。そのため、「1on1」がその助けとなっていく。

では、「1on1」の要となる、コーチング、ティーチング、フィードバックについてみていきます。

コーチングとは、部下が内省しながら自力で答えを見つけるために上司がサポートすることです。上司はYES・NOで答えられない的を広くとった質問をすることが主体となります。「どうして怒ってしまったの?」「どうしてAさんは言う通りにしなかったんだろう?」などという質問がそうです。これを部下は、その都度かんがえて言語化していきます。その過程と出てきた言葉と考えが大事なのでした。

次にティーチング。これは、教えることなので、社内のルールではこうだよ、など、コーチングの必要のないような規則や手順などを教える技術です。

最後にフィードバック。これは、あたまは周りからこう見えていますよ、ということを教えることです。部下が何かひとつ仕事を終えたとき、その姿が周囲からどう見えていたかを、好意的にも否定的にも教えることで、部下は自分ってそんな感じなんだ、という気づきが得られる。まあ、知りたくないことも多いでしょうが、本書ではいろいろ知ることが大事だとしています。そこでまた内省が働くきっかけになったりしますし、道を逸れている場合にフィードバックを起点として立て直すことができます。

といったところですが、「コミュニケーションは頻度」という名言が出てくるんですけれども、なるほどそうなのか、とちょっと頭に留めておこうと思いました。3か月に一度、長い話をするよりも、短い話をちょくちょくする関係を構築したほうが、お互いの関係はざっくばらんに近づくようです。

また、「仕事はお金を稼ぐための苦役である」という認識が、労働に対して強いと思いますが、そこに一石を投じて、できれば価値観を変えてしまえるような職場・会社にしたいという著者の思いも、この「1on1」にはあるようでした。

あと、こういう箇所があります。由井俊哉さんという人事コンサルタントの方との対談部分から。

__________

由井:多くの経営者は、そこを我慢できないんです。そもそも経営者は、元から強い価値観を持っていて、誰かと対話しなくても自分から動いて切り開ける人なので、まどろっこしいプロセスが必要な人のことを理解できないのでしょう。

本間:そういうリーダーがトップにいる企業では、1on1なんて必要ないでしょうか。

由井:いえ、した方がいいとお私は思います。(p218)
__________

というところなのですが、どうして「1on1」をしたほうがいいかといえば、トップダウンで言われたことだけやる社員だと、現場での判断力が、「1on1」をしている社員にくらべて劣るからだといいます。そして、昨今の仕事の現場では、現場での判断力がモノを言う。そこで後れを取ると、稼げない時代になっているからでした。そして、人を大事にするからこそ、「1on1」をやるんだ、という心構えがすごくこめられている本でした。

ただ、この「1on1」はヤフー用にカスタマイズされてこそはいても、たとえば前述の由井俊哉さんは、前にいたリクルート社ですでに文化となっていたと語っています。また前に読んだ本によると、任天堂の社長だった岩田聡さんも、HAL研究所時代に「1on1」と言えるような面談・対話を行っていたのを読みました。そんな奇異な手法ではないということですね。わかる人にはわかっている技術だと言えるのではないでしょうか。

それと、余談ながら言ってしまうと、本の造りとしては、まず作ってみようという動機があり、勢いがあれば中身はついてくるというようなノリだと思いました。だから、けっこう空気を含んだおにぎりみたいに、突き詰めすぎていないし、わざとらしいくらいにわかりやすく、イメージを感じてほしいというテーマがあるように感じられもするのです。それはまるで、僕個人が「会社」というものに共通して嫌な感じを覚える時代時代のトレンド的というか、そういった強制的かつみなが進んで飲み込まれる、やっぱりノリとでも言うべきものが本書の中にもある感じがする。ある種の、選民性、優勢民であろうという潜んだ欲求から匂うものであって、それが本書にもある気がするのです。たとえば、何人かとの対談がありますが、そこではまるでアジェンダ(議題・テーマ)が踏まえられていないことでの失敗面として出来上がってるような、ほとんど益のない中身となっているような対談もあります。まあでも、読者はこのビジネス本の勢いにのって、まず雰囲気やイメージをつかめ、という狙いなのかもしれません。

では、最後に、これを会社など仕事面ではなく、家庭に応用したらどうなのか、を考えて終わりにします。

まったく内省しない家族の誰かによって、いろいろと不利益・迷惑を受けているならば、まず、話し合いの場をなんとか作って率直に伝えたりするべきでしょう。だけれど、その誰かによっては、自分が自分と向き合うことを強く恐れるため、「おまえと話をすると具合悪くなるから、もうやめだ」などと打ち切ったりすることがあります。また、話が核心に及ぶと、そのとたんに露骨なくらい話を別な方向に変えたり知らんぷりや聞いていないふりをしはじめたりします。これは僕の経験としてあります。それでですよ。こういう家族を相手にどう内省してもらい、自分の行動や性向を自覚してもらうか(まあその家族の誰かは確信犯的に自己中をやってる場合もありますが)。

コーチングやフィードバックという技術がここで活きるのではないでしょうか。これ、応用すれば、自分と向き合えないタイプの「内省しない家族」に使えるのではないかと思いました。テーブルに差し向ったりL字型に座り「1on1」で話し合うことができないのならば、なにかあったその瞬間に「それはこっちにしてみればこういうふうに受け取れるし、客観的にこういうふうに見えていたりするしこんな意味が含まれている」と一言二言。その家族に放ってみればいいのではないか。ゲリラ的なフィードバックです。そのためには、何かあったときにはまずいろいろこちらが考えておかなければいけません。こういうタイプの人は似たような迷惑パターンの振る舞いを何度も繰り返すものですから、それらの行為や意味合い、影響を言語化しておいて、何度目かのタイミングで言えたらいいと大成功だと思います。

不意打ちみたいにはなりはするけれども、相手はそれではっと気づいたりするし、そうしたことが継続的にできれば、総合的に時間はかかっても、いろいろな点での内省が自然とその人の中で行われるだろうし、自覚もなされたりしそうです。ただ、こういった「指摘」「その振る舞いの意味を教える」などはもしかすると干渉の部類に入るのかもしれません。こっちが干渉をするならば、相手からの干渉もある程度飲まなければいけないような気がしてきます。干渉が嫌な人は、そこで躊躇しますよね、僕みたいに。


