指で撫でたらつるつる滑りそうな布地の薄紫色をしたワンピースを着て、彼女は草原をふんわりと過ぎていく蒼いそよ風に吹かれていた。夕焼けにはまだすこし早い頃、薄く引いたような雲が青い空に浮かぶ、初秋だった。
その人の名前は、こなつ、といった。宮城県から来たそうだ。
遠くで作業している何人かの牧場スタッフたちの他には私たちしかいない。そのせいもあって、牧草地の敷地に「特別ですよ」と入れていただいている。
私は、戸田と申します、来年五十歳になる歳です、と自己紹介をしたのだった。
「馬が見たくて」と、こなつさんは私のかけた言葉にそう応えてくれたが、こちらを振り向き浮かべた口元の明るさとは反対に、切れ長な両方の瞳からはまるで温かみが感じられなかった。
放牧時間は終わっていて、馬たちはすでに厩舎へ戻っていた。だから、スタッフの方が気の毒に思ってくれて、こんなサービスをしてくれたのだろう。
さっきまであたりを駆け回り、びりっ、びりっ、と音を立てて草を食んでいた様子が想像できる馬たち。彼らの生きた匂いは風に押し流され切らずに、まだはっきりとこのあたりに立ち込めている。草の匂いの混ざった彼らの匂いには、馬糞のそれが濃厚に漂い、成分割合としてはおそらく七割を超えているに違いない。気をつけないと、何かの拍子に草の影になったそのものを踏んでしまうかもしれなくて危ない。
「馬を近くでは見れませんでしたね」
私は丸めるようにめくっていた薄手のデニム製シャツの袖を元に戻そうと、くしゃっと固まった右肘の辺りを見ながらまさぐる。なかなかほどけないな、なんだ、おかしくなってるぞ。そうこうしているうちに、彼女がどうやら歩きだしたらしく、その気配を感じて注意を向けた。
「かわいらしい仔馬がいました。実は午前中にも来ていたんです」
右袖が肘のところで固く丸まったまま、全く元に戻らないのでひとまず諦めて、左袖に取りかかった。こちらはすぐにほどけてするっと伸びた。
「触れましたか」
「いいえ、柵の外から見学してましたから。それに、近寄ってきたとしても触るのは禁止ですから」
「私は久しぶりでしたから、この時間でも見学できると思ってやって来たんです。きちんと調べたり問い合わせたりしてからじゃないとだめですねえ」
私は軽い調子で声を立てて笑った。こなつさんも高い声とゆるめた口元で、ふふふ、と笑ったが、やはり瞳はなんら輝きを放たなかった。
最初は、何者かへの怒りによるものなのかといった感じがした。だがそれよりも、もしかすると癒えぬ悲しみを心に抱えているからなのかもしれない、と立ち姿を見ていると思うようになった。あるいは身を切るような寂しさもまた。
こなつさんの容姿を見たところでは、おそらく三十歳手前だろう、でもちょうど三十歳になったばかりだと言われても納得がいく。または若く見えていても実際は三十歳を少し超えたかしている可能性は無理なく考えられる。
しかし、待てよ、と思う。こなつさんは、具体的にどこがどうとはつかめないのだが、全体的にどこか疲れているようにも見えてしまう。彼女の、目には捉えられない内面の領域から醸し出されたなにかが、可憐な印象の彩度をずっと低くしているのではないかと感じられるのだ。だったら、第一印象よりももう少し若い場合もあるかもしれない。疲労は、若さではつらつとした佇まいが保持するのに正当な時間の針をまやかしに進めて見せる芸当が得意なのだから。
「つかぬことを御聞きしますが、一人旅だとおっしゃっていましたよね。あのう、どうか、どうか怒らないで聞いて欲しいのですが、それは、身内に不幸があったからとかですか? いや、ほんとうのところで気になっているのは別のことなんですが、正直に言ってしまうと、その、もしや大失恋されたとか、そういった理由があってでしょうか」
新品なのかもしれない薄紫色を纏うこなつさんは柵に両腕を載せ、牧草地の外側を眺めている。少し遠くの、雑木林があって、その境界に沿った砂利道が線として引かれているあたり。
「風が気持ちいい」
