Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『ブータン、これでいいのだ』

2020-10-30 23:59:53 | 読書。
読書。
『ブータン、これでいいのだ』 御手洗瑞子
を読んだ。

2010年から一年間、ブータンで首相フェローを勤めた、
マッキンゼー出身の著者による「幸せの国・ブータン」体験&考察記です。

ブータンが国をあげてかかげる目標として有名なのが、
GNH(国民総幸福量)の拡大です。
GNHという指標自体が珍しいですよね。
日本やアメリカのようなGDP(国内総生産)拡大、
すなわち経済最優先ではなくて、
経済はもちろんみんなの幸せのためには重要なのだけれど、
そこを一番にもってこないのがブータンの流儀でした。

そんなヴィジョンで国民を引っ張る国ですし、
のどかで牧歌的で、そして幸せにほのぼのと国民が暮らす国、
というようなイメージを僕は持っていました。
物質的には恵まれていなくても、精神的には豊かなのだろう、と。
それはそれで当たっているところもありますが、
だからといって、純朴で素朴で清廉で、というわけではありません。
そこのところは、本書で現実のブータンを読んでいくことでわかっていく。
僕らが抱いているブータンのイメージは「夢の国」としてのものですが、
実際は、現実として、危うさや歪みをかかえた世界だったりもするようです。

でも、彼らの「幸せ力」については、見習うべきところがあります。
楽観的で、ある種の諦めがよい方向に働いている。
これには、ブータンの人々が信じているチベット仏教の影響が多大にあるようです。
チベット仏教は命は輪廻転生すると説く宗教で、
たとえば、そこを飛んでいるハエは何年か前に亡くなったお隣さんのおじいちゃんかもしれないし、
そうじゃなくても誰かの生まれ変わりだろうから叩いて殺したりしない、
殺生はしない、というような特徴があります。
そして、生まれ変わることが前提なので、現世への執着がなく、
それがよい意味での諦めに繋がっているように本書から読めました。

ただ、僕個人としては、生まれ変わりなどを信じず、
一回性の人生を生き抜くことが大事だと考える方なんです。
生まれ変わりを信じると、
今生きている自分や他者の命がいくぶん軽く感じられてしまいます。
本書にも、全力で患者を助けないブータン人医師がいたことが、
極端な例として紹介されていましたが、
生まれかわるんだからいいだろう、というような悪い諦めにも繋がっていくのが、
この死生観かもしれない。
ですが、チベット仏教はそこを解決するのに、
功徳を積むことが来世の幸せにつながるとすることで、
刹那的に過ぎないように、しっかり生きるように人の気持ちを差し向けるようにできている。
それでも今度は現世よりも来世に執着して、
来世のためのお参りばかりして過ごして、現世自体の人生をしっかり生きない、
という人たちもでてくるわけです。
まあ、ブータン人の楽観性と幸せ力は素晴らしいけれど、
完璧ではないということです。
というか、完璧など存在するものではないのだから、
完璧を求めはせずに、それがアンバランスであったとしても、
どんな姿勢を自分は選択するかを考えるべきですよね。

著者は、ブータン人の在り様をそのまま取り入れようとしてもそこには歪みもあるし、
他文化との相容れ無さもあるので、
ひとつのモデルとして参考にするというように捉えることをすすめています。
そのうえで、ベンチャー企業や小さな組織に組織論として応用可能ではないか
という話もしています。
本書にはなかったですが、ブータンの人たちの周囲が幸せになることを願い、
それが自分の幸せになるという価値観は、日本だと介護の現場、
それは施設でも在宅でもですが、
そういうところにすごくマッチするのではないかと思いました。
ブータン流の幸せ力と超高齢社会の介護の現場との結びつきは、
とてもよい効果を生みだしそうな気がするのですが、どうでしょう。
そのために、まず本書を手に取るのも好い手段になり得ると思います。

