Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『エキストラ・イニングス 僕の野球論』

2020-11-27 23:11:45 | 読書。
読書。
『エキストラ・イニングス 僕の野球論』 松井秀喜
を読んだ。

高校球児時代から注目され、読売ジャイアンツで4番を打ち、アメリカにわたってからはヤンキースを中心に活躍した大スラッガーの松井秀喜さんのエッセイ。

序盤で語られる、松井さんをドラフト会議のくじ引きでひきあてた長嶋茂雄さんとの結びつきの強さは思っていた以上に特別で、本書を読んで「これほどまでに!」とびっくりするほどのものでした。毎日、長嶋監督とマンツーマンで素振り練習をして、元々「メジャー級」などと言われていた逸材がほんものの大打者へと築き上げられていったのです。松井さんの頑張り自体もすごいものながら、松井さんや野球界に対する長嶋さんの責任感の強さと信じる力、そしてそこからくる厳しさにびりびりとくるものがあります。長嶋さんはご自身が不世出の大スターであるにもかかわらず、松井さんを大打者にするために脇役に回って育成に励んだのです。そこには、スポーツマンとしての気概があっただろうと思います。

スポーツマンの気持ちよさって、本書を読んでいて松井さんにも随所に感じましたが、謙虚で真摯で努力家でっていうような鍛えられた人格面にあるのではないでしょうか。それは、戦術を学んだり技術を磨いたりといったことのほうがスポーツをする人にとっては成績に直結することなのでずっと大切なことではあるので、人格面を鍛えたり鍛えられたりすることは副次的なものなのかもしれません。

しかし、プロ野球でいえば、そこにはファンがいて、ファンがいるからこそ野球をやれる環境がある、と考えられますし、きちんと鍛えられた人格面には野球をやれることへの感謝のあらわれとしての要素があるように思います。ましてや、観客がいるということは、魅せるという意味があります。真剣勝負をしながら、それでいて一線を超えない人格面を最低限求められるのはわかるところですが、野球選手には、最低限どころかふつうの人々の規範になるくらいまで鍛え、考えられた人格面を身につけている人も、たとえば松井さんにもそういう感じがしますし、多くの選手にあるのかもしれません。もっとも、人の目につかないようなところでハメを外したりおちゃらけたりというのはないわけではないのでしょうけども。

本書を読んで恥ずかしながら思い改めたのは、松井選手の考える力の強さです。ちょっとなめていました。言葉というものの大切さや重みをしっかり知っていて、そのうえで慎重に(それこそ打席に立つような真剣勝負でかもしれない)執筆されている印象です。的確に伝わってくるし、文章もうまい。言語能力はかなりのものだと思います。その言語能力が鍛えられたのは自分のプレーや野球選手としての立場や姿勢など、さまざまなことをきちんと言葉で考えたからに違いありません。また反対に、松井さんを大選手たらしめた要因のひとつには、自らをアジャストしていく言語能力の卓越性があると思います。プレーを振り返ることで言語が鍛えられ、その鍛えられた言語がプレーを向上させていく、そういった好循環にささえられて、長く超一流のトップ選手として活躍できた選手生活があるのではないでしょうか。

そして、落合さんなどの先輩のプレーを見て、その打席での構えやバットの振り方、そしてオーダーメイドのバットそのものの構造などから、選手の考え方が大切なポイントなのだと松井さんはいつからか見抜いています。どういう考え方でああいうバットの振り方をしているか。これは形を見ているだけではその思考に気付けないと松井さんは言います。その人の目線になってみて「考え抜かれてこうなったのだ」とわかる、と。自分を対象とする選手に置き換えて見てみることで、「どうしてだろう?」と疑問を持ったことがうまく考えられたりする。疑問を持ち、他者視点で探ってみることが大事だと松井さんは言っていますが、これはふつうの職場での同僚の間でもそうだし、お客様視点の話でもそうです。汎用性のある手法のひとつだし、意外と試せることだと思うので、あとはその質を高めていくことでしょう。