ちょうど、今までよりも強くて息の長い風が私たちのいる草の上を吹き抜けていった。
「ええ、気持ちいいですね」
こなつさんに向けている大部分の意識。そこに含まれなかったわずかな残りかすであるものが自動的に働いて、私はまだ右肘のシャツの固まりと戦い続けてもいた。
それから私とこなつさんの間で会話が途切れたので、鳥のさえずりや虫の鳴く声に、この時を埋める演奏をまかせた。しおからとんぼが気まぐれに柵へ止まり、また旅立つというのを何匹か見た。
しばらくして柔らかな草の感触を靴裏で感じながら私も柵へと歩いた。こなつさんのように、柵に腕を載せ、雑木林と砂利敷きの小道とを眺める。こなつさんは、こちらから手を伸ばしたとしても届かないが、だからといって公園によくあるシーソーの長さほどは離れていないところにいる。
しばらくそのまま、陽を浴び続けた。頬骨の辺りがとくに、夏がかすかに残る陽射しにちりちりと焼けていく感じがした。
自然に溶け込んだようなひとときはまだもう少し続くのだろうと信じ切っていると、いくらか事務的な口調にも思えるこなつさんの声が聞こえてきた。
「ケアラーなんです。ええと、介護者ですね。母の。父はいません。兄弟姉妹もいません」
こなつさんはこちらを見ることをしない。しかし、横顔を見れば、遠くに視点があっている彼女の瞳の暗闇から初めて、か細くて弱々しい光ではあるのだが、それがすうっと真っすぐ放たれていったのがわかった。
あっ、と思いはしたが、声には出さなかった。柵にもたれた体を後ろへ起こし、載せていた腕を自然と柵の上から外して直立すれば、私の両腕はだらりと垂れる。デニムシャツの右肘、固まりつっかえていた袖がその拍子に手首までするんと簡単に元へ戻った。
だが、直後から私の心は揺れはじめ、続いて隠れていた差別意識が不意打ちというやり方で襲来したために、気持ちがゆらゆらと沈んだ。
「えらいですね。親御さんをひとりで看ていらっしゃるなんてすごいですよ、人として私はかなわないですよ」
そうぺらぺらと喋った。つまりは瞬時に言葉を盾にして距離を取ったのだ。私は平等に公平に他人のことを考え、接することができる人間だと当たり前のように思いこんで生きてきた。でも、それが間違いであることを心の動揺が証明している。自らへの信頼という主柱に小さな亀裂が確かに走っていた。ため息を飲み込み、気づく、自分を買い被っていたことに。
「三年前までは父と二人で、介護や世話、家事なんかを分担していたんです。短時間のパート勤務もやっていたんですけど、父が亡くなってからは、なかなか難しくて。母が施設に入所したのがついこの間のことでした」
私は雑木林前方の道ばたにずらりと咲き並んでいる野生の花々へ殊更に意識を注ぐようにした。一つひとつの花弁は秋桜よりもおそらく小さめだ。花は、穏やかで冷静な印象を与える紫色を、背後に沈黙を添えるようにして見せつけてくる。停止したまま動くことのないような沈黙だ。そんな花々を、一株ずつが目いっぱいつけていて、あたりに二十株以上自生している。花は紫苑だろう。
自分の瑕疵が、おもむろに正面から行く手を立ち塞いだことで乱れた気持ちの、その不測の挙動を整える時間稼ぎがしたい。そのため私はあえて紫苑をがっちりと捕らえて離さない見つめ方をした。
紫苑はあらゆる音を吸い込むような紫色をしている。見つめ続けていると、やがて心はどんどん沈黙に吸い付けられる。無音に近づいていく。その無音の静寂に鋭く切れ込んでくるのが、こなつさんのゆっくりと発せられる丁寧に自分を語る言葉たちだった。
今はそれらをきちんと受け止めることはできない。もしもばらばらに散った自意識と、ダウンした思考システムがうまく整い終わったあとだとしたって、彼女の話をまともに受け止めきれず、落下させてしまうような予感がした。自信なんて持てはしなかった。
眺める私を沈黙へと吸い寄せる紫苑がもたらす無音の効能に賭ける他ないのか。無音の癒しに見込めそうな、安定を欠いた心への修復効果と、修復が成ったときの自分自身のポテンシャルとへ、その他にはなすすべがないのだから賭けるしかない。