ブータンは後発開発途上国とされています。
いいかえると、最貧国なのだそうです。
つまり、金銭的、物資的に恵まれていない部分がある。
それでいて、国民はちゃんと幸せを自分のうちにつかまえている。
この事実が問いかけてくるものを受けとめることを、
本書が助けてくれます。

「夜這い」に関する章だとか、衣食住に関する章だとか、
おもしろいよみものとしての性格の方が強いですが、
いろいろな考えのヒントにもなりました。
おもしろかったです。


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『成功する子 失敗する子』

2020-10-26 00:25:10 | 読書。
読書。
『成功する子 失敗する子』 ポール・タフ 高山真由美 訳
を読んだ。

いわゆる「知能」は、
今でも、IQの高さや成績の良さなどを尺度に語られる性質のつよいものです。
これらは、最近では「認知スキル」とくくられるそうです。
そして、認知スキルこそが何より重要だとする人(認知決定論者)の言い方として、
「重要なのはIQであり、それは人生のかなり早い段階で決まるものである。
教育とはスキルを身につけさせるものではなく、人々を選り分け、
高いIQを持った者に、潜在能力をフルに発揮させる機会を与えるものだ。」
というものが、いくぶん極端ではありますが、あります。

そういった「認知スキル」のいっぽうで「非認知スキル」と呼ばれる能力があります。
「非認知スキル」とは、やり抜く力、自制心、好奇心、誠実さや意志の強さなどなどのことです。
本書では、「認知スキル」よりも「非認知スキル」のほうがずっと大切である、
という昨今の研究を軸に、
発達心理学と労働経済学、犯罪学と小児医学、ストレスホルモンと学校改革など、
それぞれ独立した分野を繋げることで浮かびあがる事実から、
子ども時代の貧困などからくる劣悪な家庭環境や人間関係などの逆境でそこなわれる人生を、
どうすれば救えることができるのかを探り明かしていきます。
「非認知スキル」をはぐくみ、生かして好転するケースやデータを例示し、
とりあげられたさまざまな逆境にあえいできた人物のストーリーを語りながら、
その大事さがつまびらかになっていきます。

性格ってすごく大事なんだ、ということなんですよね。
これは政治的にいえば保守の人たちが「それみたことか」
とふんぞりかえってもおかしくない結論でもあります。
性格を作っていくには道徳教育が必要になります。
道徳教育なんていうと、抽象的だし精神論的でくだらない、なんて怒る人も多い。
しかし、ここでいう道徳教育は、
権威や規則に従え、というものではありません。
そういった、「それは誰の倫理基準・価値基準なのか?」
という疑問があたまに浮かぶような、従来の倫理・価値に従う種類の道徳教育ではなくて、
自制心や意志力を持とう、というような、
有意義で充実した人生のための能力を自覚するためのような教育です。
個人主義的な道徳、といいますか、
または、自分を守り尊重するための道徳、といえるのではないでしょうか。

アメリカでは、KIPPアカデミーという教育機関が、
「非認知スキル」を育てることで学力も向上させるシステムを作り上げ、
社会的にも経済的にも学力的にも恵まれていない子どもたちを
大学に入学させるまで育てて注目されて、
アパレル大手GAPの創業者の目にとまって多額の寄付を集めたりしたそうです。
KIPPアカデミーは数を増やし、質を高めて今日にいたっているようですが、
本書でKIPPアカデミーを扱った章を読むと、
そのやり方がふつうの日本の学校のやり方に通じるようにも感じられて、
アメリカでは新しいやり方であっても、僕としては懐かしさのようなものが甦るものでした。

そうなんですよね、
本書の帯には書評サイトHONZの代表である成毛眞氏の言葉として、
「『やり抜く力』、『自制心』、『好奇心』、『誠実さ』
これこそ、われわれ日本人が再発見すべき能力だ!」
とあります。
日本人って非認知スキルを大切にしてきたところはあると思います。

