Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『こぼれ落ちて季節は』

2025-03-05 23:45:44 | 読書。
読書。
『こぼれ落ちて季節は』 加藤千恵
を読んだ。

いろいろな人たち、とくに学生など若い人たちが多くでてきます。本作は恋愛を扱う連作短編なのですが、そのなかで主人公を担っているひとたち、相手役の人たち、脇役の人たち、それぞれが、外向的だったり内向的だったり、興味の方向も恋愛観も、積極性の強い弱いも違うことがしっかり書き分けられている。ほんとうにいろいろな人が描けているので、小説世界が閉じていないです。だから、フィクションではあっても、誰かの(つまり著者の)独り舞台のような空想劇という感じは僕にはほとんど感じられなくて、好ましく、そして心地よく思えた作品でした、ときに屈折した心理を見せる人物がでてきてもです。読み心地の重さ、軽さといった重量感にしてみても、読み手として負担の少ないちょうどよい好感触でした。

最初の短編から、男女の関係のとき、女性側が「触れられてさまざまな境目がわからなくなっていく自分と、」(「友だちのふり」p16)と体感している最中の言語化と感性がいいなと思いました。普段は他人との間にしっかりした境界があるものですからねえ。そういったところに注目し意識するのか、と。

主人公がそれぞれの話にそれぞれの人たちがでてくる中で、脇役として別の話にまたがってでてくる者もいました。その脇役の男がある話の中で浮気をしていて、別の話で浮気がバレて修羅場を迎えているのですけど、おっかしくて仕方なかったです。だけど、ちょっと読み進めるとわかるのだけど、出合い頭でおっかしさを感じたりしたけれども、笑い話というわけではないんだよな、とすぐに身を正すことになりました。脇役の彼の人生もまた連作短編の物語のカギになっているんです。というか、身を正すなんて言い方をするとかしこまっているようでまたそれはそれで違って、個人的な笑いという逸脱から物語という本筋の道に戻って踏みしめて歩くように、つまりそのとおりを味わうように正対する感覚なのでした。まあ、それはそれとして。


では、引用をしながらになります。



__________

(略)ゆきは中学時代、イジメに遭っていたらしい。友だちとケンカしたのがきっかけらしい。きっと友だちが力のある子だったのだろう。
 腕力ということじゃなくて、力の差は絶対にある。わたしは幼いころからそれを意識していた。クラスの中で、誰が強く、誰が弱いのか。もしもトラブルが起きそうになったら、どう立ち回り、誰を味方につけるのが得なのか。
 わたしだって、いつもうまくやってきたわけじゃないけど、それほど大きな問題は起こしてこなかった。多分、ゆきはわからないのだろう。笑いたくなくても笑ったり、楽しそうに振る舞ったりしてみせることの重要さについて。(「逆さのハーミット」p87-88)
__________

→この短編の主人公である姉のあさひが、不登校になった妹のゆきについて述べている箇所です。ここを読んでみても、あさひが、うまく友人関係を乗り切る能力に優れているタイプなのがわかります。とくに大きな傷を負うことはなく、紙一重のケースはあったかもしれなくても危険をうまく回避して、学生時代を終えていくような人ではないか、と感じられました。
で、この引用部分ですが、僕には二重に身に染みてわかるんです。小学生から中学生の終わりくらいまでは、僕は「笑いたくなくても笑ったり、楽しそうに振る舞ったりしてみせ」られるほうでした、周囲に。かなりふざけたことやバカみたいなことを言ったりやったりして、友だちたちを笑わせることが好きだったのだけど、それは相手側からすると、気を遣って「いい反応」を見せてくれていたところはけっこうあったんだろうなあ、と今になるとわかってきます。で、中学の終わりころから、スクールカーストみたいなものが嫌になり、逸脱あるいは転落をするのですが、そうすると、それまでそんなに気を遣わなくてもよかった同学年たちの力関係が見えてくる。また、同学年のそれぞれが、力の強弱において僕をどう評価しているのかもわかってくる。
学生時代って、勉強に励む人には友人関係が二の次だったりする人もいますが、反対に、勉強が二の次で友人関係を楽しむことが第一の人も、たとえば僕の通ったような田舎の高校にはわんさかいるものです。勉強がよくわからなくても、後者のような子たちはすごく複雑なことをやっているんですよね。政治力とか、駆け引きとか、そういった試験とは関係のない能力が、日ごろから大なり小なり交差したりぶつかったりっしていて、勉強よりもそういったところが鍛えられていく人たちがいる。それは、社会に出てから、世渡りすること、先輩たちとのうまい付き合い方なんかに発揮されていくのでしょう。サバイバル能力につながるスキルとも言えますよね。
このあとの「向こう側で彼女は笑う」という短編の主人公である、別の高校生の女子もまた、この引用にあるように、笑いたくなくても笑ったり、ということで平静に過ごすことをよしとし、そこからはみださないか怯えてもいました。作家は学生たちの間に(実は、学生を卒業しても変わらなくて、あとのほうの社会人の短編でも似たようなことがでてくるのですが)厳然としてあるこういったひとつの有りようをぐうっと掴んでいて、巧みに言語化し、物語のなかで表現しているわけです。それは、暗黙の了解のような、良いか悪いかは別としても、この社会一般に根差す不文律であって、これを表現して突き付けたことは本連作短編でのストロングポイントにもなっていますし、作家の腕を見せたところだったとも言えるでしょう。



__________

(略)こんなにかっこよくて素敵な人に、彼女がいないはずはなかった。第一、彼女がいたとして、どれくらい問題だっていうんだろう? 多分昨日までのわたしだったら、そんなのはありえないって思っただろう。でも目の前、触れられる距離に彼がいて、温度や手触りを知ってしまっては、この状況こそが、それだけが、信じるべきものに感じられた。(「逆さのハーミット」p101)
__________

→音楽フェスのバイトスタッフとして働いたとき、現場で知り合った男の虜となり、彼の部屋で彼と寝た主人公。そのあと、男に付き合っている彼女がいることがわかるシーンです。彼と肉体関係を持ったことで、もう赤の他人ではなくなり、心理的な距離が特別なものへと変わったことがうまく描かれているなあと思いました。「この状況こそが」が、お見事なほどの鋭い感性ではないですか。ふつうでは踏み入れない状況。ふつうではそうはならない特別な状況。そういった二人だけの状況にいる自分と彼は、だからこそ、特別な深みにいるわけです。そして、その深みに至るまでに経た過程が証明する二人だけの実感があったからこそ、主人公のあさひは「信じるべきものに感じられた」んだろうなあと思えた次第でした。



__________

 大学生活を通して、わたしが身につけてきたように思っているものなんて、ちっとも価値のないものなのかもしれない。
(中略)
 東京を特別な場所だと思ううちに、自分までもが特別になっていくように錯覚していた。でも、地元にいたときと、今とで、わたしのどこが変ったっていうんだろう?(「波の中で」p223-224)
__________

→就活を振り返った主人公が、当時がくぜんとした思いを述べているところです。大学生なんて、「浮かれた存在」にどうしてもなってしまいますよね。いろいろやったようでいて、井の中の蛙だったのを思い知るというのは、ほとんどの人が社会に出て、あるいは社会に出る前の就活で感じることなのかもしれません。ただ、個人的なことを言うと、それを先に社会に出て会社や組織で十年選手とか二十年選手とかやってる人が、新人のそういった未熟さを知っていて、マウントをとるわけでじゃないですけど、なめて接してくることって多いと思うんです。そういうのが、僕が主人公たち大学生に感情移入してみると、とっても嫌ですね 笑 まあ、そこまで本作には書いていないですが。


というところです。

元も子もないことを言うのですが、一人称の小説って、自己言及が多いっていうの、あるあるじゃないですか。自己客観性も強い。外向的な性質の部分あるいは自己を保守する部分が、他者との境界をしっかり築かせるのでしょうか。自身の輪郭をきっちり定めるというようなのは、自分を言葉で定義づけする度合いの強さの結果かもしれません。もっとぼんやりしてたり、もっとよくわからない欲求や衝動に任せたりして生きている場面が多くてもいいんじゃないかな、と小説でも現実でもそうあればいいのにと、僕なんかは思ったりしました。人それぞれだから好きにすりゃいいことなのですけどね。まあ、割合の話です。






