Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『一九八四年』

2022-08-21 20:56:44 | 読書。
読書。
『一九八四年』 ジョージ・オーウェル 高橋和久 訳
を読んだ。

1949年発表の、1984年を舞台とした近未来全体主義世界の物語。文学性と、色の濃い政治性が融合した、近未来ディストピア小説だと言えるでしょう。

ビッグ・ブラザーをトップとした監視社会。テレスクリーンと呼ばれる、今でいうインタラクティブなテレビ的機械装置や隠しマイク、隠し監視カメラ、密告などのスパイ行為などによって、そのがんじがらめの監視社会が成立させられている。また、歴史はつぶさに修正され、自国や権力を握っている「党」、そしてビッグ・ブラザーはつねに正しい存在だとされる。たとえば配給のチョコレートの量が減っているのに、過去の配給量をごまかして広報してこれだけ増えたと偽の情報にすり替えてしまう。そして、世界は三つの国の戦争状態にあるとされながら、その戦況はコントロールされたニュースによるもので、実際に戦争しているのかどうかすらわからない。町にロケット弾が飛んできて死者が出ても、それは自国・オセアニアによる自演の行為かもしれなかったりする。そうやって事実は隠されていて、権力を握る「党の上層部の人々」以外は知る由もない。

そんな世界で、党の下層部の人間として真理省で過去の修正や捏造をして働くウィンストン・スミスという中年の男が主人公です。彼が感じる、世界への不信や違和感が乗じてきたときに、ジュリアという若く魅力的な女性と出会うことになり、そこから物語は大きく動き出します。以降は本書を実際に読むことに譲るとしましょう。

とはいっても、以下ネタバレを含みます。

中盤でウィンストンが、愛がどういうものかを知るシーケンスにぐっときました。愛の解釈の仕方に共鳴するんですよね、僕もそういうとらえ方をしていましたから。おもしろいながらもまどろっこしさを感じる作品ですけど、この部分の味わいが格別。心の内奥に愛はあるもので、そんな心の内奥などたとえ全体主義の「党」であっても攻め落とすことはできない、という考えがそれに続くのです。

しかしながら、この小説の怖さは、その先を行くものでした。全体主義の完成したような社会は、どこまでも人間個人を粉砕しにくるのです。どれだけの労力をかけてでも、心の奥の奥まで改変しに来る。様々な種類の暴力や恐怖を用いてです。まったく、容赦がない。

これは、警告でありながら、「全体主義というほんとうに手ごわい敵をよく知っておくべきだ」とする作者の意図があるでしょう。だから、いろいろ考えて行動しなさい、との著者の政治的働きかけを色濃く感じさせられるのです。いわゆる小説や文学といって思い浮かぶようなものだったら、いっときでも現実のつらさから離れていられますように、と著者がつくりあげた世界や展開に読者を現実から遠くへと飛び立たたせたり、物語自体に共感や寄り添いをさせたりといった副次的な効果があると思うのです(主要な効果は物語を味わい楽しむものだとしての、「副次的」効果です)。ですが、本作品は、読者を現実に立ち戻らせる物語。読者に、現実と格闘し自由や平和を守らせるための動機を与える物語という性質がありそうです。読後にただただ悲観して忘れていく人も多いでしょうが、何%かでもこの物語をあしがかりにする人たちがいることを、著者は願ったかもしれない。

そんな作品ですから、著者にたいして、きびしい鍛錬を日々こなしストイックに過ごしながら磨かれた鋼の肉体をメタファーとした知性といったイメージが眼下にうかんでくる。勝手な印象なのだけれど、そういった凄みと真剣みを隠すことなく執筆に注いだのだなぁと思えてくる出来映なのでした。