「母が病気になる前、わたしが九歳のときに家族三人で競馬場へ行ったことがありました。福島の競馬場です」
依然、棒のように立ち尽くしていた私の鼻の下にうっすらと汗が滲んでいるのを感じた。指で拭おうと腕を動かすのが不自然かつ滑稽な動きとなったが、こなつさんはといえばまったくこちらを見ていない。私は腕を前で組む。
この時間の大きな流れに抵抗できるはずもなかった。私はそのとき、従順でいたというよりも、反発するという選択肢を地面に投げ捨てさせられていたのだ。手遅れだったのだ。二重にも三重にも包囲され、どうやったって私が無力であることを眼前につきつけられ、逃れられないと悟るしかない進路を選ばざるを得なかったのだから。
「レースで、走る馬を見たんですね」
厩舎の切妻屋根のてっぺんに止まっていた一羽のカラスが、自らの離陸を宣言するように幾度か鋭く啼いた。私の意識と視線はもぎとられる。カラスは東のほうへ旋回すると、だんだん小さな粒へと縮んでいき、空に飲み込まれるようにしてそのうちその姿は消滅した。
「四レースか、五レースか、見たと思います。周回所にも行って、そこで歩いてる馬たちも見ました。父が肩車してくれたので、遠くからでもはっきり見えたんです」
また少しつよい風が通り過ぎ、薄紫色のワンピースの裾がはためいるなかでこなつさんはそう言いながら、肩のあたりよりいくらか長い黒髪の乱れを直していた。
こなつさんが着ているワンピースの薄紫も、紫苑と同じように音を吸収する種類のものだと思った。物理的な音、というよりも、意識の中に生じたノイズを吸い込むと言ったほうがいいかもしれない。
「周回所を歩いている馬って、興奮しているのもいるし、手綱を引いてもらってる厩務員さんに甘えてるのもいるし、さまざまで面白かったでしょう」
ぱくぱく、と動く口から飛び出すのは薄っぺらい言葉だ。反射的に返しているだけで、会話を味わいながら考えたりはできていない。
「それが、細かいところはあまり覚えていなくて」こなつさんは変わらず、か細い光しか放っていない黒色の濃い瞳はそのままに、目じりに薄い皺を寄せて、「何を思いだすかって、将棋の話なんですよ」と雑木林の上へ、広がる青空へと顔を上げた。
「どうしてまた将棋の話を?」
わたしはこなつさんの、時が止まったような薄紫色のワンピースを眺めていた。その色味に、さきほどから乱れっぱなしになった気持ちのノイズが吸収されていく心地がする。ということはつまり、心の落ち着きを取り戻すための効能がやはり宿っているらしいと言うことができた。まるで扉が開いた先には無限に広がる沈黙の別世界があって、扉の限定された枠組み越しに、その奥にある別世界へと自分は目を凝らしている気がしてくるのだった。
そうして場面は急展開し、内面へと向かう。内面の底への視界が開かれたのだ。ノイズという濁りのほとんど失せた、それはコップの底だ。自分の内なるコップなのに、その底になにが残っているのかは確かめないとわからない。汚泥のカスなのか、砂金の一粒なのか、はたまた空っぽなのか。
気がつくと、自身の内側を見つめすぎていて、こなつさんに目の焦点が合っていなかった。はっ、として外界にピントが合うと、こなつさんの姿がくっきりとしたものへと変わった。
「黒かったり、灰色だったり、栗色でたてがみが金髪だったり、いろいろな毛色をしていて大きさもそれぞれちょっと違う馬たちを眺めていたとき、後ろ脚で立ち上った赤茶の馬がいたんです。ちょっと気持ちが荒ぶっていたんでしょうね。前脚で空中を掻くようにしながらそのまま二、三歩横に斜めに歩いて」
私の周りにモンシロチョウがやってきて、ひらひらと飛び回っている。チョウは、こちらの虚を突くような進路の取り方で、決して飛行パターンを簡単には読み取らせない。そんな常套手段を用いるチョウは私にはすぐ飽きて、柵の外へと飛び去っていった。
