Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『いつまでも若いと思うなよ』

2024-09-23 15:05:09 | 読書。
読書。
『いつまでも若いと思うなよ』 橋本治
を読んだ。

作家・文化人の橋本治さんによる「老い」のエッセイ。

著者が仕事に明け暮れたのは、バブルがはじけたために抱えた自分が住むマンションに関する借金が理由だったそう。月に150万円の返済を、70歳までやらなければいけない。借金を抱えた当時は40歳くらいです。その頃、貯金が2000万円ほどあったものも無くなり、自転車操業のようになりながら返済に苦労したみたいです。こういった苦労が作家として役に立つところはあったと著者は言っていますし、そうだろうなあと読んでいて思いはするのですが、それにしたってキツイです。

108ページ目に書いてありますが、60歳くらいのときに、「死ぬ気でやります」と言って、二週間ちょっとで三百五十枚の長編小説を書きあげられている。さすがにそのあとはダメージがあって、肩が痛いを通り越して首が回らないになり、そこから疲れが抜けない状態になったそう。そうして、「ちょっと休みたい」と思っているときにマンションの管理組合理事になってくれ、と言われ、引き受けざるを得なくなる。管理組合は裁判を抱えていて、著者は裁判のためにあくせくするのです。あげく、疲れ果てて、何万人にひとりだという、血管が炎症を起こす難病にもかかってしまいました。

退院後は、歩くのも大変で、頭は回らず(原稿を書くのって体力が要るんだ、とはじめてそのときに知ったそう)、でも日々そういった衰えに抗って回復しようとする姿が文章中からうかがえるのでした。老いに抗うのをよしとはせず、ちゃんと老いていこうとする本書前半部分での語りでしたが、こういった、不当ともいえる、「健康に自然に老いていく」のとは違う衰えに対しては、できる限り回復して人生を歩いていくほうがいい、と僕も思うんです。そこは、老いや衰えの種類が違うのかもしれない。

僕がここで自分なりに読み取って考えたのはこうです。年齢を重ねて、「自分はまだまだ若い」という気でいないことは大切なのですが(世代交代が進まないなどのいろいろな「老害」もあるからです)、じゃあどうするかといえば、老いた自覚を持ち、老いを認める前提で、そのうえで「よりよく生きようとする」のがほんとうなんじゃないだろうか、ということです。歳を重ねても、はつらつと元気でいられれる人でも、若いのとはちょっと違うんだ、くらいの認識は必要かもしれません。

ここからは、引用を。


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もう一つわかったのは、忙しすぎて「断る」ということが出来ない心理状態になると、恐怖心が強くなるということです。「あんたの体力はなくなっているよ、やばいところに来てるよ」ということを教えるために、「こわい」という感覚が強くなるんですね。(p112)
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→年を取ってから不安が強くなる人っていますけれども、体力とそういった心理との関係をつないでくれている箇所です。心と体の相互性を忘れてはいけないですね。



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「入院してただ寝てるにしろ、未消化のストレスをそのままにしてると体に悪い」と思ったので、人が来ると「あのクソババァを殺しとかなかったのは残念だ」とか、思いっきり物騒なことを口にします。「おぼしきこといはぬは腹ふくるるわざなれば」と兼好法師も言ってますから、私はその毒出しに一カ月かけて、後はおとなしくしてました。(p146)
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→WEB検索すると、「おぼしきこといはぬは腹ふくるるわざなれば」は<「徒然草」第十九段の有名な一節である。 言いたいことを言わないで我慢していると、何か腹に物がつかえているようで気持ちが悪い、という意味である。 ストレスと胃腸の関係を的確に表現している言葉である。>と出てきました。愚痴や不満を吐き出すことの大切さは、鎌倉時代にも言われていた、と。僕は、迷惑だろうなあと思いつつXで愚痴や不満や文句や嘆きを吐き出しがちで、以前はLINEでも吐き出したりしていました。胃腸はあんまりよくないです。


最後は三つほど、箇条書きで。


◆人は脳で考えて何かをするより、条件反射的に何かをしていることのほうが多い、と書いてありました。そしてそれは、習慣と呼ばれるものだ、と。で、思い浮かんだのが、習慣を構成している成分のこと。言い換えればそれは思い込みと決めつけというやつで、ときに悪習慣として、勘違いや誤解を生んでいます。