というところでちょっと脱線して、今の日本の社会に照らして考えてみると、下記のようになります。あーだこーだとあら探しをしたり揚げ足を取ったり、そうしてまで人を責めて人格を改変、支配しようとするというのは、『一九八四年』のような全体主義の世界だけではなく、たとえば会社の中、つまり職場上においてもあるものなのを忘れてはいけない(会社って、全体主義ぽいですよね、そう思うことってありませんか?)。責めを受け続けるなら、それは拷問のようなもので、果ては他人や会社などの都合の良いひとに作りかえられ、自分を失いうつろになってしまう。ある種の卑劣さをしょうがなく容認してしたたかさを身につけ、ある程度の他による攻撃からの回避ができるようになる術はあれど、それだって人格への影響でありちょっとした人格改変なのでした。変わること、変わらせられること。自分というものが変化する直前の選択に自分の意志があるのかないのか、そこに自律性があるときとないときで、心の裡に抱えるうつろさの多寡は違うのではないかなあ。

最後に、これは名言、とひざを打った一文を。

<一般に、理解力が深くなればなるほど、迷妄も深まるものだ。つまり、知的になればなるほど正気を失っていくのだ。> p330

ちょっとまどろっこしさはあれど、真剣勝負をすることになる読書体験になる作品です。


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何故、知恵や知識はかんたんにもっとシェアされないのか?

2022-08-14 22:32:04 | 考えの切れ端
これまで受けてきた学校教育によって、無料で得たという心積もりでたくさんの知識を蓄えて知的興奮を味わう経験してきますよね、勉強するのが好きな人たちというか、知的好奇心が強い人たちは。そしてそういった人たちが大人に近づき、世の中にはもっとたくさんの知識や理論、世知にいたるまでが広く存在しているだろうことを知る。人生の先輩たちは自分よりうまい方法を知っていて、どうやら得の仕方も知っているのを知ります。

それらの方法や知恵を無料で分け与えてくれないだなんて、世の中を発展させ、よりよくしていくんだっていうピュアな論理からすればおかしいじゃないか、教えてくれれば自分はうまく人生を成功させて、そのお返しだって他者へできるだけする、という考えを持つ人は珍しくないと思います。若いころには僕もそうだった。

義務教育や高等教育の延長戦、社会は次世代の人々を育てるべきものに決まってるんだ、という世界観。それはそれで、なぜ学校へいかないといけないのか、と考えれば出てくる視点で、いたってノーマルな答えだと僕は思う。知識や知恵、考える力を育む理由は世の中を先へ先へと進めていくためで、そのためにはもっと最先端の知恵や知識までをもシェアしてほしくもなるものでしょう。

人生の先輩たちはもうわかってる知恵や知識なのに、私たちへと学校のように教えてくれないなんてケチだ、と。出そろってる知識は隠さずに囲わずにシェアして当たり前じゃないか、じゃないと教育で教わるまでの範囲でぶちっときられてしまうみたいで、中途半端な教育を受けてきただけのように感じられる。実践へ足を踏みいれるにしては、手持ちのアイテムを少なく感じる。

知恵や知識をみんなシェアしてもらえたら、それらを土台にして社会を劇的にあたらしく拡張していくべきミッションにつくことができるし、全力でそのミッションにあたれる。それだけの道具・アイテムをケチらずにくれよ、という主張だ。これには、ピュアな善、なんて言いたくなります。

これはある意味で真っ当だし、ある意味で図々しい。なぜ図々しいかと言えば、資本主義の競争社会の仕組みに照らせば、自分だけの勝利を他者に飲ませるとも見られるから。つまり資本主義社会はクリーンじゃないからこそ、富の競争が成立しています(とはいえ、ルールはありますが)。

あと、知識や知恵をどんどん手に入れたいという欲求はまともでも、かんたんに手に入れてしまうと弊害があります。ある種の身体性のともなっていない知識や知恵は、害なんです。あたまでっかち、なんていうのはその一例です。

あたまでっかちくらいで済めばいいですが、身体性の薄い知恵や知識は砂上の楼閣で、それこそすぐに失敗せず、ある程度までうまく組み立てて行けたとしても最後には崩れてしまう。それも、失敗が遅ければ遅いほど被害が大きい。