「あれだけの巨体だから、脚への負担はかなりでしょうね」
二本の脚で立ち上った赤銅色をした馬のシルエットが思い浮かんだ。
「それをわたしたちは、おおーって声を上げて見ていて。桂馬飛びしたねって、父が言ったんです。そこから、父と母で将棋の話が始まったんですよ。あのとき飛車で王手せずに銀を上げたのは悪手だったね、何言ってるの、飛車落ちで打ってあげてたんじゃない、じゃあ俺の飛車をとられてたのかな、とってなかったわよ、とか始まって。なんでそんないきなり将棋の話なんかを本気でするんだろうって不思議に思えたし、すごくその場に合わない気がして最初は怒ったんです、わたし。いま、馬見てるんだよー、とか文句を言いましたよ。でもそのうち可笑しくなってきちゃって。母なんて、炊飯の予約を忘れてきた気がする、って真面目な顔になって言いだしたり、もう馬は眼中になくなってて。それ、馬を見ながらする話? って」
やっとこなつさんの話に注意が向くようになってきたし、内容から気持ちを感じ取ったりイメージを思い浮かべたりもできるようになってきた。こなつさんは続けた。
「馬を見たのはそれっきり。その日以来、テレビやネットなんかの映像や写真以外では馬を見たことがなかったです。今日までは」
わたしはこなつさんの表情を読みながら、沈黙を用いて彼女の話を促し、それを聞いた。
「母はそれから行動や言動が急におかしくなってしまって、ずっと世話や介護が必要になったんです。人にこんなことを言っちゃうのはどうかとは思うんですけど、もっと違う十代、二十代の過ごし方だってあったよなあ、ってため息がふうっと大きく出ることもあるんですよ。ケアラーじゃなかった人生かあって」
やっぱりこういった話を聞くのって、自分は苦手なんだ、とあらためて感じた。ただ、さっきと違ったのは、そこにうしろめたさのせいで所在を失うような心持とは別のものがベースにあったことだった。人として、自分の力が足りないことを認めたことが土台となり、その上に苦手意識は肩を落としながら乗っかっていた。
私の表情には微妙に、そんな苦い気持ちが表れていたことだろうし、相づちの声音にも抑えきれず宿っていたと思う。でも、こなつさんは相変わらずこちらを見ないし、私の声の表情にも無頓着だった。
「ご自分の人生を、介護のほうへともろ手で注ぐ感じでしょうから、真似できることじゃないです」
そう言ったときのはじめの声がちょっとしわがれてしまった。
「ときに、怒ってしまうんです。自分のことなのにうまくできなかったりする母に、聞き分けのない母に対して。怒っちゃダメだと思いながらも、反応でふるまってしまうんです。意思が負けてしまうんですね。そういうのは理性的ではなくて動物的なんだ、人間的なふるまいじゃないんだ、と自分を責めてしまうことがときどきあります」
思い詰めているようだしよくないと思い、私は間髪入れず、こなつさんをフォローする。
「ちゃんと気がついて自身を責めるのは理性的で人間的なふるまいですよ。そういった動揺というのは自分に違和感を感じたから生じるもので、違和感を持てたということは、自分がこうあるべきだっていう姿についてもちゃんと知っているっていうことでもあるんじゃないでしょうか」
さっき、自分の気持ちが揺れたときのことを重ねているのを隠して、そう言った。
苦手とすることへ立ち向かっているスタイルが、ノーガードからはじまり、いまや格闘向きのファイティングスタイル。腹を割って向かい合おうという気持ちへと吹っ切れていた。
こなつさんの境遇へ向かい合うことが、おそらく自分の弱点と向かい合うことにもなるという気がしていた。
「そうかもしれません。もしかすると、そういったところもあるでしょうね。でも渦中にいるとき、理性はすぐもたなくなる。あとでひとりの時間がもてたときに理性はなんとか戻ってきますけど、介護の最中には失いがちなほうでした」
私は、こなつさんに圧倒されないよう、受け止め損ねることで言葉を失ってしまわないよう気力をできるだけ漲らせながら応じる。自分に負けるな、というように。