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『蛇の神 蛇信仰とその源泉』

2025-02-25 14:40:09 | 読書。
読書。
『蛇の神 蛇信仰とその源泉』 小島瓔禮 編著
を読んだ。

古より蛇は、「正・邪」「善・悪」「敵・味方」など、相反する性質をもたされた揺らぎのある存在とみなされてきたそうです。矛盾が同居させられていて、同じ神話や言い伝えのなかでもケースバイケースでどちらかに転んだ行動を取らされていたり、物語の性質によってどちらかの側に立たされていたりする生きものでした。また、インドの神話では、蛇は宇宙蛇としてこの世界を根本から支える存在とされていますし、北欧神話でもミズガルズ蛇が大地の中心を担い、世界の軸としての役目を持つような神様だったりします。本書は、そんな「蛇」への人類の精神史といいますか、人間は蛇になにを感じ、またなにを見てきたかを、古文書や伝承などから読み取り考察したものを教えてくれます。

蛇の神って伝統的にけっこうポピュラーな存在だったようです。あの金毘羅神も蛇の神だったと本書で知りました。女の神が蛇の神とまぐわい子をもうけたりする神話が珍しくないみたいにいくつか類例が記されているのですが、これ、言ったら、男根の形状が蛇っぽいから連想してそうなったのではないのか……。

おもしろかったトピックをひとつ。神無月という呼び名のある10月は日本全国の神様が出雲に集まるためそう呼ばれます。だけれど、東京都府中市周辺の地域に君臨する神様である大國魂神社の神様は蛇体なので神無月に出雲へ行きません。かつて、のろのろ這っていったため遅れてしまい、もう来なくてよい、といわれたと伝わるそう。好いゆるさのある神様界隈ではないですか。ちなみに、ここで例に出した神様以外でも全国各地に蛇体の神様がいて、みな神無月になっても自分の土地を離れないそうです。

あとは、虹は大きな蛇だとみなす伝統が世界中にあること(日本では蛇の吹く霊気だとするものもある)や、土地の神様とはおそらく別の「蛇神」の話、蛇を呼んだり追い払ったりする法術の話(追い払う呪文には「山立姫」という言葉が見られ、これはイノシシの意味だそう。イノシシはマムシを食べるとされるため呪文に使われる)、中国の白蛇伝説などさまざまな伝承をみていくようなところの多い内容でした。

小説家・安部公房は、蛇は非日常の存在だと捉えていたそう(p31)。それは手足がない胴体だけの生きものという、当然あるべきものの欠如からくる嫌悪感がベースになっているのですが、あるべきもののない者の日常を想像することはむずかしい、すなわち日常性の欠如、言い換えれば非日常の存在という図式になるのだとありました。本書では、蛇は人間にとって混沌、カオスを意味するとしています。



では、ふたつほど引用を。

__________

虹を指さしてはいけないという伝えが、日本の各地にある。長野県埴科郡でも、虹を指さすと指がくさるという。鹿児島県でも、虹を人さし指でさすと手がくさるという。琉球諸島では、沖縄群島の久高島で、虹をシー・キラー、ティー・キラーという。「手を切るもの」という意味である。虹は神であるから、これを指させば失礼に当たり、指さした指の先から、だんだんにくさってきて、手が切れてしまうという。(p84)
__________

→虹の話でしたが、虹と同一視される場合の多い蛇にも、同じことが当てはまるとあります。東京あたりでも、蛇を指さすと指がくさるといい、両手で蛇の長さを示したときには、ほかの人に、そのあいだを切ってもらう、というのがあったそう。指さしは禁忌とする宗教的な要因がなにか存在しているのだろう、と著者は見ています。



__________

蛇の腹をつつくと雨が降るという伝えのある土地もある。(p97)
__________

→蛇はしばしば水の神とされるのだそう。稲田が気がかりな農民にとっては、田畑にでてくる蛇の挙動に関心があったのだろう、ともあります。また、ヘビは雷の象徴で、水を支配する力を持っていることを解説するところもありました(p112)。雷はイナズマとも呼ばれますが、イナ=稲であるように、稲の妻=イナヅマとして、雷は稲の配偶者として稲をはらませると見ていたところがあるようです。雷が鳴れば恵みの雨が降りますからね。そして、その雷の化身として蛇を見ていたそうなのでした。



といったところでした。本書中盤では、世界に伝わる蛇の寓話や童話などを紹介してくれるのですが、物語前半では助けてくれる存在だった蛇が後半では裏切ってくるなど、このレビューのはじめに書いたように、蛇は「敵・味方」などの相反する性質をになうトリックスター的な生き物として位置付けられている印象を強く持ちました。古来より、にょろにょろと独特なやり方で歩いていく蛇の生態は、人間にとっては不思議な在り方だし畏れを抱かせる存在だったのかもしれません。ただ、おもしろいのは、欧州では蛇を飼ったりなど慣れ親しむ習俗があったようで、伝承でも、「蛇にミルクを飲ませて家に住まわせると家が繫栄した」などがあります。日本でも、家に蛇が入ると家が栄える、と言われる地方があり、そういわれる一因として、どうやら作物を食い荒らすネズミなどを蛇が食べてくれるからという害獣駆除の面が重宝されたところがあるみたいです。ネズミ捕りとして有能な猫がまだペットとしてみなされていない頃からの習俗なのでしょうね。

蛇をどう見てきたのか。現代では、気持ち悪さや毒のために忌避する傾向が強いと思いますが、そこにもっと昔の人はさまざまで豊かなイメージを持たせたのだなあと知ることができてよかったです。






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『TRIANGLE MAGAZINE 03 乃木坂46 遠藤さくらcover』

2025-02-19 22:30:11 | 読書。
読書。
『TRIANGLE MAGAZINE 03 乃木坂46 遠藤さくらcover』 与田祐希 遠藤さくら 小川彩
を読んだ。

先陣を切るのは、3期生・与田祐希さん。
沖縄での撮影でした。乃木坂に入ったときからのかわいさは色褪せないまま、瞳の輝きや表情に、大人になったこと、精神年齢をきちんと重ねてきたことがうかがえます。ずっとそういう香りがしていた「野生児感」というか「奔放な感じ」というか、そういったものも大人になっていくなかでどうやら昇華され、彼女の中で女の子感とともに統一されたような印象があります。彼女自身の中で収まりがついたような感じといったらいいでしょうか。先輩に可愛がられ、自分が先輩になると「先輩にしてもらったように」優しく後輩の悩みを聴いてあげたりするようで、面倒見の良さのある人でもあるようです。中学生の頃にはちょっとした嫌がらせを受けたりもしてた時期があるらしく、そういう経験も今の彼女と地続きだからこその振る舞いや考え方なのかもしれないです。

続いて、4期生・遠藤さくらさん。
すらりとスタイルが良い人。優し気な笑顔が、優しさのその一方で、鋭くこちらのハートをつついてくるような美しさも兼ね備えています。乃木坂加入時からしばらく、弱々しくて自己主張しないような印象がありましたし、けっこう彼女は泣いてしまいがちだと諸先輩方が折にふれて発現していたりしました。でも、いまの遠藤さくらさんは当時よりも自分をしっかりお持ちだし、自分の頭でしっかり物事を考えているんだなあ、と様々な発言から感じられるような人になっています。本書のインタビューで、何年か前の自分には自信がなかった、とありますし、今もそういうところはお持ちなのでしょうけれども、自分の弱い所からなにから丸ごと、「自分はそういう存在なんだから」と肯定できるようになったんじゃないかな、という推測をしています。遠藤さくらさんは、彼女ならではのやわらかくて心地よい空気感を、写真越しにもこちらへもたらしてくれる稀有な方ですけれども、なんだかそういうやわらかな表情が、きっと自分自身を受け止めて受け入れたんだろうな、というふうな思いをこちらに抱かせるのでした。シンプルに言っちゃいますが、とっても魅力的な方です。それでもって、自身のプライベートな領域は、他者から不可侵なまま保つタイプ。そこには入り込ませないし、明かさない。こっちからすると「謎」なのですが、そういうところがまたいいじゃないですか、距離感的にも。

