Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『香水――香りの秘密と調香師の技』

2023-07-30 07:06:23 | 読書。
読書。
『香水――香りの秘密と調香師の技』 ジャン=クロード・エレナ 芳野まい 訳
を読んだ。

エルメスの人気調香師による、香水についての網羅的に概説する本。

香水の歴史的部分、人間の嗅覚の構造、香水の原料や抽出方法、調香師になるための勉強、調香師の職業的な部分、香水とは何か、マーケティング、香水を市場に出す過程などなど、ほんとうに香水全般を扱っています。そして簡潔。

どの章も興味深いのですが、たとえば抽出方法の章で解説される、植物から香り成分を抽出するいくつかの方法のどれもが、人間ってよく考えるものだなあ、と思えるものでした。どうしてそうやったらできるとわかったのだ? というように。いくつかの抽出方法のひとつを以下に書いてみます。揮発性溶剤にいれて香り成分を溶かし込んだ溶剤を回収し、それを気化して回収する。残った部分は残った部分でエチルアルコールと攪拌して凍らせ、濾過し、非混和性の植物の蠟と、香りの混じったアルコールとに分離する。最後に、アルコールを気化すると「アプソリュ」呼ばれる素材が出来上がります。こういった単純ではない過程を踏んだりするのです。また、こないだ別の本で学んだ超臨界流体による抽出方法、こういった現代の技術による抽出方法もありました。

いちばんおもしろかったのは、調香師のその仕事・職業面を解説した章です。ここだけで一冊になるくらいのエッセンスがあります。というか、世の中にある多くの本って、こういう部分のみにスポットライトをあてて語るようなものが多いです。それはそれでクローズアップされていて、点として学ぶ、あるいはエッセンスとしてのいくつかの点を学んで線を結ぶ、といった作りになっていると言えるかもしれません。本書は調香師の仕事のそれ以外のまるごとを扱っている点が、調香師ひいては香水の現実面をしっかり読者に知らせるものとなっていますから、視野を広く持って香水を知れますし、夢だけを語るのではない仕事面のあれこれを知れる仕様になっています。

というところで、その、調香師のその仕事・職業面を解説した章から引用を。

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香水モデルも、ファッションと同じように、それが生まれた時代に属している。やがて時代遅れになる。時代遅れにならないためには、いつまでも修業時代と同じように、物や人びとに好奇心を持ち、つねに探しつづけなければならない。探しつづけ、そしてときには、見つけることもある。(p69)
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→創造する分野に共通する金言だと思いました。


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喜びは利己的なもの。贅沢とは、分かち合うことである。あらゆる芸術的な職業と同じように、香水製造が目指すのも、なにより感覚に喜びを与えることだ。人間としてそして調香師として、まず自分が喜びを感じなければ、人に喜びを与えることはできない。驚かせる喜び、想起させる喜び、暗示する喜び、そして、すこしずつ謎を解かせる喜びだ。香水は、匂いの書いた物語。そしてときに、思い出の書く一篇の詩なのである。(p80)
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これもクリエイターにとって共通のことを言っているなあ、と肯きながら読みました。

香水の分野でこそのおもしろい言葉もいろいろあったのですがここでは紹介しません。それは本書を読んでのお楽しみにさせてください。

香水の世界は濃密だ、と知れる一冊です。創られた香水に著作権はないのですが、創作物としての著作権を認められるような判例がフランスではでたことがあるとも書かれていました。創った香水に著作権は得られなくとも、本書を読むと、調香師は芸術の分野にいる人たちだとわかるでしょう。こういった本を読むと、その営為に触発されます。世界は広い。