二軍の選手でも伸びる選手とそうではない選手の違いとしても、「考える力」は大きく作用するその根本にあるものだと松井さんは言っています。特に大リーグのマイナー選手は、自分で自分を育てていかなければいけない厳しい環境なのだそうです。自分で自分の課題を見つけ、苦手を見つけて対処し、長所を知って伸ばし、というようなことをしていく。いわば、自助あってこその世界。そこでは、さっきもあったように、他選手になりきるような視点でモノを考えることで、自分ならこうする、だとか、ここは参考にしようだとか、こう考えているのか、だとかという学びが得られるでしょう。

以上のことから、「考えること」はスポーツにおいてとても重要なことだとわかります。運動神経や反射神経が大事な世界ではありますし、ステレオタイプ的な見方としてそういった身体能力ばかり注目してしまいがちだと思いますが、強靭な思考力がなくては優れたプレーはできないのです。これは、どんな分野でも思考力は大事なんだから、常日頃から考えるクセをつけたほうがいい、という解につながります。

というところですが、最後にひとつ、松井さんはこういうことも考えていたかぁと思えたところを引用します。

__________

残念ながら苦い思い出はいつまでたっても苦い。失敗を糧に成功を収めても、悔しさは残る。悔しさという感情と、敗戦を未来に生かす論理的思考は別のものだ。忘れられない。だから人生の糧になるのだ。失敗から生まれる悔しさや恥ずかしさがあれば、人は自分を見つめることになる。そういった感情を簡単に忘れない方がいいのではないか。(p155)
__________

スポーツ。技術や戦術といったものをひとまず置いて眺めてみて、それで見えてくるものにだって大事だなと思えるものがある。やったほうがなおいいけれど、観戦したり解説してもらったりしただけでも大きな学びがある。スポーツよ、永遠なれ。本書を読み終えて、素直にそう思いました。


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『リトル・バイ・リトル』

2020-11-23 01:29:51 | 読書。
読書。
『リトル・バイ・リトル』 島本理生
を読んだ。

高校を卒業したばかりのふみという女の子の主人公と、彼女の母、そして父親の違う小学二年生の妹の三人家族を中心としながら、その家族の内にばかりいたふみが、少しずつ、外の世界に触れていく物語。

ふみは、ぴょんと障害物を飛び越えるようにではなく、すうっと自然なかんじで外の世界に足を踏み入れていく。その何気ない感じが、ふみの無意識から発せられるベクトルに静かにゆっくりと従ったかのようでもあります。「いつもは思慮深い」なんて母親に評されている場面がありますが、無理をせずに自分の歩幅の範囲内で外の世界に足を踏み入れてみるということをしている。これが、ふみが外の世界を知りその空気を吸っては吐いてを繰り返すという行為につながり、すなわちそのことによって少しずつオトナへの成長を促されていくことになります。と同時に、ふみの場合、自分ではうまく気づくことができずにこころに抱えているちいさな歪みがあり、それを結果的に外の世界の方から整えてもらうということが起きています。こっちも少しずつ(つまり「リトル・バイ・リトル」ですね)、といった風でした。ふみの無意識はそのあたりをちゃんとわかっているかのようで、そのために外へと向かうベクトルが発生しているようにも見えるし、また、運気というか運命というか、そういうものの好い面がふみの人生を少しずつ好転させていく時期でもあって、二つがちょうど重なって作用しているように僕には読み受けられました。

ボーイフレンドの周は、怖さを感じながらそれを誰にも言わずに抱えているふみに、「言わなきゃずっと分からないままですよ」と他人に話をすることをすすめます。そして、僕に話して、とやさしく促します。こういう関係はとても好いものですよね。上手に話を聞いてあげること、そんな姿勢を自然なかたちで相手に対して持てること。こういった人間関係が構築できることはすばらしいことです。周はまだ高校生ですが、ちゃんとわかっているし、こころの面でいえば相当な優等生。ナイス・ボーイなのでした。