最後に、
これはしっかり覚えておきたいところを。

性格や知能は変えていける。
変えていけると信じている人は、そのしなやかな姿勢ゆえに変えていける。
変えていけないと考える人は、その凝り固まった姿勢ゆえに変わらない。
性格も知能も、影響をうけやすいのがほんとうのようです。
人間は柔軟にできているんです。
また、
思春期にうまく挫折や失敗をする大切さについての話もありました。
(僕個人は過保護に育ったので、思春期は失敗や困難を渇望して反抗したもんだった。
それを思いだしました。)

示唆されるところからいろいろとふくらんで読めていく、内容のある豊かな本でした。
やっと手に取りましたが、読んでよかったです。


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『しょうがの味は熱い』

2020-10-14 22:25:00 | 読書。
読書。
『しょうがの味は熱い』 綿矢りさ
を読んだ。

二篇の作品による連作短編です。
同棲から結婚へという、
ある意味で瞬間的でもあるだろう経過上で、
こじれてしまい間延びしたような状況が本小説の舞台。
あえてそこを書くのが小説らしく、著者らしいとも言えます。
小品を読んでいる感覚でしたが、
終いにはしっかり読み終えた満足感がありました。
そういった、話の締めくくり方の力というか技術というかは、見習いたい。

心理面もさることながら、
脳の構造的なぶぶんであろうところであって、
日常ではあまり意識したりしないような点にも注意を向けて書いている箇所があり、
レントゲンみたいに透過する、
作者の視線のつよさみたいなものが露わにする「人間の秘密」を目にする感覚もありました。
こういうところは、科学的な視線の種類だと思います。
冷徹さを持っていないと見えないところです。

たびたび、太い息がでる文章に出合いましたが、
P119の、
___

たしかにきゅうくつに感じていたけれど、
でもいまみたいに大人になってからの、
自分のことは自分で決めないとどんどんダメになっていくプレッシャーはなかった。
なにもかも自分で決められるゆえ、
その決断が間違っていれば他でもない自分が一番困る。
子どものころのように、
ルールを決めるかわりに自分を守ってくれる存在はもういない。
___

という一節を個人的な思索とからめて今回は取り上げます。
この一節をしゃべっている主人公の女性・奈世は、僕なんかからすると、
他律性から脱却して自律性を獲得する過渡期のようにも見えました。
でも、奈世はこうやって、自律性と他律性の狭間みたいな割り切れないところにいて、
そこは一般的にはたぶん居心地はあまりよくないはずですから、
すぐにどちらかに重心をうつしがちなのが通常だろうという状態だと思うのですけれども、
しっかりそんな状態・状況に身を置いてモノを見る、恋人や他者を見る、内面を見る、
そして言葉にしていくという態度は、
小説を書いていく人ならではの特性か、いや、というよりも覚悟なのかな、という気がしました。
きっと、そういった覚悟があると、居心地の悪い「狭間」が、
独特な「汽水域」へと特別に生まれ変わるのかもしれません。
よく見てみれば豊かで、気づくことができた人だけが獲得できるものがあります。


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『笑い』

2020-10-09 20:42:22 | 読書。
読書。
『笑い』 ベルクソン 増田靖彦 訳
を読んだ。

戦前のフランスの哲学者・ベルクソンによる「笑い」を探る書。
わかりやすい翻訳で、内容をあたまのなかで転がしながらおもしろく読めました。
タイトルにドドンと「笑い」とありますが、
笑い全般を扱っているのではなく、おかしさによる笑いに限定した、
「特殊笑い理論」というような種類の本です。

「笑い」は知性のものか感性のものかでいうと、知性のものだという。
感性(感情性といったほうがいいのかもしれない)が強ければ、
つまり愛情や憐憫の情が知性をまさっていれば、
滑稽な場面でも笑う場合ではなくなる。
愛情をもっていても笑えるのは、愛情をひととき忘れるからだそう。

つまり、「笑い」は硬直性にたいして知性的に起こるものだという。
そして緊張を忘れた人が柔軟にものごとに対処できずに
硬直性へとはまってしまうのだと。
駆けていてつまずいた人が笑われたとして、
その笑われた根拠は、その人の不本意さにある。
そしてその不本意さは、硬直性がまねいた失敗、ということになる。