◆著者が42,3歳の頃に『Myojo』の巻頭グラビアを1年ほどやったというけど、どんな意図だったんだろうなあ、といろいろ考えを巡らせるように想像してみました。最後の方はうしろのページに移り女装をさせられたりもしたそう。編集長は異動になったそうです。著者の借金苦に対して、仕事を作ってくれたということなのかもしれない。

◆著者が病気を患った部分を読んでいて感じたことを。60歳や70歳になるまでほとんど病院にかからなかったような健康だった人のほうが、あるとき体調を崩して老いを実感すると、病院にちらほら通った人生の人よりもずっと戸惑うんじゃないでしょうか。健康だった人が年を取って躓くと、老いを腑に落ちる形で処理しづらそうです。病気になるということがわからないぶん無意味な格闘をしやすそうではないですか。老いた現在の自分の状態というものに軟着陸できる人と、墜落気味に着地する人とが、大別するといるんじゃないでしょうか。長らく健康でいることになんのリスクもないのではなくて、そういった墜落気味になるリスクが潜んでいると言えそうという話でした。




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note創作大賞2024落選

2024-09-21 17:20:51 | days
今年のnote創作大賞での中間発表が先日ありました。

残念ながら、僕の応募作は通過とはなりませんでした。クオリティの問題なのか、恋愛部門への応募にしては変化球タイプだったのがまずかったのか。

まあ、次はもっとおもしろいものを書けるように精進してまいります。

次作は来年3/31締め切りの文芸誌応募用作品となります。いまはどんな設定にするかやどんなものを盛り込むかを考えて、パソコン上に作ったメモファイルの情報量をどんどん増やしているところです。そのうち、それらの材料を元に、おそらくふんわりとしたかたちになるでしょうけれども、プロットを作成していきます。

けっこうなペースでぽんぽんと150枚くらいの作品を量産していけるとよいのですが、いまの自分のレベルと執筆環境では粗製乱造になるのはほぼ間違いなくてですね、なのでひとつひとつ、時間はかかっても、たしかな経験値を積むように書いていくつもりです。

あと、1万字くらいの短編でしたら、そのうち、気が向いたときにふらっと書くかもしれません。できたものはその都度アップロードしていきますので、目に付いたときには、よろしければ読んでみてくださいまし。読んでいただくのに値するものを、という意気込みで書きますので、そのときはぜひに。読んでいただけると喜びます。

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『ひらめきはカオスから生まれる』

2024-09-06 21:49:17 | 読書。
読書。
『ひらめきはカオスから生まれる』 オリ・ブラフマン ジューダ・ポラック 金子一雄 訳 入山章栄 解説
を読んだ。

もちろん秩序は大切なのだけれど、ひらめきを得て創造するためには(そして精神衛生面においても大切になる)カオスを取り入れようとする考え方があります。本書はそのような内容のものでした。米軍の大将から、偶然が重なるようにして著者へ依頼が来ます。それは、秩序だった組織である軍隊に、カオスを導入してみる試みを担当して欲しい、というものです。この話を大きな軸として、カオスの効果に関する話が、まるで物語のように語られもするエッセイ形式の論考として横に流れていきます。

米軍がカオスを取り入れる挑戦をしたとき、従来の思考法は効率的でスピーディーだったけれども、深く考えるということをしなかったと気づいた、とありました。

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部屋は静まり返った。数分が黙々と過ぎていった。デーブ・ホーランがやがて口を開いた。「われわれは軍人だ。絶え間ない戦争のおかげで、いつでも駆けずりまわっている。誤解しないでほしいが、私は任務に命をかけている。ここにいる全員がそうだろう。しかし、われわれには、じっくりと考える時間が欠けていた」
軍隊は、効率を重視するあまり、士官たちの暮らしから「余白」を排除してしまった観がある。暴力や死といった過酷な体験を、みずからの内できちんと消化する機会を得ることなく、いつまでも心に背負いつづける苦悶の大きさは想像にかたくない。(p134-135)
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効率重視で、秩序を堅持する姿勢でいることは、おそらく人間の本来性から離れているのだと思います。上記の引用のとおり、米軍の士官たちがとある会合で、深く思考すること、思索することに気付いたとき、帰還兵の自殺問題にもこういったカオスを導きいれる思考のやり方に効果があるかもしれない、とする意見もでていたそうです。