本写真集を締めるのは、5期生・小川彩さん。
制服姿など、ハイティーンの健康的な日常といった写真たち。17歳の小川彩さんは、まだあどけない女の子感があります。「理想の娘」みたいな、健全な家庭の娘役としてうってつけみたいな印象があります。でも、きゃぴきゃぴしていたり、ぶっとんでいたりというよりは、現実に足がついているタイプだと思います。乃木坂のテレビ番組を見ていても、物事を自分なりの角度で落ち着いてしっかり眺めていて、きちんと咀嚼した上で感じたことや考えたことを自分の言葉と方法で構築して伝えてくれます。かわいくてダンスが得意でドラムを叩けてさらに、考え方や論理や感性がかなりしっかりした17歳だとお見受けしています。だからこそ、ひとりの女の子として、というか、ひとりの人としての魅力が強いのでしょう。

乃木坂の魅力のひとつの側面として、彼女たちが自分の足でしっかり歩いているところがあります。大勢の前で自分の言葉を用いて考えを述べるみたいなこともきちんと出来て、僕なんかは「ほんとにすごいなあ」と驚きます。トレーニングをしっかり積んだ歌やダンスのパフォーマンスは見事だし、バラエティ番組でちょっととぼけたことを言ったりやったりして笑いを取っていても、実際おもしろいんだけど、それはまたほんの一面だもんね、っていう認識で彼女たちを見ていたりします。まあ、バラエティ番組自体、イリュージョンみたいなものだと思うのだけれど、それを、多面的な彼女たちの一面なんだし、というように情報処理して彼女たちを見ていられるのはなんだか人としても好ましいというか、虚構性に毒気が薄くて良いというか、そういう感じがするんです。

本作品のトップバッターを飾った与田さんはまもなく卒業されてしまいます。彼女には、人として生きていくための栄養をたくさんいただきました、ほんとうにありがとうでした。





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『13歳からの法学部入門』

2025-02-14 14:05:38 | 読書。
読書。
『13歳からの法学部入門』 荘司雅彦
を読んだ。

著者は弁護士。

法律はなぜあるのだろう、なぜ必要なのだろう、という初歩的で根源的な疑問から考えていく本です。前半では、正義、国家、自由、権利などを考えていくことで、法律の概念がくっきりとしてくるつくりです。後半では、法律の文章の読み方など、具体的な面を教えてくれます。「13歳から」とタイトルにありますが、初学者、あるいは、ちょっと興味を持った人に対しての間口が広いという意味で、万人におすすめできます。それでいて、法律周辺の深みに触れることができるでしょう。。

中世ヨーロッパの思想家であるホッブス、ロック、ルソーがそろって国家は必要と説いたこと、そして産業革命以降の市場と資本主義の経済、法律が自己増殖するさまなどがまず第一章で語られていました。授業で13歳に語り掛けるように、わかりやすく、深いりはせず、浅く広く。こういった専門的な知識が、触れやすい形で言葉になっているのは、ちょっと面食らうところはあるかもしれませんが、慣れればありがたみすら感じるかもしれません。

その法律を知らなくても、違反したら罰せられるのが法律ってものですからね。それは常識、当たり前の事なのだけれど、実際、知らない法律だらけだったりしますよねえ。


では、いくつか引用をしていきます。



__________

「基本的人権」とは個人の生命・身体・財産が国家によって侵害されないという自由権、国政に参加する参政権、最低限度の生活を営めるよう国家に請求できる生存権が中心となっている。そして基本的人権の中心になるのが「自由権」なんだ。(p116)
__________

→義務教育で教えてもらうことの確認のようなところです。実社会ではけっこうないがしろにされている権利だと思うので、こうして確認してみると基本に立ち帰るような気持ちになりました。



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この基本的人権というのが、決して「棚ぼた的」に与えられたものじゃない。
君だけじゃなくぼくも、生まれたときから日本国憲法によって基本的人権が認められていたからピンとこないかもしれないけど、先に書いたように基本的人権は「人類の多年にわたる努力によって勝ち得たもの」であって、ぼくたちにはそれを「保持するだけでなく将来的に発展させていかなければならない」という責務がある。(p117)
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→人権が、ある程度担保された世の中に生まれ育ったことで、人権という権利を守らないといけないこと、発展させていかなければいけないこと、そして、それを先人たちが勝ち得てきたことが頭に浮かびにくいということはあるでしょう(僕自身、20代の終わりくらいまでほとんど考えてこなかったと思います)。平和ボケという言葉がありますが、それに近い状態になってしまう。満ち足りた環境に甘やかされてダメになってしまう、というわけで。これはよく陥いりがちな落とし穴です。人権が大切だと気がついていても、その言葉の表層しかわかっていない状態を含めば、ほんとうに多くの人がハマッてしまっているのではないか。もちろん、僕もそうなのですが。



__________

何かを選ぶとき、全部を自分で決めなければならないという状況は、人間にとって実はかなりのストレスになることなんだ。
だって、選んだ後、「自分の選択はこれで正しかったんだろうか?」「別のものを選んだ方がよかったんじゃないかな?」という気持ちは、だれにでも必ず湧いてくるからね。
何か選ぶということは、そういう気持ちを断ち切って、自分の選択に責任を持つということだ。(p123)

自由の重みと孤独に耐えられなくなったとき、人間はどんな行動をとるのか。それを研究したのが二〇世紀の精神分析学者、エーリッヒ・フロムだ。彼は有名な『自由からの逃走』という本の中で、「近代社会は人間に自由をもたらしたが、人間はまだそれに適応できず、かえって不安が高まった」と書いている。
(中略)
自由が辛くなると、人間は、ルールを決めてくれる人を求めるようになる。それで、ドイツの多くの若者が独裁者ヒトラーに狂信してしまった。フロムはそれを「自由からの逃走」と読んだんだ。(p124)
__________

→現代日本は、なんでも個人が自分で決めていいとされる自由主義の社会です。その自由が辛くて、誰かに決めてもらえたら楽なのにと思い、つまり自由によって不安になってしまったりしている人も少なくないのではないか。自由に慣れていないと、ルールを決めてほしいと思い、そのルール通りに生きたくなると。個人的な話ですが、たとえば不安症なうちの父には、自分のことを誰かに決めてほしいという性質がよく見られる。自由さからの影響があるのでしょう。



__________

「権利と義務」というと、権利を持っている人の方が立場が上、権利を持っている人の方が得、そういうイメージを抱くだろう。
抽象的な言葉の上での権利や義務については、確かにそういう面がある。でも現実の世界ではそれとは逆で、権利を持っている者が、実現のために多くの努力をしなければならない。そのことを忘れないで欲しい。(p153)
__________

→人権を守るにしてもそうだけれど、権利を有する者が権利を主張して実現させるためには自分から動かなくてはいけない。社会はそういうメカニズムです。大変な目に遭っていて、いっぱいいっぱいな状態にあるとわかってやっと、権利を主張しなければならないぞ、となったりするケースって多いと思います。で、そこからが大変で、いろいろ勉強したり労力を払ったりしないとならなくなる。
「権利の上に眠るものは保護せず」という言葉があるのだ、と書いてありました。行政でこんな制度がありますだとかも知らないことが多くないですか。学び続けること、自分から動いて制度を教えてもらうことなどは大切ですよね。つまりは、やっぱり人生において「自助」がダントツで大事だということになります。「共助」や「公助」にも大きな力がありますが、なかなか得られにくいものなのですから。



__________

たとえば、さっきもでてきた、日本の民法の七〇九条は「故意または過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」と書かれているよね。(p197-198)
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→この民法七〇九条は覚えておきたいです。人権侵害がひそかに行われている「家庭」という社会ではこれに該当するような大きな損害って被っていたりする人はいますよ。支配を含む虐待案件なんかはもうそうです。



__________

というのは、アメリカ社会では「個人と神様の約束」という宗教観が根づいている。たとえばボランティア活動をするのは神様との約束を果たすことであり、そのために仕事を休んでも同僚の理解が得られる。陪審員を務めることも同様だ。(p205)
__________