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『歪な愛の倫理』

2024-06-22 00:22:24 | 読書。
読書。
『歪な愛の倫理』 小西真理子
を読んだ。

DV(家庭内暴力)の渦中にある当人(当事者・被害者)のさまざまな語りを受け止めることで、第三者がどう彼らへ関わるとよいかを多方面から分析かつ考察し、よりよい選択肢を模索していくような本です。

僕にも経験がありますが、DV被害の相談をすると、もう行政の担当者の言動には「分離」の構えが顔をのぞかせていることに気づいたりします。暴力を振るう父親と、振るわれる母親を一緒の屋根の下では暮らさせることはできない、として行政や支援組織が、父親にはその住所を絶対に教えることのないシェルター住宅に母親を移動させる、というのが「分離」です。

これはこれでパターナリズムと呼ばれもしますが、危害を加えられて命の危険があるのだから助けないといけない、という論理での行動です。実際に暴力で命を落とす、あるいは精神疾患になってしまう、という危険性が存在しますし、また、暴力を振るう者はどうしてもその行為を直すことができない、つまり暴力はどうやってもなくならない、というこれまでの知見からの行動でもあるようです。というように、第一章ではこのような、「通常」だとか「一般的」だとかとされる現在主流の対処について、書かれています。

ただ、物事はストレートにすっきりとは解決されません。すなわち、分離をすることで傷つく人がいますし、シェルターから戻ってしまう人もいる。さらには、加害者をかばいだすことも珍しくありません。それでもなお、行政や支援組織は分離を奨めますし、それがかなわないとき、支援したのに裏切られてしまった、という意味づけがなされて、それ以上、心理的にコミットメントしにくくなったりするようです。

そして、それら行政などの行動を正当化する論理として、前述のような被害者のことを専門家がどう考えるかが最後のほうに書かれているのですが、ここが彼らの行動を支える根本部分の考え方なので、押さえておくべきところでした。それは四つあります。ひとつは、「被害者は加害者の暴力によって無力化しているから」。ふたつめは、「加害者の愛情に固執しているから」。三つめは、「加害者に支配・洗脳されているから」。四つ目が、「加害者に依存しているから」なのでした。これはこれで、言われたら反論しにくい論理ですし、被害者側が悪いのだ、という論理でもあります。割り切ってしまう論理でもあるでしょう。そしてこれらの論理は、現在の日本の一般社会において大きな影響力を持っている、と述べられています。

ですが、第二章以降、そこに著者は挑んでいきます。「生活」、もっというと「人生」や「生」そのものの質感に根差したさまざまな理由があって、分離を拒否させているのではないか。それは読んでいるととても正当な感情や考え方なのですが、第二章のタイトルの最後には「異端」と書かれているように、現在の日本ではスタンダードな見方ではないのでした。

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<第三者>は、暴力・虐待などの問題行動のみをクローズアップする傾向にあるが、虐待者はいつも問題含みの行動を取っているわけではなく、被虐待者がそれとは違う扱いを受けている瞬間もある。このような瞬間こそを被虐待者はクローズアップするのである。合理的な説明や、多くの研究や臨床の蓄積は、このような声の脆弱さを説明しようとするけれど、このように語る人びとが生きているのは、どうやら別の物語のようだ。私たちは、既存の価値観で他者を判断するにとどまるのではなく、<当人>が語っている物語そのもののなかに現れてくる真正性を直視する必要があるのだ。(p52-53)
__________

暴力のサイクルモデル、というものがあります。第一相が緊張が高まる時期、第二相が爆発(暴力発現)の時期、第三相が穏やかで優しく明るく接する時期です。被虐待者は暴力を受けているにもかかわらず、この第三相こそが本当の姿だと考えてしまうものだといいます。そこが悲劇的であるのですが、その反面、その第三相の優しさの関係性にこそ被虐待者を生き延びさせるものが隠されているともいえるのでした。引用にあった「真正性」とは、こういうことを言っています。家族分離を拒否する被害者は、排除を嫌っているわけだし、包摂的に対応したいのです。加害者に人間的成長をしてもらって、第三相だけでできたような家族環境を実現したいのかもしれない。また、これは依存性にあたる部分でもあるのですが、依存によって生き延びることができる「自己治療仮説」にあたる部分でもあるのでした。

「自己治療仮説」や「生き延びるためのアディクション」という言葉で本書では多くの例がこのあと語られるのですが、とても考えさせられました。しかしながら、ここでは割愛いたします。また、リンダ・ミルズが提唱した修復的正義(分離ではなく、虐待者と被虐待者との関係を修復していくことで解決に向かおうとする方法)についての章もあります。ここでも、賛同や批判が多くあるようで、この分野での研究やアクションが先を行っているアメリカでもまだまだ模索中といったようでした。
__________

<リンダ・ミルズの引用>
刑事司法システムは、この社会問題に立ち向かうための唯一の方法にはなり得ない。ほとんど無視されているが、けっして否定できない事実として、暴力的な関係性に巻き込まれているほとんどの人びとが関係性を終わらせることを望んでおらず、パートナーが刑務所に入ることをまったく望んでいない。彼女たちはただ、暴力が止んでほしいだけなのである。(p76)
__________

日本では、夫婦間のDVでは分離が選択されますが、児童虐待のケースだと家庭統合の選択がなされるそうです。この引用では、この家庭統合の方法を多くの人々は望んでいると言っていますし、それが統合ひいては修復的正義の必要性と需要があることの理由となっている。


ショッキングな事件を扱っている章もあります。トルーディ事件がそれでした。アメリカの政治学教授だった女性トルーディが、自閉症の18歳の息子に殺された事件。攻撃性がつよい、暴力のあるタイプの自閉症の息子だったのです。事件の後、なぜ息子を施設に入れなかったのかという疑問がでましたが、女性は、施設には虐待が多くあるので息子はすぐに被害者になる、と考えていたようなところもあるようです。

施設もなかなか難しいですよね。一般に、施設に入れたら家族は楽だから、施設に対して疑念を持ちたくない心理が背後で動きがちなものかもしれない、なんて僕は考えるときがあります。もしも虐待が起これば驚いてみせるけれど、内奥では「やっぱりか」と思っているというように。あるいは、とても楽観的、もしくは反対に、確信犯的に施設に入所させる。

