Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『LGBTを読み解く――クィア・スタディーズ入門』

2024-11-06 00:05:16 | 読書。
読書。
『LGBTを読み解く――クィア・スタディーズ入門』 森山至貴
を読んだ。

性的傾向の少数派のひとたちのなかでも、レズビアン(L)、ゲイ(G)、バイセクシャル(B)、トランスジェンダー(T)という比較的知られている傾向のタイプから頭文字をとって「LGBT」とよく呼ばれます。しかしながら、性的な傾向、それは自身の性に対する違和感のあるひとがいますし、いわゆる男らしさのつよい男もいれば、女らしさのつよい女もいるわけですし、性愛対象も、男⇔女という異性愛に限らず、男⇔男、女⇔女があれば、肉体は男でも性自認は女で性愛対象は女という傾向の人もいるわけです。

つまり、LGBTと言ってしまえば、性的少数派をすべて網羅して言ってしまえていることにはならない。反対に、LGBTという言葉に性的少数派というバラエティの豊かさが無視され単純化されて押し込められてしまう危険性すらあります。……ということをまず考えさせられてスタートする本でした。

また、スタートラインとして踏まえておくべきこととしてもっと大切なものが以下の引用です。
__________

意外かもしれませんが、セクシュアルマイノリティを見下す心が見え隠れする人がよく使う枕詞は「私はセクシュアルマイノリティに対する偏見を持っていませんが……」です。曲者なのは最後の「(逆説の)が」で、当然ながらその後に続くのは質問や疑問の体を取ったセクシュアルマイノリティへの否定的な言葉です。それが否定的なニュアンスを持つものだからこそ「偏見ではない」前置きで宣言するわけですが、宣言すれば「偏見」でなくなるわけでは当然ありません。文句は言いたいが自分が「善人」であることは手放したくないという本音が透けて見えている辺り、むしろ痛々しくすらあります。(p7-8)
__________

→善人でありたいという希望ではなくとも、自分は模範的な人でありたいだとか、正しい人でありたいだとか、また他の分野ではそうやって自分を律して正しく生きてきてなかなかうまくやってこれた人が、この性的な分野では対応できない、ということもあるのではと思います。対応できないくらいややこしくもあるし、生まれた時点からの家庭環境や社会環境などの影響から植え付けられた鋼鉄の先入観もあると思います。セクシュアルマジョリティのひとは、だからこそかなり自覚的にならないと、意図せずとも差別してしまったり、差別意識に気付けなかったりするでしょう。僕も思い当たります。今ここで、女装をして女性らしいふるまいをする生殖的に男性の人と会話するようなことになったら、たぶんけっこう混乱してしまいます。まず、セクシュアルマイノリティの人たちの知識がなく、会った経験がほとんどないので、ここまで生きてきた社会の流れ・慣例をベースに行動してしまうようなオートマティック性が働くだろうからです。だから、やっぱり、知って、学んで、ということは大切なんですね。

また、p33に構造的差別という言葉が出てきますが、差別は人々の「心」の問題ではなく社会構造の問題だ、というのがその意味です。男らしさや女らしさを求め、異性婚しか認めない、というのは、社会の構造から来るものです。そういった前提を疑うことで割を食う人が減り、社会が滑らかになっていくきっかけが生まれるのがこういったセクシュアルマイノリティの問題へのアプローチの仕方なのではないかとも思います。うまくこういった問題に取り組めれば、社会はもっと角が取れたものになるかもしれない、なんていうイメージが湧きます。

さて、この問題から生まれたクィア・スタディーズという学問分野・批評分野があります。クィア・スタディーズには三つの基本的な視座があります。それは「差異に基づく連帯の志向」、「否定的な価値づけの積極的な引き受けによる価値転倒」、「アイデンティティの両義性や流動性に対する着目」です。その解説については本書やネット検索に譲るとしますが、アイデンティティの流動性については、一言残します。

アイデンティティの流動性を保持し自由度を高めることが大事で、アイデンティティを固定化し一つところに繋ぎ止めて流動性を否定する風潮に異を唱えるのが、クィア・スタディーズの姿勢のひとつなのですが、これにはとても賛成です。アイデンティティがあってその上にイデオロギーや価値観が乗っかるのではないかと考えると、なおのことアイデンティティの流動性を認めることをつよく言っていきたい気持ちになりました。

人が変化すると、変節だとか矛盾だとかの言葉を突きつけてその人を見下したり批判したりする風潮はつよいです。それはあまりに人間を枠にはめた思考からくるんじゃないでしょうか。枠にはめておくと情報処理面で楽ができますから、もう変化するなよという抑圧といったらいいでしょうか。いやいや、そこで楽をしないことは人生に不可欠のコストではないのだろうか。ただまあ、ころころと変化する人は詭弁や欺きを用いているということがあるから、騙されたくない心理の強さが関係してるところはあるかもしれないですが。

というところで。

セクシュアルマイノリティについて知ろうとし、できるだけ理解したいという姿勢を持とうとすること。それは、個別性というものを知っていくことですし、まず人の個別性に目を向けて考えていこうという考え方のクセをつけることでもあるかもしれません。集団社会のなかで他者に無関心な姿勢で生きていると忘れがちになりそうな、「ひとりひとりは違う」という大前提を忘れないことが、マイノリティの人たちの生きづらさを軽減する方法の大きな一つではないかな、と気づかされました。「ひとりひとりは違う」というのは、セクシュアルマイノリティのことに限らず、精神医学的なパーソナリティ障害のタイプから見えてくる個人それぞれの傾向というのもありますし、パーソナリティ心理学の本を読むと知ることができるようなさまざまな心理的な部分の個性的傾向というのもあります。

こういった、人それぞれの個別性を考えていくことは、すなわち人中心、人優先で世界を考えていくことに繋がっていくでしょう、社会中心、資本主義中心、国家中心のメンタリティが優勢かもしれない今日のありかたへのカウンターとなって。現今の社会というのは、個別性を考えず、集団の構成要素としてできるだけ同じような人たちを求めるところがあります。もう少し言うと、人は皆あまり深く考えずに、作業なり仕事なりにいそしめ、という経済偏重のありかたがそれです。想像するな、というわけです。想像したり考えすぎたら動けなくなるから、想像するなというわけですけれども、それはそれでひとつの生きる方法として使える姿勢ではあります。でも他方、想像しないからこそ戦争が起こり、他者への想像を排した人間が戦闘を行えるんですよね。だから、「想像してごらん」と歌う歌が支持されたわけでして。

僕の今年はどうやらこういったあたりをよく考えるような星のめぐりのようです。深く考えずに読んだ本が、こういうかたちで繋がってゆくのでした。




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『学びのエクササイズ 文学理論』

2024-10-20 23:25:04 | 読書。
読書。
『学びのエクササイズ 文学理論』 西田谷洋
を読んだ。

文学理論の概説書であり、おそらく教科書でした。

記号論にメタファーなど文学をミクロな視点でとらえるところからはじまり、文法論、物語論などを経て、現代思想や哲学の領域といった文学へ影響を与えるマクロな地平に出て行くかたちで終わっていきます。