→アメリカ人って、市民一人ひとりが自分たちで街を作っていこうだとか、社会を作っていこうだとかという気概が強くあるような印象を、僕は持っていました。ちょっとうらやましくもあるし、窮屈ではないのかな、と斜めに見たりもしながら。で、そういった、自分から主体的に社会をよくしていこうという気概のその理由がこの引用で言われている宗教観によるものなのだな、とこの箇所で知ることになりました。日本人が社会に対して自分から活動していこうと決心するためには、同調の空気だとか、自らに内面化している卑屈さだとか、個人には力がないという思い込みだとかを打破しないとできないと思うんですね。それを宗教観が、ある程度やすやすと、そのハードルを越えてくるのはすごいです。



といったところです。200ページそこらで、なおかつ2010年の本ですが、いまもなお色褪せない、読み応えのある良書でした。






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『明るい夜に出かけて』

2025-02-09 00:38:43 | 読書。
読書。
『明るい夜に出かけて』 佐藤多佳子
を読んだ。

山本周五郎賞受賞作品です。

接触恐怖症でいわゆるコミュ障の二十歳の男性。彼が、主人公の富山(とみやま)で、とあるトラブルのために東京の大学を休学していて、実家も東京なのだけれど神奈川県の金沢八景に木造アパートの一室を借りている。

富山はコンビニで深夜バイトとして働き、趣味は深夜ラジオを聴くこと。そのなかでも、アルコ&ピースのオールナイトニッポンにハマっている。トラブルの影響でやめていたハガキ職人も、ラジオネームを新しくし、細々と再開もしている。

そんな彼と、同じコンビニで深夜バイトをする年上の歌い手・鹿沢や、奇しくも出合うことになったアルコ&ピースのANNヘビーリスナーで実力派ハガキ職人の女子高生・佐古田、そして、富山と高校時代の同級生で、この地の居住先を紹介してくれた永川の四人が駆け抜けるドラマが、本小説です。ラジオ番組の解説部分に熱が入っていて、著者はかなりのラジオ好きなんだろうな、と圧され気味になるところもありましたが、おもしろかったです。

エンタメ小説の見本になるようなしっかりとした出来映えだと思いました。そのしっかりさ加減を表に匂わせないような黒子としての仕事ぶりがされていて、探りに探るような読みをすると「たぶん、こうだからこうなんだよな」というように、痕跡から論理的に辿っていけるというようになんとなくわかるのですが、これも、本書の内容に夢中になることでわからなくもなっていってしまいました。

さきほど名前を出しましたが、佐古田というおもしろい女子高生が第二章から登場します。作中、サイコなんて呼ばれ方もしてるのだけれど、キャラクターのアクが強くて、それでいて嫌われることなく読み手に好まれそうなんです、僕もすぐに好きになったキャラでした。そして、こういったキャラの登場で、また一段深く、物語に引き込まれます。どういうキャラをどのタイミングで登場させて、何を担わせるか。物語がうまくいったのは構成の段階での仕事が生きているということなのでしょう。


「明るい夜に出かけて」という、本書のタイトルになっている言葉は、二重にも三重にも意味を成すようになっています。物語内での具体的な部分はさておき、次のような解釈も可能だろうと思いますので、ちょっと書いていきます。

主人公の人生に夜がやってきている。人間関係のトラブルのためメンタルに傷を負い、大学を休学して人生のエアポケットにはまったみたいな状態が「夜」にあたる。そして主人公は、コンビニの深夜バイトをやっている。人生の夜を暗喩するかのような深夜バイト。でも、主人公をとりまく仲間たちが思いがけず彼の人生の「夜」を明るくしてくれてもいるし、主人公を含めた仲間たちそれぞれがそれぞれの夜を明るくしてもいる。自身の内にこもっていただけで終わるはずだった休学期間が、仲間たちとともに外へと開いて、でかけていくようになる。



では、引用をいくつか。
__________

思ったほどひどくなかったけど、思った以上に気持ち悪かった。俺、カラオケに連れていかれても、人の歌聴いてると、けっこう気持ち悪くなる。うまい、へた関係なく。歌唱ってさ、なんか、そいつの中味、出るよな。(p157)
__________

→素人が歌うのを聞いて、たしかに、その人自身が出るなあとは僕も思っていましたけど、「中味がでる」という言い方の言い得ている感じがとても気に入りました。それに、そういった他者の「中味」に食あたりするかのように、「けっこう気持ち悪くなる」というところに、この主人公の「浮ついて無さ(≒ノリの悪さ)」が感じ取れます。主人公はラジオにネタを投稿するハガキ職人として名うてだった過去がありますが、感性で感じ取ったものを他者に先駆けて言語化する人ならではの情動だと思いました。



__________

「金曜のことですけど」
 俺は休憩に入る前、店内に客がいないのを見計らって、鹿沢に話しかけた。
「大事な仕事のときは休んでください。俺、入りますから」
(中略)
「そんな優しいこと言ってると、君の人生は簡単に侵略されちゃうよ」
 鹿沢は言った。
なんだよ。人がせっかく思いきって親切に申し出たのに、感謝もしないで。(p159)
__________

→けっこう僕は、同じ職場の人たちに気を遣ってしまうタイプですし、職場に限らず他者に対してもどうも優しすぎるところがあり、負担を引き受けてしまったり犠牲になったりしてしまうことは珍しくありません。だから、「君の人生は簡単に侵略されちゃうよ」が骨身に響く思いがしました。もっと断ることができることと、自分を優先できるようになることと。それが喫緊の課題です。



__________

 わかんねえな。特別におせっかいでも、面倒見がいいわけでも、救世主タイプでも、兄貴タイプでも、何かしてやることで自分の存在価値を見出すタイプでもなさそうなのに。
 何か抱えてる、精神に傷があるようなヤツのことが気になるんだ、あいつ。面白がってるのと手を差し伸べるのと、あんまり違わないのかもしれない。だとしたら、すげーやばいヤツだ。悪気がないぶん、もっと始末が悪いや。女にいろいろされるの、当たり前だよ。偽善者のほうがまだマシ。(p199-200)
__________

→メンタルがまいっている人が大好物で、しれっと近づいている人って、いるかもしれません。この引用箇所は、主人公が脇役の鹿沢の性向を勘ぐっているところで、実際はそんなことはなさそうなのですが、世の中にはこの勘繰りの通りの人がいないわけでもないので、思い違いや疑い過ぎであったとしても、構えることは必要だよなあ、と僕は考えていたりしますねえ。



__________

自分が正しいなんて意味がねえんだなって、つくづく思ったよ。通用しない相手がいる。だけど、自分の心を守る最後の砦は、やっぱり、そこだ。俺は俺が正しいと思ったことをやる。その信念。その意地。(p292)
__________

→年上の後輩で、でもコンビニバイト経験は主人公よりもある男がサボり魔であることに困っているところ。掃除してください、といっても、簡単に「やだよ」で返される。主人公は店長や店長の兄にチクることも考えるが、それはやりたくない、と耐える。こういう人って、そんなに珍しいわけでもないですよね、現実に。僕も、それなりの人数で働く場所に何か所か居たことがありますが、必ず一人はいましたね。そういう人はそういう人なりに、自分を守っているのだと思いますけれども、たぶん余裕がないからあまりに不格好な守り方だし迷惑になっている。


といったところです。優れていると思ったのは、20歳や17歳の登場人物を等身大に描けているなあと思えるところです。精神年齢がぴたっとはまっている感じがあります。キャラクター作りが成功しているし、ふだんからいろいろな人を観察しているのかもしれないし、洞察力もあるんだろうなあ、と思えました。






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『ヘビ学 毒・鱗・脱皮・動きの秘密』

2025-02-04 18:19:29 | 読書。
読書。
『ヘビ学 毒・鱗・脱皮・動きの秘密』 ジャパン・スネークセンター
を読んだ。

全世界で約4100種を数えるヘビの生態のあれこれを解説し、さらに全体の2割程度を占める毒ヘビのその毒の種類などについて深掘りし、それからヘビにまつわる事件(違法飼育事件、脱走事件、咬傷事件など)を紹介し、最後に神話や伝承などから人類がヘビに何を見てきたかを辿っていく構成です。

著者名義の「ジャパン・スネークセンター」は群馬県にある蛇専門の動物園で、一般財団法人「日本蛇族学術研究所(蛇研)」が運営しているそうです。執筆には、研究者四名があたっていました。