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『春の庭』

2023-07-26 23:20:10 | 読書。
読書。
『春の庭』 柴崎友香
を読んだ。

第151回芥川賞受賞作。くわえて、単行本未収録短編二点と、書下ろし短編一点を収録。

表題作『春の庭』は、妙な出会いというか縁というかによって話をするようになった、取り壊し間近の同じアパートに住む主人公・太郎と西という女性漫画家。この二人を主要人物として物語は進んでいきます。しかしながら、物語はどうなっていくのか、中盤まで読み進めていってもまったく先が読めません。僕にとっては「物語」というものの引き出しの外にある「物語」で、つまりは自分にとっての新種の「物語」なのかもしれない、なんて思いました。あるいは、「物語」のどのようなコードに対してもそのまま従うということをしない、というカテゴリに分類される「物語」なのかもしれません。とはいっても、僕の中にある「物語」の類型のストックがまだまだ少ないがために断言はできないのですが、それでもおそらく未踏の地を行く冒険家の類いの作風なのではないかと思いました。くわえて言うならば、派手な物語ではないのだけれど、現実というものの質感のある物語であるといったところでしょうか。

それが残り40ページくらいのところから、怪しい感じ、つまりこの先に何かあるなあ、という感覚になりました。それからそれまで三人称で語られていた人称がいきなり変わり、「え」と楽しくあたふたし、その後まもなく「やっちまってるじゃないか!」というふうにそれまで納まってきていた枠外に飛び出し、ねじれていく物語にわくわくしながらめまいを感じました。これは語りの技術だし、独自の表現方法でした。それで仕舞いの一行ですとんとそしてぐにゃりと着地させる技があります。その一行までのあいだの40ページくらいでは、ぎりぎりのところで読者をおきざりにするかしないかみたいな、でも技術的にはテンポやトーンを変えていて「ついてこれますか」と走っていくんです。さらに背後から忍び寄るような緊張感が漂いだします。それをたった最後の一行で見事に回収する、というか、解放する、というか、無に帰す、というか。相撲や柔道で、うまく投げられてしまった、という感じ、それに似ていたかもしれません。

全体をぼんやり見てみると、平常の感覚では、日常はつるんとしたものだ、と、とくに疑いもなくとらえている。それがなにかひとつ、気にかかったことをきっかけとして注意を与えると、そのつるんして見えてきた日常に実は存在している凹凸が見えてくる。たとえばそれは、小説を作るという一連の流れと似ていたりもするかもしれない(作り方にもよるけれど)。つるんとした細部の決まっていないアイデアを、粘土を練り造形するみたいに凹凸をこしらえていく、あるいは探り当てていきますから。そんなふうにもこの作品からは感じられました。

その他の短編も含めて、住んでいるアパートやマンションの重要度が高く扱われていました。本書の特徴の一つだと思います。そして、どこか不穏で、でもなまぬるさのようなものがあって、健全なのか不健全なのかわからないような安穏がある。

その他の短編のなかでは、書下ろしの『出かける準備』がとくに気に入りました。女性二人による、亡くなった知人の男の噂話のところがぐっときたのです。男と昔いっしょだった職場で、主人公ではないほうの女性がとてもしんどくてどこか遠くへ行きたくなっていたとき、男はなにげなく「だいじょうぶ?」と声をかけ、でも、冗談のようにそれはうやむやになるのだけれども、女性はそれで救われた、と今になって涙を流すのです。この男についての噂話はまだあって、それで一人の人間の多面性、立体性が浮かび上がりながら最後にこのエピソードで締められていて、ここらのあたりの没入感は違いました。

というところです。なんとなくですが、著者は実直に原稿に向う方なのかな、という気がしました。でも、他の作品をまた手に取ってみないとわかりませんし、一作だけの印象ってあてにならなかったりします。またそのうち、違う作品に触れてみようと思います。


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『デザイン思考が世界を変える』

2023-07-22 17:57:10 | 読書。
読書。
『デザイン思考が世界を変える』 ティム・ブラウン 千葉敏生 訳
を読んだ。

アップルコンピュータのマウスや、2000年前後にヒットしたPDA端末・パームⅤを手がけたデザインコンサルタント会社IDEOの社長兼CEOの著者によるデザイン思考を紹介する本。デザインとデザイン思考はちょっと違います。以下、引用を中心に本書の解説・感想を書いていきます。

「デザイン」とは、たとえば自動車のフォルムや内装などがどうなっているかというようなものですが、「デザイン思考」になると範囲は広がり、その自動車の購買者はどういった用途でその自動車の使用を楽しむかというようなことを考えます。乗り心地の快適性、購入時やサポート時の体験、その自動車と共にある生活などを考えてデザインしていく。