ケアの抱え込みによって共倒れとなったとき、過剰なケアによるケアの失敗と捉える向きは強いでしょうが、それはその一面的解釈であり、社会システムが社会的包摂に対して壊れているからだ、という見方があることを無視せず、また軽んじないことが、より住みやすい社会への布石となるのではないかと、このトルーディ事件の章を読みながらそこにいろいろ重ねつつ思ったのでした。

閑話休題。

最終章では2008年に話題となったドラマ『ラスト・フレンズ』を振り返りながら、そこにDVと第三者による対応のありかたを考えていました。ミルの『自由論』などを引きながら、他害について考察している部分もありました。

というところですが、あとはまとめきれなかったところを、付け加えるように書いていきます。

・「生き延びるためのアディクション」の章にあったのですが、自傷する依存症のような人は境界性パーソナリティ障害だったりするようです。そのために「拒絶されるクライアント」となる場面も多いそうです。この障害は人を欺く特徴がありますし、医師などを振り回したり、対応する者が疲弊してしまうので、なかなか大変だそうです。(p156あたり)

・以下が最後の付記であり、引用となります。
__________

親密な関係に生じた暴力問題において、<当人>が相手に愛着を抱いているような場合、<当人>がどのような人であり、その人がどのような状況や気持ちを抱えているのかといった個別具体的な文脈に応じて、その都度かかわっていくしかないという立場を本書はとっている。このような、権利とも義務とも結びつきかねるような自由こそが、この本が問おうとしているものなのである。(p196)
__________

→個別性があるのだから、できればそこを見ていこう、ということですね。類型で見てしまえば、零れ落ちてしまうものの多いのがこの暴力の現場なのだと思います。さまざまな想いがあるものですから、排除や分離といった、暴力で暴力に対処する行為には僕もどっちかといえば反対です。この分野を考えていくことは、細かい知的な仕事になりますし、時間やエネルギーといったコスト面でも大きな負荷がかかるでしょうが、それはたぶん最初のうちだけで、そのうち、もっとこの分野が開拓されていくように解明されていけば、きっとある程度の道筋がつくので、後輩となる現場の者たちはいくらか楽に、各々のケースの核心部分に到達しやすくなるのではないでしょうか。


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『予告された殺人の記録』

2024-06-17 12:08:05 | 読書。
読書。
『予告された殺人の記録』 G・ガルシア=マルケス 野谷文昭 訳
を読んだ。

ノーベル賞作家として名高く、代表作『百年の孤独』が文庫化されるニュースが話題にもなったG・ガルシア=マルケスの中編作品。

殺人犯となる双子の男たちが「サンティアゴ・ナサールを始末する!」とあたりかまわず言いふらします。屠殺用ナイフを隠そうともせずに持ち歩きながらです。それから町中で急激にうわさが広まっていったにもかかわらず誰にも止められず、双子の殺人犯たちににしても誰かが止めてくれるのを期待していたところがあっただろうに、決行されてしまった殺人事件の物語。実際に著者が生まれ育った町で起きた事件をモチーフに小説化したものだそうです。

事件から30年後の世界で、主人公が事件の調査をするというかたちで、事件の経緯が明らかにされていきます。多角的に語られるひとつの殺人事件。いろいろな人物がその事件のことを語っていく。それぞれの人生がその事件のうえで重なっている部分をみているような感覚もあります。

1ページ目から最後までずっと語られるこの事件を俯瞰で眺めるとすると、殺人事件としてはそんなに珍しくないそのひとつなんだという気もします。悲劇であることは間違いないのだけれど。それが、各登場人物の考え方や心理がそれぞれであり、独自性があり(それでいて、ありがちだと思えもする近しさがあったりする)、迷いや逡巡や思い込みや気持ちの弱さがそのままというくらいに書かれているから、物語のディテールがとても生きいきとしてなおかつ唯一性を感じさせているように思えるのでした。

様々な私情がそこには存在しています。そして、汚されたこの小さな町の名誉のため、そして殺された金持ちに対する妬ましかったり恨みがましかったりする深層心理のため、望まれた殺人という性質も感じさせさえします。

いろいろな運命がこの事件のパーツを成している、それもボタンの掛け違いのような組み合わさり方によって起きてしまった事件、という性格もあるでしょう。そういったところが巻末の解説を読むことで、くっきりとしてくるところがありました。解説を読んで、「なるほどなあ」と思う部分は多かったです。

完成度が高い作品ですね。

そういうところとは別に、僕としては好きだった箇所を引用して終わりにします。
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「二人ともまるで子供みたいだったよ」と彼女はわたしに言っている。そう思ったとたん、彼女は背筋が寒くなった。なぜなら、日ごろから、子供だったらどんなことでもしかねないと思っていたからである。(p66)
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殺人を犯す直前の犯人たちの様子から、ある人物がふと感じるところです。なんということもない箇所ではあるのですが、こういうレトリックって上手くないですか。一人の人物がひとつの表象から感じたことが、常日頃の自身の哲学や知恵と不意に結びつく感じが好きです。



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『パーソナリティ障害とは何か』

2024-06-14 23:02:40 | 読書。
読書。
『パーソナリティ障害とは何か』 牛島定信
を読んだ。

境界性パーソナリティ障害、反社会性パーソナリティ障害などがパーソナリティ障害としてよく耳目に触れますが、本書ではおよそ九つの「パーソナリティ傾向」とそれらが暴走したときの「パーソナリティ障害」を解説しています。

まず、基本として踏まえておく概念から。

__________

個人は、もともと遺伝素質的基盤にもとづく性格傾向(強迫性、演技性、スキゾイド、サイクロイド)をもって生まれ、幼児期、青年期の生育環境を通過するなかで精神的栄養に浴し、いろいろな社会体験を得て、より社会化された人格を形成するという経過をたどるだろう。これが健康なパーソナリティである。ところが、幼児期から青年期にかけて、さまざまな外傷をはじめとした有害な心理体験をもつと、本来の性格傾向の発達ラインに歪みを生じ、社会的適応性を欠いた人格になってしまうのである。それがパーソナリティ障害であろう。(中略)それだけに、パーソナリティとパーソナリティ障害のあいだの中間領域は意外と幅広いものであることも心得ておかねばならない。(p16-17)
__________