本書で得られる知識の一端を箇条書き的に少しだけご紹介します。

ヘビには聴覚がない。道にヘビがいてどいてくれないときに、大声で「どいてー!!」などと怒鳴ったり叫んだりしても、ヘビには聞こえないので無意味。

アオダイショウは50mほどもある鉄塔にもするするのぼっていき、高圧電線と接触してたびたび停電を起こしもするそう。どうして高いところにのぼっていくのかははっきりとはわかっていないとか。僕は北海道の田舎に住んでいますけれども、一年に数回は短い停電があります。これってもしかするとアオダイショウによるものもあるのかもしれないなあと思いました。

昨今はペットとして買われるヘビですが「なつく」ことはなく「なれる」だけ。蛇にとって生物に対する思考の選択肢は三つしかなく、「餌かどうか(食えるかどうか)」「敵かどうか」「繁殖の対象かどうか」だそう。そしてどれにも当てはまらないと判断したものには無関心になります。ただ、実際は、人間に接したときは敵かどうかの判断になるでしょうから、そこには恐れや怯えが生まれます。でも、攻撃されない、敵視されていないとわかると、ヘビの感覚はどんどん鈍麻していき、人間になれていく。そうする触ることができますが、犬のようになつくことはないのだそう。

ヘビ毒は大きく三つのグループに分けられる。「出血毒」「神経毒」「カルディオトキシン(心臓毒・循環障害毒)」がそれです。ハブやマムシは「出血毒」系で、この毒が回ると消化器官で出血が起きたり、筋肉や皮下で出血が起きたりする。コブラ科の毒ヘビは「神経毒」系で、毒が回ると呼吸ができなくなり、病院に搬送されて人工呼吸器につながれるケースがいろいろと紹介されていました。また、ブラックマンバというアフリカの毒蛇は、咬んだ相手の体内の神経伝達物質を大量に放出させる毒を送り込み、そのため、相手は神経伝達物質がすぐに枯渇し、麻痺状態になるんだそうです。ナショナルジオグラフィックのテレビ番組で、ブラックマンバに咬まれたライオンがけいれんを起こしているシーンがあったとありました。他、日本にいるヤマカガシは血液凝固作用を起こす毒をもっていて、メカニズムはよく飲み込めませんでしたが、出血が止まらなくなるそうです。

ヘビの抗毒素(血清)は、2000年ころではマムシが1万7000円で、ハブが3万8000円だったそうですが、近年値上がりしていて、現在ではそれぞれ9万円、24万円という高値だそう。医療保険適用になりますが、一般の3割負担だとしてもかなりの額面になります。しかも、ハブでは1~3本程度使っての治療となるので、そら恐ろしいですね。

ヘビの人的被害について。種々のヘビについて個別の節で解説してくれていますが、かの有名なキングコブラにはかなり人間がやられているのかと思いきや、人里離れた区域に生息しているため、主な被害者はヘビ使いだそう。繰り返しますが、主な被害者はヘビ使い。

最後の章では、神話などからヘビと人類の関係を考えていますが、インドの世界観ではヘビは世界を一番下から支えてるイメージがあるんですね。ヘビは宇宙に相当し、そのうえにでっかい亀がのっかり、その亀のうえに亀ほどではないですがでっかい象が何頭か乗って、その象が世界を乗っけている。この図は、検索するといくつもヒットするので、興味のある方は見てみてください。

アダムとイヴのイヴに青リンゴを食べさせたのもヘビでした。人間の先祖、アダムとイヴは楽園を追われましたけれども、人間は「神様のように善悪を知る者」となりました。ヘビは人間に知恵を授けちゃった存在です。この話に限ったことではなく、ヘビは多様な文化圏で「善悪両面の性質」を持っている役割を担わされています。守護者や知恵の象徴でありながら、危険や誘惑の象徴でもあります。また、日本の一部地域では、「家にヘビが入ると運がいい」とされますし、昔からヘビの脱皮した皮は金運を上げるとも言われてきました。そのほか、再生や回復のイメージがあり、白ヘビとなると財運・知恵・芸術との結びつきを考える向きがあるみたいです。

といったところです。自治体などからいっさい助成金をもらわずにスネークセンターを経営しつつ研究もしている研究者たちが書いた本です。本書を読んでみると、ここに列記したあれこれをもっと詳しく知ることができますから、興味を持たれた方はぜひ。

著者たちの語り口がどことなく質実としているなかで、ところどころで素朴なユーモアを見せてくれもして、なごやかな気分で読み進めていくことができました。ときに日向ぼっこが必要な変温動物であるヘビたちは、研究のため、抗毒素のためなどで命をいただかれてしまうことは珍しくないようですが、そういった個体たちに対してはせめてもの温かさであり、展示されている個体たちには陽光のあたたかさにプラスした温かさであるような、研究者たちの熱意とともに個性ある気概のようなものがあたたかく宿る本だった、と最後に結んで終わりとします。






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『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』

2025-01-31 01:16:05 | 読書。
読書。
『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』 小川さやか
を読んだ。

香港にある安宿、チョンキンマンション。そこには貧困国タンザニアからやってきた多くの人たちなど、多国籍の人びとが住まっている。それぞれが、さまざまに、インフォーマルな仕事をしながら。ブローカー業、衣料や雑貨や家具そして家電製品などを仕入れて母国で売る商人、セックスワーカー、地下銀行業者など。そして明記はされていないけれども、麻薬の販売や窃盗、詐欺などをしている者も少なくはないはず。

そんなチョンキンマンションの「ボス」を自称するタンザニア人のアラフィフ男性・カラマが、論考的エッセイである本書の最重要人物として登場します。著者は偶然にも彼と出会い、それから友好関係ができあがっていき、そのうち彼の連れのようになり、ともに日常を送っていくことで見えてくるものがあったようです(著者は経済人類学者なので、「見えてくる」ことを最初から企図して彼に帯同しているのでしょうが)。見えてくるものとは、商売目的で香港に(長期にしても短期にしても)滞在しているタンザニア人たちの商売の成り立ち方、そしてコミュニティのメカニズムなのでした。そこには、西洋化した資本主義社会から見れば独特の仕組みが息づいており、彼らは香港の商業文化や制度、法律などを受けるかたちで衝突や摘発から逃れるために知恵を使い自らの態度を変化させ、うまく適応したかたちで自然と独自の仕組みが発現してきた、と言えるところがあります。

また、香港で商売をするタンザニア人たちのやり方は、昨今の、Airbnbやサブスクなどのシェアリング経済と仲間内での「分配」という意味合いでの類似性も見出されていましたが、タンザニア人たちの「分配」には分配する者とされる者の間に生じる権威や負い目を回避しながらも「お互いがともにある」と思い合えるマインドがありました。言ってしまうと興ざめですが、約束をいちいち守らなかったり、いい加減さが緩衝材の役目をしたり距離を保ったりしています。

他に、Amazonや食べログなどがイメージしやすいと思いますが、利用者が出品者や飲食店に星をつけて、かれら事業主の信用度を評価するという評価経済型システムが有する「排除の問題」を回避する仕組みがあることも指摘されていました。星が低いと信用度が低いので淘汰されていく、というのが排除の仕組みで、評価経済は行き過ぎるくらいに責任感や気遣いを強いる傾向があります。これは、評価経済に参加している社会全体でおしなべて強迫観念が強化されることを意味するでしょう。タンザニア人たちは、仲間への親切や喜びや遊びを仕事にするというマインドがまずありまず。それでいて「誰も信頼できないし、状況によっては誰でも信頼できる」という集まりなので、一度裏切りがあったとしても、状況が変わればその人の立ち位置は変わりもするので、信じてみることを選択するほうが得策ということにもなり得るのです。これは、強迫観念的な「是か非か」「0か1か」「白か黒か」といった二分思考の枠外にある思考法ではないでしょうか。二分思考は強迫観念をあおるので、やっぱり生きやすさを考えれば、二分思考ではないほうがよいのでした。

