Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『宇宙に行くことは地球を知ること』

2023-09-27 19:14:39 | 読書。
読書。
『宇宙に行くことは地球を知ること』 野口総一 矢野顕子 林公代 取材・文
を読んだ。

NY在住のミュージシャン・矢野顕子さんが、宇宙飛行士・野口総一さんに宇宙のことをたずねる対談本です。矢野顕子さんは宇宙に行きたくて行きたくて、宇宙飛行士になるために必須の「水泳」を、それまでは金づちだったのにがんばられて習得されたそうです。宇宙に関する知識・情報集めや勉強も盛んで、だからこそ、野口総一さんに対する質問が初歩的だったり表面的だったりせず、そればかりか質問自体からも教えられるものがあるレベルにありながら、そんな低くないレベルの質問に答えてくれる野口さんの発言も真正面から真摯なものなので、お互いのやりとりに読ませるものがあるのでした(たぶんに、お二人から様々な方向へ飛び交う言葉を、うまくまとめられた林公代さんの腕あってのことでしょう)。

本書による宇宙飛行の知識。たとえば、宇宙服は約120kg。同僚に手伝ってもらいながら、約三時間かけて着込むそう。行われる船外活動は約7時間が限度。酸素やバッテリーの限界があるからです。そして船外活動を行う、宇宙ステーションの外である宇宙空間は絶対的な「死の空間」を意識せざるを得ないのだと。そういったところから、あまり知らなかった宇宙飛行士の内面的なところなどをも知ることができます。
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宇宙空間に出た途端、「ここは生き物の存在を許さない世界である」「何かあったら死しかない」ことが、理屈抜きにわかります。(p76)
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物がぶつかっても音がなく、周りには生き物の気配はまるでなし。そして、一切の命を拒絶する、絶対的な闇がある。ゆえに、「死の空間」だと即座に感じられる。

船外活動の訓練は地球でもプールの中でたくさんの時間を使って行われているそうです。それでも、実際に宇宙空間に出るとほんとうの無重力にとまどってしまうといいます。たとえば手や足を伸ばしているのか縮めているのかも、重力を感じていないためにわからなくなる、と野口さんはおっしゃっている。また、45分毎に昼と夜がやってきます。そのため、宇宙服の冷却装置のON,OFFや、ヘルメットのバイザーの上げ下げを繰り返さないといけない。これらは、船外活動ならではの体験でしょう。

宇宙飛行士チームの話もおもしろかったです。「結果が出せない人は価値がないのか」という行き過ぎた能力主義の話から続いていく話だったのですが、弱さを見せ合えたチームのほうがうまくいくのだ、と。このあたりでは、東大先端研のアスリートや宇宙飛行士の当事者研究として「安心して絶望できる人生」というすごい言葉が出てきます。結果が出せなかった自分は価値がない、と絶望することがあると思いますが、そういうときの追いつめられた絶望はほんとうにつらいです。でも、「安心して絶望できる人生」というのは、絶望をチームにみせてよくて、チームもその絶望を包摂してくれる。こういうイメージというか、モデルというかは、復活するチャンスにあふれていて、生きやすいだろうな、と思えてきました。

あと、おもしろかったのは、イーロン・マスク氏率いるスペースX社をひきあいに、日米のビジネスモデルや研究開発モデルを比較したところ。日本の現状としては、どうも石橋を叩いて橋を渡ってばかりいるきらいがある。それが進んでいくと次のようになるのでは、と野口さんは指摘するのです

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結局一番安全なのは、橋を渡らないことになってしまう。あらゆる挑戦は避ける判断をするほうが楽なんです。リスクがないから。(p197)
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これって、僕の生活範囲にもありふれていて、この文章を読んだことで「これって、日本的な問題だったんだ!」と目からウロコでした。こういうことを言ったりやったりするのって、個人単位の問題じゃなかったんですねえ。

というように、抜き出し書きの感想を書くと、以上のようになります。いくつかの大きなテーマに沿って本書は進んでいきますが、その箇所その箇所での話のふくらみ方が豊かですし、なんというか知的好奇心を刺激してくる楽し気な対談になっていました。宇宙から、そして宇宙体験から、それまではまったく視界の外だったような知見が得られます。ほんとうは実際に宇宙旅行をみんなが経験できると、みんなの価値観がわーっと花開くのでしょうけれども、なかなかそうもいかないので、そういった新たな体験や価値観のちいさな欠片を本書から拾うことにしましょう。


