読書。
『街場の文体論』 内田樹
を読んだ。
内田樹先生が神戸女子大で行った最後の講義を書籍化したものです。
講義のタイトルは、「クリエイティブ・ライティング」。
あとがきでご自身が触れられているとおり、
細かいところにツッコミが入るような出来映えです。
泥臭い、とも書かれている。
たとえば、
言語の生成は「言葉にならないもの」を母胎としている、
と最後のほうに書かれていますが、
本書の半ばにて、テクストがテクスト自体を作っていく、
すなわち、最初から最後まで頭で考えてあったものが文章になるわけではなく、
文章自体に文章生成能力があって、それによって導かれるように、
自分でも予期しないものが書けたりする、
とロラン・バルトを引きながら書いてある。
まあ、相反するようでいて、実際は、前者と後者のコラボレーションであり、
出来あがる文章というものは、ハイブリッドなものなんだろうなあと
読み下しました。
また、
西欧の学者、とくにフランスの学者のことを言っていますが、
その学者たちの書く物は、階層社会のことをテーマのものであっても、
下層のものには届かないような、
知識階級にのみわかるような言葉で書かれている。
下層のものは、こうであっては下層のままでいることになるよ、
というような主張が、下層の当事者にはまったく届かずに、
一部の上流の知識人だけに届く。
著者の内田氏は、そういうものなんだ、
と事実を述べているだけの感覚に読み受けられましたが、
これが本書の後半部になると、
日本の明治期の近代化を例に挙げて、
それでいいのか、と熱を込めて述べている。
もしも、明治期の日本人が英語や仏語や独語などを勉強して、
それを自らの立身出世のため、自己利益のために使おうとしていたら、
今日の日本の繁栄はなかっただろうと言います。
明治期の知識人は、その言語能力で、
数多く翻訳し、知識を日本に流れ入れることに成功した。
そこには、みんなのため、という贈与の精神がある。
それこそが、知識人の在り様なのではないか、と論じます。
そこも、僕は後者に肯きましたが、
本の中では、そこらへん、整理がついていない。
と書くと、細かいところをつついているように見受けられると思います。
でも、読んでいて、「これって、さっきと逆じゃないか」
などと思えてくるのですから、指摘するべきだと思えてくるものです。
まあ、大ナタを振るう的な、
とりあえず大要をつかもう的な、
そういう体裁なのでしょう、
それはそれで、読み手がしっかりしていれば面白く読める本です。
エクリチュールの話は中盤の核ですが、面白かったですし。
(たぶん、他の本でこの話は読んでいて、二度目になりましたが)
ただ、これはどうだろう、という考えが100ページくらいまでに浮かんだのですが、
それは次のようなこと。
内田氏の言うアウトサイダーであることで
多くの人に読ませる物語を書くことができるという論理には肯くし、
インサイダーが多くの人に読ませる物語を作るのには
かなりの技量がいることも認めることとしてなんですが、
人にはタイプがあり不可抗力的な環境っていう因子があり立場は選べないですよね?