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「私たちがデザインしようとしているのは、名詞ではなく、動詞なのだ。(p172)(たとえば、電話[モノ]をデザインするのではなく、電話をかけること[経験]をデザインする)」
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この視野と想像力なのです。モノのデザインの範囲だと職人的で、動詞としてデザインするのは活動家的ともいえそうです。平面的な思考と立体的な思考、っていう感じだってします。これが、デザインとデザイン思考の違いなのでした。

人間中心に考えていくのがデザイン思考だとあります。これはデザイン思考のキーポイントで、ぶんぶん首を振るみたいにして頷きました。世の中では、社会という枠組みに人間をはめこんでしまう考え方の多い事ったらないですから。まあ、社会も大切だし人間も大切だし、極端に偏らないことだと思ってはいますが、人間中心の視点からの行動ってまだまだ少ないです。

たとえば病気ひとつとってみても、患者を診て治す「医学」と、患者がどうしてそのような病気になったのかの個人的要因や社会的要因を探っていく「疫学」があります。「疫学」は、現象学的アプローチの範囲内に入るようなものなのかもしれません。そして、そのような視点と、デザイン思考の視点って近しいように感じられました。デザイン思考と「疫学」をクロスすると、疫学でみた社会的要因をまず見ていくと、たとえば生活習慣病の原因として近所の24時間営業のお店で食べ物を買うことができる、それも高カロリーの食べ物を、というものがあるとします。だから、疫学的見地から、売っている食べ物の質を改めるだとか、24時間営業を考え直してみるだとかがでてくると思うのですが、デザイン思考だと、食べたくなることは仕方がないことなので、そこで生活習慣病にならないような行動をとるようなデザインを考えていきます。食べたら嫌な気持ちになるようなデザインを考えたり、我慢すると大きなメリットを得られるデザインを考えたりというようなことでしょうか。こういったところからも、デザイン思考って幅が広くなおかつ実際的で、できるだけ人間を枠にはめ込まないようにする考え方であると言えるでしょう。

さて、そのようなデザイン思考のヒントやインスピレーションはどこから得るのでしょう。
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インスピレーションには常に偶然の要素が含まれるが、一八五四年にルイ・パストゥールが有名な講演の中で述べたように、「偶然は心構えのある者にしか微笑まない」のだ。(p83)
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→これはよく、アンテナを張っていなさい、なんて言われ方をすることと近しいと思います。また、極端な少数者の訴えに目を向けることが、人間中心に考えるデザイン思考の大きなヒントになることが多いそう。このような少数者って、大多数が幸福になるようにとする功利主義では切り捨てられてしまう部分ですが、逆にそこにこそ大きな利益(人間中心思考においての利益です)が潜んでいるという視点からの知見はとても興味深かったです。
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アイデアの良し悪しは、アイデアの発案者に基づいて判断してはならない。(p97)
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→まず人を見て、その人になんらかのオーソリティ的なものがくっついていると、無批判にその人からのアイデアを受け入れがちっていう人とか集団のムードとかありますよね。これは、ダメ、ダメ。ダメですよ、ということ。さらに、こういう文言もありました。

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一見すると説明不能な人びとの行動が、厄介で複雑で矛盾した世界に対処するための人それぞれの戦略であるということだ。(『デザイン思考が世界を変える』p67)
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→説明できないことは無駄だったり無益だったりすることだ、と短絡的に考える人ってけっこういるので、違うよ、教えたくなります。「それはどうしてなの?」とこちらに訊いてきて、それに対してなかなか言葉が見つからずうまく説明できないと、相手から「だったらこうしましょう」と単純に干渉してくるお節介焼きがいるものです(とはいえ、人助けしようという気持ちは十分にわかってはいます)。たとえば役所なんかに相談した時もそうだけど、説明しがたいところを簡単に更地のようにされて向こうの意見を建設されたりする。そうじゃなくて、元々のその地形に意味がある。その意味を解読するのはとても難しいのだけど、無かったことにするとそれまでのバランスを著しく崩すことになる。本人もよく分かっておらず、外部からも気づかない大切な仕組みや重要な要素が含まれている。外部が関わるとロクなことにならないケースは、簡単に説明の効かないものへの無理解にあるんですよねえ。