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『日本の祭』

2023-09-21 22:32:09 | 読書。
読書。
『日本の祭』 柳田国男
を読んだ。

昔の学者の人の言うことや書くことって、喩えると、視力のとてもいい人が、自分の見ているものを細かく伝えてくれるというのに近いような印象があります。同じように地面を見ていても、現代人よりも細かいところまで見えているし、気にも留めないようなところにも注意を払っている、というように。

たとえば一般化している「お祭(祭礼)」は神道の行事。でも日本人はあまりそれを宗教として感じていません。キリスト教やイスラム教、仏教には教義があるけれども、日本の神様に対しての教義を学ぶ一般人はいない。日本人の風俗をみれば日本人は無宗教ではないのだけれど、教義というものがないのだから日本人の意識上無宗教になっているのでしょう。そういった内容を、端的に指摘するところから話は始まっていきます。

本書は東京大学での昭和16年の講義録です。その当時、科学の発展が目覚ましいものと人々の意識に映り、そういったものこそがえらいものだ、とするようになっていた影響で、そんな社会の意識から薄れていき失われそうになっていた民俗的なものの連続性を土壇場でつないだ感がある著者です。その、土壇場で何をつないだのかを、本書の読解をもとにもうちょっと解説してみましょう。

近代化した日本では子どもたちは学校に通うことになります。学問などのために20代前半までその仕組みの内側で人生を送る者も多いことはみなさんおわかりだと思います。古来からの日本の村落で伝えられてきた習俗というものは、今で言えば前述のような、学校に通う期間に学校に通わずに身に染み込ませたものでした。なので現代人は、古来からの物心両面の生活様式を受け継ぎ覚え込む機会を失うことになりました。柳田国男は、そういった古来からの習俗を、近代化・西洋化・産業化の波によって闇に帰してしまうのに抗い、そこで踏みとどまり、後世に残す努力を果たした。それが、民俗学であり、柳田国男が興した学問ということなのでした。

では、どんなことが書かれているかを、ふたつではありますが、短く紹介していきます。

まず、「物忌み(精進)」。今でも、神社では水で口を漱いだり手を洗ったりして身を浄めますが、祭りに際しての浄め方はもっと念が入っています。各地方によって差はあるのですが、たとえば家は戸締りをきちんとし、誰も外に出ず、誰も中に入れず、物音を立てずに過ごす。死の穢れを遠ざけ、夫婦の交わりも禁じられる。針仕事を止められたり、農業などで水が近辺にある地域だときゅうりを警戒したり(河童につながる話です)、いろいろと拘束があります。こういった習俗が、全国各地にあったわけです。それぞれに違いはあれど、共通する何かがそれらの行いには内在していて、つまりは根っこはかつて一つだったことを意味するのでした。中国などからの外来の文化や言葉が入ってくる以前から、日本には日本の神様があったというわけです。

次に氏神への祈願。氏神っていうのは本来、群れすなわちその土地の人間全体からの祈願を全体のために叶えるという性格のものだったのが、いつしか個人の祈願を受け付けるようになっていったのだ、とあります。個人の祈願はいわゆる抜け駆けなのでした。それが認められるようになったのは、個人の信心の深浅が目に付くようになったからだと柳田国男は自説を論じる。氏神を大切にする者と形式的に扱う者とが同じ恩恵を得ることに疑問が浮かんだのが、個人の祈願が受け付けられるようになった端緒ではないかと。そういうようなことが彼らしく解説されています。

というような解像度で「祭」を見ていく本です。最近では、祭りといえば観光化していて、見物人中心のものになりましたが、従来はその土地の氏神などとの交流が重要な点だったといわれます。神楽、舞、音楽。そういったものは神に対してのものであったのが、いつしか見物人を集めるものになった。儀式の意味が変わっていき、形骸化もしてきたのでした。この先、祭りは単なるイベントとしての性格を強めていくのでしょうけれども、古来の祭は意味が深くて様々で、人々の精神性と密着していたものだったことを、本書を皮切りとした学問から知ることができます。