ではまず、フォルマリズムから。

__________

フォルマリズムは、社会・政治・思想に関する側面を排除し、もっぱら形式・文体・技法を考察の対象とすることで、文学言語と日常言語とを区別し、言語が自らの特性を前景化することに文学性の根拠を求めたのである。(p10)
__________

→つまりは作家の技術的な面・力量ばかりを問うのがフォルマリズム、といえそうです。これは文学作品を審査するのには大きく関与する考え方ではないでしょうか。フォルマリズムだけでは作品の持つ力の半分しか評価できないでしょうけれども、作家の職人性に点数をつけなければならない審査というフィールドだったら社会性や思想の表現よりも重視されそうで、反対に文学を楽しむ一般的な読者からすれば、フォルマリズムよりも、作品の魅力の残り半分を形づくっている思想や、表現している内容の面白さを問うほうが強いのではないでしょうか。

それでもって、フォルマリズムが文学作品から読み取れる一方の価値だとすると、他方の価値である思想や社会性についても考えないといけません。

いろんな思想や哲学を知らないといけないのは、文学が社会から乖離しないことが大切だからでしょう、例外はあれども。いろんな思想体系を知っていたり、社会の現在を知っていたりするからこそ、それらから生まれてきている問題をすくい取り、可視化・言語化して提示できます。そういったものは内容だけで言えば価値が高くて、そこにフォルマリズム的な領域、つまり技巧を用いて質の高い作品に作り上げていくことになりそうです。なんていいますか、現実の苦しみや生きにくさを拾い、つきつけるのが文学のひとつの大きな役割でもあります。(ちなみに、声なき声、と言い表すといいような事柄や想いが世の中にはたくさんありますけれども、そういったものを表現する「サバルタン(=沈黙を強いられる存在)」という用語があると、本書に載っていました)

__________

文学はそれ自体では意味を持たず、それを成り立たせているものとの関係で意味を持つとすれば、文化・社会を捉えていくアプローチが必要だろう。(p109)
__________

とも後半部に書いてあるくらいでした。

あと、こんなふうにはっきり言ってくれて良かったなあ、と思ったのが以下の文章です。

__________

むろん、文化研究のそうした折衷主義的な性格は悪くない。世界は一つの理論だけで裁断できるほど単純ではなく、教条的に自分の立場に固執するのは辞めて、自分を疑い柔軟に変えていけばいいことを意味しているからである。(p115-116)
__________



最後に、ジェンダーやクィア批評、フェミニズムを扱った章で出合った「ポスト・フェミニズム」という言葉を。
__________

男女の平等は既に達成されたとして、生と消費における自由な選択を賞賛するかたちで個人主義的に女性の自己の規定・達成を語るポスト・フェミニズムは、抑圧は社会制度の問題で性差別ではないとして、男女には自然な差があり、自ら弱さや可愛さをアピールし、恋愛の諸局面を男を喜ばせるためではなく自己の欲望の選択の結果とする。(p98)
__________

→男女には自然な差があるじゃないか、としたうえでの、ポスト・フェミニズムという考えかたがちゃんとあるんですね。フェミニズムには、急進的で強硬なイメージを持ってしまっていたところがありました。性差別には反対だし、男らしさや女らしさが社会に規定されたものというのも、そういうところが色濃く有るのはわかるのだけれど、でもちょっと針が振れ過ぎなんじゃないか、と感じていたので、ポスト・フェミニズムの考え方はまだ自然だと思えます。

中身については以上です。

限られた分量で語らなければいけなかったからだと思いますが、どちらかというと悪文で書かれているなあという感じがしました。

あと、思いだしたのが学生時代のこと。大学生の講義に使う教科書が教授の著作なのはよくあることですが、ある講義に使う教科書に誤植が多く、あげく、「○○となるのである」が「○○となるのではない」レベルの間違いがあったのを教授が口頭で訂正してくるなど、この本を講義以外の目的で買った人たちはかなり読解に苦しむな、と当時あきれたのを思いだしたのでした。

本書にもそういったところがちょっとあります。目くじらを立てるほどではないし、珍しくもないのだけど、「個人的幸福・最大化を目指する。(p118)」なんかははっきりと誤字としてありました。あと論理的に難しくて矛盾に感じるところがあって、それが悪文的な文章だからなのか、それとも僕が若い頃に経験したような、ただの教授のミスなのかがわからなかったです。途中からは、こだわらずにすらっと流すように読みました。




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『さがしもの』

2024-10-15 22:34:28 | 読書。
読書。
『さがしもの』 角田光代
を読んだ。

「本」がテーマの短編集。世界を旅する本の話や、都市伝説となっているとある本を探すのがストーリーの支流みたいになっている話、もしかすると呪いがこもっているかもしれない本の話などなど、9編+エッセイそして解説というつくりでした。

どの作品に対しても、なんだか安心感を持って読めました。読み始めてぴんとくるわけです、これはほぼ間違いなく、おもしろいかどうかの境界線をしっかり飛び越えてくる作家だぞ、と。

軽めのテイストでわかりやすく、読者への負荷は少ない。でも、言いたいことはきちんと書いているし、表現だって上手です。短編作品だということがあるでしょうけれども、冗長さとは対極にある作品集です。丸くて軽くて柔らかい言葉でできているのに、無駄がない感じ。とってもおいしい水ベースのカルピスみたいです、いや、呑む人向けにいえばウイスキーの水割りでもいいのですけど。

そんな、気楽においしい本書から、いくつか引用を。

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「私、子どものころおばあちゃんに訊いたことがあるの。本のどこがそんなにおもしろいの、って。おばあちゃん、何を訊いてるんだって顔で私を見て、『だってあんた、開くだけでどこへでも連れてってくれるものなんか、本しかないだろう』って言うんです。この町で生まれて、東京へも外国へもいったことがない、そんな祖母にとって、本っていうのは、世界への扉だったのかもしれないですよね」(「ミツザワ書店」p164)
__________

→開くだけで別世界に連れて行ってくれる。これは、現実のつらさから逃れてそれを忘れていられるひとときを与えてくれる、っていう言い方もできると思うんです。本を読むことって、ほかにもいろいろな思いもかけない効能がある、そんな気がするときのことを思いだせてくれます。



__________

「あたし、もうそろそろいくんだよ。それはそれでいいんだ。これだけ生きられればもう充分。けど気にくわないのは、みんな、美穂子も菜穂子も沙知穂も、人がかわったようにあたしにやさしくするってこと。ねえ、いがみあってたら最後の日まで人はいがみあってたほうがいいんだ、許せないところがあったら最後まで許すべきじゃないんだ、だってそれがその人とその人の関係だろう。相手が死のうが何しようが、むかつくことはむかつくって言ったほうがいいんだ」(「さがしもの」p179-180)
__________

→たぶん、これを言ったおばあちゃんは、ウソや偽りが嫌いなんでしょう。ひねくれた人が放つ、ひとつの哲学的知見でしょうか。現実世界で接すると骨が折れそうですけれども、こうやって物語世界に登場すると、物語に生気が濃く宿る感じがします。