大量生産からサービスや経験へと進化してきた昨今の市場状況。それは、供給側が権力を持っていて消費者側がそれに従うという昔からのスタイルから、消費者側も権力を徐々に持つようになっていき供給側が少しずつ権力を手放す、という方向へ時代が動いてきたとの見立てができるものです。そのような時代に入ったからこそ、デザイン思考が本格的に役に立っていく。主流の座に足を踏み入れているわけでした。

前述のように、デザイン思考は人間中心に考えます。だからこそ、環境問題や社会問題の解決への取り組みにも相性が良いといいます。個人的には、障がい者や介護の問題に対しても、このデザイン思考を適用して考えていくといいよなあと思いました。


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自己肯定感の裏側。

2023-07-19 22:19:38 | 考えの切れ端
僕らが暮らしている競争社会では、「言ったもの勝ち」みたいに、俺のほうが強いんだぜ、と胸を張ったもの勝ちのところがある。ハッタリという戦法があるのもそのためでしょう。そうやって言い張れる、胸を張れるのって、どきどきしながらやっているウブなタイプの人もいるけれど、それらを得意戦術にしている人にとっては自己肯定感がその精神性の源になっていると思います。

僕が学生の頃、周囲を見ていて顕著に目を引いたものに、自分よりランクの高い大学の人たちを「頭でっかちだから」みたいにけなして、自分たちこそがまともだとするスタンスがありました。そのような、自分の属するグループこそが世界の中心あるいは中心を担うべきまっとうな存在だとする自己肯定感ってあって、たとえば競争社会でいくつものトップが乱立するのはこのメンタリティによるのではないでしょうか。もちろん、違う価値観に基づいたそれぞれのトップが乱立するっていう健全なかたちも多く混じっていると思います。

ただ今回、僕が言いたいのは、「努力」や「自分と向かい合い考えること」をあまりせずに自信過剰となり、ただ権力を持ちたいがための自己肯定感についてです。つまり、「向上心」や「内省する心」などの薄い自己肯定感だと言えるでしょう。そういう自己肯定感が、「アイツ生意気だ」みたいな抑圧的な振る舞いにつながる。こういうタイプの自己肯定感は陰湿です。他人の足を引っ張ったりという行為もそうです。

だけどこの、面倒くさいタイプの自己肯定感所持者がなぜ生まれるかというと、やっぱり競争社会で生きていかなければいかないからなんだと思われます。こういう自己肯定感はある意味で「ずる」なんですが、そういったグレーの領域で「おらおら」とやっちゃうのは、白日の下での勝負ではまったく叶わないことが十分にわかっているからでもあります。

公式戦ではまったく勝負にならなくても、でもなんとか競争に勝って生きていかねばならない、それもすぐに勝たないとっていう強迫観念に追われる。さらに、そういった強迫観念をみんなが感じているために、いつしか共有されてしまった強迫観念が真実にしか思えなくなって強迫観念に支配されてしまいがち。その枷が外せないのは、前提を疑ったり、枠組みの外に思いを馳せたりできないからです。なぜなら、そうするためには内省や向上心が必要なので、なおさら気づけないのです。

ネットばかりみていると、そういった種類の自己肯定感ってマジョリティになりつつあるように見受けられる。でも、そういった発言をしている層よりもはるかに分厚いに違いないサイレントの層はおそらくそうではないのだろうと僕は考えます。でもって、社会をなんとか良心的に保っていくのは後者、つまりサイレトの層だし、未来への希望となるのもサイレントの層のほうです。

声を出さずにいると、声の大きな人たちの勢力に席巻されてしまいますが、それでもサイレントの層は、この社会の根っこなのかもしれない。地上の茎や葉がなぎたおされたとき、また芽を出すために頑張るのが根っこです。サイレントの層って、そういった社会のレジリエンスを担っているのではないかなあ、となんとなく考えたりなどするところでした。