あなたアウトサイダーとして書けないタイプだから
書くのやめなさいとはさすがに内田氏は言わないでしょうが、
インサイダー型の人は暗にあなたが成功する確率は低いと呪いをかけられるようなもの。
こういうところ、内田氏のような、
先まで見えちゃう人のあまり良からぬところだと思うのです。
そこには、たとえば幸せの価値観に一元性が垣間見えるように思えるのです。
誰にとっても絶対的な幸せの価値観の尺度があって
その尺度にのっとって言えば、インサイダーではだめです、
みたいな否定の仕方を感じる。
僕も幸せについては考えるけれど、
もっとゆるくてシンプルな背骨的尺度だけを考えてる。
たとえば「自律性があればいいし、
なるべく他律性に支配されないことが大事」という背骨のみで、
あとの肉付けはそれぞれやってください、というようなもの。
条件をコチコチに決めて、
その枠からはみでれば不幸なんだよ、
と暗に決定してそういう目で見てくるのは迷惑でもあります。
あるいは、一流であるためにはそんな生ぬるいことを言ってちゃ
夢のまた夢だと言われるかもしれない。
だけどそれは幸福か不幸かとは別な話だと思うのです。
真理の一本道がある、だとか、絶対的な正道がある、
だとかそういう思想をどこか
本書100ページくらいまでに感じるわけですが(例えば村上春樹賛美)、
ぼくは「すべての道はローマに通ず」がほんとうだと思うし、
川村元気氏の対談集『仕事』を読んだ時にもあらためてそう感じていました。
まあ、ぼくみたいなのが言うのもなんですが、
視野を狭く誘導するような感覚を受けとると、
その読みものと著者に対しては、う~~んとうなっちゃいますよね。
まあ、それが100ページまでで、
その後は総じて楽しめて読めて面白かったのですけども。
はじめに書いたように、
本書は大学の講義の書籍化なのですが、
最後の講でこう書かれています。
______
来週いただくレポートのテーマ、書き方は自由です。
条件は一つだけです。
僕が授業でしゃべったことやお配りした資料の中から、
一つだけ、論点一つだけに絞って、
それについて異論がある、興味がある、
意見を述べたいことがある、それを書いていただきたい。
字数も制限しません。
短くて、キリッとエッジの立ったものでもよし、
思いきり長く書いていただいてもよし。
______
そういうわけですから、
僕のこのブログ記事は、
講義を受けきって書いた仮想レポートみたいなものです。
さまざまなトピックを交えながら進んでいきますから、
飽きることはありませんでした。
一丁、ゆるくではあるけれど、内田氏と格闘してみるか、
なんていう気構えで読むと楽しめると思います。
僕が読んだのは単行本タイプですが、
文春文庫でも廉価版がでていますので、
気になる方はそちらで読んでみてもいいと思います。
『街場の文体論』 内田樹
を読んだ。
内田樹先生が神戸女子大で行った最後の講義を書籍化したものです。
講義のタイトルは、「クリエイティブ・ライティング」。
あとがきでご自身が触れられているとおり、
細かいところにツッコミが入るような出来映えです。
泥臭い、とも書かれている。
たとえば、
言語の生成は「言葉にならないもの」を母胎としている、
と最後のほうに書かれていますが、
本書の半ばにて、テクストがテクスト自体を作っていく、
すなわち、最初から最後まで頭で考えてあったものが文章になるわけではなく、
文章自体に文章生成能力があって、それによって導かれるように、
自分でも予期しないものが書けたりする、
とロラン・バルトを引きながら書いてある。
まあ、相反するようでいて、実際は、前者と後者のコラボレーションであり、
出来あがる文章というものは、ハイブリッドなものなんだろうなあと
読み下しました。
また、
西欧の学者、とくにフランスの学者のことを言っていますが、
その学者たちの書く物は、階層社会のことをテーマのものであっても、
下層のものには届かないような、
知識階級にのみわかるような言葉で書かれている。
下層のものは、こうであっては下層のままでいることになるよ、
というような主張が、下層の当事者にはまったく届かずに、
一部の上流の知識人だけに届く。
著者の内田氏は、そういうものなんだ、
と事実を述べているだけの感覚に読み受けられましたが、
これが本書の後半部になると、
日本の明治期の近代化を例に挙げて、
それでいいのか、と熱を込めて述べている。
もしも、明治期の日本人が英語や仏語や独語などを勉強して、
それを自らの立身出世のため、自己利益のために使おうとしていたら、
今日の日本の繁栄はなかっただろうと言います。
明治期の知識人は、その言語能力で、
数多く翻訳し、知識を日本に流れ入れることに成功した。
そこには、みんなのため、という贈与の精神がある。
それこそが、知識人の在り様なのではないか、と論じます。
そこも、僕は後者に肯きましたが、
本の中では、そこらへん、整理がついていない。
と書くと、細かいところをつついているように見受けられると思います。
でも、読んでいて、「これって、さっきと逆じゃないか」
などと思えてくるのですから、指摘するべきだと思えてくるものです。
まあ、大ナタを振るう的な、
とりあえず大要をつかもう的な、
そういう体裁なのでしょう、
それはそれで、読み手がしっかりしていれば面白く読める本です。
エクリチュールの話は中盤の核ですが、面白かったですし。
(たぶん、他の本でこの話は読んでいて、二度目になりましたが)
ただ、これはどうだろう、という考えが100ページくらいまでに浮かんだのですが、
それは次のようなこと。
内田氏の言うアウトサイダーであることで
多くの人に読ませる物語を書くことができるという論理には肯くし、
インサイダーが多くの人に読ませる物語を作るのには
かなりの技量がいることも認めることとしてなんですが、
人にはタイプがあり不可抗力的な環境っていう因子があり立場は選べないですよね?