風俗を風化させず残した柳田国男の仕事はとてもすごいものだと頭が下がります。この仕事の意味を、たとえば臨床心理学的な考え方から見てみると次のようになります。まず、人は自らの過去と真正面から対峙し、見つめ直したり受け入れたりすることが大切な場面はあると言われます。そこで、良いか悪いかはちょっとわからないのですが、そこから類推して考えてみれば、日本人であることのアイデンティティーだとか、実存性だとか、血の連続性だとかを自分自身で振り返ってみたい、知りたい、と思ったときの足がかりとなるのが、この民俗学ではないでしょうか。

教義のない宗教である神道が日本には空気として存在していて、その意味がまるで分からずにいてもまあ困らないことは困りません。ですが、ふと立ち止まって考えたい人っていうのは必ずいるわけです。そういった人は足場をしっかり固めたかったりするんですよ、しっかり踏ん張りたいがために。そして、そのような種類の人たちが、日本人総体としての舵取りをとったりもするんです。そっちにいっては危ないよ! と危険をかぎとって言ってくれる。そういう意味でも、知的空間の広さって大切で、知的空間を押し広げてくれるのが、「学問」であり、知ろうとしたときにそこに足掛かりや手掛かりがあると助かるものです。とくにこういった日常生活の謎についての学問であるような民俗学って、「知」と「生活」の溝を埋めるもののような気がします。亀裂や断絶を埋めたり、谷間に橋を架けたり、そういうふうな意味合いがあるのではないでしょうか。

なんだかだらだらと喋ってしまいました。それだけ伝えたい隙間のある本でもあるのです。喋るなら、同じ分量になったとしてももうちょっと端正にやればいいのに、難しいものです。そんなところで、終わっておきます。



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『あこがれ』

2023-09-18 14:27:42 | 読書。
読書。
『あこがれ』 川上未映子
を読んだ。

「あこがれ」が小さな冒険につながっていくふたつのお話。第一章は小学四年生の麦くんのお話で、第二章は六年生になった麦くんの親友の女の子、ヘガティーが主人公のお話です。

このさき、ネタバレありです。というより、今回はネタバレばかりです。読んだことのない方には「てんでなんのことやら」かもしれませんが、あしからず。



海外文学ぽい感じを試したのかなあと最初は思った第一章。ストーリーからの感想などの、本来メインともいうべき感想からは離れたようなことを言うことになります。

主人公・麦彦のおばあちゃんの人となりが感じられるところがよかったです。人間の老化は避けられません。でも、まだ十分に動けていた過去というものは消えることはなく、たとえば主人公の少年の記憶の中には、おばあちゃんがしっかり歩いていたり話していたりしたときの様子が残っている。老いて介護が必要になったおばあちゃんが今のおばあちゃんなのだから、そのおばあちゃんという人間は老いて動けなくなった人だというふうに理解され、接せられようになっている。でも、そこばかり見ていると、なんら無味乾燥な見方しかしていなくて、実はなにもわかっていないと言えるものだったりもする。その人が生きてきた経過、内容、過程。音楽だって、最後の10秒だけ聞いてもわからないのといっしょで、人間だって、たとえば最後の1年だけ見ていてもその人という存在はわからないのだと思う。本書でおばあちゃんについて書かれているところは短いです。それなのに、しっかり「人」を理解するためにとらえておくポイントがわかって書かれているから、おばあちゃんが出てくると、なんだか胸が温かくなるのだと思う。

これは、主人公があこがれる若い女性・ミス・アイスサンドイッチが最後に主人公と喋るところもそう。そこでミス・アイスサンドイッチにやっと平熱とでもいえる温度が宿って、それまでの距離感からくる「他人的な理解」から、しっかりその人の人生を肯定した「隣人的な理解」へと印象が変わり、そのうえで人物が描かれているように感じられた。ミス・アイスサンドイッチにもまぎれもなく血が通っていて、考えて感じてその都度選択をして生きていて、自分の人生を歩いているさまがある。おばあちゃんと同じようにミス・アイスサンドイッチも、短い会話シーンだけでもう立体的かつ愛すべき人間として描かれていて、それは作者の優れた筆力のほかに人間観から大きくきているだろうことなので、そういった豊かさのこもっているところがいいなあ、と僕は思いました。

