Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『ジュージュー』

2015-01-29 23:39:08 | 読書。
読書。
『ジュージュー』 よしもとばなな
を読んだ。

著者が文庫版のあとがきのなかで、
「なんちゅー悲しい話を書いてしまったんだ」と
読み返しながら思ったと書いていましたが、
読んでみた僕としては、そんなにすごく悲しい話には思えないんですよ。
そりゃ、登場人物たちは人生のなんやかやに縛られて自由ではない。
でも、自由ではないなりに、
そのなかでの自由を獲得できているように読み受けました。

与えられたカードはよくなくても、
それをどう使っていくかというのは比較的できている人たちが主要人物でした。
著者は、登場人物たちの持って生まれた星周りというか、
やっぱり与えられたカードというか、
そういうのに対して「悲しい話」と言っているのではないかなと
そういう気がしました。
さらに言えば、そこからぱたぱたと大空へはばたくようなことは
できなかったりする人たちだから、
そこにも悲しみというものは感じられるわけです。
ただ、鎖に繋がれたような状況の中での自由に甘んじている人には、
その悲しみは感じられないのかもしれない。
そういう意味で、僕がすごく悲しい話には思えなかったのには、
僕自身がはたからみたら悲しみを感じてしまうような状況に
あるのだろうなあなんて、考えてしまったところでした。

___

違うから好きになるのに、違うから届かない。
___

本作には91ページに上記の一節がありましたが、響きましたね。
その人と自分には違いがあるからその違いによって
その人に惹きつけられたのに、
その違いゆえに手が届かない、
違いゆえにはばかられる、というのはあるよなぁと思った。
はたして、僕に対してもそう感じる人はいるのかどうか。

なにげない気持ちから何かをつかみとる感性がすごいですよね。

下町の良さっていうか、スローな街のよさ、
かけがえのなさも感じられて、そういうところもよかったです。

おもしろかった。
出てくる人物たちに愛おしさを感じて、
読み終わると名残惜しいのはおもしろかった証拠です。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『だまされない<議論力>』

2015-01-25 22:51:06 | 読書。
読書。
『だまされない<議論力>』 吉岡友治
を読んだ。

議論といっても、
いわゆるディベートのように、
話し合いでの言葉の使い方のテクニックを紹介というよりか、
しゃべりの基本となるであろう、
文章をやりとりする議論についてのもの、
といった性格のほうが強い、議論の指南書です。

新聞記事や、著名な作家や著述家の文章、
大学入試の小論文問題などから例を使い、
いろいろとそれらを解析して、
欠陥や不手際のあるところをつついていく。
そうして、議論と言うものの構造として、
それにかなう論理としてはこうだよ、と
教えてくれるようになっています。

いかに僕らが日常に使ったり目にしたりしている日本語の構造が
ふわふわしたものかというのが実感される。
それどころか、はぐらかしだとか、逃げだとか、
そういったテクニックに、半ば騙されるようなかたちで、
そういった文章をふつうに受け止めていたりすることにも気付かされます。

面白かったのは、
以前物議をかもしたという(僕はよくしらないけれど)
「どうして人を殺してはいけないのか?」
という若者の問いについての議論の論考のところでした。
大江健三郎氏の主張したものや、それへの批判や、
その批判への批判までをも取り扱って、
最後に著者の論考が述べられるのですが、
そこでの「他我をわかること」
といったような考え方は、わかりやすかったし、
僕がわりにいつも考えている共同体感覚と似た考え方だなと思いました。
僕は、この本のその後の弁証法のところの例で、
「お金よりも命が大事、命よりも理性が大事」と出てきたのにヒントを得て、
人を殺してはいけないのは、
「自分や他人の理性を信じて、その理性を大事にしないといけないから」
とでも言いたくなりました。
それにバイオフィリアだとかあるでしょう、
人に備わった、生きものを愛でる性質だとかって。
まあ、食べ物のためとして豚とか牛とかニワトリだとかを殺しますが、
それでも、バイオフィリア的な心の持ちように似た、
人間同士の命を大事に思う感覚って、
ニュートラルな人間の状態としてもっているのではないかな。
著者が言う、「他我をわかる」というのにも、
やっぱり結びつきますかね。