これだ! と何かをやると決めたら、あるレベルまでの自己肯定感を持ったほうが馬力がでそうです。だけれど、内省と向上心を持ち合わさないでやたらに自己肯定感だけ強くしていくと、そういう人がいる場が乱れていく気がするのです。

きっと、どんな性質もそうなんですが、ひとつの性質に偏って、それだけ強くすればいいなんてことはないのでしょう。内省と向上心と自己肯定感、その配分のバランスが大切なのかもしれないです。ある種の、自己の揺らぎ、そういった揺らぎの中でこそやっと、「真っ当さ」というものが宿るのではないか、なんて考えるところでした。
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『リバーズ・エッジ』

2023-07-07 16:39:17 | 映画
年に数回の、昼間に自由な時間がある日が今日だったので、2018年度の作品『リバーズ・エッジ』を観ていました。監督は行定勲さん、主演は二階堂ふみさん。原作は岡崎京子さんの漫画で、舞台は90年代。

いじめられっ子の山田(吉沢亮)とその山田を助けた若草(二階堂ふみ)の二人が回転軸となっている話です。強いストーリーはないのだけど、事件はいろいろ起こりますし、そんな日常に揺られる群像を描いたような作品と言えそうです。

ふつうに生きていたらどんどん人間喪失していく90年代。若い人たちは、あがいている自覚はないのだけどあがいていたんだと思う。それも、安易な物語に組み込まれないために極端なところまで針を振る行為で。でも、欲していたのは新しい物語だったんだろうと、同じく90年代を10代で過ごしてきた僕には感じられました。僕としてはかなりおもしろかった。

その後00年代以降を考えてみると、新たな物語の誕生や獲得というよりも、同調圧力的な秩序が誕生して、人間喪失へと転げ落ちるベクトルは回避を見たのかもしれない。ただ、その秩序の裏には強い排除の性質がくっついている。

90年代。若者は生と死の境界線上の、ひりひりした生にあったんだ、まあ全員がとは言わないけれども。社会の風潮としてあって欲しかった物語が陳腐になり、崩壊したから、範とするもの、モデルとするものがなく、手探りで生きていて、死みたいな確固とした暴力のようなものに惹かれたのかもしれない。

本作では死や死体がキーポイントになっていますが、変な話、90年代には死や死体が若い人のエネルギーになったわけです。虚無に対抗する手段だったと言えるでしょう。そしてつまりは、ある意味で、社会的な人柱を欲した時期だったのかもしれない。それは理性で欲したというより、根源的な部分で無意識的に渇望していた。これらのことを名付けるとすると「90年代的精神的危機」って言えそう。

というところですが、僕が感じ取ったようなことがよく描かれていると思いました。まあ、他の人が見たら他の感想はあるでしょう。僕と同じように90年代を10代で過ごしてきた人でもそうでしょうし。あるいは、都会でそう過ごしていた人にとっては、本作は僕が言うよりももっとわかりやすいものなのかもしれないし、また、よりクリティカルな視点で見れるのかもしれない。まあ、わかりませんが、僕個人としては、このように感じ、考えましたし、とてもよい作品だったと思えました。
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『恋歌、くちずさみながら。』

2023-07-04 20:33:00 | 読書。
読書。
『恋歌、くちずさみながら。』 ほぼ日刊イトイ新聞
を読んだ。

すべてがほんとうの話。Webサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』のコンテンツ「恋歌くちずさみ委員会」に寄せられた恋バナ集です。甘酸っぱかったり、苦かったり、切なかったりする内容には、でもあたたかみが宿っていたりしました。

本書の書き手の方々にとっての恋のランドマークや記憶を呼び起こすトリガーになっている恋歌。それはきっと、ここに投稿された方たち以外の、たとえば読み手の多くにとってもそういった恋歌はあるのだろうと思います。取り上げられている恋歌はけっこう古いものが多いです。1980年前後くらいが多かったでしょうか。なので、語られるエピソードも、たとえばインターネットや携帯電話が普及する以前の話がほとんどでした。中年以降・老年手前くらいの人たちが楽しんで告白しあっているふうです。『想い出がいっぱい』『恋するカレン』『なごり雪』『オリビアを聴きながら』『PIECE OF MY WISH』『大迷惑』『愛は勝つ』などなど、そのときどきの流行歌だった恋歌が並びます。