少しのカオスの導入には、人間性を回復する効果があるのかもしれません。本書によると、カオスには三つの要素があり、「余白」「異分子」「計画されたセレンディピティ」がそれらにあたるのでした。なかでも、「余白」を認めるところがわかりやすい例だと思うのだけれど、「余白」というものの効果で、知らずしらずそうなってしまいもする「浅い呼吸で過ごす時間」が減りそうです。

また、アインシュタインの例が面白かったです。いわゆる秩序の世界である大学のカリキュラム上での勉強よりも、彼は仲間同士で真剣に行う物理学や思想、哲学の意見の応酬や議論の時間をたっぷりもってきたそうなのでした。枠にはまってないそんな自由さ、異分子を受け入れる態度が、その後の吉とでたのです。

あるとき、いつものように議論仲間と話していたアインシュタインは、もう物理学の問題には降参だ、みたいにちょっと意気を落とした夜の寝床で、特殊相対性理論を思いついたらしい。これは余白とセレンディピティの効果とも考えられます。本書によると、余白っていっても、それ以外の時間にいろいろやってこそ見込める効果なのです。

ここでちょっと、僕自身の最近の過ごし方と照らしあわせてわかったことを書かせてください。

この夏、両親がそれぞれひと月半ほど入院し、僕はそのあいだずいぶん久しぶりに一人暮らしをしていました。この、思いがけず自由を得ることになる機会を前に、当初は次のように目論んでいました。読書も執筆もしたい放題で、普段ならばたまに家庭環境が落ち着いた間隙を利用して観ている映画やドラマも好きなように見られる、と。しかし、いざ一人暮らし期間に突入してみると、すべてが僕の自由となり、何にも縛られず、決められておらず、いわゆる「カオス」の状態に放り込まれていたのでした。そうなると、読書も執筆もほとんど進まなくなりましたし、映画やドラマなどを見る気もなかなか起きてこない(もちろん、夏の暑さによる影響も少なからずあるのですが)。そんなふうに一人暮らし期間は過ぎていきました。こうして本書をじっくり読んでみると、そこにそれまでの規律が失われたこと、つまり秩序が希薄になったことが、うまく自由時間を活かせなかったことに影響していたのだなあとわかります。カオスに満ちた時間では、物事は運んでいかないんですね。僕は他律性をとても嫌うタイプなのですけれども、それでも規律がないよりは他律だとしてもあったほうがましなところがあるようです。規律つまり秩序は、うまく生活していくための前提条件であることを、体験的に知ることになったのでした。まず、秩序があって、そのなかでやれるだけやっていてこそ、カオスがもたらされてそれが活かされる。

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怠け者は、毎日ぼんやりと白昼夢にふけっていても、画期的なひらめきを得ることはまずない。大きな問題と長期にわたって格闘してきたわけではないし、明確な目標もないからである。(p234)
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上記の引用部分のとおりなのでしょう。これに続いて、休みなく取り組んでいる期間の一休みや、丸一日の休みというものが、ひらめきをもたらすなどの効果になりやすいことが示されていました。少しのカオスを導入する前段階での前提って、「猛烈に取り組んでいる状態」であることなのでした。僕自身を例に話しましたが、創造性の面において成果はほとんどなかったなかでも、それまで相当しんどかった心身の疲労面では大きく回復することができたのが、現状でも今後を考える上でもとてもプラスになってよかったです。

閑話休題。

まあ、このあたりの、創造性とカオス(ちょっと秩序から離れてみること)の絡んだポイントって、さっきも書きましたけれども、精神面において回復効果を見込める可能性もふくめて、他にもおもしろい財宝がいくつも眠っていそうな感じがしました。まだまだ未開拓(未言語化)の領域が広く残っていると思います。

ひらめきに必要なカオスをもたらす要素の一つである「異分子」の章では、スーパーマリオブラザーズやゼルダの伝説を創った宮本茂さんが素晴らしい例として出てきました。それまでの任天堂にはいなかった美術系大学を出た異分子タイプだったんですねえ。

というところですが、最後にひとつ引用して終わります。

__________

混沌を排除しようとする過程には、肝心の革新性や創造性まで押しつぶしてしまう危険があるからだ。(p226)
__________

→効率性重視の競争経済社会では、大部分の仕事で(サービス業のパート勤務などは特にそうだと思います)規律・マニュアルに縛られています。それは強靭な秩序の下でこそ効率性が得られるからですが、上記の引用のように、そこではクリエイティブなものってでてこない。「現場にクリエイティブは求めていない」という割り切った考え方がつよくあるでしょうけれども、これからの時代ではとくに、そういった労働のあり方は、人間存在のあり方とこれまで以上に齟齬をきたすのではないか。最初の方に書きましたが、少しのカオスの導入が、精神衛生上にも良いようですし。仕事時間中にまったく自分を振り返れない、なんていう労働スタイルは、「作業をこなす」という種類の労働ですけれども、やっぱり僕なんかにはちょっと疑問符のつくスタイルです、現今の主流ですけどね。