読み進めていけば、これは本書の背骨に当たる箇所だなと思える部分はなんとか判別がつき、その尻尾はつかめるのですが、タンザニア人たちの生き方が、あまりに日本人に内面化しているあれこれを刺激したり、俎上にあげたりするものですから、頭も気持ちもぐらぐらぐにゃぐにゃしながらになりました。それでも、海外に滞在してみないと、そういったギャップやショックを受けることはまずないですから、家にいながらそういった経験が少しでもできるのはよい経験です。

また、香港でセックスワーカーとして稼いだタンザニア人女性が帰国して、そのお金を元手に化粧品会社を立ち上げ、母国では誰でも知っている大成功者になっているそうです。もちろん、セックスワーカーの過去は封じ込められている。時代や国を問わず、こういう成功譚ってたぶん珍しくないのではないかな、と思います。秘められているだけで、社会に出たときにはロクなことをしてなかったけどその後大成功して地位を手に入れた、というような。

というところです。読んでみて、「サバイブ」の片鱗でもいいから自分のものとできたら素晴らしいと思います。本書からなにをフィードバックするか、そして実際的に遂行できるかが肝ですが、おそらく、こういったオルタナティブな方法論があるんだよ、といったことが多くの人たちの間に広まることが、いちばんインパクトが生じるムーブメントではないでしょうか。勇気ある誰かが率先して実践してみた、という現実が最初の一押しになったりもするでしょう。小さな一部分であっても、仕事へのアイデアで、組織のありかたででもいいですが、なにか応用が効いたものが採用されるなんてことがあったらすごいですよね。そういった、小さな一歩と全体の空気感の変容と。同時に進むと世の中にはなにか変化が生じるのかもしれないですね。



では、引用をいくつか。

_________

「(略)サヤカ、香港のタンザニア人が病気になる一番の原因は何だと思う? 多くの人は、最初に物事の調整ができなくなるという病にかかる。その後に(アルコール依存症の)本当の病気になるんだ。(香港と母国とは物価が違うので)俺たちは母国ではありえない額のお金を稼ぐ。誰でも考えるさ。香港で一皿を買うお金でタンザニアでは何人が食べられるのかとか。それでもっと稼ぐために何にしたらいいか、どんな商売に投資しようなどと仕事のために頭を働かせる。けれども思いがけずボロ儲けする日が続くと、これからもどうとでもなる気がしてくる。逆にぜんぜん稼げない日が続いたら、突然すべてのことがむなしくなる。こんな遠いところまで来て俺は何をしているんだと。きっかけは人それぞれだろうけど、もうどうでもいいやって気分に陥ることは誰にでもある。そうして仕事をやめて暇になると、稼ぐことに頭を使っているうちには考えなかったことに悩まされ始める。母国と香港の生活のギャップとか残してきた家族とか、せっかく香港にいるのだから自分の人生を楽しもうとか犯罪行為をして楽に稼ぐ仲間がうらやましいとか、あいつが稼げて俺が稼げないのはなんでなんだとかさ。この時点では大した病じゃない。大部分の人は悩むことに飽きて、しばらくして普通の日々に戻る。だけど商売は大事なんだよ。頭を働かせるのをやめたら、そこから先の転落はあっという間だ」。そしてこうつけ加えた。「こじらせて犯罪者になったり不治の病になったりした仲間がいたとして、そんなやつはどうでもいいとはならないよ」(p81-82)
_________

→カラマの言葉です。商売に明け暮れていれば(でもタンザニア人は1時間くらいしか働かない人もいて、遊んだりネットで動画をみたりして過ごすのは珍しくないのだけど)、悩む心配はいらない。悩むとロクなことにならないから、香港へ来て「悩む」という洗礼を浴びても、また商売へ復帰するのがいいのだ、と説いているような箇所です。また、「そこから先の転落はあっという間だ」というところ、泳ぎ続けないと死んでしまう、みたいだしとてもシビアな現実が反映されているのですが、最後につけ加えた「そんなやつはどうでもいいとはならないよ」が、競争社会で資本主義社会の日本や西洋化した社会には無い、包摂や連帯の意識だなあと思いました。こういうところを日本にも導入できればいいのにって思っちゃいます。


_________

「毎日(パキスタン人の中古車ディーラー)イスマエルに会いに行けば、彼は俺を自分の子分のように思い始めるだろう。イスマエルが怒るから彼の言うとおりにするなんて態度をとっていたら、彼は俺を自分の従業員のように扱うようになるよ。俺は、パキスタン人と何年も仕事をしているから、これは予想ではなく事実だ。もしイスマエルに雇われたら、彼だけが儲けて、俺は彼の稼ぎのために働くことになる。俺たちアフリカ人が、香港の業者と対等にビジネスをするためには、彼らが俺に会いたいと恋しがる頃に会いに行くのがちょうどいいのさ」
 カラマは、本気で彼らを怒らせないように時々なだめる必要があると言いながらも、そもそも自分たちを対等であるとみなしていない人々に対しては、「扱いやすい人間」にならないことが肝要であると説明した。(p98)
_________

→カラマは商談さえ遅刻したりすっぽかしたりするのですが、それには上記のような考えが存在しているのでした。これ、パキスタン人とタンザニア人の間に限らず、僕らの社会にも使えそうじゃないですか。たとえばマウントを取られ続けて、相手が自分を下と見なすようになると、相手は自身が得するために自分を使うようになります。そういう相手には、遅刻やすっぽかしで勝負したいですが、なかなかそうはいかないでしょうから、「怒るから言うとおりにする」というのは避けるなどが有効かもしれませんね。対等って大事ですよねえ。



引用はここまで。香港のタンザニア人は「商売」がまっさきに頭にあるひとたちで、だからこそ、実にうまいぐあいに人間関係が成り立っています。たぶん「商売」というものを、場合によっては巧みに名目的にも利用できるからなのではないか。「商売」という看板に、面倒くさいものを背負ってもらって、その場をしのぐみたいなシーンはありそうです。

重ねて言うことになりますが、カルチャーショック的な、いい意味での「ぐらぐらする感覚」を覚えた読書でした。こうして書いてみても、書評としてはかなり不完全ですけれども、自分にとってのここぞの部分は書き残しておいたつもりです。





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『故郷/阿Q正伝』

2025-01-24 23:25:04 | 読書。
読書。
『故郷/阿Q正伝』 魯迅 藤井省三 訳
を読んだ。

20世紀初頭、清王朝から中華民国、中華人民共和国へと激しく移り変わっていく時代に、文芸による革命を信条に創作をつづけた魯迅の新訳作品集。魯迅は若い頃、日本へ留学して東京や仙台で7年余り暮らし、漱石や芥川の影響を受けた人です。

最初の短編「孔乙己(コンイーツー)」から心をぎゅっとつかまれました。「孔乙己」は馬鹿にされ舐められきってしまった、貧しい男です。科挙に受かるほどではないのだけど学はあるほう。彼に焦点を当てる意味とはいったい、と考えながら読んでいました。彼がひとときの楽しみのために通う酒屋、そして日々の暮らしのなかで、彼の周囲にいるあまり学のない庶民との対比、そして苦しい境遇に食い殺されて盗みを働きそれをあかるみにだされ、揶揄われ蔑まれる「孔乙己」。

読者は何を問いかけられているのか。こういった暮らしの苦しさや悲劇、愚かさを文学にすることで、この表現が、孔乙己と彼的な人物を馬鹿にしてしまうに違いないおのれの気持ちを、見直せるチャンスとして機能するのだろうと思えました。社会の倫理的欠陥をあぶりだして問いかけている、と。ですが、それだけを考えていくと、文学的目論見として少々あざとい感じがしてしまうのです。もっとこの短編の細部に注目して、とくにその愚かさの心理のメカニズムを読み手自身の内部からえぐりだすようにして考えてみたり、どうして孔乙己という男が社会的弱者にならねばならなかったのか、と社会学的に社会構造や世間の空気などを考えてみたりと、そういった読みを試みることにまた違った意義がありそうに思えるのです。つまり、短い小説ながら、引き出せる知見に満ちているに違いない匂いがするのでした。

次に、短編「故郷」。これは、故郷の実家を引き払うために帰郷する主人公の話です。その最後に書かれている彼の希望の感覚を知ると、希望を持つことに対しても油断をしていないし、希望と夢といったものとは違う捉え方をしているし、そこが中国人なのかもしれないという気づきがありました。去年、華僑の本を読んでうっすら残る現実主義のイメージとも重なるのです。生き延びるため、サバイブのための、長い歴史に磨かれた本性、あるいは民族性を見た気がします。