ざっくばらんに、解き明かす議論の論理構造。
おもしろい授業を受けているようでもありました。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『嫌われる勇気』

2015-01-23 13:44:24 | 読書。
読書。
『嫌われる勇気』 岸見一郎 古賀史健
を読んだ。

フロイト、ユングにならぶ心理学三大巨頭の一人、
アルフレッド・アドラーの教えをわかりやすく、
「哲人」と「青年」の架空の対談形式で述べてくれるのが本書です。

トラウマなどに代表される、
因果をもとにした「原因論」を説くフロイトたちの心理学とは一線を画して、
ギリシア哲学とも繋がる「目的論」を主軸とした理論になっています。
原因論とは、たとえば、幼いころに両親が不和で離婚した経験があるから、
それを原因として、今は異性とお付き合いできない、というようなものです。
目的論の場合は、両親が不和で離婚した経験を悪い方向に解釈して、
それを異性とお付き合いしない言い訳にしているということになります。
つまり、お付き合いしたくないから(それは面倒だからだとか理由はあるでしょう)、
両親の離婚を言い訳にしているということであって、
トラウマではないということになります。
このあたりは、本書を読むと、いろいろな例がもっとうまく書かれているので、
すっきりと理解できることになります。

また、これがアドラー心理学の土台をなしているもう一つとも言えますが、
「人間の悩みはすべて対人関係である」という見抜きがあります。
なので、対人関係の悩みをとっぱらってしまうことで、人は幸せになれるとする。
そして、その考えを論理的押し進めていってできあがった理論が、
このアドラー心理学の教えなんです。

そうして、
・競争は不幸を生む。
・他人の期待にこたえるために生きてはいけない(承認欲求の否定)。
・他人の課題にまで土足であがりこまない(課題の分離)。
などなど、現実の人間関係の足かせになっているコモンセンス(共通認識)を
くつがえして見せてくれます。
ゆえに、アタマでその理論がわかっても実践に移すのが難しいところでもあります。

ただ、個人的に言えば、
ぼくは書かれていることの半分以上はわかっていたことでした。
けっこう、アドラーの考えは、知らずにぼくも考えていたことでもあった。
ただ、僕の場合はその考えがとっちらかっていて、
体系的じゃなかったというのはあります。
さらに、「共同体の感覚」というアドラー心理学のゴールの概念がありますが、
これなどは、驚いたのですが、僕がモースの『贈与論』を読んだことを起因として
悟ったことと同質のことが書かれていました。
渡りに船じゃないけれど、やっぱり時代のひとつの潮流なのか、
または巡り合いってこういうものなのか、という気がしました。

この本のすごいところは、ぼくの考えではネックであった「しがらみ」
というものについても、処方箋が書かれていることです。
不信というものがどれだけ害になるか、
ということがとくに大事なことのように僕はよみました。

ただ、実践が難しい上に、こういう人もいるだろうと浮かんだのがあります。
アドラー心理学は、さきほど書いたように、
対人関係こそが人間の悩みのすべてとされていて、
それを無くすことができるんだよっていう教えですけれども、
悩みや苦しみがあってこその人生じゃないか、
それでこそ面白いんだって人は結構いそうで、
そのあたりの視点はなかったんですよね。

最後になりますが、たぶんぼくにとって最も難しい点は、
「ほめてはいけない」という部分。
ほめても、叱ってもいけないのです、なぜかといえば、
そうすることで、人間関係に上下関係、縦の関係を築いてしまうからなんです。
横の関係でなければ、「共同体の感覚」は作れない、
という結論になっています。
下からほめるっていうのはないのかな、なんて考えたりもして。
草葉の陰からほめております、みたいな。
ぼくなんかは、人や作品なんかをほめるときには、
下からほめてる気がしてたけれど。太鼓持ち的に。