追記として、シリコンバレーのの興りと現在までのその伝説的な歴史と、中世ヨーロッパのペストが時代を開かせた説はかなり面白かったのでおすすめです。一読の価値が大です。

さらに追記です。カオスってなんだ、どういう感覚なんだろうか、とよくわからない人のための喩えとして、「ブレーキの利かない車で急坂を下っていく感覚」というのは秀逸。さらに、「その急坂の道は凍っている」なんてふうに盛る言い方も本書にありました。ときにそういった感覚の、どきどきする現場っていいよね、という。




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本当に大変な状況になったときにその人の本性が出る??

2024-09-03 18:56:12 | 考えの切れ端
「本当に大変な状況になったときにその人の本性が出る。」という言葉に触れたことはありますか。これは、人間の性質についてのひとつの達観的な見方だと思います。

この言葉を聞いたときに、比較的「実はけっこう大変な家庭」で日常を過ごしている僕は、自分が他人からそういうふうな目で、そういったところに焦点を合わせられて見られてしまう可能性を想像して、ちょっと疲れた気分になりました。

なぜなら、自制心や自律心の鎧を自分で作り上げて日々、自分なりにがんばって生活しているなかで、なにかのはずみでそんな鎧が壊れてしまうこと、そしてそのときに生身が見えることを期待されている気がするからです。さらにいえば、その生身に好奇の眼差しによる期待が注がれている気がしてきます。「おまえは善人か? それとも悪人か?」

もっと言うと、「本当に大変な状況になったときにその人の本性が出る。」は、誠実なまま、善良なまま、という人がいたとしたら、その人がほんとうに大変な状況にいるかどうかがわからないと思うんですよ。悪い性分が見えたときに、「本性が出たね」とされがちではないのか。

どうしてそう考えるのかいえば、「本当に大変な状況になったときにその人の本性が出る。」の言葉と一体になった好奇や期待は、「大変な状況になって出る本性 → 悪いもの」という係り結び的な捉え方に偏りがちになっていそうな見方に思えるからです。すぐに口をついて出るように準備された「ほら、見たことか」の気配が「本当に大変な状況になったときにその人の本性が出る。」の裏にコバンザメのように貼りついているように感じるのは、僕だけでしょうか? そうじゃなかったとしても、別の面で、「本性を悪いものにするんじゃないよ?」というプレッシャーが込められているようにも解釈してしまう、これも僕だけでしょうか?

ここで紹介したい格言があります。

「人間が本当に悪くなると、人を傷つけて喜ぶこと以外に興味を持たなくなる。」(ゲーテ)

この格言を踏まえたあとで、「ほら、この人の悪い本性が知れた」という時、それをどう捉えるか。

はたして、大変な状況下にある人が悪い性分を見せたとき、それは本性だったのでしょうか。ゲーテの言葉が正しいとすると、それは「本性ではなく」、その人が大変な状況下にあることでのある種の「なんらかの事情で」、「自分の意思とは関係なく」、悪いふるまいばかりしてしまう、ということにはならないでしょうか。

なのに、ゲーテの格言「人間が本当に悪くなると、人を傷つけて喜ぶこと以外に興味を持たなくなる。」のほうが当を得ていて、でもこのことがよく知られていない状態だったら(多くの場合、そういった状態にありますが)、あの人の性根・本性は悪かったということにされてしまいます。恐ろしいことに、本性に結びつけてしまうと、悪くなかった頃のその人の価値まで真っ黒に書き換えられてしまいますよね。

「本性」という言葉は、その人全体を塗りつぶす言葉で、とどめを刺す強烈な武器にもなり得るんだな、と以上の思索を経て警戒の念を持った次第です。

「本当に大変な状況になったときにその人の本性が出る。」

と、

「人間が本当に悪くなると、人を傷つけて喜ぶこと以外に興味を持たなくなる。」

追いつめられた人間が悪い行いを見せたときのこの二つの捉え方を、あなたはどうお考えになりますか?
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