「きっと、だからこそ学べた大事なこともたくさんあるでしょう。たとえば私なんかにはこんな歳になってもまったく学べていないことを、あなたは身を削りながら学んできているに違いない。理性についての動揺や葛藤もそうです。時間がもっと経って整理がつきはじめてから、こういった体験は学びとして身につくといったものなのではないですか、おそらくは」
こんな調子ではだめだ、と思った。ぐっと背筋を伸ばしてみれば不意に、ひとりでに思いだされてくるものがあった。
私はそのときモードが変わったというかスイッチが切り替わったというか、多面的な自分のまた別の面が表面になったのだと思う。
なんてね、と舌をぺろりと出し誤魔化すようにわざとおどけた身振りをしながら、若い頃の私はピエロでしてね、と甦ってきた当時を思い出しつつこなつさんのほうへ身体全体の向きを変えた。あっけにとられて不思議そうに口をまんまるに開いて、こなつさんは久しぶりに私のほうに顔を向けたばかりか、まじまじと私の顔を確かめるように眺めてくるのだった。気にせず、私は続けた。
「大事そうなことを喋っているようで、実はいつも空っぽなんですよ、私は昔から。狂言回しでね。だから、私の言うことをあまり重く受け止めないでください。あなたのことをわかりたくても、ちゃんとわかることができないんです、ほんとうに情けないんですが。だから、なんとなく空気や雰囲気を読んで、そこにフィットするような言葉で無難に埋めていくのがこの私なんです。意味があるようで、あるんだかないんだか、というのが、私の本性」
こなつさんが光の乏しい目を見開いている。モードの変わった私のなかで何かが破れ、ちょっといたずらっ気な気分が漏れ出てきてもいるようだ。
「ピエロをやったのは、たしか三回でした。友達が大道芸人を目指していて路上でパフォーマンスをやるからお願いだから手伝って欲しい、と頭を下げられましてね。彼、とても努力家でいいやつだったし、本気の顔だったから引き受けたんですよ。見よう見まねでドーランを塗りたくって、目を三角にメイクして、左右の頬には赤丸、口紅は輪郭をはみだしてでっかく。友達が用意した宴会用みたいなぺらぺらのピエロの衣装を着てやれるだけの滑稽な動きをして、友達が主役としてパフォーマンスするその進行をしたんです。喋らずに、身振りと文字を書いた画用紙でね。私は思いました。道化をやるのって、けっこう気持ちいいぞって。いい加減な動きをして、お調子者をやってると、自分らしいなって気になってきたんです。変なところで自分探しが成功したみたいな感じでした。だから、私の本性はピエロなんです。とてもしっくりくる」
こなつさんは右手でこめかみのあたりに手をやっている。少し混乱を呼んでしまったようだ。話が急に脱線しすぎたようだ。無理もない。でも、必要な逸脱だったのだ。話を続けることで、わかってほしかった。頭の中のぼんやりとしていた真意の像がどうにかはっきりとした形になりだしている。
「ああ、ごめんなさい。話がうまく飲み込めないでしょう。なんでこんな話になったのかもきっとよくわからないでしょうし。ただ、すみませんが、もうちょっとだけ聞いてくださいませんか。最後までこの話に付き合って欲しいんです。わかることがありますから」
こなつさんは言葉を発さなかったが、首を縦にこくっと動かしてくれた。
「ピエロをやってると、集まった人たちを自然と観察してしまうものなんです。みんな、ピエロには気が緩むものなんでしょうかねえ、それとも友達の大道芸が上手だったから見とれていたからでしょうか。まあ両方のためだったとして。観客たちが大道芸を見物しているとき、それと知らずに私たちに向かって無防備な表情を見せてるんですよ。子どもたちはもちろん、大人たちもね、ほんとうに無防備な笑顔をぱあっと咲かせるんです。ふだんから表情の乏しそうな人も、いま顔の力がゆるんだなっていうのがピエロの私にははっきりわかったりもする。そうしたときに、私の見ているものが、非日常のもののように思えてくるんです。まあそりゃあ、大道芸人とピエロが路上でなにかおもしろいことをやって非日常を作り出しているんですから、見物人たちの非日常をも作ってしまうんでしょうけれども。それでですね、日常っていうのは、社会生活です。非日常っていうのは、非社会生活。そういった非社会生活で見える人間の表情ってなんだと思いますか?」
