翌朝は雲の少ない快晴の空模様になった。二階の自室の窓を開けて、心地よい空気を室内にやんわりと吹き込ませる。すぐ下の道路には大型の白い犬に引っ張られながら、けつまずくように歩を進める中学生くらいの女の子が見えた。隣家の花壇ではコスモスが楽しそうにお喋りしあうかのように密生して咲き誇り、その上をトンボが、ぐるりと空中を舞ったりふわりと静止したり、出来の良いグライダーでさえ到底叶わない高レベルな飛行を楽しんでいる。あぁ、ミチル、君のいない世界が、こんなに楽しく美しく過ぎていくよ、とシュウは切ない気持ちになった。彼にはひとつの考えがあった。もう、ミチルを追うことはできない。もし追っても、それは地図も無く海賊の宝を探すようにただの徒労に終わるだろう。昨日の煙たちとの邂逅。それは夢を見ているかのようだったが、決して夢ではないとシュウは強く確信していた。だからこそ、彼らが言った、時間を流れさせる役割を持つもの、だとか、次元、だとかいう言葉を冷笑的にではなく受け入れて、それを基盤にして今後の自分のあり方を考えたのだ。僕は準備をする。次元を越える準備ではない。またミチルに次元を越えて戻ってきてもらうための準備をする、そう彼は考えた。シュウは祈る。祈りという行為に力はないとは今の彼は思わない。祈る意識、想う意識、それらはきっと、世界のどこかを蝶のはばたきのように微かにでも刺激するのだ。そうして、きっと世界はめまぐるしくそんな情念の意識の力にぐるぐると掻きまわされているに違いない。そんな無数の情念の中の輝く一つの光になって、ミチルへ届いてほしい。それが彼なりの、無力感を通り越したのちの考えだった。
勤務開始の時間までに余裕があったので、彼は近くの川べりまで散歩をしに行った。小石を拾って、川へ投げて水切りをする。ちゃっちゃっちゃっと小石が水面を滑っていく。どこかから若い女の子たちの弾むような話声がして、シュウはそれが聴こえてくる方向へ何の気なしに視線をやった。女子高生が二人、離れたりくっついたりしながら歩いてくる。そこで、シュウは、はっとする。背の低いショートカットのほうの女子高生の胸に、あのペンダントがきらめいていたからだった。驚くことに、ミチルがしていた、あの不思議な感じのするペンダントをその女の子がしているのだった。何か運命的なものを感じて、シュウは、とにかくどこでそれを手に入れたのかを訊いてみようと、女子高生たちのほうへ駆けよって、あの、と声をかけた。しかし、彼女たちには、何か不審な感じがしたらしく、シュウが近寄ってくると道路の反対側へと進路を移し、身体をちぢこませるようにして寄り添い、いつでも逃げられるように距離を保っていた。シュウが、困ったなと思いながら、そのペンダントだけどさ…と言って指をさした瞬間、彼女たちは、キャーッとそれまでなんとか保っていた平静を打ち破る声を出して一目散に走って逃げて行った。シュウはさすがに追いかけようとは思えず、バツの悪い気持ちを抱えてその場に立ちつくしていた。とはいえ、あの女子高生はペンダントをいったいどこで手に入れたのだろうか。まさか自分が知らないだけの、流行りものの量産品というわけではないだろうとは思う。あの子はミチルと知り合いで、何かの機会にあのペンダントを譲り受けたのだろうか。それとも、こんな疑いを挟むのは申し訳ない気がするのだが、ミチルがペンダントを落として、それを拾って自分のものにしているということも考えられないだろうか。いろいろと想像をしてこころを揺り動かしてしまう。でも、またきっと、この道で彼女には会えるだろうと期待していた。それまでに、不審者と思われないような声のかけ方を考えておかなければいけない。別に、普通の人が普通に話しかけるだから、受け取り手の彼女たちが自分たちが被害者的に思うのが速すぎる、いうなれば過敏すぎるのだけれども、世間的には近頃、変な犯罪も増えたように思えるし、防犯としては適った行動なのかもしれないと思った。だけど、それはそれとして、シュウは、いかにも自分が無害で安全ですよということを過度に強調する話し方と態度を考えなければならなくなった。また、明日、トライしてみよう、そうシュウは心づもりを決めて、始業に間に合うように事務所へと急いだ。