まあ、そういうわけでして、
久しぶりにガツンときて面白い本でした。
みんなにおすすめしたくなります。


Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『精神分析入門』

2015-01-20 00:24:31 | 読書。
読書。
『精神分析入門 上下』 フロイト 高橋 義孝・下坂 幸三 訳
を読んだ。

錯誤行為、夢判断、神経症総論を収録した『精神分析入門』と、
その後に書かれた補足的な意味をもつ『精神分析入門(続)』をおさめたのが、
この上巻と下巻からなる『精神分析入門』です。

それにしてもですよ。
分析によって突き止められるのは大体において性にまつわることだっていうのが、
本当かなという疑いとそうだそうだという頷きが半々に生じました。
この講義(本書)は100年も前のものだけれど、
性に対して現代的に取り組んでいて、いまもなお古びていないです。
それはわいせつ性だとかタブー視とか、
現在にもそのまま残っているものだし、
そんななかでこれ以上進展しないところ近くまで研究した、
フロイトの先鋭性があるからだと思いました。
性は、生殖の妨げにならないようなバランスのとれたところでは、
その分析は完成しているのかもしれないです、そう思いました。
これは、あまりに科学的に解析すると、
性的な魅力や欲望までもがそがれてしまうんじゃないかという、
僕のイメージから言っています。

また、いろいろと心霊現象や思考転移などについて、
科学的に解き明かして見せてくれながらも、
「でも、まれに解明できない不思議なことはあるんだよ」
と言っている章もあり、そういう暗黒域みたいなのは
あったほうがいいなあと個人的に嬉しかったり。
まだまだ科学じゃ解明しきれない区域があってこそ、
面白みも可能性もあるじゃないですか。

ここからは、ほんとに「雑感」という感じの、読後の雑感です。

物事から目をそらして忘れてしまった気になっても、
それらの物事はその人の無意識に落ちていってさらに不死なものらしいのです。
無意識に落ちて出てこない状態を抑圧といって、
心理的不調の原因になったりする。
そういった抑圧された無意識の意識化が精神分析の治療の仕方のようです。

現実にむきあわない、物事から逃げる、
そういう態度が心理的な不調を生むんですね。
無意識化してしまって、それが一生残って、
そういうのが多くなっていってエネルギーが増せば悪さをする。
かといって、すべてに真面目に向き合うのは大変だから、
折を見て無意識の意識化をしてやらないといけないわけ。

ユング派の故・河合隼雄さんは、
競馬なんかのギャンブルで大損するのも、
知らないでやっているその人自身のための治療なんだって言っていた。
無意識の意識化っていうものは、
言語化できるものに限られたものじゃないんですな、たぶん。
言語化が意識化のすべてじゃないようです。

また、超自我、自我、エスという心的人格三分割には納得。
超自我は別名「良心」だし、それ以外の無意識的な自我がエスだし、
そう考えると、自分自身の得体のしれない意志の現れ方だとかが
わかる感じがしました。

そして、ニーチェの本に引き続いて、ルー・ザロメなる女性の名前が登場。
当時の偉人達と交流した才媛なのでしょうね。




Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「共感」が生んでいく生きやすさ。

2015-01-09 22:43:28 | 考えの切れ端
フロイトによると神経症だとかの原因は無知にあるっていうんですよ。
自身の心的活動に対する無知にある、と。
じゃあ無知を克服するにはどうするかというと、
無意識の意識化をやるわけです。
そうして、
「ああ、わたしはこんなことを考えたり思ったり感じたりしてたんだ」
と知ることになって、病気が薄れていく、と。

ぼくは前にユングを読んだ時だったか、
「共感」っていう心的活動って
実は無意識の意識化なんじゃないかと考えたことがありました。
だって、「あぁ、そうそう、わかる」っていう意識って、
無意識にあったものが相手によって意識に上げられたってことじゃない?
だから共感を呼ぶ会話って心に良いんです。

そういった「共感」を呼ぶ会話ができるのって、
冷笑的なつきあいじゃ可能性が低い。
もっと温かで、冷笑的じゃなくて、敬意を持ちあっていて、
とはいえ過剰に期待しないようなフランクな間柄のつきあいが増えていけば、
人々の心の不調や病気も減るのではないかと。