というわけで、どうしても時間がかかるもの、時間をかけないといけないものはあるし、競争社会という世の中の仕組みに合わないからフリーでは得られにくい知識はあるということでした。若いうちにはみんなで繋がれば素晴らしい発展があるという理想を持つことがあり、知恵のシェアもその一つだと思う。みんなの力を合わせれば、すごいことをやれるのに! という思想ってありますよね。

まあ、そこに、もっといえば、人間心理ってまっさらなくらいに健全ではないし、健全じゃない度合いの相当に高い人だっているし、みんなが集まれば千差万別で多様な色合いを含んだ集団になる。力の合わせ方にも工夫が必要にもなる。少人数のグループなら、うまく稼働できるかもしれませんが、それだと、そのグループがあたまひとつ抜けるような成長をしたとき、そのグループによる寡占が起こったりする。それはそれで、初期衝動を生じさせた思想とは相いれない結果なのではないでしょうか。そうなったとき、「まあ、いいか」で済んでしまったりするんですけどね。

身体性と、そしてしたたかさ、これがどうやら世の中の発展の鍵なんじゃないかなあ、と僕は考えるところでした。
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『ソ連史』

2022-08-01 22:58:35 | 読書。
読書。
『ソ連史』 松戸清裕
を読んだ。

1922年・ソビエト連邦結成のその前夜から1991年の消滅まで。

労働者階級、つまり被搾取人民の解放のために革命は起こり、世界初の社会主義国家連邦が生まれました。それがソビエト連邦です。マルクス・レーニン主義のもと、資本主義を超えるものとしての社会主義からはじまって、貧困のない共産主義まで到達させようとするのがこの連邦の目的でした。しかしながら、ソ連結成まもなくから、食糧確保のためにまもなく農民の搾取がはじまるのです。目的のために手段を正当化するのが、権力(ちから)の強い側のやり方。こういった政治の強引なやり方は今も昔もよく行われることで、社会主義でも民主主義でもその主義にかかわらず、警察や軍隊までをもときの政体がそのしもべとして使うことは珍しくないと思います。露骨さの度合いの違いがあるだけで、どの国でもそういったことはあるのではないでしょうか。

話はソ連に戻りますが、マルクス・レーニン主義は、人民の自発性を重視し奨励する主義なのですけれども、それ自体は間違っていないのではないか。人民の意識の変化が大切だと考えるのは、僕だってそうです。権力がへたに人民の意識を洗脳していくわけじゃなくて、人民が自律的に自分の知的好奇心にしたがって自己の意識を育んでいく。そういうありかたが、よりよい社会を下からつくっていくことになっていきます。

でも、ソ連ではまずスターリンという独裁者が台頭してきます。スターリンの下、学問や芸術が政治に従属させられ中央集権化が強められていく。このことから現代社会への教訓とするのるのは、政治が最上位でゆるぎないという至上主義って、僕は社会の偏りが過ぎるのではないか、ということだと僕は考えます。学問や芸術は独立した分野として尊重されながら在ることが望ましい気がするんです。政治視点の一面的な価値観で考えるべきではないのではないか。

ただ第二次世界大戦において、スターリンはヒトラーのナチスドイツと正面から戦って、退けたのでした。これはとても大きなポイントです。いわゆる独ソ戦。国内深くまで攻め込まれ、苦しみながらも最後にはナチスドイツを撃退した。まず、ドイツと正面切って戦っていたのはソ連だけだったのでした。それが、ドイツ敗北に終わった戦後の世界での戦勝国・ソ連の発言権を強めることに繋がります。ソ連という社会主義国への世界からの見え方が輝いたものへと変わってくる。

第二次世界大戦での死者数は、ソ連がもっとも多いそうです。全体で5000万人とも言われる死者のうち、ソ連の死者は2600万人とも2700万人とも言われるそう。それが、ソ連の指導者たちに恐怖や不安を植え付けることになります。独ソ戦の経験によって、「完全にやっつけないとこっちがやられかねない!」と過去の経験からそれが「ありうる」と判断し、危惧する(これ、実は原理主義にもつながる話だと思うのです。「原理主義」って「理想主義かつ完璧主義のこと」ということです)。スターリンによる大粛清(百万人以上もの人たちが殺された大テロル)や独ソ戦後のソ連の対外的にも対内的にも厳しいやりかた、それらはどうやら、西側諸国への不信と恐怖からきている。