海外文学的な乾いた文体で表面的に文章が流れていく感覚が強めのスタイルに挑戦しての本作なのではと思えたのだけれど、おばあちゃんとミス・アイスサンドイッチ、この二人に人間の良心が反応するものが息づいていて、それは本作では子ども視点で書かれているものゆえに、ちらりといった程度でのそういった人間性の登場になったのでしょうが(なぜかというと、大人が大人になっていく過程や大人として生きていくなかで培われるものだろうからです)、作者の才能の本流はその、ちらりのほうだよな、と僕には感じられました。

第二章。
四年生から六年生になり、そして男子から女子へ主人公も変わって、言葉で世界をとらえる解像度が上がっているし、考えることの深みも増しています。ひょんなところから、主人公・ヘガティーに異母姉がいることがわかり、ヘガティーの心理が変わっていく。お父さんに対する心理についてはもうそうですが、そのお姉さんの姿を一目ながめてみたい、と思うようになる。そして、会うことが出来て、姉の家に招かれたところの様子からがとくに引きこまれました。姉は、自分の実父のことなんかどうでもよいと考えているし、妹がいることにも何とも思わないと率直に述べるのですが、この姉とその母に対するヘガティーとの距離感、場違いな感じにはたまらないものがあります。他人同士の気づかいよりも近く、そして肉親の距離感にしては嫌悪感みたいなものがある息苦しい空気が醸し出されます。こういう居づらい感じってときにあるよなあ、と僕も思い出しながら読んでいました。そして、この家を出てからが圧巻のスピーディーな流れに巻き込まれることになります。剥き出しの自分のままぶつかっていくように生きているところの描写、といえばいいでしょうか。著者はそういった生々しく激しいところを活写する力が相当ある方だと思います。そして、そういった力で畳みかけられて、圧倒されるようになって、書かれている言葉を、がぶがぶあっぷあっぷと飲み干すような読書体験になるのでした。この最後の数十ページで、『あこがれ』という作品の高みがぐっと持ち上がった感じがします。

というような、「作品紹介」ではなく、「個人的雑感」といったレビューになりました。執筆終わりでへろへろになっているときはこんなものでしょう……。とはいっても、今回三作品目となった川上未映子さん。もうこの方は、作家としての力はすごいものだ、手に取るときに躊躇することはないぞ、という思いが確たるものとなりました。相性もあるのでしょうが、そういった作品に出合えたこと、この世界に存在することを知り得たことは、自分にとってものすごく幸せなことなんじゃないだろうか、というような、ちょっと噛みしめるような喜びがあるのでした。


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『第129回文學界新人賞』へ応募

2023-09-16 10:19:09 | days
先日予告していましたとおり、本日『第129回文學界新人賞』への応募が完了しました。

117枚の長い短編で、北海道ローカルな話とそうではない話が混淆しているような話です。

中間発表は来年の『文學界4月号』、受賞作決定の発表はそのつぎの『文學界5月号』だそうです。

一番始めに本稿の設定ファイルを立ち上げたのが5/15でした。そして9/15に完成して、今朝応募ですから、丸々4か月かかったことになります。117枚で4か月はかなりかかったほうでしょうが、純文学をほんとうに意識して書くのは初めてみたいなものでしたし、今まででもっとも長く書いたものは86,7枚でしたし、いろいろと未知の領域に踏み込んでいく期間でした。

この分量で大変だったのは直しと推敲です。白状しますが、これはナメていました。やる量が単純に増えていますし、執筆中の姿勢としてもあとさき考えずやったところがありますし、3、4日で終わるかなと考えていたのが、二週間かかったのでした。かなり余裕をもったスケジュールだったのに、もう締め切りまで2週間ですから、実は危なかったほうかもしれない。執筆段階でも、7/15には上げるつもりだったのです。それが8月中旬にまでずれこみました。相当余裕をみたのに、ぎりぎりですからね、初めてのチャレンジのときは想定に収まらなかったりするぞ、という経験を積んだことにもなりましたねえ。