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「死ぬのなんかこわくない。死ぬことを想像するのがこわいんだ。いつだってそうさ、できごとより、考えのほうが何倍もこわいんだ」(「さがしもの」p183))
__________

→これもひとつまえのおばあちゃんとおなじおばあちゃんの哲学です。想像するから動けなくなるんだっていうのはよく言われます。つまり、「案ずるより産むが易し」の「案ずる」が想像ですから。でも、だからこそジョン・レノンは「イマジン」を歌ったのかもしれません。想像してごらんよ、と。そうすれば戦争なんかできなくなるから、と。


というところですが、やっぱり売り物としての文章であり作品だなあと思いました。プロフェッショナルです。読んでよかったので、角田さんの別作品も近いうちに仕入れようと思いました。




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『5時に帰るドイツ人、5時から頑張る日本人』

2024-10-01 12:09:38 | 読書。
読書。
『5時に帰るドイツ人、5時から頑張る日本人』 熊谷徹
を読んだ。

タイトルのとおりのことを書いてある、労働改革を考えるための内容です。「◯◯では、」が多く、「出羽守」と揶揄されるタイプなのは否めませんが、なんだこりゃっていう本ではないですし、そればかりかタメになりました。

日本人の労働時間が多いといっても、本書掲載のグラフを眺めるとアメリカや韓国に比べるとまだまだ少ない。ドイツと比べて1人あたりの労働生産性がだいぶ低いと言ってもアジア圏では最上位レベル。でも、もっとうまく労働しようという本は、本書以外にもちらほら本屋で見受けます。

少子化と高齢化がますます進んでいく今後、国力や生活レベルががたんと落ちて落ちぶれないためには、ドイツなどを見習うのはリスクヘッジなのではないか。労働時間を減らそうというのは、もっと怠けようというよりも、もっと労働を洗練させようという腹積もりのほうを強く意識して考えたらいいのでしょう。もちろん、人生そのもの、人間性そのものを考えるというような、ワークライフバランスを大切にする価値観を尊重する意味でも。

会社側、法人側の業績拡大だとかの論理を取る形で日本の政府や社会は動いているけれども、人間側の人間性を大切にする論理をないがしろにしてちゃ、疲弊してしまい、消費者としての面の機能が落ちるでしょうし、豊かな文化だとか人とのつながりだとかも育ちにくいかもしれない、と本書を読みながらいろいろと思い浮かべるように考えていました。

人間性をもっと大事にして、現状の、労働で拘束されながら時間の浪費を強いられる状況をよくできたら、人間の消費者としての面がもっと豊かに育つのではないでしょうか。すると、経済も回る。たとえそうやってみて同じ生産性で経済面は変わらなかったとしても、ウェルビーイングやQOLが高いほうがポテンシャルがありますよね。

また、けっこう深く感じたのですけれども、ドイツ人って、平均するともしかしてかなり孤独なひとたちだったりするのではないか。それは、すごく合理的だっていうからです。孤独についての本を読むと、合理的な考え方が進んだら、たとえば希望なんていう不合理なものをあまり持たないようになっていくっていうんですけ、実際のところはどうなんだろう。あと付け加えるのは、ドイツ人は、義理を欠くのがふつうですし、日本のようなおもてなしやサービスとは真逆のポジションにあることです。なんでもかんでもドイツ人が優れているわけでもないのです。


さて、ここからは引用とそれに対するコメントを。

__________

日本はドイツと違って、労働時間に関する法律の強制力が弱い。そのため、多くの企業で長時間労働が横行しており、有給休暇の消化率も低い。
端的に言うと、日本の法律は労働者の保護(健康や自由)より、企業側の論理(業績拡大)を優先させている(p15)
__________

→本書は2017年発行なので、前提としている日本の残業時間は月100時間未満です。現在は月45時間・年360時間まで引き下げられています。ドイツでは、一日の労働時間は多くても10時間までで、6カ月間の平均労働時間は1日8時間以下にしなければいけないそうです。つまり、8時間を超えて働いた日があったら、どこかで6時間にしたりして、トータルでは超過勤務は無しということにしないと法律を侵してしまうのでした。それでも、労働者一人当たりが1時間ごとに生み出すGDPは、ドイツ人が日本人よりも46%多いのです。とても効率的です。



__________

ドイツから見ると、日本の労働組合は「おとなしい」という印象を受けてしまう。
ドイツの法律で1日10時間を超える労働が禁止されているといっても、当局の監視が弱ければ形骸化してしまう。
その点、ドイツでは「事業所監督局」(Gewerbeaufsicht)という役所が労働時間や労働環境を厳しく監視しており、抜き打ち検査も行われている。(p50)
__________

→一日10時間以下の労働時間をきちんと守らせるために、こういった国家による強い監視がドイツにはあるのでした。これがないから、日本では労働で健康を害してしまう人が多いのではないかという話に繋がっていました。また、過労死や自殺者が多いことも、こういった点からの改善を望むのはまっとうではないかと思えます。



__________

なお、アメリカでは法律で最低有給休暇日数が定められていない。ドイツに比べると労働者の権利が制限された、経営者に都合のよ"休暇小国"である。
アメリカのサラリーマンは、休暇中に自分の仕事を同僚に奪われることを恐れる傾向があり、まとまった日数の休暇を取らないことでよく知られる。その背景には、法律で労働者の休む権利が保障されていないという実態がある。(p74)
__________

→このくだりを読むと、日本はもともとアメリカ型の労働タイプなんだろうな、という気がしてきます。「ビジネス!」「経済!」と仕事を優先してやっていくことにすると、自然とこうなるものなのかもしれません。また、アメリカ人が自分の仕事を奪われる懸念を持っていることについては、恐怖と不安で市民をコントロールする性格のあるアメリカ国家の性格とも一致しますし、経済が最優先という志向には必ずつきまとう強迫観念もはっきり見えていて、大きく言えば「お国柄」なんですが、刷り込まれて染み込んでいるような傾向なんだろうなと思いました。



__________

また、ある日本人の知り合いは、「日本は健常者でなくてはならない社会だ。身体を壊すと冷たい国だから」と言っていた。日本で有給休暇の消化率を100%に近づけるためにも、有給の病欠を認めるべきだ。(p87)
__________

→日本人は保っている「秩序」の性質ってこれだと思います。ヘンだと思うもの、まともじゃないとするものは排除する気質がある。ここはなんとか、みんなで克服していけたらいい部分ではないでしょうか。あまりに不当にいきづらい人たちが生まれさせられてしまいますので。


といったところでした。本書が書かれた頃よりも、労働環境は改善への道に乗っているような気がします。それがまだまだだとしても、もっと生きやすく、働きやすく、という方向を向いているのはちょっと喜べます。訴えかけた人や、その声を受けてプランを考えた人、関わった政治家の人たちなどなどの尽力ですね(まだまだ労働改革は終わっていないですが)。