イライラばかりしていちゃ、自分にも相手にも八つ当たりしたりして、
「共感」を起こすような関係ってできにくいですよね。
僕は今はもうそれほどじゃないし、
そういうつきあいを増やすのはなかなか難しいのはわかってるけれど、
ネットの会話にだって「共感」を呼び起こすものってあるのを知っています。

あったかみある関係、いとおしさのある関係、
そんな連帯感のある社会へと、
「共感」を大事にする姿勢でいることって繋がっていく予感がする。
そういう連帯感のある社会では、生産性も増す、
つまり経済成長も望めるって
マルセル・モースの解説書にちらと書いてあった。
あとはしがらみの問題だと思う。

しがらみについては、山岸俊男先生のご著書が参考になるのだろうな。
いろいろ的を得た批判を読んだこともあるんだけれど、
道徳教育だとか法律とかの整備でしがらみって薄まるみたいなんだよねえ。

…というような、最近の考えをVer.1.1とか1.2だとかにした論考でございました。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1+1=2ではない人との関係

2015-01-06 22:51:10 | 考えの切れ端
算数では1+1=2で大正解なんだけど、
ことに人間関係に関しては1+1=2っていうのは
夢想にちかい理想に過ぎないんじゃないかと思うわけ。
1+1=5になって喜んだり、過剰だねって笑ったりすることもあれば、
1+1=1で寂しい思いや哀しい思いをしたりもするよねえ。

1+1=2にならないからケンカもするし譲歩もするしで。
1+1=2じゃないから、寛容さが必要だっていう話になるわけです。
また、他者への敬意が大事だと気付くあたりには、
1+1=2に近づけたい気持ちがあるのかもしれない。
だけど敬意を持とう!という押し売りはしないよね、敬意を持つ人って。

言い方を変えれば「人間関係は不公平でできている」ってことなんだ。
それに腹を立てたりすることはあるとは思うけれど、
公平じゃなきゃ罪だ、と非難するものでもないと思うのです。
ある程度、受け入れるべき不公平なのではないか。

僕なんかの現実の話をすると、
たまにギャンブルで儲けたときに、
外で食べたご飯をおごってやることがあります。
ぜんぜんお金を持ってない人ですけど、
それでもいいかって思っておごっちゃうわけ、
優越感に浸りたいというのもちょっとはあるかもしれないけれど、
それよりも、いっしょにちょっと旨いものを食べようぜ、だとか、
あんたの節約に一役かってやるかだとか、
あとはよく考えもしなかったり、だとかでおごっている。

ちなみに、ほぼ100%、従兄におごってやってる。
ここ数年では総額10万円分くらいいったかもしれないね。
だからといって、おごり返されたことってそんなにないです。
つまり、おごったおごられたの関係でいえば、不公平な関係なんです。
でも、文句を言おうとは思わない。
また、誕生日プレゼントに本を贈ったりしたこともありますが、
こっちの誕生日に何かを贈られたこともないですね、その従兄には。
だからといって関係がこじれるわけでもないです。
関係がこじれるとすれば、どっちかが不誠実なことをやった場合でしょうね。

マルセル・モースの贈与論によると、
贈与された相手は、返礼をしなくてはならない責務を負い、
お返しをしなくては、という心理と闘うことになって、いずれそうする
ということですが、モースのではない贈与論で、誰か名前は忘れましたが、
贈与されたからって、お返ししないとならないという気持ちに
苦しむことはないし、絶対的にそうしなければ均衡が崩れるわけでもない、
というようなことを言った人がいたみたいです。

僕は、モースの贈与論にいろいろと学びましたが、
現実生活から鑑みると、今言ったことの後者のところ、
お返しは絶対的なものじゃないという説に賛成なんですよね。
なので、モース先生は、過剰な利他はよくないって言いましたが、
そんなに気にするものでもないのではないかという気がしています。
モース先生は、人間関係はフェアであらねばならない、
という理想を疑いなく信じていた人かもしれない、なんて考えてみたり。