やっと一仕事終えたので、10日間くらいは録画したドラマを観たり読書したりして過ごします。睡眠もよくとりたいです。それから、次はどこに応募しようか考えて、そのために書いていくことになるでしょう。もっとパフォーマンスを上げたいですけども、たぶん経験を積んでいかないと、いきなりスピードが上がることはないでしょうね。無理にそれをやったら、粗製濫造になってしまう。

というところです。次の更新は読書感想及びレビューになると思います。
どうぞ、よしなに。


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落選(note創作大賞2023)から次へ

2023-09-14 21:55:53 | days
標題のとおり、今年の晩春のころにnote創作大賞に応募した作品『パッシブ・ノベル(創作大賞バージョン)』は、選考を通りませんでした。残念ですが、仕方ありません。

ちょうど一昨日の夜に、僕の住む地区では観測史上最大量の雨が降り、近くの道が崩落し通行止めになったのですが、なんだか予兆のような冗談のような奇遇(?)でした。道が無くなったわけで。

さてさて。でもそうも言ってはいられない。『文學界新人賞』に応募する作品が大詰めを迎えています。今朝、印刷したバージョンを読み直してそれでよければ応募するという最終段階にあります。

5月中頃より始動して、およそ4か月かかったということです。その間に、家庭の問題のために20000字超えの資料を作成して二、三の団体と面談したり、国際ロマンス詐欺を働いていると思われる詐欺師とやりとりしてしまったり、知り合いから声をかけて頂いて、少しの間働いていたりなどしました。まあ、定職の身に無く、家事と介護が基本(まあその他にも大きな問題はあるのですが)ですから、仕事が気にかかって執筆に頭がまわらない、なんてことにはなりにくい。それがアドバンテージかなあと一瞬思えたのだけれど、そのアドバンテージを帳消しにする災難が家庭にあるので、そうでもないのかもしれません。

新人賞の規定は、70枚から150枚の作品(純文学)となっています。締め切りは今月末。今回書いたものの分量は、117枚です。今までに書いたもののなかでもっとも枚数の多い作品です。これまでだと、86~7枚のエンタメ作品がいちばん長かったはず。未知の道のりでしたが、この分量だとこれだけ厚みを持たせられるのか、という気づきとおもしろさもありました。

今回はエンタメを書くときと違って、「コントロール」より「表出」だ、という気持ちで執筆に向かいました。そのぶん、初稿があがって読み返すと、いろいろと整合性の取れない部分、喩えるなら、右へ行っていたのに次の段落では左にいる、みたいなことが起こっていました。しかも、あたまがある種のそういう自由モードから抜けきらないので、読み返しても気づけないし、そればかりか、取り立てるほどの問題はないように読めてしまう。これには困りました。

それでも時間とともに、そして暑さのやわらぎとともに(エアコン無し)、直しや推敲ができるようになってきました。切ったり加えたり入れ替えたりができた。そうやって、今の段階までたどり着きました。

そうそう、今夏は僕が生きてきた中でももっとも暑い夏でしたから(エアコン無し(二度目))、早朝に起床して原稿に向っていました。昼間も夜もちょっと無理でした。早いときには朝の3時台。遅いときには5時半には起きて、7時までを目安に書いていたんです。暑くて眠りだって浅いですから、起きようと思えばすぐに起きれました。で、最近、涼しくなったので夜更かしするとすぐに今まで通りの7時前に起床するリズムに戻りました。びっくりするくらい容易にです。つまり僕は本来夜型なんだっていうことなんでしょうね。

で、原稿の話に戻りますが、今年の文學界新人賞は市川沙央さんの『ハンチバック』でした。ご存じの通り、その後、本作品は芥川賞を受賞。これが意味するところはすぐにわかるでしょうけれどもあえて言うと、新人賞を取りたかったら、その人は芥川賞を取るくらいの意気込みと仕事量で望まないと勝負にならないのだということだと思います。