「故郷」も「孔乙己」や「阿Q正伝」のように、底辺で生活する社会的弱者が描かれています。引用をします。
__________

「とてもやっていけません。六男も畑仕事が手伝えるようになりましたが、それでも食うに事欠くありさまで……物騒な世の中で……どこへ行っても金を出せというし、決まりっていうものがなくなりました……それに不作で。育てた作物を、担いで売りに行けば何度も税金を取られるんで、赤字だし、売りに行かなきゃ、腐るだけだし……」
(中略)
閏土(ルントウ)が出て行くと、母と僕とは彼の暮らしぶりに溜息をついた――子だくさん、飢饉、重税、兵隊、盗賊、役人、地主、そのすべてが彼を苦しめ木偶人(でくのぼう)にしてしまったのだ。母が僕に言った――不要品はなるべく閏土にあげよう、彼自身に好きなように運ばせたらいい。(p64-65)
__________

→主人公は幼い頃にいっしょに遊びながら憧れた、同世代の子どもだった閏土。彼は使用人の子どもだったのですが、帰郷した主人公が彼との再会で、子どもの時分にはまぶしく輝いていたまるで英雄のような男の子が、そのまま英雄として大人になっておらず、煤けて輝きが失せたような人物になったことに、哀しみをや寂しいものを感じました。そののち、上記の引用のような気持ちになるのです。

この「故郷」を締めくくる最後の一文が名文です。引用します。
__________

僕は考えた――希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。
__________

→魯迅は文芸で世の中を変えようと考えた人です。言葉を学び文学を味わうことによって大衆の知的レベルを上げ、その結果、世の中の悪しき倫理的欠陥が解消されていくと考えている。一人だけが勉強をするなど、ばらばらに、単発で行っていては道ができない、とこの引用から読み取ることはできると思います。多くの人が同じベクトルで(それは文学を読み、言葉を学ぶこと)進んでいけば、道すなわち希望が現れる、と魯迅は言っているように読めました。



代表作として挙げられる「阿Q正伝」の主人公・阿Qは憎めない悪漢で、やはり底辺でなんとか生きていて、学はなく、なんとか悪知恵のたぐいをしぼって生き延びている。この小説にはもうエンタメ要素があって、可笑しさを感じながら悲しみや憤りを感じられるような、読み手の感情の振幅に大きく影響する小説だと思いました。

また、魯迅のエッセイが『朝花夕拾』という作品集から多数選ばれているのですが、これがいいんです。「お長と『山海経』」がとくに。ユーモアが利いていて、そして微笑ましく、結びもぐっときました。村上春樹さんが好きな人に合いそうな感覚でした。カポーティの『クリスマスの思い出』が好きな人にもおすすめできます。



といったところです。解説によると、大江健三郎さんや村上春樹さんも魯迅を読みこんでいるそうです。この光文社の新訳は読みやすくて、近代小説が書かれた時代と現代との隔たりからイメージされるような堅苦しさはほぼないです。たとえばさきほども触れたエッセイに関していえば、魯迅の血の通った感情が文章に封じ込められていて、みずみずしさすら感じながら読めてしまいました。近頃思うのですが、時代の古い作品だからって、敬遠することはないですね。同じ人間が書いたものとしてそこに共感は必ずでてきますし。清少納言だって、ドストエフスキーだって、やっぱり同じ人間なので「姉さん!」「兄さん!」と思って読めちゃうものです。そして魯迅も、「兄さん!」感覚で読めること請け合いなのでした。






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『非線形科学 同期する世界』

2025-01-17 23:53:10 | 読書。
読書。
『非線形科学 同期する世界』 蔵本由紀
を読んだ。

「同期(シンクロ)」をキーコンセプトとして、さまざまな興味深い現象を見ていき、そして、その都度、その現象を起こしている「同期」について解説しながら、「同期」そのもののイメージを深めていくような本でした。

17世紀、オランダで活躍した科学者ホイヘンスのよって、並べたふたつの時計の振り子が同期する現象が報告されたのが、この分野の起源とされているそうです。ここからこの分野の話が開始されます。この時点で、「同相同期」と「逆相同期」が解説されているのですが、ならべた時計の振り子が同期して、同じように左右に振れているのが同相同期で、片一方が右に振れたときに他方が左に振れるのだけれどもリズムはいっしょというのが逆相同期です。

同期はさまざまな現象の仕組みに備わっていることが本書ではさまざまに紹介されていて、なるほどなあ、と膝を打つことばかりだったのですけれども、僕もひとつ思いついたのが、DVのある家庭環境で育った子どもが暴力に訴えるようになったり、自分の子どもができたときにDVをはたらいたりする世代間連鎖が同相同期なのではないか、ということでした。さらに気づいたのが、DV家庭で育った子どもが大人になって非暴力の人となっていた場合、それは非同期の可能性がありながら、逆相同期の可能性も捨てられない、ということでした。逆相同期だった場合、それは親を反面教師とした場合ですが、逆相での世代間連鎖だと言えるでしょう。

といったことを考えるとさらに気づくことがあります。世の暴力は、個人がその先代の暴力、そのまた先代の暴力、といったふうに、どんどん先祖にさかのぼって受け継いできたと考えることができて、つまりは、ずうっと昔の先祖から世代間連鎖として受け継いできてしまった負の要素だと考えられるのですが(こういったことの解説をする本『恐怖と不安の心理学』もあります)、同期を破綻させることができれば、悪しき連鎖から逃れられるのではないか、というのがその気づきです。

p37-38に同期の破綻について書かれています。それによると、同期状態にある一方が、同期が成り立たないような速いペースで動くと同期は破綻する、とあるんです。

ちょっとややこしくなるかもしれませんが、ここでひとつ例を書いていきます。とある田舎の話です。田舎ですと、もっと都市部の高校に進学したほうがこの子のためになるから、なんて言い方がされるものです。カリキュラムや授業の質の違いが大きいというのはあるでしょう。できない子に合わせないといけないとかで、できる子にとっては学校で教えられるものが物足りなくなります。

同時に、知らずに周りに合わせる心理が、学力の伸びに関係がありそうでもあります。これは同期現象としてです。田舎の高校にいたままで伸びるには、同期を破綻させないとならない。さっきも書きましたが、同期が成り立たないような速いペースで動くと同期は破綻するのでした。同期していた集団からは、「裏切り者」「見捨てるのか」「あいつは俺らとは違うつもりなんだ」などやっかまれたりすることがあります。それをも振り捨てて、速いペースで生きる。それができる人は非同期でいられる。能力ありきということになるのでしょうか。場によっては、孤高になりますね。

僕みたいに在宅介護をしていると、介護面では人と同期するのがほんとうだし(他者への尊厳をもって接するからです)、でも、介護をやりながら自分のしたい仕事なり勉強なりをするときには非同期でいたい、となります。その境界を作ろうにも、境界線ははっきりひけるものじゃありません。そこのつらさがあるんです。頻繁に非同期への侵犯がある。

同期には同期を保つ引力があり、それを破綻させるには速いペースで振り切らないといけません。同相同期からも逆相同期からも逃れる非同期とは速く走ること。なかなか大変だと思います。

ここにはおそらく、自律性が関連してくるでしょう。また、他律性を嫌うこととは幸せや生きやすさへの条件の一つと僕は考えているのですけれども、他律性を多方面から受け続けるということは、同期ということになるでしょう。

話を戻します。世代間連鎖を破るための非同期を達成するには、自分が親よりも速いスピードで動くとよい、という抽象的な答えが出ました。具体的に考えると、親を超えろ、ということでしょうか。同じジャンルではなく、自分が好きな、進みたいジャンルで、速いスピードで生きていく。コミュニケーション面では寂しくて悲しいことではありますが、同期を破綻させるためには、親に話を合わせず、自分の世代だけでの言葉や考え方を貫く、というのもありそうです。親世代に暴力の匂いを嗅いだら、という前提ではありますし、ここに挙げたいずれもが、僕の仮説であることは断っておきます。