あくる朝、川べりの道すがらにまたシュウはいて、水切りをしている。きっと女子高生たちは、バス停へ行くためにまた今日もこの道をあれこれ噂話などをしながら歩いてくるに違いない。その噂が自分のことだったなら、ちょっとやるせないなと思っていた。そんなところへ、彼女らは昨日と同じように川上の方から歩いてきた。どうやらシュウの存在に気付いたようで、また道路の端の方に進路を変えた。シュウは、あまりに近づきすぎてから声をかけたのでは驚かせてしまうと読んで、適当な距離のまま、適度な声の大きさで、手短に用件を述べた。昨日は驚かせてしまって申し訳ありません、一つ訊きたいことがあったんです、そのペンダントはどこで手に入れたんですか、僕にとってそのペンダントは重要なものなんです。彼女たちは、怪訝な表情のままひそひそと話をしてから、そのペンダントをしている茶色がかった短い髪の、背の低い方の子が返事をした。
「…このペンダントは小さい頃に親に貰ったものですけど」
そうだったんですか、実は行方がわからなくなった僕の大好きな人がそのペンダントをしていたんです、珍しいペンダントですよね。
「そうなんですか、親からはこのペンダントはこの世に二つしかない貴重なものだと聞いていましたし、それって何かの間違いじゃないですか。他の人が持っているなんて考えられないし。」
シュウはもう少し訊きたいことがあるのだが、よかったら本通りの喫茶店で君の放課後に待ち合わせできないかとお願いした。返事はOKだった。どうもありがとう、それじゃまた後で。そうシュウは言って軽く会釈をし、別れた。彼女の名前は、ミオ、と言った。
シュウの気はそわそわと風に揺れる木の葉のように落ち着かなかった。昼飯に食べたから揚げ弁当の味もわからないくらいに、気持ちはミオとミチルの関係に囚われていた。そして、その日は仕事を早退し、その足で本通りの喫茶『しらかば』へと向かう。待ち合わせの午後4時半まではまだ30分余りあったが、それは自分の気持ちをできるだけ落ちつけて話に臨むためでもあった。店内にはビル・エヴァンスが流れていて、落ち着きたい気持ちを後押ししてくれる。待ち合わせを10分過ぎてミオは現れた。
「ごめんなさい、バスが遅れてしまったんです。」
いや、いいよ、よくきてくれたね、そういってシュウはミオを迎えた。ミオは高校一年生で、将来は保母さんになりたいのだという、立派な目標を持ってるね、えらいなぁ、とシュウは褒めると、ミオは頬を少し赤らめて、ありがとうございます、とはにかんだ甘酸っぱい笑顔を見せた。その笑顔がどこかミチルに似ていて、まさかの予感を彼は抱いた。ねぇ、ミオさんに兄妹はいないの、そう訊くと、
「いえ、一人っ子ですよ。」
と返ってくる。ミチルは生まれて間もなく養子に出されたのだし、よっぽどのことでもないかぎり、もしもミオがミチルの妹だとしても、姉がいるなどという話は聞いていないだろう。そこは親にでも訊かない限りわからないところかもしれないと思っていると、ミオのほうから意外な言葉が発せられた。
「死んだ姉がいるとは聴いていますけど」
そう聞いてもうシュウの中では二つの点が一本の線でピーンと繋がってしまった。かなりの確度で、ミチルとミオは姉妹なんじゃないだろうか、いや、姉妹だとしか思えない。そう確信したシュウの顔を、ミオはくりくりした瞳で見つめている。なにか、ペンダントについて言われていることってないのかな、たとえば、お守りになるだとか。