この本ほどスパッとパーソナリティの類型に分けられるほど、多くの人たちはオーソドックスではないと思うのです。いろいろと考えながら読んだのですが、たとえば、彼には自己愛性パーソナリティと強迫性パーソナリティの傾向のどちらもあるし他にもサイクロイドパーソナリティの傾向や依存性パーソナリティの傾向もみられる、みたいになるからです。まあでも、といいつつ、勉強になりました。さまざまな傾向にはクラスタのように他にも近接した傾向がある、というようにひとつひとつのパーソナリティ傾向を知ることができたからです。こういった傾向があるなら、これもあるよね、ならば根っこのところはこうだねというようにですね。

第三者が回し役となっておこなう家族療法の有効性や、同性同年輩の友達との忌憚ないやりとりができる関係を構築してきたか、あるいは築けていけるかがパーソナリティ障害への防波堤となり、社会的なパーソナリティを作っていくための頑丈な足掛かりとなることが最後の方で述べられていて、なるほどなあと何度も肯きました。

では、ここからは九つのパーソナリティについて覚書的に書いていきます。



◆スキゾイド・パーソナリティ障害
→パーソナリティとしては、孤立に陥りやすいが、孤独をおそれるところがなく、むしろそれを好んでいるかのような印象を与える。世俗的なつきあいは好まない。一致団結して立ち向かうのは苦手。それなりに社会的感覚をみにつけてはいるが、型にはまるようなことは苦手。他律性に弱く、社会に出たときなど、心理的に乗っ取られた感覚・状況が不利払えなくなったりする。そういったときに、スキゾイド・パーソナリティ障害となりやすい。



◆サイクロイド・パーソナリティ障害
→サイクロイドとは循環気質の意。つまり、はじめは躁うつ病の病前性質と位置付けられたようです。パーソナリティの特徴としては、社交的であること。善良で親切で温厚、明朗でユーモアがあり活発で激しやすい、そして寡黙で陰鬱で気弱という面がある。パーソナリティ障害へと進む人は、幼少期にじゅうぶんな依存を体験できていなかったことが推定されるそう。人によっては、その点に絞って依存の体験をさせると驚くほど安定するとあります。
また、暴力や過食、アルコール依存がでたとき、患者は強い無力感を感じている場合があります。「情けをかけあう関係がなくなると無力になる」「対人関係でズレが生じると無力になる」などと述べるそう。この障害では、激しい怒りの突出が問題となり、暴力沙汰になることもあるけれども、成熟度の高い人格であれば、それを抑えようとパニック発作(動悸、胸の圧迫感、などといった症状)さらには強迫症状を呈することもある。境界性、自己愛性の場合は、自己愛的な要求の意がふくまれていることが多いが、サイクロイドの人は、対象とのつながりを失った無力感が根本にあったりするので、混乱が極みに達している場合、早々に入院させ、社会的責務から解放してやり、病棟スタッフや他の患者との人間的交流(つながり)を回復させると意外と短期間で安定し、元気になる。さらに、心おきなく話し合える身近な人たちとの会食、旅行などもまた優しい薬となる。



◆妄想性パーソナリティ障害
→疑惑、猜疑、不信といった心理が表面にでやすいパーソナリティ。一過性にしろ、まったくの妄想状態に陥って社会生活が破綻するほどになれば、それは妄想性パーソナリティ障害と言わざるを得なくなる。ただ、人格そのものに破綻をきたしてしまう統合失調症や妄想性障害とは違い、ストレスが高まって並外れた妄想的思考に陥ってしまった人のことを言うとあります。他人が自分を利用する、自分に危害を加える、あるいは騙そうとしているのではないかという疑いをもつ場面が生じるところにはじまるそうです。エスカレートすると、攻撃的な態度になります。彼らは支配、被支配の関係の関係に過敏で、反応しやすいことがあげられる。また、

<こうした防衛体制がもたらす第一の特徴は、自分の未知の世界を知ることに途轍もない恐怖感があることである。そのため、彼らは、内面の細かな心を分析していく作業に耐えられないという事情がある。心の中の動きを細やかに聴いていく治療者の態度は患者に不安をかき立てる。(p85-86)>

といった特徴があります。



◆反社会性パーソナリティ障害
→物事を判断する能力はあるが、人間が社会生活を送るうえで決して犯してはならない決まりごと(道徳観、法律)を破ることに抵抗を感じない人たち。反社会性パーソナリティ障害の特徴は、他者へ危害を加える暴力行為、自分の快楽や利益のために人をだます、ウソをつく、利用するなどの行為、他者の財産や権利を平然と侵害する窃盗や恐喝などの行為となります。さらに、社会的な責任を無視し、衝動的で後先考えず、親として子どもに衣食住を準備し教育を施すといった態度の欠如、一夫一婦制を維持するための我慢のなさ、安定した仕事をつづけることの難しさがあげられる。背景には、良心の呵責や思いやりの欠落がある。口が達者で、、相手の弱点を巧みに突くことに長けているタイプは、相手を利用して不遇な立場に陥れることがしばしばであるが、申し訳なさ、自責の念といった感情体験をした様子はない。そして、圧倒的に男性が多い障害だそうです。



◆境界性パーソナリティ障害
→些細なことですぐ死にたくなる。その結果、過食、手首自傷、過量服薬、性的放逸、浪費などの自己破壊的行動が表面化する。対人関係が非常に不安定で、母親にべったりと依存していたかと思うと、ちょっとした行き違いで一瞬にして関係が険悪になったりする。怒りや恐怖、罪意識、無力感などが混然一体となり「見捨てられた感」を持っているというのもあります。勉強や仕事は長続きしない。過去と現在の距離が近いなどが特徴としてあげられます。そして、最近は減ってきた症例だそうです。

また以下のような箇所が、境界性に限らず、こういった傾向を持つ人っているよなあと思って読んでいました。

<患者の幼児的な言動(衝動行為)にどう対応するかが主要な目標であった。そこで、まず推奨されたのが「限界設定」という技法である。手首自傷をはじめとするさまざまな衝動行為、あるいは一般常識を守らない「境界侵犯」(時間外の電話や受診など)に対して、それを止めるように説得する、それができなければ制限を加える、さらに事態が深刻になれば入院させるなどがそうであった。(p115)>



◆自己愛性パーソナリティ障害
→反社会性パーソナリティ障害と同様に、つけ入り、支配する傾向がある。誇大的自己、賞賛されたい欲求、他者に対する共感性の欠如が基本的特性となっている。自分は特別な存在だと思っていて、自分自身に並々ならぬ関心がある。しかしながら、以下の引用のような弱さを持っている。