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『ロリータ』

2024-09-27 23:28:45 | 読書。
読書。
『ロリータ』 ウラジーミル・ナボコフ 若島正 訳
を読んだ。

異形の大作家とも形容される著者の大ベストセラー作。ロシアに生まれ、アメリカにわたって、ロシア語から英語での執筆スタイルに変えて生まれたのが本作です。

ヨーロッパからアメリカに渡ってきた主人公の容姿端麗な中年男性、自称名ハンバート・ハンバートは、少女性愛者です。偶然が重なって間借りすることになった家宅で、そこの娘、ドロレス、愛称・ロリータとハンバートは出会ってしまう。ハンバートは魅力を放つ特別な少女のことを、妖精のニンフをもじり、ニンフェットと呼びますが、ロリータこそが理想的なニンフェットだとして、本性を隠しつつ狙いを定めていく____。

本書は初め、パリにあるポルノ小説のシリーズで悪評高い出版社のそのシリーズから出版されたそうです。アメリカではどこの出版社からも「うちでは出せない」と断られたのだそうです。そりゃ、やっぱり、12歳くらいの少女との性愛描写や性交まであります。それも、とある事件をきっかけにハンバートとロリータの二人でアメリカ各地を旅することになる中盤では、そのさなかでははっきり描写されていませんが、どうやらハンバートはロリータを慰みものにしつくしていた感が、後に感じられてきたりもして、「一線を越えまくってたんじゃないか!」と読み手のこちらはちょっと騙されていたような、罠にかかってしまった後のような気持ちになりました(僕が鈍いか、あまりにお人好しかで、そのロードノヴェルパート上で気づけなかったのかもしれません。弁解すると、著者の人格を勝手に想定して好意的に読むとそういうこともありえますが)。

『ロリータ』の主人公ハンバート・ハンバートが、どうして12~16歳ぐらいの少女に性的な執着を持つのか。それはどうやら自分が12歳だったか13歳だったかの頃にいちゃいちゃした同年の少女のすばらしさの印象が強烈に焼き付いているせいのようでした、文学的こじつけなのかもしれませんが。ただ、著者のナボコフはフロイトなどによる精神分析的な「象徴」などを用いた考え方を嫌っていて、本作でも精神科医を小馬鹿にしているところもありました。なので、ハンバートの性癖についても、幼少時体験のためだ、と確定的に考えるのは、本作としてはほんとうのところから逸れてしまうことになりそうです。

「ロリコン」「ロリータ・ファッション」など、本作から生まれた流行り言葉が現在は一般化し、多くの人がふつうに使う言葉になっています。それだけのインパクトが、この小説にはありながらも、読んでみた人って最近ではそれほど多くないような気がします。内容を知らずに、「ロリコン」などが独り歩きしているので、小説内容は、それへの「勝手な思い込みと決めつけ」に汚されているきらいもあります。誤解も多い、と言われるそうですが、本作が出版されたときも論争が起き、それがベストセラーへの契機になったとか。

著者・ナボコフは、母語・ロシア語ではないのに、あとで覚えた英語をうまく使いこなすどころか、名人の域でこういった大作を書き上げてしまう。「才能に恵まれた人」と大げさやお世辞ではなく評するとしたら、こういう人のことをいうのかもしれないですね。文章ひとつとっても、文体にしても、翻訳越しに読んでいても練れているし、シーンや情景、心象や独白などへの移行の仕方、そのスピード感やひっかかりのない巧さも名人芸だし、教養や知識の量もかなりです(本作を書いたころ著者は50歳くらいですが、一般的な50歳以上の知的深みがあるでしょう)。

『ロリータ』は小説としても多面的で、サスペンス、アクション、ポルノ、少女愛、滑稽、悲劇などさまざまです。大江健三郎は巻末の解説中に、野心的で勤勉な小説家志望の若者にはこの作品を読むことを勧める、と書いています。『ロリータ』には謎の部分や解釈の分かれる部分もありますが、それだけよくできていて、見習ったり盗んだりするのによい作品なんだと思います。それと、ロマンチックな作品としての部分については、それは性愛描写の第1部第13章ですが、褒めていましたね。

さて。
感想をまとめるとするとすごく難しくて自分としての答えも決めきれないし、生煮えの考えのままだけれど、最後に書いていきます。まあ、割り切れるような作品ではありませんので。

フィクションのなかでの幼児性愛や性犯罪って、高い知性での知的なコーティングがなされれば許されるみたいな、あとはもうそれは受け手の問題なんだよみたいな、本作を知的遊戯として読んでそう感じたのですけれども、つまりはそこに「表現の自由」というものの中身を見た気がしました。

芸術表現が社会になにかをもたらしたりします。それは作品を社会や個人などにつなげて考えたりしたときにです。だけれど、現実に芸術を発生させるために幼児性愛を実際にやるんだ、としたら、それは本人や同族にとっては大きなカタルシスかもしれないけれど、言うまでもなく許されるものじゃなくて、秩序がそれを排除にかかるでしょう。

芸術のカテゴリって善悪の判断ができない性質のものだから、そこは秩序が法や規律で人間の尊厳を守る、ということになるのでしょうか。「表現の自由」の「自由」は自由勝手でも欲望のままとしての「自由」じゃなく、責任を伴ったものとしての「自由」と定義された「自由」なのか、どうなのか。

と考えてみたとはいえ、あらためて難しいなあと思うんです。作り手の初期衝動は縛られるべきではないし、実際に作っていく段階になって自身のコントロールをいれていき、徐々に客観的な視点も鑑みてできあがっていったときに、あまりにマイルドなものが完成したのだとしたら、ちょっとやりきれてない感が出るでしょうし。

作品が部分的に悪しき性質を内在させていたとき、そこをフィクションとして受け止め、自分なりに処理したり手綱をつけたりするのは受け手の教養や知性の問題だから、としたいほうなんですが、人間っていろいろな人がいるから社会は秩序を守るために線引きをするっていうのは、ある意味で社会的包摂ということになります。それはその芸術作品に関心が持てなかったり理解が難しかったりする一般的な人たちへの優しさでもある。でも他方、そういった包摂をする社会秩序は、いわゆる「ヘン」なモノに対しては厳しく、排除してくるものです。障がい者やとがった芸術に対しては包摂しません。なんていうか、やっぱり難しいんですが……。



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『いつまでも若いと思うなよ』

2024-09-23 15:05:09 | 読書。
読書。
『いつまでも若いと思うなよ』 橋本治
を読んだ。

作家・文化人の橋本治さんによる「老い」のエッセイ。

著者が仕事に明け暮れたのは、バブルがはじけたために抱えた自分が住むマンションに関する借金が理由だったそう。月に150万円の返済を、70歳までやらなければいけない。借金を抱えた当時は40歳くらいです。その頃、貯金が2000万円ほどあったものも無くなり、自転車操業のようになりながら返済に苦労したみたいです。こういった苦労が作家として役に立つところはあったと著者は言っていますし、そうだろうなあと読んでいて思いはするのですが、それにしたってキツイです。