本作品で繰り広げられるあれこれは、ほとんどが瑣事といってしまってもあまり差し支えはないだろうものばかりです。でも、その一つひとつが日常の基本的なところの隙間を埋めたり土台を補強するようなものであって、読み手のこころをもポンポンと少しずつ地固めしてくれるようなところがあります。そして、描写のテンポのよさや描写するものへのフォーカスの仕方のうまさ、書かないでいいものはまったく省くことなどで、全体を通して風通しのよい文章の流れになっていると思いました。だから瑣事と言ってしまえる場面であったとしても、読ませるし、読みやすいのです。

ふみが周と話をしたいとはじめて電話する場面では、そのとき周はバイトに行く時間で、「バイトの後なら平気ですよ、だいぶ遅くなっちゃうけど」と応えます。すると、ふみは何時でも構わないから連絡を待っている、と告げます。こういう、お互い無理をせず、過度に近づきすぎない距離感でのやり取りが成立する関係ってとてもいいものだと僕なんかは思うのです。ましてや、彼らは十代ですから、急ぎ、慌て、行けるところまで行きたがるような傾向がどちらかといえば強く出やすいと思われる年代。電話したいと思ったら無理を言ってまで「今すぐ」と要求し、要求される側もそれに無理をしてでも応える、なんていう行為になるのではないかと思い浮かびがちでもあると思うのです。それを踏まえながら二人のやり取りを振り返ると、ふみと周のあり方は、ある種の理想の提示のようでもある。さらには、ストレスや緊張の回避の仕方という別な視点からも考えてみると、自分や相手の居心地の良さあるいは呼吸のしやすさがわかってる二人だと見ることだってできます。相性もきっと良いだろう二人だと認めることもできるでしょう。

中編といったくらいの分量なのですぐ読めてしまうでしょうけれども、柔らかな小説であるいっぽうで、やっぱり清冽な若さを感じさせる風だって色濃く吹いていました。読み終えると、知らず知らずに構えていたガードがこれまた知らず知らずのうちに解かれているような感覚です。引っ込み思案なはずの「こころ」が、自分から読みたがってでてくる、そんな感じで読んでしまう作品かもしれません。


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『世紀末とベル・エポックの文化』

2020-11-16 10:58:22 | 読書。
読書。
『世紀末とベル・エポックの文化』 福井憲彦
を読んだ。

19世紀から20世紀にかけての世紀末、第一次大戦勃発前までのベル・エポックの時代。科学の進歩に伴って、社会はダイナミックに変化し、文化は新たなものが続々とあらわれてくる時代。それらを大まかに、かつ重要なポイントを見定めてまとめた本です。

産業革命以来、工業化によって豊かになり世界の覇権を握るようになったヨーロッパ諸国とアメリカ合衆国の、それがゆえの自己中心性に捉われた精神性の時代でもあります。電気が普及し始め、蒸気機関にかわって都市部に電車や地下鉄が生まれたのも、ガス灯から電燈に切り替わったのもこのころです。また内燃機関(エンジン)が発明されて、自動車が生まれたのもこの時代。電話が発明されて、欧米で通信網が整備されだしもしました。このようなところを見ていくと、現在の発展につづくその大きな起点となっているのが、この19世紀末なのだとわかってきます。

こうして、スピード化と効率化の急速な進歩とそれらによる流通の拡大によって、マスメディアの力が増していきます。その当時の大衆の間に蔓延していた排外主義に取り入るかたちで新聞は支持を集め、迎合する新聞記事によって大衆は排外主義をさらに加速させていく面があったようです。ナショナリズムの拡大や世界大戦への傾斜はこうして作られたところは大きいのでしょう。

また科学の分野では、パスツールらによって細菌が発見され、人に見えない世界というものが通常の世界に影響を与えることがわかるようになります。続いて、これも目には見えない人の心の世界をフロイトが切り拓き、見えない世界というものがより人々に意識されるようになりました。そこで、とすれば科学でもつかめない「見えない世界の力」、つまりそれこそ神秘の力が他にも存在していいのではないかとでもいうような心理が、黒魔術や占星術や超能力にいたるまでのオカルト思想・神秘思想までもを盛んにした側面があるということでした。これは科学が発達して存在感を増したことへの反発力でもあるみたいです(たくさんの矛盾する諸要素が流れ込むような状態が、オカルトへの傾斜を作ったとも)。