思案気なこなつさんは何か言いたそうだったが、素朴な迷い顔をしている。また少し強い風が蒼く吹き抜けたとき、髪をおさえたこなつさんは、わかりません、と小さな声で答えた。
私は次に形にする言葉のため、大きく息を吸い込んで、力強く吐き出すといった気持ちの準備をし、そして一言ずつを、落ち着かせた調子でこう言った。
「そういったときに見えるのが、人の魂なんです」
腹を割っている私は、まるで神がかった聖職者がやる自動書記のように、こんこんと湧き出てくるものが勢いよく流れゆくままの様子でこれまで話してきたが、どうやらそれはこの一言のためだったのだ。最初から目標となるものが見えていたわけではなく、予感に導かれて到達した一言だったのだから、私にも多少の驚きが生じていたことは察して欲しい。
「魂、ですか」
こなつさんはその言葉との安全な距離を取るような言い方をした。私は魂について、もう少し付け加えたくなる。
「私は無宗教ですし、ほんとうの気持ちを言えば魂なんてものは信じてないんですよ。だいたい生物の身体には魂なんて器官、当たり前ですがありませんしね。ですけど、もしも生き物には魂があるものと仮定してみると腑に落ちるんだよなってこと、あると思うんです。そのあたり、お母様についてはどう思いますか」
一呼吸を飲み込むようにしてから、こなつさんは言った。
「魂があるとするなら、母の魂はまったくまともなんですよね。よくわからない行動は頭の病気の問題であって、魂がおかしくなったからではないでしょうね。それどころか、よくわからない行動の理由を母に訊ねたら、『こうすると病気が治るみたいなんだ』ってよく言ってて。わたしは、そんなことしてもよくならないよ、って心の中で呟いてたんですが、魂を考えてみたら、今よりよくなろう、健康に戻ろうっていう方向への母の魂の健全さが感じられるというんでしょうか。そんな感じがいましてるところです」
慎重に考えてくれていたようで、私はとても好感を持った。
「健常者とくくられる多くの人たち、ふつうに生きている人たちでも、魂がきれいだなって見える人と、そう見えない人がいますよね。それもまあ、その瞬間や場面による魂の見え方、つまり一面だけが見えたのであって、どんな魂にだってまともな性質はあるんだと思います。それこそ、魂がくすんでいるんじゃないだろうかって他者から勘繰られる人がいたとして、その人がたとえ健常者のカテゴリに入っていたとしても、頭の調子がよくない時期にいるせいでそう見られるだけなのかもしれないですから。人を疑い過ぎる時期だったり、自暴自棄になっている時期だったり、強迫観念に追い込まれている時期だったり、いろいろとありますよね。それとね、ケアラーの生活は、すごく辛いものだったとしても無為に過ごしたのとは全然違うと思うんです。やりたいと思う仕事を見つけて取り組んだり、友達を作って遊んだり、好きな人と出会って恋愛をしたりなんかは出来なかったとしてもです。お母様を介護してきたこと、それって、まっとうな道を歩んでいると言えるでしょう。だって、魂と相対して濃密に接する生活なのですから。……とか、なんだかんだ、えらそうなおしゃべりに聞こえてるかもしれないですね。事実、私もちょっと偉そうな気分になって酔うように喋っていたような気がします。すみません、お気を悪くされませんでしたか。立ち入った話をしてしまいましたし」
ごめんなさい、と私は深々と頭を下げた。ずいぶん喋りすぎてしまった自覚からだ。