108ページ目に書いてありますが、60歳くらいのときに、「死ぬ気でやります」と言って、二週間ちょっとで三百五十枚の長編小説を書きあげられている。さすがにそのあとはダメージがあって、肩が痛いを通り越して首が回らないになり、そこから疲れが抜けない状態になったそう。そうして、「ちょっと休みたい」と思っているときにマンションの管理組合理事になってくれ、と言われ、引き受けざるを得なくなる。管理組合は裁判を抱えていて、著者は裁判のためにあくせくするのです。あげく、疲れ果てて、何万人にひとりだという、血管が炎症を起こす難病にもかかってしまいました。

退院後は、歩くのも大変で、頭は回らず(原稿を書くのって体力が要るんだ、とはじめてそのときに知ったそう)、でも日々そういった衰えに抗って回復しようとする姿が文章中からうかがえるのでした。老いに抗うのをよしとはせず、ちゃんと老いていこうとする本書前半部分での語りでしたが、こういった、不当ともいえる、「健康に自然に老いていく」のとは違う衰えに対しては、できる限り回復して人生を歩いていくほうがいい、と僕も思うんです。そこは、老いや衰えの種類が違うのかもしれない。

僕がここで自分なりに読み取って考えたのはこうです。年齢を重ねて、「自分はまだまだ若い」という気でいないことは大切なのですが(世代交代が進まないなどのいろいろな「老害」もあるからです)、じゃあどうするかといえば、老いた自覚を持ち、老いを認める前提で、そのうえで「よりよく生きようとする」のがほんとうなんじゃないだろうか、ということです。歳を重ねても、はつらつと元気でいられれる人でも、若いのとはちょっと違うんだ、くらいの認識は必要かもしれません。

ここからは、引用を。


__________

もう一つわかったのは、忙しすぎて「断る」ということが出来ない心理状態になると、恐怖心が強くなるということです。「あんたの体力はなくなっているよ、やばいところに来てるよ」ということを教えるために、「こわい」という感覚が強くなるんですね。(p112)
__________

→年を取ってから不安が強くなる人っていますけれども、体力とそういった心理との関係をつないでくれている箇所です。心と体の相互性を忘れてはいけないですね。



__________

「入院してただ寝てるにしろ、未消化のストレスをそのままにしてると体に悪い」と思ったので、人が来ると「あのクソババァを殺しとかなかったのは残念だ」とか、思いっきり物騒なことを口にします。「おぼしきこといはぬは腹ふくるるわざなれば」と兼好法師も言ってますから、私はその毒出しに一カ月かけて、後はおとなしくしてました。(p146)
__________

→WEB検索すると、「おぼしきこといはぬは腹ふくるるわざなれば」は<「徒然草」第十九段の有名な一節である。 言いたいことを言わないで我慢していると、何か腹に物がつかえているようで気持ちが悪い、という意味である。 ストレスと胃腸の関係を的確に表現している言葉である。>と出てきました。愚痴や不満を吐き出すことの大切さは、鎌倉時代にも言われていた、と。僕は、迷惑だろうなあと思いつつXで愚痴や不満や文句や嘆きを吐き出しがちで、以前はLINEでも吐き出したりしていました。胃腸はあんまりよくないです。


最後は三つほど、箇条書きで。


◆人は脳で考えて何かをするより、条件反射的に何かをしていることのほうが多い、と書いてありました。そしてそれは、習慣と呼ばれるものだ、と。で、思い浮かんだのが、習慣を構成している成分のこと。言い換えればそれは思い込みと決めつけというやつで、ときに悪習慣として、勘違いや誤解を生んでいます。


◆著者が42,3歳の頃に『Myojo』の巻頭グラビアを1年ほどやったというけど、どんな意図だったんだろうなあ、といろいろ考えを巡らせるように想像してみました。最後の方はうしろのページに移り女装をさせられたりもしたそう。編集長は異動になったそうです。著者の借金苦に対して、仕事を作ってくれたということなのかもしれない。

◆著者が病気を患った部分を読んでいて感じたことを。60歳や70歳になるまでほとんど病院にかからなかったような健康だった人のほうが、あるとき体調を崩して老いを実感すると、病院にちらほら通った人生の人よりもずっと戸惑うんじゃないでしょうか。健康だった人が年を取って躓くと、老いを腑に落ちる形で処理しづらそうです。病気になるということがわからないぶん無意味な格闘をしやすそうではないですか。老いた現在の自分の状態というものに軟着陸できる人と、墜落気味に着地する人とが、大別するといるんじゃないでしょうか。長らく健康でいることになんのリスクもないのではなくて、そういった墜落気味になるリスクが潜んでいると言えそうという話でした。




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『ひらめきはカオスから生まれる』

2024-09-06 21:49:17 | 読書。
読書。
『ひらめきはカオスから生まれる』 オリ・ブラフマン ジューダ・ポラック 金子一雄 訳 入山章栄 解説
を読んだ。

もちろん秩序は大切なのだけれど、ひらめきを得て創造するためには(そして精神衛生面においても大切になる)カオスを取り入れようとする考え方があります。本書はそのような内容のものでした。米軍の大将から、偶然が重なるようにして著者へ依頼が来ます。それは、秩序だった組織である軍隊に、カオスを導入してみる試みを担当して欲しい、というものです。この話を大きな軸として、カオスの効果に関する話が、まるで物語のように語られもするエッセイ形式の論考として横に流れていきます。

米軍がカオスを取り入れる挑戦をしたとき、従来の思考法は効率的でスピーディーだったけれども、深く考えるということをしなかったと気づいた、とありました。

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部屋は静まり返った。数分が黙々と過ぎていった。デーブ・ホーランがやがて口を開いた。「われわれは軍人だ。絶え間ない戦争のおかげで、いつでも駆けずりまわっている。誤解しないでほしいが、私は任務に命をかけている。ここにいる全員がそうだろう。しかし、われわれには、じっくりと考える時間が欠けていた」
軍隊は、効率を重視するあまり、士官たちの暮らしから「余白」を排除してしまった観がある。暴力や死といった過酷な体験を、みずからの内できちんと消化する機会を得ることなく、いつまでも心に背負いつづける苦悶の大きさは想像にかたくない。(p134-135)
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効率重視で、秩序を堅持する姿勢でいることは、おそらく人間の本来性から離れているのだと思います。上記の引用のとおり、米軍の士官たちがとある会合で、深く思考すること、思索することに気付いたとき、帰還兵の自殺問題にもこういったカオスを導きいれる思考のやり方に効果があるかもしれない、とする意見もでていたそうです。

少しのカオスの導入には、人間性を回復する効果があるのかもしれません。本書によると、カオスには三つの要素があり、「余白」「異分子」「計画されたセレンディピティ」がそれらにあたるのでした。なかでも、「余白」を認めるところがわかりやすい例だと思うのだけれど、「余白」というものの効果で、知らずしらずそうなってしまいもする「浅い呼吸で過ごす時間」が減りそうです。