文化面では、アールヌーヴォー、印象派、象徴主義、などなど、おもしろい発展がみられ、それが現代へと続いて行く。

先に触れた、「見えない世界」の概念から考えてみると、この世紀末とベル・エポックの時代を知ることは、現代の流れを決めた今では見えない世界を知るようなことでもあります。現代を顕微鏡で眺めてみると、19世紀末とベル・エポックの時代が見えた、というような。

ほんとうに内容の濃い時代だなと思います。個人的にはストラヴィンスキーに興味があるんですよねえ。テレビでちらっと見たことのある『春の祭典』がツボです。


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苦労が増幅する構図と、ちいさな希望。

2020-11-14 22:27:30 | 考えの切れ端
今の世の中にかぎらず、ずっと世界はそう流れてきたのだろうなあという気がするのですが、苦労をしている人が実感していてもそれほど苦労をしていない人にはわかっていないことがあるので、それを今回は書き綴っていきます。

精一杯やっていて助けてほしいくらいなのに、誰かに助けてもらうための最初のアクションとして、その状況や思考や行動の意味を言語化して伝えなきゃいけない場面にぶつかります。大変な目にあっているのに、さらに言語化という大きな負荷にさらされてしまうことでもあります。大変な人がさらに大変な目に合う図式のひとつがこれなんです。

困っている人がうながされる言語化の対象となるモノゴトは心理的にとても深かったりして、それこそ心理学上や社会学上などでの新たな知見になるようなものだったりもするほどです。それを苦しい状況下でさらにうんうん苦しんで言語化させる行為をその人に背負わすことについては、十分に助ける側がわかっておくべきことではないでしょうか。勉強のできる優秀なエリートに架す行為ではなく、ふつうの人に架す重い負担だということをわかっておくこと。

だから公助や共助の側は、うまく察してあげたり言語化を助けてあげたりできると、助けられる側はとても助かる。しかしながら、当事者が自分の言葉で表現することはその当事者の精神的な意味として実に大切だし、他者が手を出すことでほんとうのところからちょっとズレてしまったりしやすくもあるから、それらを鑑みると「上手に話を聞く姿勢」こそが助ける側には求められるのです。

それと、悲しい話ですが、そういう苦労をしてやっと言語化しても、伝える相手によっては徒労に終わってしまいます。残念ながらそういう場合の方がずっと多い。知人や友人、親類だとかでもそうだし、包括支援なんかの役所の人であっても「役に立てない」と暗に言われるなどして徒労に終わる場合がある。とくに後者の場合、なんのためにあなたはいるのか、と助けてほしい側の人は失望してしまうでしょう。

難点はまだあります。部分的にだとしてもその問題を助けてもらえることになった状態でのことです。たとえば、その問題が介護だったとします。被介護者のケアを優先的に取り組んでいろいろ考えてもらえて助けてもらえるようになる。しかし、その窮状を訴えた介護者の人生についてはあまり理解してもらえなかったりするんです。被介護者が死んだら経済的な理由などから介護者の生活も終わるけれどそれは知りません、という前提での助けだったりします。

ここでもまた、苦労する者がさらに計算やしたたかさを身につけていかなきゃならないという苦労をさらに背負いこむことになるんです。この世界はそういうふうにできている。

僕は、そういった世界がわずかでも、様々な状況にあるみんなにとってもっと生きやすくて住みやすい世界になればいいのにと思い、「そうなるためには?」を探りもするのですが、「あなたはどういう世界観を持って世界を眺めているのか?」、そして「あなたはどういう人間観を持って他者を眺めているのか?」を意識してみることや吟味してみることがひとつの鍵になるのではないかなとぼんやり思ったりします。世界や人間に対して、解像度の高いビジョンをみんなに提示できて、そこからみんながそれぞれ考えてみることで何かが変わるのではないかなという気がするのです。解像度の高いビジョンを見ることは、「よりはっきりと、知ること」になります。そして、みんながそんなビジョンを見るためには、みんなが「知ろうとすること」がまず条件になります。ですから、強い好奇心を持てるようになるのと同時に、よりよい方向へ進むベクトルのような向上心、アイデアを出し実現していく創造力とそのための粘り強さなどの非認知スキルと呼ばれるものが、よりより世界のためには必要な要素になっていくんです。それでもって、それらは教育で育むことが可能のようです。ちいさな希望が芽生えるのは、きっとそういった基盤にあるでしょう。ちいさな希望は人間自身の内奥にしっかり宿っていて、うまく育つことができる機会を待っているのだと思います。
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『小僧の神様・城の崎にて』