<ともあれ、治療を開始するとき、患者が、同一性の感覚や自己評価を保つ能力に必要な母親の肯定、賞賛、承認を得た経験がないために、自らの内面的な弱さに向き合うことに非常な恐怖心を抱いていることを心に留めておきたい。治療者のやり方に対して辛辣な批判を加え、落胆して投げやりになる態度を隠そうとしなかったり、逆に大所高所からの説教じみた批判をしたりする。それだけに、治療者もまた、気力をくじかれ、怒り心頭に発することがしばしばである。対応する人間にとって、こうした感情と闘うのは生易しいことではない。(p134)>

妄想性パーソナリティと似て、自分自身と向かい合うのができないタイプのようです。そして治療者は異口同音に「忍耐」を口するほど、難しい治療ケースになっていくそうです。

周囲の賛同や賞賛が得られないでいると、激しく怒り、苦しむのだそうで、さらに憤りを越えて自殺念慮をともなう抑うつに陥ることもあるそうです。

表面的に尊大で、内面は弱々しい。このようなパーソナリティに至ったのは、自己愛的欲求の高まる時期に母親がそれを支えて自己愛の満足体験をもたせることをせずに、子どもをけなし、そしり、腐し、ときには面罵さえする母子関係があるとされている。外の尊大な自己と内の弱々しい自己の奥に、本物の自己がいて、それが出てくると安定してくるそうです。このパーソナリティは「恥の心理」がキーポイントで、すなわち自尊心の傷つきをいかに癒していくかの問題になるそうです。罪悪感を基本とする強迫性パーソナリティとは対照的だと著者は述べている。

自己愛性パーソナリティの人は、賞賛を求めるのに、同情や尊敬の念を持つことのない自己中心性の持ち主。いざこざをおこしやすいが、社会感覚は身に付けているので適応的ではあるそうです。

<彼らには、肯定、賞賛、承認の体験が欠落しているため、羞恥心が非常に強く、ごく当たり前の要求や依頼さえできないでいることが多い。言い換えれば、上手に甘えられないのである。
上手に甘えられるようになると、自己愛者も、他者を見下さずに済むようになる。平凡でもよいのだと知るようになる。恥を感じることなく他者と本当の気持ちを通わせ合うことができるようになると言ってもよい。このような関係が形成されるようになったら、しめたものである。(p135)>



◆回避性パーソナリティ障害
→自信の無さと劣等感、そしてそれにともなうひきこもりが特徴です。しかし、そうでありながらも、他者とのつながりを希求するそうです。日本人の気質に特有のものとして森田正馬が森田神経質という気質を提唱したそうで、それがこの回避性パーソナリティの章で紹介されていました。森田神経質は、対人関係で傷つくことを恐れ、依存性を秘めながらも自立的であろうとする。その一方で、強迫的で完全主義的なところがあり、自分の為したことに不全感を持っていて、確認をくり返しこだわりをもっている。相手が自分をどう思っているのか、と非常に過敏で配慮がちで遠慮がちな態度をとりやすい。恥の心理と絡んだ人格のありようだけれども、自己愛性パーソナリティとは違い、おごり高ぶった態度とはまったく違う態度に徹している。

この章では個人的に、以下のような知見が得られました。
「不安や葛藤があるからこそ、第三者の目を失わないで済む。それは世間体、周囲の評価を気にする心理」とあって、なるほどと膝を打ったのですた。不安や葛藤がないと、善の暴走になります。それは、人間は自分にとっての善しか行わないということを前提とするならば、ですが。不安は、猜疑心や強迫行動などなどさまざまな心理面でのトラブルの種だと思ってきましたし、良い効果なんてまるで考えてきませんでした。それが世間体を作っている、なんてすごい考察です。何ごとも過度にならず、バランスを保ちつつだ、と改めて思うのでした。



◆強迫性パーソナリティ障害
→几帳面。何ごともきちんとしていなければ安心できない。分類、リスト、統計表、計画表などを作成することに快感を覚え、それを実行することに満足する。ただ、そういった特性ゆえに、状況の変化、突発的な予定の変更に弱いところがある。切り替えがきかず、ときには不安、混乱をきたす。自由な発想を求められる創造的な仕事には不向き。また完全主義で、個々の仕事に重要性の濃淡をつけられず、すべてに注意を均等に払わねばならないため、末節にこだわって作業がなかなか前に進まない、前置きが長すぎて単刀直入に本論に入れない。また、倹約家で円単位にけちけちするが、ときに大盤振る舞いをするなどほんとうの意味では倹約になっていない。節約は時間にも及んで、娯楽や家族とのゆったりとした時間は無駄に映りやすい。人間的触れ合いを避ける傾向もある。そしてアンビバレンスの心性が顕著で、相反する考えや感情を同時に抱え込んでいるので、好き嫌い、受容と拒否が心の中に併存している。そのため、はっきりとした態度が取れなくなる。話が前に進まず、みんなを巻き込んだ混乱を招いていることも見られる。最後に、頑固さをあげる。道徳、倫理、社会の価値観にひどく従順であるが、それが度を越して不寛容なので、そこから外れた人間を許さない。同様に、周囲に合わせることも不得意で、自分の思いに沿った仕事をやってくれないと部下と一緒に働けない。他人に任せることができず、支配的という印象を与える。
以上は病的とまではいかないことに注意が必要だと著者は述べます。問題は、これらが行き過ぎて社会生活に支障をきたすほどになったときなのでした。たとえば、激しい怒りを噴出させ、家庭を混乱させることに至れば、それは問題となります。
治療にあたっては、激しい怒りの突出とは対照的に、通常時は感情をひどく抑えているので、感情面や情緒面に関心を向けるように誘うことが大切になるそう。また、煙幕を張るがごとく、とりとめのない話を延々として、なかなか本論にはいれない場面があるので、そういったときには話の焦点をしぼってあげるとよい、とあります。末節にこだわって本論にはいりにくいことを実感させてあげる、つまり自覚させてあげることがポイントなのでした。
そうしながら、患者がふたつの相反する心の中で苦しんでいることに気付ける援助をしていく。そうすると、患者はしだいに、自分が周囲に振り回されているばかりだということがわかってきて、そうなるといかに自分を見失ってきたかがわかりだします。そうやって、心が外に向かっていき、捕らわれた世界から、新しい世界が拓けてくる、とあります。