また、アインシュタインの例が面白かったです。いわゆる秩序の世界である大学のカリキュラム上での勉強よりも、彼は仲間同士で真剣に行う物理学や思想、哲学の意見の応酬や議論の時間をたっぷりもってきたそうなのでした。枠にはまってないそんな自由さ、異分子を受け入れる態度が、その後の吉とでたのです。

あるとき、いつものように議論仲間と話していたアインシュタインは、もう物理学の問題には降参だ、みたいにちょっと意気を落とした夜の寝床で、特殊相対性理論を思いついたらしい。これは余白とセレンディピティの効果とも考えられます。本書によると、余白っていっても、それ以外の時間にいろいろやってこそ見込める効果なのです。

ここでちょっと、僕自身の最近の過ごし方と照らしあわせてわかったことを書かせてください。

この夏、両親がそれぞれひと月半ほど入院し、僕はそのあいだずいぶん久しぶりに一人暮らしをしていました。この、思いがけず自由を得ることになる機会を前に、当初は次のように目論んでいました。読書も執筆もしたい放題で、普段ならばたまに家庭環境が落ち着いた間隙を利用して観ている映画やドラマも好きなように見られる、と。しかし、いざ一人暮らし期間に突入してみると、すべてが僕の自由となり、何にも縛られず、決められておらず、いわゆる「カオス」の状態に放り込まれていたのでした。そうなると、読書も執筆もほとんど進まなくなりましたし、映画やドラマなどを見る気もなかなか起きてこない(もちろん、夏の暑さによる影響も少なからずあるのですが)。そんなふうに一人暮らし期間は過ぎていきました。こうして本書をじっくり読んでみると、そこにそれまでの規律が失われたこと、つまり秩序が希薄になったことが、うまく自由時間を活かせなかったことに影響していたのだなあとわかります。カオスに満ちた時間では、物事は運んでいかないんですね。僕は他律性をとても嫌うタイプなのですけれども、それでも規律がないよりは他律だとしてもあったほうがましなところがあるようです。規律つまり秩序は、うまく生活していくための前提条件であることを、体験的に知ることになったのでした。まず、秩序があって、そのなかでやれるだけやっていてこそ、カオスがもたらされてそれが活かされる。

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怠け者は、毎日ぼんやりと白昼夢にふけっていても、画期的なひらめきを得ることはまずない。大きな問題と長期にわたって格闘してきたわけではないし、明確な目標もないからである。(p234)
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上記の引用部分のとおりなのでしょう。これに続いて、休みなく取り組んでいる期間の一休みや、丸一日の休みというものが、ひらめきをもたらすなどの効果になりやすいことが示されていました。少しのカオスを導入する前段階での前提って、「猛烈に取り組んでいる状態」であることなのでした。僕自身を例に話しましたが、創造性の面において成果はほとんどなかったなかでも、それまで相当しんどかった心身の疲労面では大きく回復することができたのが、現状でも今後を考える上でもとてもプラスになってよかったです。

閑話休題。

まあ、このあたりの、創造性とカオス(ちょっと秩序から離れてみること)の絡んだポイントって、さっきも書きましたけれども、精神面において回復効果を見込める可能性もふくめて、他にもおもしろい財宝がいくつも眠っていそうな感じがしました。まだまだ未開拓(未言語化)の領域が広く残っていると思います。

ひらめきに必要なカオスをもたらす要素の一つである「異分子」の章では、スーパーマリオブラザーズやゼルダの伝説を創った宮本茂さんが素晴らしい例として出てきました。それまでの任天堂にはいなかった美術系大学を出た異分子タイプだったんですねえ。

というところですが、最後にひとつ引用して終わります。

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混沌を排除しようとする過程には、肝心の革新性や創造性まで押しつぶしてしまう危険があるからだ。(p226)
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→効率性重視の競争経済社会では、大部分の仕事で(サービス業のパート勤務などは特にそうだと思います)規律・マニュアルに縛られています。それは強靭な秩序の下でこそ効率性が得られるからですが、上記の引用のように、そこではクリエイティブなものってでてこない。「現場にクリエイティブは求めていない」という割り切った考え方がつよくあるでしょうけれども、これからの時代ではとくに、そういった労働のあり方は、人間存在のあり方とこれまで以上に齟齬をきたすのではないか。最初の方に書きましたが、少しのカオスの導入が、精神衛生上にも良いようですし。仕事時間中にまったく自分を振り返れない、なんていう労働スタイルは、「作業をこなす」という種類の労働ですけれども、やっぱり僕なんかにはちょっと疑問符のつくスタイルです、現今の主流ですけどね。

追記として、シリコンバレーのの興りと現在までのその伝説的な歴史と、中世ヨーロッパのペストが時代を開かせた説はかなり面白かったのでおすすめです。一読の価値が大です。

さらに追記です。カオスってなんだ、どういう感覚なんだろうか、とよくわからない人のための喩えとして、「ブレーキの利かない車で急坂を下っていく感覚」というのは秀逸。さらに、「その急坂の道は凍っている」なんてふうに盛る言い方も本書にありました。ときにそういった感覚の、どきどきする現場っていいよね、という。




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『雪平莉左ファースト写真集 「とろける。」』

2024-08-31 22:35:20 | 読書。
読書
『雪平莉左ファースト写真集 「とろける。」』 雪平莉左 撮影:佐藤佑一
を眺めた。

雪平莉左さんは、美しすぎるラウンドガールとして大きく知れ渡る前、週刊プレイボーイのグラビアに登場したときから、その魅力が360度につよく放たれている美女という感じがしていました。ファースト写真集を逃すはずもなく、でも入手してすぐに開封しなければ積読の山に埋もれさせてしまうのが、僕の悪い習性のひとつで、こちらの写真集も中身がすごく素晴らしいのに、2年以上も僕の目に触れずに部屋の中で積まれていたのでした。

最初のページからのワンシーンは、雪の北海道です。「雪、ひらりさ」と誰かが呟くセリフのような情景。芸名をなぞった、ある種の夢想的な風景がそこにありました。雪がひらひら舞う雪原で、スキーウェアを着込んだ美女がひとり静かな微笑みをたたえています。そして、ウェアを一枚脱ぐと、ランジェリーしか身につけていない。男性的な、身勝手なタイプの妄想シーンの具現化でしょう。

色白でスタイルがよくて長い髪がきれいで瞳が大きくて、真っ赤な唇が艶やかで。美女なんだけれど、女の子のかわいさがしっかり残っているようなルックスです。

おとなしそうかもしれないし、逆に気が強そうなのかもしれない。内面をイメージすると、さまざまな解釈が可能で、第一印象から多面的に見える方です。そういうのを、美女から香る謎、とでも言ったらいいのでしょうか。たいてい、はっとして気を引かれる女性って、不思議さというか、謎めいたなにかをその人に感じ取らせていたりするんですよね。それが解けなければ解けない謎なほど、男は虜になる。