まあ、僕が寿司をおごったとか、焼き肉をおごったとか、牛丼をおごったとか、
そういうのはたぶん、好きでやっているんだなあ。
でも、おごられるのに慣れられたらいやなんだよねえ。
ちょっと無駄遣いみたいな気もするので、
ちょっと引き締めなきゃとも思います。

みうらじゅんさんによると、
人におごってやって、愚痴を聞いたりしてもらえる、
つまり、話を無条件に聞いてもらえる、相手を聞き役にしてしまえるのは、
フグだのカニだのスッポンだのという高級なものだけだそうです。

人間関係の支点を一時的にでもちょっと変えるには、
けっこうお金がかかるものだよ、ということだね。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オカルト棚にて。

2015-01-04 19:14:37 | days
昨日本屋で、
とあるそういうコーナーにてフリーメイソンがどうたらこうたら、
抑えた声音ながらも熱く議論する若者たちがいた。
オカルトめいた、秘密結社だの陰謀論だの、
そんなのがぐっとくる時期って、ある人にはあるよね。
あれはあれで真剣なのが、
ひとつの病のようでもあって、ほほえましくもあって。

フリーメイソンに陰謀をくっつけて語る本の中で、
たとえば1ドル札の図柄に秘められた暗号なんかが取りざたされていたら、
推測とか邪推に過ぎないであろう陰謀についてまで
本当だと思いこんでしまいそうだ。

推論と事実と空想みたいなものを並列に継ぎ目なく論じるのは、
物語なら面白いがエッセイとか論説ものなら
ちょっとずるいというかフェアじゃないというか。
子どもの頃読んだ本に、そういうのもたまにあったかもしれない。
雑誌『ムー』なんかはそんな気配もするけど、確かめる気がしない…。

陰謀論に義憤を覚えながらいろいろ調べる人っていうのは、
根っこのところは自由と平和を愛しているってことなんだろうな。
支配だとか、世界の終末を目指していく主義だとかに
「なにをぉ!」って喰ってかかりたくなるのってわかります。

でも、そんな自由と平和についてだって、
主義主張の違いがあったりもするし、
実はどういう立場でいるかが難しいものだったりする。
自由と平和を掲げていれば、そこに安住できるというわけじゃない。
安住できる思想ってあるのかいな、と思ったりもする。

話は逸れたけれど、
結局、フリーメイソンって組織は、
テロ組織じみたものじゃないってことでしょ。
荒俣宏さんを信頼して彼の著書を読んだことがありますが、
裏世界の地下国家みたいなものじゃなかったですよ。

階級の昇進がどうのこうの、秘密がどうの、
儀式がどうのってのはあるみたいだけど、
結局その根本は遊びの要素もあるだろうし、
排他的なインテリだけの世界にするための障壁でもあるだろうし、
狂信的な何かがあるようには思えなかったです。
イルミナティはしらんけど(とかいうと想像が膨らむのかな)。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

謹賀新年2015

2015-01-01 18:29:22 | days
あけましておめでとうございます。
平成27年、2015年になりました。

2015年なんていう字面を見ると、
どんだけいま、昔あたまに描いた未来にいるんだよ
っていう気分になります。
車が空を飛んだり、スケボーが宙に浮いたり、
すっごいぺらぺらでも温かいっていう服を着ていたりという、
そういう未来にはなりませんでしたが、
なんだか、おいてけぼり感があるというか、
このまま、年数から受ける印象に現実感を見いだせないまま、
やがて死んでいくのでは、なんて思えてきたりもする。

はやいですね、時間が経つのはってことです。
2000年まではカウントダウンみたいな感覚で、
年を越してもまだ95年なのか、97年なのか、
っていう気持ちも、ちょこっとあったと思うのですけどね。

今年は出来れば、勝負の年にしたいなあ。
後半は大変になりそうなのはわかっているのですが、
前半は猶予期間内みたいな感じでもあるので、
そこでクリエイティブにやっていけるかどうか、
という気がします。
まあ、偶発的になにかがある可能性も十分にあるので、
計画した通りにはいかないものですけども。

とにかく、
みなさん、お互いなんとかやっていきましょう。

今年もよろしくお願いします。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする