エンタメ短篇の新人賞が無くなったことを受けて、エンタメ長篇を書くか純文学短篇~中篇を書くかどちらにしようか考えていました。新人賞を目指すにはそのどちらかになりますから。それで、エンタメか純文学かの方向性のどちらを選ぶかのほうについて言えば、そこについては自分の中でそれほどネックになるものはないことに気付きました。
でもまあ、言ったら、エンタメのほうが裾野が広いですし、多くの人に楽しんでもらったりちょっとしたシンプルな気付きを読む人たちにもたらすことができたりできるのだと思いますので、好きなのはエンタメのほうかもしれない。肩の凝らない読書、ハッピーな読書、カタルシスを得られる落涙の読書などの時間をつくれる仕事には大きな魅力があります。執筆の能力的にどうかっていうこと以前に、ということですが。
ですが、書きあげる原稿の分量に問題があります。僕は執筆環境に適さない家庭環境にあるので、書くときはあいまを見てなんとか書いているのですけれども、小説は、こういったブログの文章よりもずっと神経や集中力を使いますし、できれば二時間くらいまとまった時間のなかで書いていきたいのです(構想や頭に浮かんでいるものを十分にアウトプットするためには、少なくとも僕にはある程度のまとまった時間が必要になる)。また、今日は時間があったから精一杯書けそうだ、というときもあることにはあるのですが、それで出し尽くしてしまうと、翌日に家庭の事情で労力も精神力もかなり必要になる事態になったときに対応できなくなるので、余力を残しておかないとならない。
それらを鑑みて、純文学の短編から中編の執筆を選択することにしました。しかしながら、純文学といえるものを書けたことがあるかというと、無い。ただ、純文学とくくられる作家の作品はそれなりに好んで読んできました。まったくのゼロ、ということではない。
それで、構想段階で約120枚の仕上がりが予想されるものの執筆にとりかかりました。で、20枚まで行ったところで、これだと今まで書いてきたものとそれほど変わり映えがしない出来あがりになるような気がしてきたんです。それはそれで、読者対象が広い作品に仕上がるということですし、読みやすさだってある程度キープされることにもなっている。でも、純文学ってどうとらえられているものだったか? と自分に問うたときに、ちょっと立ち止まった方がいいなと思い、それまでの原稿を中断しました。
そんな時期に、とあるニュースサイトである芥川賞作家の方のインタビューを読んだのです。いつの間にか小説のステレオタイプというか、型、枠、みたいなものの重力に自然とひっぱられるような執筆になっている気が僕にはちょっとしていて(それが知らず身についた僕のひとつの癖なのかもしれません)、それと似たようなことをこの作家は言ってらっしゃった。それを突き破ったのは特訓だ、と続いていて、それだなと僕もならってみることにしたんです。
といえど、やってみるとなかなかその作家のようにはいかない。一日一本書くのをある程度の期間やるのが理想でも、構想段階で30枚とかになり、一日で終わらない。それでも、これは応募するためのものではないしと思うと構えずにいられて、すらすらと新しい言葉が出てきました。はじめての「特訓」と決めたものはしっかり最初から最後までプロットを決めてとりかかりました。
で、最初の5枚くらいの段階から、そのプロットの枠を暴れ回ったりはみだしたりする書き方になった。こういう場合、その後のまとまりを欠くのではないか、という危惧が生まれますが、練習だからと思うと破綻してもいいからやってみようと書き続けることになっていく。
そうしたやり方をして、33枚で2週間弱かかりました。構想段階をいれると3週間弱。まあ、体調を崩して寝こんでいた日も二日間ありましたし、実は今も体調が戻っていないです。
今回取り組んだことで得た気付きは、書きあげたものから教えられるということ。初稿を読みかえして教えられて、それで第二稿へとフィードバックをして、さらに読みかえして教えられて次の稿へフィードバックしていく。この短い小説を完成させたことで、そういう効果的なプロセスの踏み方を学べました。
肝心の、出来あがった小説はどうだったかというと、練習だったからと眠らせておかなくてもいいのではないか、と思えた出来です。なので、純文学の新潮新人賞へ応募しました。33枚程度では分が悪そうですが、作りはしっかりしています。ですが、万人向けでもないし、それどころかごく少数向けの作品にしあがっている気はします。読者の対象に関していえば、ほとんど考えられていません。そして読者の裾野を広げるためのサービスはありません。表現と技術、重心をかけたのはそういったところだったかなと思います。
僕としては新しいものが拓けた満足感があります。あとは体調を戻すだけ……。
というところです。
最後に、読書記事のほうが滞っています。上下巻組の本に手を出してしまったので長くかかっているのでした。でも、今月中にはその作品を紹介できると思いますので、お待ちくださいませ。
でもまあ、言ったら、エンタメのほうが裾野が広いですし、多くの人に楽しんでもらったりちょっとしたシンプルな気付きを読む人たちにもたらすことができたりできるのだと思いますので、好きなのはエンタメのほうかもしれない。肩の凝らない読書、ハッピーな読書、カタルシスを得られる落涙の読書などの時間をつくれる仕事には大きな魅力があります。執筆の能力的にどうかっていうこと以前に、ということですが。
ですが、書きあげる原稿の分量に問題があります。僕は執筆環境に適さない家庭環境にあるので、書くときはあいまを見てなんとか書いているのですけれども、小説は、こういったブログの文章よりもずっと神経や集中力を使いますし、できれば二時間くらいまとまった時間のなかで書いていきたいのです(構想や頭に浮かんでいるものを十分にアウトプットするためには、少なくとも僕にはある程度のまとまった時間が必要になる)。また、今日は時間があったから精一杯書けそうだ、というときもあることにはあるのですが、それで出し尽くしてしまうと、翌日に家庭の事情で労力も精神力もかなり必要になる事態になったときに対応できなくなるので、余力を残しておかないとならない。
それらを鑑みて、純文学の短編から中編の執筆を選択することにしました。しかしながら、純文学といえるものを書けたことがあるかというと、無い。ただ、純文学とくくられる作家の作品はそれなりに好んで読んできました。まったくのゼロ、ということではない。
それで、構想段階で約120枚の仕上がりが予想されるものの執筆にとりかかりました。で、20枚まで行ったところで、これだと今まで書いてきたものとそれほど変わり映えがしない出来あがりになるような気がしてきたんです。それはそれで、読者対象が広い作品に仕上がるということですし、読みやすさだってある程度キープされることにもなっている。でも、純文学ってどうとらえられているものだったか? と自分に問うたときに、ちょっと立ち止まった方がいいなと思い、それまでの原稿を中断しました。
そんな時期に、とあるニュースサイトである芥川賞作家の方のインタビューを読んだのです。いつの間にか小説のステレオタイプというか、型、枠、みたいなものの重力に自然とひっぱられるような執筆になっている気が僕にはちょっとしていて(それが知らず身についた僕のひとつの癖なのかもしれません)、それと似たようなことをこの作家は言ってらっしゃった。それを突き破ったのは特訓だ、と続いていて、それだなと僕もならってみることにしたんです。
といえど、やってみるとなかなかその作家のようにはいかない。一日一本書くのをある程度の期間やるのが理想でも、構想段階で30枚とかになり、一日で終わらない。それでも、これは応募するためのものではないしと思うと構えずにいられて、すらすらと新しい言葉が出てきました。はじめての「特訓」と決めたものはしっかり最初から最後までプロットを決めてとりかかりました。
で、最初の5枚くらいの段階から、そのプロットの枠を暴れ回ったりはみだしたりする書き方になった。こういう場合、その後のまとまりを欠くのではないか、という危惧が生まれますが、練習だからと思うと破綻してもいいからやってみようと書き続けることになっていく。
そうしたやり方をして、33枚で2週間弱かかりました。構想段階をいれると3週間弱。まあ、体調を崩して寝こんでいた日も二日間ありましたし、実は今も体調が戻っていないです。
今回取り組んだことで得た気付きは、書きあげたものから教えられるということ。初稿を読みかえして教えられて、それで第二稿へとフィードバックをして、さらに読みかえして教えられて次の稿へフィードバックしていく。この短い小説を完成させたことで、そういう効果的なプロセスの踏み方を学べました。
肝心の、出来あがった小説はどうだったかというと、練習だったからと眠らせておかなくてもいいのではないか、と思えた出来です。なので、純文学の新潮新人賞へ応募しました。33枚程度では分が悪そうですが、作りはしっかりしています。ですが、万人向けでもないし、それどころかごく少数向けの作品にしあがっている気はします。読者の対象に関していえば、ほとんど考えられていません。そして読者の裾野を広げるためのサービスはありません。表現と技術、重心をかけたのはそういったところだったかなと思います。
僕としては新しいものが拓けた満足感があります。あとは体調を戻すだけ……。
というところです。
最後に、読書記事のほうが滞っています。上下巻組の本に手を出してしまったので長くかかっているのでした。でも、今月中にはその作品を紹介できると思いますので、お待ちくださいませ。