それを踏まえた上で、音楽デュオ・YOASOBIさんによる『祝福』というガンダム作品のオープニング曲の歌詞を引用します。

* * * * * *

誰にも追いつけないスピードで地面蹴り上げ空を舞う
呪い呪われた未来は君がその手で変えていくんだ

* * * * * *

ここ、好きな部分なのですけど、同期し続けてると避けられないようなかりきった暗い未来は、非同期で変えられる、と解釈できるでしょう。

速いペースで生きることは、自分にとっての許容ペース内でないならば、生き急ぐと言われるようなことになりそうです。でも、一度同期を破綻させてしまえば、ずっと速いペースを維持しなくても良いのかもしれないです。


ここからは引用をふたつほど。
__________

いずれの例においても、平均場は個々の成員の動きを支配すると同時に、逆に成員の動きの全体が平均場を作り出しています。それがここで言う個と場の相互フィードバックです。人間社会でも、これに似た状況はいろいろ考えられます。たとえば、個人の考えに影響を及ぼす世論が個人の考えの総和で形成されるのは、その一例と言えるでしょう。個と場の相互フィードバックが強く働くシステムでは、集団全体を巻き込む突然の秩序形成や秩序崩壊がしばしば起こります。(p96-97)
__________

→場というのが個の総体としての影響からできてきますが、その場が次には個に影響を与える。そして場から影響を受けた個がさらに場を作る、という繰り返しでたとえば共同体はできている、ということですね。


続いて、
__________

(略)「個と場の相互フィードバック」という考えかたにあります。実はそこでの「フィードバック」の内容をもう少し丹念に調べますと、それはプラスのフィードバックとマイナスのフィードバックの両方を含んでいることがわかります。再びミレニアムブリッジの揺れに即して述べますと、プラスのフィードバックとは、場が揺れ始めると、そのこと自体がますます揺れを強めるように働く性質のことです。じっさい、場の揺れは個々のメンバーに共通して作用しますから、場が揺れれば、個々人の歩行はもはやばらばらではなく強調したものになるでしょう。ところが、場の運動はこの運動の総体が生み出すものでしたから、この協調運動は場の揺れをますます強めます。これがさらに個と個の協調運動を強める、というように、加速度的に揺れを強めようとする傾向をこのシステムはもっています。これがプラスのフィードバックです。(p99)
__________

→プラスのフィードバックとは、雪だるま式に物事が大きくなっていってついにはどうにもできなくなることもこれにあたります。「悪循環」という言われ方もされるときがあります。この反対に、マイナスのフィードバックがありますが、それを人工的にプラスのフィードバックを打ち消す形で起こせるのかどうかは、よくわかりません。ここまでわかれば、具体的にどうすればよいかの方策まで、あと一歩という気がします。


最後に。情報化社会となり、多様性が進み、変化のスピードはが加速している現代なのですから、中央集権でやっていくにはもう追いつけない時代なのではという気がしてきました。それは本書の最後で解説された「自律分散型」の地方分権のほうが少なくとも処理能力の点では上じゃないのかな、とわかったからです(それとも、行政の体質が今のままでは変わらないでしょうか。どうして行政って、やらないための理由探しにばかり頑張るのだろう。そこだけがやけにクリエイティブですし……)。自律分散型の詳しいところは本書や他の解説書に譲りますが、たとえば電気送電網でスマートグリッドと呼ばれる新しい仕組みはこの自律分散型です。個々がそれぞれを慮るような仕組みで、やっぱり同期を関係しているのでした。

仕事上で自律分散型を考えると次のような事が思い浮かびます。たとえば多人数いる職場で、まだまだ仕事はあるからできうるだけの速さでやれ、と際限なくスピードを要求するようなのってありますよね。彼女はもう7つこなしたのに君はまだ2つ目か、と叱責されて、早くやれとせっつかれる。人数をそれぞれ個の量としてばらばらに考えているケースです。これを多人数をひとつのシンクロした塊として扱うと、速い人は遅い人に合わせてゆるめ、遅い人は速い人に近づくように少し急ぐという同期のスタイルになります。速い人が遅い人を手伝うというのもこれにあたるでしょう。平均したスピードで、平均的仕事量をこなしていける。自律分散型ってこれですね。



というところです。和を以て貴しと為す、の和は同期現象のことかもしれないですね。とすれば、和をもって同ぜず、の和もそうです。この場合は、「しがらむことなく、でも仲良くやる」、ってことでしょうか。個人の好みや趣向では同調しないけれど、ひとつのコンセプトや目的に向かっては協力するという意味ですかねえ。そういえば、坂本龍一さんは2010年代にasync(非同期)をコンセプトに曲を作っていました。そしてその発想源は非同期を提唱した哲学者ジャック・デリダからでした。僕もいずれ、難しそうなデリダを読むときがくるのだろうか。跳ね返される覚悟で、そのときは挑みたいですね。






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『第5コーナー 競馬トリビア集』

2025-01-10 20:40:51 | 読書。
読書。
『第5コーナー 競馬トリビア集』 有吉正徳
を読んだ。

競馬読み物です。記録、データ、ジンクス、血統ドラマ、人間ドラマ、競馬にまつわるおもしろい偶然。そういったもののトリビア集。

書名の『第5コーナー』とは。競馬場は第4コーナーまでしかないコース形態をしています。そんな、存在しない「第5コーナー」という架空の名称を戴いたのは、まだ誰も触れたことの無い記録やエピソードを残すことに挑戦しようと決めたからだとありました。架空ではありますが、誰も走ったことの無いコーナーに読者を誘う意味合いにも取れ、ユーモアが感じられます。

日本軽種馬協会発行の『JBBAニュース』という月刊誌に著者が2008年から書いているコラムがこの『第5コーナー』で、本書が書かれた2020年5月時点までのデータが元になっているそうです。

繁殖の観点から、やっぱりサンデーサイレンスとディープインパクトはすごいなあ、とずば抜けた実績に今でも唸ってしまいます。競走馬として日本競馬の最高傑作と名高いディープインパクトの父がサンデーサイレンスですから、この馬が輸入されたことが日本競馬会の大転換点となったことは、素人目にもよくわかるくらいです。初年度産駒が走り始めたころから、「そのうち、歴史的大種牡馬たちと同じように、サンデーサイレンス系と呼ばれる血統の系列ができる」とこれまた素人のあいだでも囁かれていたくらいです。僕も当時、囁きました。

さまざまなトリビアエピソードが競馬好きにしてみるとどれも興味深いです。「あらま、そうだったのか」と著者に取り上げられたある出来事のちょっとした裏側を今になって知ってみたりと、おもしろいです。

そのなかで、ぼんやりと知っていた話ではありましたが、しっかりここで書き記されているものをひとつ引用します。屈腱炎という競走馬にとって致命的で「不治の病」である難しいケガの話です。一般的な骨折よりも屈腱炎のほうが競争能力への打撃が大きいのですが、近年のそのあたりの話でした。
__________

屈腱炎の治療としては日本で初めて行う「再生医療」だった。フラムドパシオン(馬名)の胸骨から「幹細胞」を摘出する。それを培養で増殖させた後に幹部へ注入する。そうすると、幹細胞は腱細胞に変化し、炎症で失われた部分が再生される。もともと自らの体内から採取した細胞なので、拒絶反応などの副作用も抑えられる。(p81)
__________

→フラムドパシオン号は屈腱炎の治療後、別のアクシデントで復帰が遅れますが、約二年間のブランクを置いての復帰戦を圧勝で飾るのでした。
近年の科学の進歩が、医療のあたらしい治療として結実し、こうして、競馬を好きな人からすると身近であるところで活用されているんですね。サラブレッドにはこうやって再生医療が施されていることがはっきりわかりましたけれども、人間への再生医療って、現時点でどのようなものがどのくらいの種類あるのかも気になってくるのでした。そもそも人間にたいしての再生医療って、認可されているんでしょうか。そして、医療保険適用内なのでしょうか。

というところですが、最後に、本書に書かれている「ヘビ年のジンクス」をご紹介。ヘビ年は、三冠レースの勝ち馬がすべてばらばらになるジンクスがあるそうです。二冠馬や三冠馬はでないジンクスです。さあ2025年(ヘビ年)、このジンクスは当たりますか、どうか?




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