まあ、あまりに表面的な段階から自らの謎を解かせないようなガードの堅さがあったとすると、それは逆効果ではあると思うのですが。

というところですが、僕みたいな美女好きはかんたんに吸い寄せられてしまうような、ある方面ではしっかり完成されている美しい女性、といった感じがします。男のアホさベースの妄想の具現化よりも、もっと夢幻をまとったイメージでも見てみたいです。




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『自衛隊入門』

2024-08-26 11:05:43 | 読書。
読書。
『自衛隊入門』 宮本猛夫
を読んだ。

自衛隊発足の流れから始まり、どういった組織体系になっているのか、その実力はどれほどのものか、どういった任務をこなしているのか、自衛官はどういった日々を過ごしているのか、自衛官の私生活はどういったものなのか、などを各章にわけながら、シンプルな文章でわかりやすく教えてくれる本です。

2015年の本ですから現在はどうかわからないですが、サイバー部隊の人員の少なさが気になりました。この部隊は約90人の体制で発足しているんです。アメリカや中国は数万人規模なんだそう。人員確保や防衛費の問題もありますけれども、これはおそらく規模は拡大されてるんじゃないかなと思います。

各国の兵力との比較も、こんなに違うんだなあ、と思いました。自衛隊の人数24万人にたいして、北朝鮮は119万人。韓国66万人と出ていました。アメリカや中国の兵力も100万人規模でしたし、この両大国は艦船や航空機の数自体が自衛隊とはケタが違いました。また、たとえば島などが侵略されて要塞化されてしまうと、自衛隊には敵基地を攻める装備がないので、米軍頼みになるんだとありました。これは「専守防衛」の自衛隊だからです。有益な演習は日本国内ではできないのでアメリカで米軍と合同で行っていたりするそうですし、もしもいきなり日米安保を無くすととんでもないことになりますね。北朝鮮からのミサイル発射を補足するのも、日本のレーダーでは遅くて、アメリカの軍事衛星がとらえた情報をアメリカ軍からもたらされてからになっているそうです。日本にはそういった軍備が無いのでした。

あと、領空侵犯による自衛隊機スクランブル発進の回数は、本書で挙げられていたサンプルの年だと「810回/年」もありました。また、領海侵犯というものもありますが、どちらとも自衛隊は憲法上先制攻撃できないので、通信による警告で退いてもらうかたちが一般的だそうです。

僕なんかのイメージですと、自衛隊といったら、雪まつりで雪像を作っていたり、競馬のファンファーレの演奏をしていたり、といった面が眼についていました。それが活動の端っこのところなのはわかっていても、本来の活動の具体的なところってよくわからないでいました。毎日訓練しているんだろうなあと、たまに砲撃の音が響いてくるのを聞きながらぼんやり考えることはありながらも。その程度の知識を持つ僕みたいな人には、本書は自衛隊の輪郭や色彩が掴めるみたいにおもしろい。

ミリタリーヲタク向けでも、右翼寄りでもないことが、こういう本の方向性としては大切なんだろうと思います。そのあたり、クリアした本でした。

最後に。巻末に付記のようなかたちで、2011年に起こった東日本大震災時に自衛隊が活動した様子が簡単に書かれています。3月11日14時46分の地震発生から4分後には防衛相に対策本部が置かれ、その7分後には情報収集の海自ヘリが飛び立っている。12日早朝の段階で、2万人規模の災害派遣準備ができていたそうです。その後、まもなく10万人規模の災害派遣に増員されるのですが、全国の自衛隊員数が約24万人ですから、その規模の大きさ、国がすぐさまきちんと注力した感じがわかると思います。救援活動のほうでは、15日までのあいだに、19000人以上を救出しました。福島第一原発事故においては、テレビ中継でヘリコプターが空から水を落下させる冷却作業を見た方は多かったと思います。また、自衛隊の消防車で近辺から放水して冷却をしていたさまも覚えている方はいらっしゃるでしょう。あのときは、これじゃダメだろうと、とあまりに効果の薄そうな手段が取られていることに、そしてそんな手段しか取れない事態であることに、僕は青くなったものでしたが、今こうして生活していられるとおり、ひとまずなんとかなったのでした。原子炉建屋で水素爆発が起こったあと、決死隊として自衛隊員が14名、現地に残っていたそうですし、最初の爆発のときには自衛隊員4名が負傷して、ポンプ車が一部破損していた、と。
災害派遣は12月26日まで行われ、救出者数19286名、収容した遺体は9505体にものぼったそうです。遺体が腐敗していた時などは、きれいに洗浄して遺族に引き渡していたとあります。その他、自衛隊の入浴キットによって入浴できた人の数はのべ100万人だそうです。そういう職業だとはいえ、自衛隊のこうした尽力はとてもありがたかったです。



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『ヒトラーとナチ・ドイツ』

2024-08-16 22:48:52 | 読書。
読書。
『ヒトラーとナチ・ドイツ』 石田勇治
を読んだ。

怠惰で自堕落だったヒトラーがどのように世に出てきたのか、そしてどうやって総統(それまでの大統領職と首相職を統合した地位)という独裁者の地位を手に入れたのか。本書は、ヒトラーとナチ党を中心に追っていくドイツ近代史です。学校の勉強だけでは隙間だらけだったその知識の空隙を埋めてくれる内容でした。

前半、ヒトラーが徐々に実力や名声を得ていくところ。ヒトラーやナチスのようなとんでもない悪行をやった人たちであっても、その躍進していくさまには面白みを感じてしまうのでした。へこたれず、ときに無鉄砲で、暴力に訴えて、なのだけど、活きたエネルギーが渦巻いているんですよ。ただやっぱり、そこにある危険な香りとして、時代なんだろうけれど、アクセルを踏みすぎる空気感・社会環境があったような、そんな印象を受けました。「押せ押せ」なんです。今もありますけれども、パワーこそが最高というマインド。そういったアクセルに対して、制御系は大事ってなんですよね。

ヒトラーが総統となるまでの道程がもうすごかったです。劇的だし、ゆえに、さらに果てしない熱狂を生んでしまう物語になっている。若い頃のヒトラーは、セコくて小狡く、カリスマ性なんてないのに、弁論の才能が隠されていて、それを見出して育てた人がいました。そのあとは邁進するのみという感じ。

ヴァイマル共和国時代の首相になったところまでの部分では、ヒトラーを首相に任命したヒンデンブルク大統領や保守派側近の目論見としては、ヒトラーを利用して用が済めば失脚させればいいとし、まったくもって高をくくっていたそう。ナチ党の勢いはそのころ下降を見せていた頃で、反対に共産党の勢いがかなり増していて、ヒンデンブルク大統領らは共産党の勢いを削ぎ、議会制民主主義を終わらせて立憲君主制に戻すためにヒトラーを利用しようとした、と。でも、国民的な支持が強くて国民支持政府となったのがまず誤算だったようです。いったい、ヒトラーはどこまで考えていたのだろう?