「そうですねぇ、これはひいおじいちゃんが作ったものらしくて、それも何かが乗り移ったように急に部屋にこもって、二日で二個作ったって聞いています。そのうち、うちの家系に女の子が生まれたらこれを渡して欲しいとおじいちゃんに遺言したんだって。それで、その後おじいちゃんにはお父さんしか生まれなくて、お父さんには私が生まれて、やっとペンダントは持ち主を持ったっていうわけなんです。ひいおじいちゃんは北の森の管理をしていたそうです。森の中のことはなんでも知っていたみたい。それと、ペンダントをどうして作ったのかってきかれたときには、“忘れられた祈りのため”って答えてたんだって。どういう意味なのかわからないけど。」
もうひとつのペンダントについては何か聞いていないの。
「もうひとつは、死んだ姉のお墓の中に一緒に埋葬してあるって言ってましたよ。だから、シュウさんが見たっていうわたしのと同じペンダントっていうのは見間違いなんじゃないですか」
いや、見間違いじゃないよ、まったく君のと同じものを、彼女は、ミチルっていうんだけれど、ミチルはしていたんだ。そして、ミチルは生まれて間もなく養子に出されていてね、きっと、死んだことにされている君のお姉さんだと思う。
「えっ…」
ミチルの面影が君にも感じられるよ。
「お姉ちゃんが生きてる…」
でも、行方がわからない、手がかりさえないんだ。
「そうなんだ、お姉ちゃん、会ってみたい…。」
それにしても、ミチルが高校を卒業してこの街にやってきたっていうのは、すごい偶然だね。だって、自分の実の両親や妹が住む街に、それと知らずにやってきたんだからね。
「それって、きっとこのペンダントの力だと思う。二つのペンダントには陰と陽の役割があるっていわれていて、きっと、引きつけられたんだと思う。」
ミオの表情が真剣になってきた。この年頃の女の子らしく、こういう「どうせオカルトでしょ」と否定され嘲笑されそうな話の流れになっても、真面目についてきてくれる。そういうのが、もしかすると、失われていってはならない、時間を流れさせる役割を持つものに通じる何かなのかもしれない。
「北の森の大樹に頼めば、もしかするとお姉ちゃんは戻ってくるかもしれないです。」
そう言うミオの瞳は真っすぐで、きっ、としていて雷が鳴ってもびくともしないくらい強かった。北の森の大樹って、あのしめ縄をしてあるやつかな。
「そうです、あの樹です。行ってみませんか。」
また北の森か、とシュウは思った。いいよ、行こう、でも今日はもう無理だから、明日にしよう。明日は土曜日だから朝から行けるね。じゃ、明日の朝、あの川べりで待ってるよ。
「はい、よろしくお願いします。」
言いながらミオはぺこりと頭を下げたが、頭を下げたいのはシュウのほうだった。何をどうできるかはわからないけれど、あの妖しくも聖なる感じのする北の森に働きかけるのだ。漆黒の絶望の壁にひびが入って、その亀裂から一条の希望の光が射しこんだような気がした。
次の日の朝、ミオは、よくぞそんな服を持っていたなと讃えたいくらいの見事な迷彩色の作業着を着て、川べりに現れた。シュウは、薄桃色のシャツに、ジーンズというようないつもの格好をしていて、それを見たミオは逆に呆気にとられているように見えた。北の森への道のりを歩いている時に、言ってなかったけど、こないだ北の森に入ったんだ、と彼はミオに打ち明けた。信じられないだろうけれど、と前置きしたうえで、洞穴に入ったことと、人型の煙が出てきて話を聞いたことを包み隠さず話した。ミオは、うん、うん、と真摯に聞いてくれたうえで、
「やっぱり北の森には何かありますね、だから、今日もきっと期待できる。」
と目を眩しいくらいに輝かせた。
大樹は、洞穴のある場所よりも12,3分くらい遠くの場所に生えていた。表皮にはところどころ苔がむし、細いしめ縄がゆるめに巻かれていて、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。さて、着いたけれど、どうすればいいんだろう、そう話しかけた時、ミオは既にペンダントを両掌に挟んだ形で祈りを捧げていた。辺りには虫の鳴き声がひっきりなしに流れている。ひんやりと湿って、濃い空気が鼻をなでていく。ここまで来る間にミオに、昨日は言いませんでしたが、と断わりを入れられた上で聞いたのだが、北の森の大樹とミオの曽祖父とは会話ができたのだという。ペンダントを作れと言われたのも、もしかすると大樹にかもしれないと、ミオは言っていた。もう20分近くミオは祈り続けている。そんな彼女の顔を見やると、額に汗の玉を浮かべていた。どんな祈りをしているのだろう、と思いながら、シュウは祈ったりやめたりを繰り返していた。それからしばらくして、「やることはやりました」とミオは疲労を浮かべた笑顔をシュウに向けた。首につけなおしたペンダントは以前よりも輝きを増しているように、シュウには見えた。