で、今回の選評を解説したネット記事を読んだところ、文章や文体の技術の高さが重点的にみられていたようです。僕の最終段階の原稿も、そういった視点から読み直してみるべきかもしれません。ただ、もうかなり煮詰まってしまっているのも事実。いじるところがよくわからなくなってきている。文章の技術的なところを意識しながらやるのならば、次の作品でやったほうがいいような気がしてきます。まあ、そうはいっても、次の読み直しの機会には気にして読むんですけどね。

というところなのですが、応募完了の際にはまたひとこと、ここで報告しようと思います。

それでは。
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『乃木坂46卒業記念 堀未央奈 1stフォトブック いつのまにか』

2023-09-08 20:54:40 | 読書。
読書。
『乃木坂46卒業記念 堀未央奈 1stフォトブック いつのまにか』 堀未央奈
を読んだ。

2021年に乃木坂46を卒業された堀未央奈さんの卒業記念ブック。全編セルフプロデュース。

堀未央奈さんは乃木坂二期生のエースでした。加入後いきなりシングル『バレッタ』でセンターに抜擢され、重圧に苦しみ、揉まれながら、一時期アンダーの経験を積むと、選抜に復帰しそれからは常に福神メンバーとして立ち並ぶ存在になりました。僕が乃木坂にのめり込んだときがちょうど、未央奈さんがアンダーにいたころです。そのころにディスクで見た乃木坂のドキュメンタリー映画では、自分がどうしたらいいのか悩み苦しんでいる姿が映し出されてたのを覚えています。

なんていうか、未央奈さんはそれから、気が付けば前面の際ぎりぎりのところにバンと立つ存在になっているように感じていました。本書のインタビューページにも書かれていますが、どんどん揉まれていくことで自分を磨いていくスタイルなのだそうです。そういった考え方だからこそ、前面に立ち、すべてに向かいあおうとしているような立ち姿なんだと思います。そのスタンスは卒業時には完成していて、僕が彼女を見始めたときにくらべるとそうとう強くなっているように見えました。

彼女のツイッターを読んでいると、まだまだ揉まれようとしているなあと感じます。もっと高みを目指しているのではないでしょうか。叩かれても、炎上しても、何度でもまた立ち上がって欲しい人ですからね、未央奈さんは。まだまだ過渡期で、旅の途中で、それを自覚されているんだと思います。

アンテナの張り巡らし方は研ぎ澄まされているし、未踏の地へ足を踏み入れるところなんて、一般的なというか平均的なというかそういった人たちよりも一歩先を常に行く。外見や発言からは感じられないのだけれど、そういう意味ではロックなんだと思いますね。そして、それが彼女の努力のスタイルの突き詰めた形。みんなと同じじゃだめなんだ、という気づきが根本にあるんじゃないでしょうか。

未央奈さんは乃木坂の現役とOGを併せても1,2を争うオシャレさだと思うのですが、本書に「おしゃれは自分を守るものでもある」というような名言がありました。こういった「自分の言葉」で語るところが、彼女のスタイルの間違っていないところだと思います。これからもっと、彼女の「自分の言葉」が豊かになりますように。その「自分の言葉」が、容姿の美しさと相まって、より魅力を増させるに違いありませんから。

それと、彼女が卒業するときにはまだ二期生が何人も在籍していて、本書では一人ずつとコラボしているページがあります。今眺めるととても懐かしいのですが、まだこれは2年前なんですよねえ。3期4期5期体制への乃木坂の体制変化はめまぐるしかったですから。でもこうやって思い出を噛みしめるみたいにして、ずっと応援したり励まされたりしていた二期生たちと本書上で再会できたようなあたたかな嬉しさがありました。

1期生、2期生が坂を駆け上がっていった時期、そんな素晴らしい時間の流れの中に応援する身としての僕もちょっとだけ混じっていたんだなあと思うと、自然と目じりが下がってくるのでした。