そうベルクソンは語るのだが、
緊張が硬直性を招くことだって多いし、
ここで使われる緊張という言葉には注意が必要かなと思いました
(巻末の解説で、このあたりについては上手にほぐしてくれていました)。
また、笑いをもたらす欠点の持ち主は、笑われたことで自らを取り繕おうとする。
つまり、笑いには、笑った人が笑われる人を矯正する作用がある、
言葉を変えると、「習俗を懲戒する」という機能があるんです。

でも、です。
瑣末な場面での笑いのもつ懲戒作用はそれほど悪くもない懲戒かもしれないけれど、
行き過ぎた笑いだってあって、その場合、正しくない笑いが懲戒作用を行使してしまう。
無自覚に笑いが主導権を握っている前提っていう世の性格は今も強いと思いますが、
笑いを疑わないことは牧歌的だとも思う。
このあたりについては、本書の終わりの方で、笑いは悪意でもある、と書かれていました。
笑いは、欠点をつついて「そこはおかしいよ」と知らせもするけれど、
正義だというものでもないのです
(ああ、そうだ。「いじめ」には笑いが密接に絡んでいますよね)。

以上のような筋なのですが、
これらをふまえると、むくむくと自分で考えたいことが膨らんでいきます。

緊張の緩みが「笑い」を招き、
「笑い」とはその対象が修正を必要とするものだと指摘する性質を持つ、とありました。
そこから考えてみると、
第一段階的には、笑われないように人前で緊張を続け、笑うときには対象をバカにしさえする。
しかし、第二段階的には、緊張の緩みをよしとしてあえて笑われ、対象をバカにはしない、
となるのではないか。
これは経験上からくる考えなのですけども。

この第二段階的な「笑い」のあり方って、
人間としてもそのコミュニティーとしても成熟した段階だし、
生きやすさを考えてみても望ましい。
ハリウッド映画でのこじゃれたユーモアのやりとり、
笑いをコミュニケーションに使っている場面なんかを
「いいねえ!」って思えるのは「笑い」が成熟してるからですよね。

笑われまいと必死になっている人って多くいるし、
その笑われてはならないっていう論理が幅を利かせる空気が漂う場ってよくあります。
これはまあ、僕自身の環世界上(僕個人が見ている個別的世界上)での特有の状況と考えるより、
地方でっていうカテゴリと40代でっていうカテゴリ上で、
ある程度の勢力を持っているような気がします。

こういう「笑い」の段階だっていわゆる民度の高低に関係しているならば、
「笑い」の質や成熟度からでも世界はちょっとずつ変わっていけるのでしょう。
とすれば、お笑い芸人という職に適った人が、
哲学者や思想家よりも社会によりよい影響を与え、
動かしていける可能性を秘めているとも言えちゃんですよ。

というところで本書に戻ると、
内的に深めていく人は詩人だとか悲劇だとかの方面で、
表面的な人間観察が得意な人は喜劇の方面だ、と書かれていて、
その説明からも納得しました。
小説でいうと、純文学的傾向の強いタイプが前者で、
エンタメ的傾向の強いタイプが後者になるのでしょう。

また、「行為」と「身ぶり」の違いについてもなるほどと思いました。
「行為」はその人物をかりたてる意志や感情から切り離せないけれども、
「身ぶり」は無意識的かつ無意味になされ、また習慣に似て自動的な側面も強いのだ、と。
ベルクソンの言う、笑いを生じさせる「緊張が緩んだ状態」というのは、
しなやかさを失って自動的に行動する状態のことですから、
「行為」ではなく「身ぶり」のほうで、喜劇を書く人は笑いをつくるということです。

というところですが、
こういうのとは別に随所で、
「おっ、言うねぇ」と感じるような箴言的な文言に出合いました。
著者は哲学者なんですが、日常とかけ離れていない著作なので、
ちょうどいい風合いの文章と論説です。
とてもおもしろかったです。


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