◆演技性パーソナリティ障害
→かつては女性のみのパーソナリティ障害と考えられてきましたが、現代では男性にもあるとされています。
感情表現が大げさで、わずかのことで大騒ぎするが、いかにも芝居じみているというのが特徴。派手で露出過多な格好をし、他の目を引くような分不相応な贅沢をし、話は空想的で、ウソ交じりの話をする。時に、空想的虚言症と呼ばれる状態にまで発展する。社会の流行の影響を受け、体調も気分も他からの暗示で良くなったり悪くなったりする。男女関係では、いかにも色っぽく、魅惑的な印象を与える。また要求がましく依存してくるところがある。つまり、他の注目を惹こうとする意識・無意識的な意図が、演技性の人の基本的心理だと言われているそうです。そして、そこには自らの空虚さがあるとされている。



以上です。


本書から学んだことのひとつに、「処世術の意味」というものがありました。会社にどうしてもいきたくないときに仮病をつかったり、それが1週間にも及んだようなときにはお願いして診断書を作ってもらうなどが著者の言うところの「処世術」。

そういった行為を「悪」だと断じるように考えるために、処世術を行わない、あるいは心理的抵抗があって行えないというのはあると思います。いわゆる真面目な人がそうでしょう。ですが、「悪」というよりも「処世術」なのであって、生きていくために使っていく方法なのだから、肯定するべきなのだ、というように本書では書かれています。生きていくことはサバイバルなのですから、ときにそういった方法が必要になる。

それは多様な人々が暮らすこの社会が、誰にとっても平等で完全であることが不可能であるのですし、そもそも人間という生き物は、不合理な衝動や欲求が内面に生じてくる存在ですし、感情というままならないものに動かされて生きている存在です。だからいわゆる真面目人間的態度ではパーソナリティに無理がたたり、場合によっては障害にもつながるのだと言えるのではないでしょうか。

ただ、これについて、自己愛性パーソナリティ障害の人は別です。このパーソナリティの傾向を持つ人たちは、自分中心に過ぎるため、処世術の範囲以上に悪を為しやすいみたいです。そんな自己愛性パーソナリティ障害の人を家族に持つと、他の家族がメンタルに失調をきたしやすい、という傾向もあるようです。

こういったことは、憲法で守られている「内心の自由」の大切さに通じるんですよね。宗教だと、そういったことも「告解しないと浄化されません」だとか、また、ちょっとズレがあるかもだけど「煩悩を持っちゃいかん!」になる。んなこたぁないし、逆にいびつな人格になっちゃう。ときに道徳に反しても自分で自分を守るために行う、処世術は大切だと思います。

というところですが、上記の話の続きとして、以下の引用で終わりにします。


__________

(略)自分で決断できないし、それだけに会社に自分の意思を伝えられないのである。
いずれも自己愛的で他罰的であるが、要は、ソーシャルスキル、コミュニケーション能力の低さに由来している。それだけに、本人のプライドに気をつけ、ゆっくりと時間をかけながらも、治療場面で患者の示すソーシャルスキル、コミュニケーション能力の低さにはすかさず、その振る舞いに注目して支援していくことが求められる。「そういうときは先輩に相談するものだ」などの助言をする、一週間の無断欠勤をして何のフォローもせずに困っているときは、「ウソでもよいから体調不良の診断書を出すものだ」といって診断書を書いてやるなど、日常生活での些細なひっかかりを話題にできるように心掛け、他愛のない言葉をかけられるようにしておくのもパーソナリティ障害治療の一環である。(p208)
__________


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『生田絵梨花 乃木坂46卒業記念メモリアルブック カノン』

2024-06-13 23:23:01 | 読書。
読書。
『生田絵梨花 乃木坂46卒業記念メモリアルブック カノン』
を読んだ。

もう二年半前になってしまいましたが、乃木坂46を卒業された生田絵梨花さんのメモリアルブックです。

めちゃめちゃ好きな人です。お顔も表情も、声もスタイルも、表舞台に出ているところしかわかりませんがそのキャラクターや気持ちの持ちかたも、そして努力し続けて結果を出していく姿勢も、このうえなく魅力的に僕の目には輝いて映り続けています。

でも、本書が発売されたころ、すなわち生田さんが卒業された頃のその前後の期間は、後進に道を譲るために支える側に回ったような生田さんだったので、ちょっと残念でしたし、グループから巣立っていかれる気配が感じられもしたので、「もはや、これまでか」と早い段階から推し卒みたいな感じになっていました。卒業したあとまではあまり追いかけたくないタイプなので。

しかしながら、ドラマに出演されたり歌番組の司会をされたりしていますから、どうしても追いかけてしまうのですよ。だって、あのいくちゃんなんだから、と。そうやって、懲りずに(?)うっとりした気持ちになって元気を頂き続けています。感謝です。

さて。本書は撮りおろしの素敵な生田絵梨花さんの姿がふんだんにありますし、講談社から発刊されているので、『乃木撮』からセレクトされたものや、『乃木撮』のフォーマットをつかって、デビュー間もない頃のまだ子ども顔のほうがつよい生田さんの姿を特集したページもあります。

そして、「ジャイアンとのび太」の関係と言われる秋元真夏さんとのくだけた対談、後に卒業ライブの開催時期的に1期生最後の卒業をされたエース・齋藤飛鳥さんとのグループで10年いっしょにいたといえども二人の間にある余白をちょっぴり埋めるような感じの対談が収録されています。両者とも、その関係性があたたかですし、僕はとても好ましい人たちのファンになったなあ、という気があらためてしてくるのでした。

メンバーのアンケートでは、いくちゃんは「天才」と「努力家」で評価が二分されたのだとあります。たしかに、才能があって、努力を人一倍されている印象があります。それでいて、天真爛漫なんです。ちょっとおもしろいところもあります。お顔が大好きだし、ロックオンされて当たり前だと自分では納得がいくんですよねえ。

乃木坂に加入したころからちょっとの間、カチカチ人間だった、と自他ともに認めているコメントが載っています。表情は硬く、とくに眉が吊り上がっていて、目もきつめでした。それが、グループにいてこなれてくるというか「丸くなってきて今の表情になった」とご自分でお話しされている。ただ、僕はつい最近気づきました。司会をされているNHKの歌番組venue101を観ていたら、あの頃の眉の感じをほうふつとさせるときがありました。時間かっちりで進行して回さなければいけない司会業ですから、呼び覚まされるものがあるのかもしれません。でも、そんないくちゃんも大好きです。というか本気で、一生、大好きな人かもしれない。

白石麻衣さんのときもそうでしたが、悲しいとか寂しいとかそんな感じのほとんどない、おめでとうありがとうステキだね楽しいね、な卒業本でした。2年半遅れで、「ご卒業おめでとう」です。


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note創作大賞2024に応募しました。

2024-06-10 13:22:40 | days
note創作大賞2024に応募しました。今回は恋愛小説部門です。

26,000字ほどの短編です。
半年くらい前に書いた17,000字の短編『死をめぐる、悲しみとまやかしの午後』を少々直したうえに続きを書いた、『古河蒼太郎の死をめぐる、悲しみとまやかしの午後』が応募作品となります。

『古河蒼太郎の死をめぐる、悲しみとまやかしの午後』

↑が一話目へのリンクです。
全4話に分割しました。読んでいただけると励みになります。読了していただた上にスキをつけていただくと喜びます。どうぞ、よろしくお願いいたします。

note創作大賞自体は、7/23が締め切りで、それから1週間ほどの読者選考期間が設けてあります。それから審査にはいるようです。

どうでしょうね。応援よろしくお願いいたします。

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『自由論』

2024-06-05 13:15:30 | 読書。
読書。
『自由論』 ミル 斉藤悦則 訳
を読んだ。

民主主義のなかでの「自由」とは、どのように扱われ、どのように踏まえ、どう装備していったらいいのか。社会と個人との関係性を重視しながら、「自由」について深く考察した論考であり、19世紀に考えられ書かれていてもなお新しさがまばゆい古典です。

民主主義による「画一性の傾向」とその具体的な現出である「多数派の専制」を危ぶみ、そういった現象に陥らないように多様性がどんなふうに社会にとって良いのかについて説いています。

こう書くと自明なんだけど、他者への迷惑になる自由はだめだよ、ということであり、それ以外は個人の範囲内で許される、というのが大まかにですが自由の制限についてのところでした。あと、国家から個人への干渉については必要最小限までというような論説でした。

また、行政という機関についてもその硬直性や支配性をミルは指し示し、その抑止として、行政に就く者たちと同等以上の知性でもって、その外部(民間の側)から監視し意見することが述べられていました。ほんとそうだと思います。

それでいて、ところどころ、処世訓というか世知というか、そういったものの大事さが述べられもするのです。賭け事だとかちょっと悪いことをしても、世間的に評判がよかったり、仕事で実績があることをみんながわかっている人がやるのだったら世間はなにも言わないけれども、これが世間的にあまり認められていないような人がやると、悪評が立ちやすいしとやかく言われがちだと。だから、慎重に行動したほうがいいのだ、というような、実際的な知恵をJ.S.ミルは大切にしているところがあります。

『自由論』は学生の頃に図書館でぱらぱらと読んだような気がしていたのだけど、ほんとうに読んでいたのはおそらく経済学のほうの著作だなと気づきました。レポートを書くのに読まなきゃならなかった本だったのでした。

さて、ここからは勉強モードで引用とそれへのコメントの方式で綴っていきます。


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すなわち、多数派が、法律上の刑罰によらなくても、考え方や生き方が異なるひとびとに、自分たちの考え方や生き方を行動の規範として押しつけるような社会の傾向にたいして防御が必要である。社会の慣習と調和しない個性の発展を阻害し、できればそういう個性の形成そのものを妨げようとする傾向、あらゆるひとびとの性格をむりやり社会の模範的な型どおりにしたがる傾向、これにたいする防御が必要である。(p20)
__________

→ここではつまり、世間や世論が個人の自由を抑圧することを述べていますね。また、このあとの部分にあるのですが、規則、規律、規範といったものは時代ごと、国ごとに違った答えが出されるものなのに、そのただなかにいる人たちは、それは人類が一貫して同意してきたもののように考えてしまう傾向がある、ということでした。不変の真理だと捉えてしまいがちだということです。
これは現代でもいろいろ思い当たります。もはや空気のように身近で、かつ特別に意識もされないような規範が、日本独自のもの、時代独自のものだったりするんだろうなあ、と静かに考えごとをしているときななんかに気付くことってないでしょうか。



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自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪ったり、幸福を求める他人の努力を妨害したりしないかぎりにおいて、自分自身の幸福を自分なりの方法で追及する自由である。人はみな、自分の体の健康、自分の頭や心の健康を、自分で守る権利があるのだ。
人が良いと思う生き方をほかの人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに認めあうほうが、人類にとって、はるかに有益なのである。(p36-37)
__________

→これは大原則。でも、こういったことに反する生き方をしている人はかなりいるのではないでしょうか。他人の幸福を奪う人もいるし、努力の妨害もあるし、健康を守ろうとする人の権利を妨げる人もいます。こういった、万人がふまえていていい大原則って、子どものうちから折あるごとに教育し、なおかつ、大人も自己学習を通したりなどして身に付けていくことで、社会的に根づくと思うのですけれども、なかなかそうはならないのは、権力を持つ側の利害に反するという事情があるからだったりするのかなあ、とちょっと斜め読みしてしまうところです。J.S.ミルは、意見の強制、押し付けは支配者のみならず市民であってもすることだと後で述べています。人間の本性に付随する感情の、最良の部分と最悪の部分の両者にわたったところから強く支えられているから、これを抑制するには権力を弱めるしかない、としています。でも権力はどんどん強まっていて、じゃあどうすればいいかというと、道徳的な信念で防壁を作ることだ、と締めています。



__________

すなわち、人間は自分の誤りを自分で改めることができる。知的で道徳的な存在である人間の、すべての美点の源泉がそこにある。(p53)
__________

→人間の長所を述べていますね。このために人類はおおきく道を逸れたりしないでこれた、と前段部分にあります。そして、人間に対するいちばんはじめの信頼であり、最後の希望でもあります。



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自分達が大事にしている信念を認めない人間は、迫害してもよいという意見や感情をひとびとは抱いている。そのためにイギリスは思想のない国になっているのである。(p78)
__________

→これは同調圧力の話ではないでしょうか。現代日本の国民性も、ここで言われているような19世紀イギリス国民の傾向と同じようなところがあると思います。日本には思想がない、と言われますが、こういった国民性が思想を育てないのだ、という論理にもなります。行動原理が、「思想」とは別に「同調性」にある、という論理です。



__________

しだいに信仰は、決まり文句を二三覚えるだけでよいもの、あるいは、ただのっそりと頭を下げるだけでよいものになっていく。黙ってそれを受け入れさえすればよく、もはやはっきりと信仰を自覚する必要もなく、また、自分の体験によって信仰を確かめる必要もないものになっていく。そして、信仰は、ついには人間の内面生活とほとんど関係ないものになってしまう。(p100)
__________

→信仰が定着した後についての箇所です。日本の神道や仏教の存在を思い浮かべると、類推が利きます。神棚があって、元日などにはお神酒を供えて、でも、無宗教だと言ってのける日本人の姿って、ここで言われていることと符合してはいませんか。



__________

どんな問題でも、全員が賛成してもよさそうなときに、なぜか反対する人がいたりする。そんなとき、たとえ多数意見のほうが正しくても、かならず反対意見にも耳を預けるに値する何かが含まれていることはありうる。反対の声を封じたら、心理のうちの、その何かが失われるのである。(p118)
__________

→議論の大切さを何度も説く著者です。その理由がこういったところにもあります。勢いのある意見には真理が含まれているけれども、100%の真理はあり得ない、反対意見や少数意見のなかにその足りていない真理が含まれているので、議論してすり合わせていったり、アウフヘーベン(両者をより高い段階で統一する)していくようなことが大切なのでした。これに対して、セクト主義というものは反対意見を認めず抑圧するのでよくない、とあとで述べています。



__________

一般に、世間で当たり前とされていることに反対する意見を言うときは、つとめて穏やかな言葉づかいをし、無用の刺激を与えないよう細心の注意を払わなければ、話を聞いてもらえまい。この線から少しでも逸れたら、かならず足場を踏みはずす。(p132-133)
__________

→前述しましたが、これがJ.S.ミルの現実的で実際的な処世訓のひとつです。SNSで声高に、強い調子で反対意見を主張する人がたくさんいるようで、僕のTLにも流れてきますけれども、ミルの言うような振るまいであれば、もっと建設的に議論となっていくんでしょう。



__________

洞察力、判断力、識別力、学習力、さらには道徳感情をも含む人間の諸能力は、選択を行うことによってのみ鍛えられる。何ごとも慣習にしたがう者は、選択を行わない。最善のものを見分けたり、最善のものを望む力が、少しも育たない。(p142)
__________

→これ自体がすごい洞察力です。人生は選択の連続ですが、それを自分自身が主体的に決めていけば、おのずとこういった能力は磨かれていくのだと思います。それと、創作活動をすると選択の連続にいやがおうでも接することになるのを、僕は音楽作りや小説書きの経験上知っています。よって、そういったクリエイティブな活動をお勧めしたくなるのでした。ミルによると、人生の設計を自分で選ぶのではなく、世間や自分の周辺のひとびとに選んでもらうのであれば、猿のような模倣能力のほかには何の能力も必要ない、そうです。アイロニーが効いてます。



__________

現代人は、このように、精神が束縛されている。娯楽でさえ、みんなに合わせることを第一に考える。大勢の人にまぎれたがる。何かを選ぶ場合にも、世間でふつうとされているもののなかからしか選ばない。変わった趣味や、エキセントリックな行為は、犯罪と同様に遠ざける。自分の本性にしたがわないようにしていると、したがうべき本性が自分のなかからなくなる。人間としての能力は衰え、働かなくなる。強い願望も素朴な喜びももてなくなり、自分で育み自分自身のものだといけるような意見も感情ももたない人間となる。(p149)
__________

→ここで言われている現代人は19世紀イギリス人のことですが、現代日本人にも通じるなあと思えるところがあります。まあ、この当時に比べるとずっと個人の趣味は多様化して「変わった趣味」を持ちやすくなっているでしょうけれども、それでも、ちょっと外れてしまうと犯罪と同じように遠ざけられてしまうようなところはあるかもしれません。また、後半部のところは、いわゆる「ひきこもり」の人に合致する見解だ、と読むことができました。これは精神的危機なので、本人は相当もがきますし、周囲も気づくべきです。



__________

ある人にとっては、その人間性を高めるのに役立つことが、別の人にとってはその妨げとなる。ある人にとっては、心を弾ませ、行動する力とものごとを楽しむ力を最高に保たせる生活様式が、別の人にとっては、心理的な負担となり、内面の生活を停滞させ、あるいは破壊する。(p165)
__________

→このあいだ読んだパーソナリティ心理学に通じるのですけれども、人ってほんとうにいろいろな人がいるから、そこのところをちゃんとわかろうよ、ということですね。家族内でまったく違うパーソナリティの人たちが共同生活するのがすごく酷なのがわかりますし、そうじゃない場合でも、棲み分けって大事な解決策だなあと感じるところでもありました。



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国家の価値とは、究極のところ、それを構成する一人一人の人間の価値に他ならない。(中略)たとえ国民の幸福が目的だといっても、国民をもっと扱いやすい道具にしたてるために、一人一人を委縮させる国家は、やがて思い知るだろう。小さな人間には、けっして大きなことなどできるはずがないということを。すべてを犠牲にして、国家のメカニズムを完成させても、それは結局なんの役にも立つまい。そういう国家は、マシーンが円滑に動くようにするために、一人一人の人間の活力を消し去ろうとするが、それは国家の活力そのものを失わせてしまうのである。(p275-276)
__________

→産業革命以来の、効率や合理性重視で人間を型にはめるやり方が一般的になっていますが、そういった体制全般への批判じゃないかと僕は読みました。国家も、経済を最優先させますから、その結果、人間が型にはめられることになります。20世紀中の大発展が技術革新などからもたらされましたが、それでも度が過ぎていくと、ミルのいうように、人間が疲弊していって国も疲弊してくのだと思います。最近の世の中からは、その片鱗が見受けられるような気がします。



以上でした。なにか力やヒントになるような箇所があればいいな、と書いていきました。また、この『自由論』に興味を持ってもらえていたなら嬉しいです。新訳版の本書は読みやすかったです。


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