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『新装版 おはなしの知恵』

2023-09-04 21:02:14 | 読書。
読書。
『新装版 おはなしの知恵』 河合隼雄
を読んだ。

いろいろな昔話を、ユング派心理療法家の故・河合隼雄さんが読解をしてその深いところを示してくれる本です。

まずは白雪姫の章。白雪姫が毒りんごのために死と同然の状態になったときの河合隼雄さんならではの深層心理学的な解釈がこちら。
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かわいかった子が何となく無愛想になり、無口になる。体の動きも重くなったように感じられる。実は、このような時期は成長のために、ある程度必要である。心のなかはこのような状態でも、何とか外面は普通に取りつくろって生きている子も多い。
このような時期を私は「さなぎ」の時期とも言っている。毛虫が蝶になる間に「さなぎ」の時期があり、その時は、まったく外的な動きがなく殻のなかに閉じこもっているが、内的には実にものすごい変化が生じている。この内的な変化を成就せしめるためには、外の堅い守りが必要なのである。
(中略)さなぎの時期に親があわてて、その殻を破るようなおせっかいをすると、子どもは破滅してしまう。子どもにとって必要な内閉の時期を尊重することは、親にとってなすべきことである。しかし、自分自身の不安の高い親は、子どもの内閉に耐えられず、ついつい余計なことをしてしまう。(p54-55)
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僕個人はさなぎの時期に殻を破られてしまったタイプです。そんな痛みや苦しみを知る身からしてみれば、著者のこの解説は、ほんとうによく言い得ていると言えます。思春期に余計な干渉はいけませんね。


次に七夕の話。混沌によって生命力が回復する、という箇所で「ああ!!」とこころの中で快哉を叫びました。

七夕の話の意味することはなんでしょうか。織姫と彦星が会わない期間、彼らはそれぞれの仕事をしていてそれは秩序の維持を意味しています。7月7日だけが男女が出合うことが許されるけれども、その日は仕事が放棄されているし、二人だけの時間になるしで混沌を意味することになります。
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男女の結合に意味を認めるが、だからと言って、その関係をできるだけ長く維持しようとするのではなく、むしろ、すぐに別れ、また会う日まで一年間は分離して暮らすべきである。分離していてこそ、秩序は保たれると考える。これは、男女の結合の意味の深さ、そのことによる生命力の回復などを知るにしても、それを続けることの危険性と無意味さをよく知っているからである。(p112)
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秩序を離れたところに、生命力の回復や奥深い何かがあるのだけれど、それをずっとやっているのはナンセンスだし危険、それは秩序がぐらついてくるから、なのでした。秩序と混沌のバランスのとり方が七夕の話から教えられるのです。世界の維持としては一年に一度くらいの混沌の頻度が好ましいのでしょうね。人間の個人的な社会性だったなら、男女が出会うまでのスパンはもっとずっと短くていいような気がします。そこは七夕が世界を担うスケールの話だから一年に一度のスパンになったんじゃないかなあと思いました。物語を作った人、あるいは採集して整えて後世に残した人の優れたバランス感覚がそうしたのかもしれませんし、物語が多くの人の耳に触れたのち、その物語が大勢の人間のそれぞれの感覚によって磨かれながらも、このかたちがいちばん適しているのではないか、とされて残ったのかもしれない。そういったところを想像してみるのもおもしろいです。


最終章のアイヌの昔話では、近代における、「区別」や「区分」での「合理化」や「効率化」を進めていくやり方とは対照的に、自然などと混然一体になるという姿勢があるということをうかがい知ることができます。近代のやりかたばかりしか眼中になくて、他の考え方にはまるで考えが及んでいない者、あるいは他のやり方があるなんて思いもしていない者の多いのが現代人だったりしませんか。もっと生き方は創造していいのだし、近代の生き方を無条件に踏襲しなくてもいいのですが、生き方の範囲はここまでというふうにあらかじめ決まっているものだと、その狭い範囲をゆるぎない前提と決めつけてしまっている人は多いのではないでしょうか。


といったように、ユング派の心理療法家ならではの解釈が、どんどん深みを増していくかたちになっています。洋の東西をとわず取り上げられた昔話たちは、とても個性的で教訓や示唆に富んでいて、解釈してみるかという気になって相対してみれば、相当な深さを持ち得ていることに慄くほどだったりします。だからこそ、昔話は生き残る力を持ち、知恵を伝えてきたのでしょう。

最後になりますが、絵姿女房という昔話、これが僕にとってはいちばんの好みでした。今回はじめて知った話です。どういう昔話か知りたい方は検索してみてください。すみません、書くとちょっと長くなってしまいますので、あしからずなのでした。


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