心情の表現が、書き手のみなさん「作家」のそれでした。恋っていう切実な想いの記憶が強いエネルギーになって文章表現に乗り移ったみたいに、とろりと甘かったり、ひりひりしたり、悲しみの投げかけだったりとさまざまで、個性がある。でもこれだけの思いを文章にできていても、書き手のみなさんはすべて書き尽くした、はきだせた、とは思えていないでしょうね、おそらく。

さまざまな人生のドラマティックだったりロマンティックだったりする部分、それはその人たちの人生のごくごく一部分にすぎないのだけれど、それらの人たちを成している大切な一部分でもある。

本書の恋歌にからめた短い恋愛話の数々を読むと、それぞれに人生の質感が宿っているのだけれど、語り終えたその語り手はすっとどこかへ歩き去って行ってしまい、読み手は書き手とは二度と出合うことはなくて、これも「瞬間的な人生の交差」だなあという気持ちになりました。

たとえば、都会の駅中なんかを歩いていて、なにげに入った書店のとある書棚で隣り合った人がいて、その隣り合った時間が思いのほか長くなってお互いにちょっと気にするように横目でちらちら見合ったり、ずっと並び立っているせいで言葉を交わしていないのに妙にやわらいだ空気がお互いの間に流れだすのを感じたり。あるいは、これまたなにげに入った駅中の小さくてリーズナブルな天丼屋なんかのカウンターで隣の席になった人と、天丼が出来上がってくるまでの手持無沙汰の状態で隣り合っていて、お冷のピッチャーがその隣の人の側にあって、「すいません」なんて言いながらその人の前を横切る形で手を伸ばすと、向こうも気にしてくれてピッチャーを手にして「どうぞ」なんてこちらへよこしてくれたり、それでひととき二人の間の空気が和んだり。そんな、人生においての、お互いにすぐに忘れてしまうのだけど、でもなんてことはないのだしほんのちょっぴりだったとしても確実に差し合っていた瞬間ってありますが、こういうのはさきほど書いた、本書における「瞬間的な人生の交差」の類いだなあと思ったりするのでした。本書のそれぞれの短いエピソードにはもうその一瞬に密度があって、読み手との間にはたしかにその共有の時間が訪れます。それでも、投稿された文章を通じて出合った書き手と読み手とは、すぐに別れわかれになってもう二度と会えない、と感じるそれが、「瞬間的な人生の交差」の類いとちょっと似ているように思えたのです。

世の中って、そういった恋の経験を秘めたみんなが普段は何食わぬ顔で歩いているんですよね。あるいは、秘め過ぎてもう忘れてしまった、なんていう時期にある方もいらっしゃるでしょう。でも、本書のような本を読むと、恋から遠ざかった人でも、ときどきでいいから自分の思い出を引っ張り出してみたり、他人の恋バナを聞いてみたりするのって、「自分っていったいどんな存在なんだろう?」という答えのでてこないような問いに打倒されずにいられるようになる気がするんです。競争だ、と負けん気を出したり、背伸びしたり、虚勢を張ったりしてみんな生きていますけれども、ふと自分がフラットになったとき、何もないな、と思うのは目くらましにかかっているんです、きっと。何もないなじゃなくて、恋の記憶がまだ生きいきとしていることに気づけたりすると、ダウナーになりがちなフラットな状態でも、うきうきしたり、小恥ずかしさにニヤけたりなど、自分の内側で活動したがっているなにかが確かにあることを発見するんじゃないでしょうか。それって人生をより楽しくしそうですし、みんながそうならば世の中ももうちょっと楽しくなりそう。もちろん、フラットな状態でダウナーじゃない人だってたくさんいらっしゃるでしょう。そういう人は素晴らしい。いつも恋してたりするのかもしれません。

というようなことを思い浮かべた読書になりました。本書独特の読書体験でした。



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