気になっていた自分の内なるコップの底にはどうやら何も存在せず、今や澄んだ水をたたえたコップがひとつあるだけだ。ポテンシャルへの賭けは運次第だろうと構えていた。結局、ポテンシャルっていうのは、魂のことだったということになる。澄んだ水をたたえたコップという姿の魂。こなつさんのおかげで、思いがけず知ることになった。
こなつさんは、いいえいいえ、と微笑んでくれる。だが私はどうしても、言いそびれたもう一言をいいたくて、抑えきれずつい言ってしまう。
「馬が見たかったのって、彼らの魂をみたかったからじゃないんですか?」
走っている馬っていうのはとくに、その身体から魂が透き通って見えている生きもののような気がしたから。
えっ、と驚いたこなつさんは、宙に視線をさまよわせた。そして、すぐさま体の向きを雑木林の方向へと変えてしまったので、私からはまた横顔しか見えなくなる。外世界の何かを眺めているふうではなく、自身の内面の泉をじっと見つめて、その奥底にあるものを見極めようとしているような、焦点の合っていない瞳をしていた。
それからどれだけの時間が経っただろうか。とても長かったようでもあるし、それほどでもなかったような気もする。何度も強めの風が通り抜けていったし、虫たちはずっとほとんど同じペースで、声を増幅させるのと減衰させるのをただただ繰り返していた。時間の感覚はよくわからない。はじめ、私はこなつさんとのやりとりを思い返してみたが、やがて、そういった思念を虚空に投げ捨ててしまい、まったくのまっさらな気持ちになって、肌を撫でる風のかたまりを感じ、まだ馬たちのものが残っているこのあたりの匂いを吸い込み、西日に近づいた陽射しを浴びるだけになった。何もせず、その場に溶け込んでいった。そうやって、透明になって消えていったのだから、時間が流れていく感覚はなかったのだった。
こなつさんに声をかけられて、私は自らの身体をこの世界に取り戻す。なんでしょう、と返した声の現実感がやや乏しい。
「はっきり言えることではないんですけど。母の魂についてだけじゃなくて、もしかすると自分の魂についてのほうこそを確かめたかったのかもしれません。自分の原点であるものを、です。リセットするというよりも、取り戻すこと、そして乗り越えることのための確認。自分をどうにかして信じたかった、信じ直したかったんじゃないかと。馬が見たかったのって、そういった想いや欲求が無意識にあってのことだったのかなあっていうような気がしはじめています。馬を見ることで、確認したかったのだと。あの福島にある競馬場で過ごした一日の記憶が、そういうふうに私を動かしたのかも。もちろん、あたたかい家族だったことを思いだすための、とても大切な記憶でもありますし」
私は、何度も何度も肯いた。おそらく、こなつさんの言う通りなのだ。しっかり自分と見つめあった彼女の言う通りなのだ。私へ歩み寄ったこなつさんが、ありがとうございます、と小さくお辞儀をした。
「私はね、ただの出しゃばりでした。お礼を言われても、どうも悪いような気がしています。ただ、あなたのそのワンピースの素敵な色味を眺めていて、なぜかとても気持ちが落ち着いたからですよ、お役に立てたのだとしたら。お手柄なのはあなたのワンピース。それに私もだいぶ勉強になりました」
そのとき、離れた厩舎から遠い馬のいななきが聞こえてきた。遠くても、聞く者の気持ちを鼓舞してくれるような、力強くて堂々としたいななきで、それがほっとするような明かりを胸に灯してくれるかのようだった。私とこなつさんは、その瞬間に目を合わせ、ゆっくりと厩舎の方へと振り返った。
こうして、私たちは牧場をあとにした。こなつさんはこの町のホテルに一泊するという。バスと徒歩で牧場までやって来た彼女を助手席に乗せて町中まで送る。どうです、このあたりをちょっとドライブして、それからいっしょに夕食でも? こなつさんは迷っているふうだったが、その瞳には暗闇を打ち払った光が眩しいほど輝いていた。
〈了〉
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