あなたアウトサイダーとして書けないタイプだから
書くのやめなさいとはさすがに内田氏は言わないでしょうが、
インサイダー型の人は暗にあなたが成功する確率は低いと呪いをかけられるようなもの。
こういうところ、内田氏のような、
先まで見えちゃう人のあまり良からぬところだと思うのです。
そこには、たとえば幸せの価値観に一元性が垣間見えるように思えるのです。
誰にとっても絶対的な幸せの価値観の尺度があって
その尺度にのっとって言えば、インサイダーではだめです、
みたいな否定の仕方を感じる。
僕も幸せについては考えるけれど、
もっとゆるくてシンプルな背骨的尺度だけを考えてる。
たとえば「自律性があればいいし、
なるべく他律性に支配されないことが大事」という背骨のみで、
あとの肉付けはそれぞれやってください、というようなもの。
条件をコチコチに決めて、
その枠からはみでれば不幸なんだよ、
と暗に決定してそういう目で見てくるのは迷惑でもあります。
あるいは、一流であるためにはそんな生ぬるいことを言ってちゃ
夢のまた夢だと言われるかもしれない。
だけどそれは幸福か不幸かとは別な話だと思うのです。
真理の一本道がある、だとか、絶対的な正道がある、
だとかそういう思想をどこか
本書100ページくらいまでに感じるわけですが(例えば村上春樹賛美)、
ぼくは「すべての道はローマに通ず」がほんとうだと思うし、
川村元気氏の対談集『仕事』を読んだ時にもあらためてそう感じていました。
まあ、ぼくみたいなのが言うのもなんですが、
視野を狭く誘導するような感覚を受けとると、
その読みものと著者に対しては、う~~んとうなっちゃいますよね。
まあ、それが100ページまでで、
その後は総じて楽しめて読めて面白かったのですけども。
はじめに書いたように、
本書は大学の講義の書籍化なのですが、
最後の講でこう書かれています。
______
来週いただくレポートのテーマ、書き方は自由です。
条件は一つだけです。
僕が授業でしゃべったことやお配りした資料の中から、
一つだけ、論点一つだけに絞って、
それについて異論がある、興味がある、
意見を述べたいことがある、それを書いていただきたい。
字数も制限しません。
短くて、キリッとエッジの立ったものでもよし、
思いきり長く書いていただいてもよし。
______
そういうわけですから、
僕のこのブログ記事は、
講義を受けきって書いた仮想レポートみたいなものです。
さまざまなトピックを交えながら進んでいきますから、
飽きることはありませんでした。
一丁、ゆるくではあるけれど、内田氏と格闘してみるか、
なんていう気構えで読むと楽しめると思います。
僕が読んだのは単行本タイプですが、
文春文庫でも廉価版がでていますので、
気になる方はそちらで読んでみてもいいと思います。