ヒトラーが人気を集めたのは、演説能力がずば抜けていたのと、それとともに、民衆と情緒的につながるという戦術がうまかったからみたいです。政治家と民衆が情緒的につながるのは危険ですよね。政治家は強い権力を持っているわけだから。ここはこの時代から得る大切な教訓です。

ヒトラーとナチ党の一派は、駆け引きや政治力が優れていて、そのうえ「天の時」とでもいうような天運に恵まれているところがあります。ヒトラーを首相に任命したヒンデンブルク大統領という人物自体が、議会制民主主義を嫌っていたわけですが、その部分だけだとヒトラーを利害が一致するわけです。そして、ヒトラーは迅速に大統領の望むような国の仕組みに変えていく。それによって、大統領はヒトラーを信頼するようになり、高齢のために亡くなるのですが、そのときにはヒトラーによって、大統領が亡くなった暁にはヒトラーが総統となる、という法律を作ってしまっている。ほんとうに、頭を使って、用心しながら周到に立ち回るんです。



ここからは、ヒトラー及びナチ党の大罪であるホロコーストについてになります。

559万6000人。これは、ヒトラーを頂点とするナチ・ドイツによって虐殺されたヨーロッパ中のユダヤ人の人数です。この虐殺はホロコーストと呼ばれますが、ナチ・ドイツでホロコーストがどのように行われていったのか。

最初は、とある重い精神病患者の父親が、どうにか息子を安楽死させてほしい、と嘆願したことがきっかけでした。この嘆願が受け入れられた後、他の重症精神病患者も同じように安楽死させたほうがいい、となって、ドイツ全国で安楽死させられることになります。これについてはカトリック教会の神父の講義の演説によって表向き中止となりました(裏ではしばらく行われたとのことです)。この重症精神病患者へ安楽死政策に従事した医師や看護師などは、その後、ユダヤ人強制収容所に異動させられます。ノウハウをもったスタッフとして使われたのです。

1938年の水晶の夜(ドイツ全土でユダヤ人を襲ったナチ党の計画的犯罪事件)以降ユダヤ人迫害弾圧は公然のものとなり、激しさや酷さが増していきます。それから、1941年のソ連戦にて親衛隊主導で虐殺が始まります。ゲットーに集めらたたくさんのユダヤ人たちの中で疫病が発生しているなか、餓死させたり銃殺したりするより、安楽死が人道的だと結論されて、そこから強制収容所での虐殺が始まる。

こういうふうに連鎖していったことを知りました。ヒトラーの思想からなるナチ党の考え方や方向性がそもそも大問題なのだけれど、きっかけとして、とある重症精神病患者の父親の苦しみから来た嘆願があったことが心苦しいです。時代ってどう転んでいくかわからない。



ほんとうにヒトラーの闇が深いんですよ。行き止まりに突き当たったら、惨劇を選ぶ。そしてだんだんそれに慣れていく(裏面の闇が表面にどんどん滲み出てくる)。

レイシズムと優性思想が大きくナチ党の根本にありますが、人格が未熟なうちにこういうのに触れてしまうと飲み込まれてしまう気がします。優性思想なんか、現代でもそこらで誰かとちょっと話をしたときにその相手からするっと出てきたりすることがあるくらいですし。僕も学生の頃くらいまで、どっちかといえば、優性思想寄りの考え方だったと思うなあ。



といったところで、ここからは引用を。
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ヒトラーは、若い頃から、共感する政治家や思想家の著作、極右団体の冊子・パンフを手あたり次第読みあさって自分の世界観をつくってきた人物だ。ランツベルクの監獄ではハウスホーファーのような学者のレクチャーも受けている。大衆を焚きつけるためには、専門家の議論を卑近な言葉づかいに書き換えることが必要だ。そうしてこそ、言葉は政治的武器となる。『我が闘争』が成功を収めた鍵はこの点にあった。(p74)
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→人気がありながらもまだナチ党の顔に過ぎなかったヒトラーが起こし、失敗に終わった「ミュンヒェン一揆」と呼ばれるクーデター。そのあと、ヒトラーは裁判で有罪が下されながらもランツベルク監獄で自由に暮らすのですが、ここで解説されているのは、その頃に学者のレクチャーを受けて自身の思想や知見の底上げを成し遂げたことを含めた、ある種の知的好奇心に満ちたヒトラーの側面についてです。本書を読み終えると自然とイメージが出来上がっていくのですけれども、ヒトラーのユダヤ人に対する妄想と執着はほんとうに異常で、憑りつかれるどころか人格と一体化している感があります。引きはがすのが残んだけれどおそらく無理ではないか、というくらいにユダヤ人陰謀説を信じ込んでいる。そして、そういった妄執を源泉として作り上げた思想と巧みな演説で、ドイツを席巻してしまった。



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(※いわゆる基本的人権、つまり住居の不可侵、信書の秘密、意見表明の自由、集会の自由などがナチスによって禁止されたがどうして人々は反発しなかったのか→)「基本権が停止されたといっても、共産主義や社会主義のような危険思想に染まらなければ弾圧されることはない」「いっそヒトラーを支持して体制側につけば楽だし安泰だ」。そんな甘い観測と安易な思い込みが、これまでヒトラーとナチ党から距離を置いてきた人びとの態度を変えていった。(p168)
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→ドイツ国民は、基本的人権が停止されて反発するのではなく、ナチ党へ入党する方向へと舵を切った者が大きく増加していったそうです。ナチ化が進んでいったのです。そこには、政治弾圧に当惑しながらも、あきらめ、事態を容認するか、そこから目を逸らしたからである、と著者は述べている。



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(ナチ政権前の)ヴァイマル期のドイツは、国民の生存権を定めた共和国憲法のもとで福祉国家への道を歩みだした。社会福祉が拡充し、病院や保健所ではソーシャルワーカーが活躍するようになった。しかし世界恐慌が起きると状況は一変し、経費の削減が求められるなか、万人に平等な福祉のあり方を問い直す声があがった。ヒトラーも、そのような考えを持つ政治家のひとりだった。(p261)
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→現代日本でも、不況による格差や貧困が著しく感じられるようになった昨今、こういった「万人に平等な福祉のあり方を問い直す声」を、たとえば僕なんかはネット上で見ることがありますし、ニュース記事を通して知ることがあります。介護が必要になる老年の人たちを排除したらいいとする言論、生活保護受給者に厳しくあたる一般人の声や、役所の生活保護係による邪険な態度にさらされる人たちがいるという話がそうです。僕の考えでは、ここは最後まで粘る分野ということになります。早い段階で簡単に切り捨てるべきではないし、そのためには多くの人たちが「どうしたらいいのか」をよく考え続けることが大切なのではないか。ヒトラーの場合では、自分の思想が中心なので、簡単に切りすてた上で、自分の思想に都合よく利用していきます。危機感を煽って正当化していくといった具合に。



以上です。本書はまとまりがよく、密度は濃いですけれども、端的な記述の仕方によって、読み手としては内容に没頭できて読み進められる本でした。語りつくそうとすると、本書一冊丸写しになってしまうので、こういった体裁の感想中心のレビューになりました。すべてを吸収しきれていませんが、教訓とするべき箇所は数多かったです。おすすめです。



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