それから、1週間、2週間、3週間、なんの変化もない日々が過ぎていった。シュウとミオはケータイのアドレスを交換し合いたまにメールのやりとりをするようになっていた。その中で、ミオの両親はミオの姉が死んでいないことを認めたという内容のものもあった。きっと、ミオの家庭は北の森の件以来大変なことになったろうと思うし、その原因が自分にあることを考えると、そうやって真実を暴いたことが良かったのか、悪かったのわからなくなった。ただ、ミオの両親は、ミチルを認めたあとに、彼女を受け入れたいと言いだしたと、さっき届いたメールに書かれていて、それでシュウは救われた気持ちになった。でも、遅かったのだ、というやりきれなさは無くならなかった。
しかし、思いもしなかった時は急にやってくる。それは秋が終わりを迎える頃、寂しい季節がさらに寂しさを増していって、こころまでが冷えてしまいそうな夕方だった。シュウの自宅兼事務所のチャイムがポーンっと鳴った。はーい、とシュウがドアに向かい、どちらさまですか、と開くと、そこに深々と頭を下げたミチルの姿があった。
ミチル…
驚きよりも喜びが勝った。ミチルじゃないか…、さあ、入って。シュウの目には温かな涙が浮かんでいた。
「ごめんなさい、急にいなくなったのにまた戻ってきたりして。どうか、またここにいさせて欲しいんです。」
そう言うミチルの声も涙声だった。いいよ、ミチル、君を待っていた。また前みたいに一緒にいよう。顔を上げたミチルの頬を一筋の涙が転がり落ちていった。少し痩せたミチルだった。そして、その胸にはあのペンダントが光っていた。帰ってきたミチルは、どうして自分がそこまで思いつめてここを出ていってしまったのか、その時の気持ちはまるで説明がつかないくらい異常だったと告白した。
「よくわからないけれど、これまで歩んできた人生に押しだされるようにしてここを出てしまったみたいなの。シュウとだって別れたくなかったけれど、別れなければ何か恐ろしく自分がダメになってしまうように感じたの。シュウ、本当に、ごめんなさい、許してほしい」
もちろん、許すよ。君にはわからないかもしれないけれど、君のわからないような理由があったようなんだ。その夜、シュウはミチルに、北の森であったこと、ミオのこと、ペンダントのことを、ゆっくりと話して聞かせた。ミチルは最初の方こそ、ウソでしょう、といって半信半疑で聞いていたが、ミオの話をしたあたりから、のめりこむように話を聞くようになっていた。ミチルは出ていった先の街であった恐ろしかったことや寂しかったことを話した。シュウはミチルの経験を聞くにつれて辛くなり、話の最後には彼女を固く抱きしめたのだった。もう、そんな思いはしなくていいんだよ、と言いながら。
ミチルのペンダントは以前と同じように、凛として輝いていて、今や、ミチルを守り抜いたことを誇るかのようでもある。ミオの捧げた祈りは、しっかりと、届いた。きっと、ペンダントを通して、ミオからミチルへと届いたのだ。過去から現代へ、ペンダントは忘れられた祈りを思い出させた。それはどんな因果であったかは、誰にもわからないところだが、煙たちが言った“この世の善しとするもの”に関係があったものなのだろう。この先、シュウとミチル、そしてミオはどのように生きていくのだろうか。人の社会のルールにだけいそしむことはきっとしない。そして、北の森はそんな彼らをずっと見つめ続ける。
【終】