そんなスターリンは死後、フルシチョフらによって批判され、ソ連には揺り戻しがやってきます。人民は、ずっと引き締められてきましたから、弛めてくれる政策を望んだ。それをフルシチョフは読み取っていて、ゆるめていきます。そんな1950年代から1960年代までは、まだ貧しさがありながらも社会主義の行く先への民衆の期待感は強かったようです。でも、思うように発展しない経済状況があり、しばしの安定から停滞の時期を経て、人々の期待感は失望へと変わり、労働意欲の低下、規律や秩序の乱れにつながっていきます。

迎えた80年代。本書終盤にあたります。ソ連解体前、ゴルバチョフの時代の彼のやり方はとてもシンプルでピュアな感じがしました。(こういう古いやり方を刷新する感じが「新しくて正しい」とするテーゼとして、当時成長期だった僕の内部にそっと根を張って今にいたるような気がします。そういう時代の空気を十分すぎるほどに吸って育ったのではないかと)

ゴルバチョフのやりかたは、どろどろした政治はもうやめよう、というようなやり方のように感じるのです。政治力の使い方も、いわゆる政治力然としたものとは違うような感覚。強権的な支配、利己性などを志向していないかのよう。志向性がいわゆる政治家のそれと違うから、あれだけの思い切った舵取りを試みられたのでしょう。ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(マスコミの存在を重くみる、情報公開の政策)、世界平和の新思考外交がゴルバチョフ時代の特徴です。

ゴルバチョフは権力をクリーンでクリアに使おうとしたようにさえ本書からは見受けられます。そのスタンスは、甘いといえば甘く、拙いといえば拙く、若いといえば若いのではないか。だけれど、そのドラスティックさに、油っこさを(あまり)感じません。ちょっと話が飛んだようになりますけども、ゴルバチョフ氏は既成の宗教の枠外にあるような神の存在を考えていた人なんじゃないかと思うんです。そういう人のやり方だからこそのような気がします。

さて、あとは読みながら感じたことを列記して終わります。

・まずソ連がそうだったけれども、社会主義国家や共産主義国家を称する国々は、人民の幸福のために国を発展させていくとの目標がたんなる張りぼての看板にすぎず、実際は軍事国家に転じていきがちではないだろうか。

・ロシアは伝統的に強いリーダーを求めるそうです。強権的なリーダーを好む国民性。また、政府や機関誌などにも投書をよくする国民性で、そこに批判や意見や陳情などが多く寄せられていて、政治に役立てたり、訴えを受け入れて願いをかなえたりするシステムが成立しているそうです。これはソ連に限らず、日本でもあることです。

・本書を読むと、社会主義の実験場・パイオニアとしてのソ連の格闘の盛衰をざっくり知ることができました。そのうえで思うのが、北欧の社会民主主義の国々は、おそらくソ連の失敗を細かく分析してよく勉強したうえで政治をしているのだろうなあということでした。具体的にどうこうとはちょっと言えない程度のふんわりした感想ではあるのですが、これまで読んできた本や記事などの記憶からそう感じるのでした。

以上、ソ連を知ることは、ロシアの背景を知ることにもつながります。また、他山の石として日本を振り返って客観的に考えたり、他国と比べてみたりなどするためのひとつのものさしを手に入れることにもなります。実際、こうやって苦労したりがんばったりしてたんだなあ、と想像しながら読むとおもしろかったです。学生時代、決められた時間に決められた進み方で決められた歴史の部分を他律的に勉強させられ、覚えることを強要されて歴史はもういいや、となりましたが、こうやって好んで一冊読んでみると、味わいがあって歴史も悪くない、という気持ちになりました。


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