2020-11-07 23:15:19 | 読書。
読書。
『小僧の神様・城の崎にて』 志賀直哉
を読んだ。

志賀直哉の創作第二期にあたる時期の短編を集めたものです。なかでも「小僧の神様」は作者を“小説の神様”と呼ばしめる一因となった作品。

男女の抜き差しならぬ状況でのやりとりのある作品が多く、そのどれもが上手だなと感じられましたし、先を読みたくなるような惹きつける力がありました。浮気モノを書くのにも手慣れている印象を受けるほどさらりと落ちついて言葉を並べています。それでもって読みながら、そりゃひどいな、とか、そりゃ困るだろう、だとか、一文単位で気持ちを揺さぶられたり転がされたりしました。作者の術中に落ちたわけです。

そういうわけで、読者を作品世界にすっぽりと誘いこむ筆力はさすがでした。それに、全18編の作品水準は実に安定していて、派手さを求める人には物足りないかもしれないですが、テンポやリズムの乱高下に見舞われることなく楽しむことができます。そうしたある種の安定下で、男女のあれこれが持ち上がる作品をいろいろと読むことになるせいか、読んでいる自分の気持ちと小説世界でうごめいている心模様が、すうっと肉薄してくるような感じがしました。

あと一言付け加えると、標題にもなっている「城の崎にて」という作品には、芥川賞をとる作品群の調子と似通っている何かを含んでいるような印象を持ちました。たとえば、芥川賞選考の基準のひとつとして、「城の崎にて」の作品感覚を重要視しているのではないか、という想像が膨らんだのです。なんていいますか、混沌としたなかでの確かな瞬間をとらえている、というような作品といえばいいでしょうか。それが、「文学的な芸術性」と言われるものなのかもしれません。


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『高山一実写真集 独白』

2020-11-06 20:04:20 | 読書。
読書。
『高山一実写真集 独白』 高山一実 写真・嶌村吉祥丸
を眺めた。

乃木坂46一期生の高山一実さんのセカンド写真集。撮影場所は北欧のフィンランドです。

強い赤の口紅が、彼女のほがらかでやさしげな外面と、芯の強い、逆境にも抗って進んでいけるのであろう内面とをつないでいるかのよう。そうして、つながれたトータルでの両面の相成り立つ「高山一実」さんが、真っ赤な口紅の女性としてページ上に顕現しています。とても魅力的でした!

高山さんは『トラペジウム』という長編小説を何年か前に上梓しました。終いの方などは、静かに血を流しながら書いているような気配すらありました。書くという作業は、孤独です。孤独だけれど、豊かな時間を過ごすことでもあります。言葉と向き合い、物事と向き合い、空想と向き合い、自分と向き合う。格闘しても負けない心が必要になってくるもののような気だってします。

そういった段階を経たためなのかそうではないのかはわかりませんが、大人びた顔つきになりいくらか成熟したような雰囲気をまとうようになった高山一実さんには、どうあっても前へ進まなきゃというような、または一歩後ずさったとしても前は向いていようというような、そんな決意のようなものからくる姿勢を、この写真集に捉えられている彼女の存在まるごとからちょっと感じられます。ベースにそういうものを宿している人の美しさを見ているのかなあ、という気持ちで本写真集を眺めていました。

あっけらかんとして見える部分は多いのですけども、じいっと見ていると、そんな気がしてくるのでした。

ちょっとシックな感じの服装が多かったからか(落ちついていて素敵でした)、黄色いスカートのよく似合っている一連のショットが印象強く、よかったです。

なんていうか、急にへんなことを言いますけど、「親戚にひとりは居て欲しい高山一実さん」なのでした。


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