読書。
『アンダーグラウンド』 村上春樹
を読んだ。
1995年3月20日に(昨日がちょうど事件から19年目でした)
オウム真理教による地下鉄サリン事件が東京で発生しました。
死者は13人、被害者は6300人(本書には3800人)にものぼりました。
事件当時僕は17歳で、教室で1時限目か2時限目の生物の授業の時に、
教室に入ってきた先生が興奮しながら「ひどい事件が起こった」
といって、結局授業にならなかったことを覚えています。
そのくらい、インパクトの大きな事件で、その後もしばらく
世間はこの事件とそしてオウム真理教に関する報道にくぎ付けになりました。
本書は小説家・村上春樹さんが初めて手掛けたノンフィクションで、
彼がインタビュアーとなって、62人の被害者や関係者に事件のことを
語ってもらった、777ページに及ぶ大作です。
その日、何が本当に起こったのか。
事件の当時、地下鉄駅構内や周辺では具体的にどうだったのかは、
事件後マスメディアからは語られなかったようです。
語られるのは、正義の「こちら側」から断罪するように分析され糾弾される
悪の「あちら側」すなわちオウム真理教だったようです。
つまり、「こちら側」と「あちら側」を対立させ、相互流通性を欠いたかたちで
一方的に「あちら側」を責め立てる論調があったようです。
しかし、そこで著者はあとがき的なところでこう述べています。
「あちら側」の論理やシステムを徹底的に追求し分析するだけでは
物足りないのではないか、もちろんそれは大事で有益なことだが、
それと同じ作業を同時に「こちら側」の論理とシステムに対しても
平行に行っていくことが必要ではあるまいか、と。
このあたりについて「どうして?」と思う人は、本書を手に取ってみてください。
62人のインタビュイー(語り手)から語られることは、
たとえば同じ地下鉄を利用した人ならば状況は一緒なのですが、
そのときの対処の方法、感じたことや考えたことは十人十色で違います。
そして、その違うそれぞれの体験によって、事件当時の様子が多角的で
部分的にわかるようになっています。
インタビュイーの方々は、たぶん警察の事情聴取を受けておられるでしょうから、
語る内容が整っていて、対象化されていますが、
それは、もしかすると、書き起こし文の編集をした著者によってそう読みやすく
されたところが大きいのかもしれないです。
意外に思われるかもしれないですし、不謹慎とさえ誤解されるかもしれないですが、
インタビュイーのひとたちの人生を交えて語っていることが多いのですごく興味深く、
面白かったりします。笑えるようなことを言ってる人もいる。
こういう人もいるんだなぁ、大変な仕事をされているなぁ、
だとか、そういう感想を持ちながら読むことになります。
そうはいっても、そのインタビューの大部分であるところは事件の体験なので、
ぐっと気を引き締めたりしながら読む場面もあるのですが。
それだけ、本書は被害者の人生の一場面としての事件であり、
その大きさを語っているでしょう。
被害による「縮瞳」という症状、
後遺症とみられるような健忘の症状や疲労のしやすさというものが
多く告白されていました。
それで、ここが一つの問題なのですが、
サリンを撒いた犯行そのものによる被害と、
その後の社会の無理解からの被害がこの事件にはあると言われていました。
「もう時間がたっているんだから事件の被害のことは言うな」というような空気、圧力ですとか、
「あの人はサリン被害者だ」という差別があったようです。
それはどうなんだ、と思いますよね。
現代人の冷たさです。
原爆被爆者を差別するというのもありましたが、
サリン被害者もはみ出し者扱いをするムラ社会がこの日本の社会なのでしょう。
なので、本書でも、仮名でインタビューを受けておられる方が多くいらっしゃったようです。
安心社会とは、はみ出し者を無視したり迫害したりする排他的な性格を持っています。
それを信頼社会に移行していこうとする考えももちろんあって、その方が良いよなぁと、
僕もなんとなく考えていたりします。
信頼が裏切られた場合に機能する法律、
一定の道徳感覚・倫理感覚が社会全般で共有されているという信頼の前提があってこそ
「ムラ社会(安心社会)」後の「信頼の社会」は機能するのでしょう。
とまぁ、いろいろと考えさせられます。
オウム真理教の問題は、いまなおはっきりしない部分もあります。
そんななかで、事件を風化させないための力をもった本です。
あとがき的な部分はちょっと難しめですが、
「物語」が必要だ、などと語られる論説に繋がったものですので、
そういう知識や経験がある人はわかると思います。
その日、何が本当に起こったのか。事件の当時、地下鉄駅構内や周辺では具体的にどうだったのかは、事件後マスメディアからは語られなかったようです。語られるのは、正義の「こちら側」から断罪するように分析され糾弾される悪の「あちら側」すなわちオウム真理教だったようです。つまり、「こちら側」と「あちら側」を対立させ、相互流通性を欠いたかたちで一方的に「あちら側」を責め立てる論調あったようです。しかし、そこで庁舎はあとがき的なところでこう述べています。「あちら側」の論理やシステムを徹底的に追求し分析するだけでは物足りないのではないか、もちろんそれは大事で有益なことだが、それと同じ作業を同時に「こちら側」の論理とシステムに対しても平行に行っていくことが必要ではあるまいか、と。このあたりについて「どうして?」と思う人は、本書を手に取ってみてください。62人のインタビュイー(語り手)から語られることは、たとえば同じ地下鉄を利用した人ならば状況は一緒なのですが、そのときの対処の方法、感じたことや考えたことは十人十色で違います。そして、その違うそれぞれの体験によって、事件当時の様子が多角的ですが部分的にわかるようになっています。インタビュイーの方々は、たぶん警察の事情聴取を受けておられるでしょうから、語る内容が整っていて、対象化されています。それは、もしかすると、書き起こし文の編集をした著者によってそう読みやすくされたところが大きいのかもしれないです。意外に思われるかもしれないですし、不謹慎とさえ誤解されるかもしれないですが、インタビュイーのひとたちの人生を交えて語っていることが多いのですごく興味深く、面白かったりします。笑えるようなことを言ってる人もいる。こういう人もいるんだなぁ、大変な仕事をされているなぁ、だとか、そういう感想を持ちながら読むことになります。そうはいっても、そのインタビューの大部分であるところは事件の体験なので、ぐっと気を引き締めたりしながら読む場面もあるのですが。それだけ、本書は被害者の人生の一場面としての事件であり、その大きさを語っているでしょう。