Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『日向撮 VOL.01』

2024-12-30 10:45:41 | 読書。
読書。
『日向撮 VOL.01』 日向坂46
を読んだ。

2021年4月発刊の、日向坂46メンバーみんなによる日向坂46の写真集。気の知れた仲間同士だからこその、わちゃわちゃ感のあるショットや楽しくふざけているショット、隙を捉えたショットなどが盛りだくさんでした。

日向坂46といえばハッピーを生み出すことをモットーとしたアイドルグループですが、彼女たち自身のあたかかな楽しさに満ちた幸福感が本書のページからあふれ出してくるような写真集になっていました。眺めているだけなのに、彼女たちのエネルギーに押され気味になるくらいです。また、メンバーみなさんの個が立っていますから、どのメンバーのショットにも惹きつけられるのでした。

僕は小坂菜緒さんや山口陽世さん、加藤史帆さんや上村ひなのさんたち、名前をだしていくとどんどん出てきてしまいますけれども、まあ「推し」たいメンバーさんたちがいるわけで。でも、日向坂にぐっと注目したのはここ一年ほどですから、知らない時代の彼女たちの輝いているさまを初めて新鮮な気持ちに見られるというのが、なかなかにうれしかったりするのです。そしてそれとともに、この時代からも注目して応援したかったな、という想いも生まれてくる。もう卒業されたメンバーが何人もいらっしゃいますから、そういう意味合いもあります。

さて、そんな卒業メンバーの宮田愛萌さんがホワイトボードに上田秋成の名前を書き込んでいるショットがあって、それには只者ではない感じがすごくしましたね。上田秋成は江戸時代に『雨月物語』を書いた人ですけど、僕も興味がありながら積読なんですよ。宮田さんはたしか日向坂卒業後に小説を何冊か出されています。ちょっと気になってきます。

また、#055のショット。三期生・髙橋未来虹ちゃんをかわいく撮った上村ひなのちゃんのコメントが、「未来虹ちゃんが椅子の間から顔を出して、カメラをじっと見ていました」なのがギャップコメントで、けっこうシュールでツボにハマってしまいました。

というように、前述のようにみなさん個が立っている人たちですし、自分のペースやリズムを持ちつつ仕事をされているその楽屋やレッスンの風景が多いので、キャラの立った人間味のある写真、それも若い女子たちの活気ある写真が、僕には「とっても楽しいなあ」とずっと感じ続けながら読み終えました。

こさかなこと小坂菜緒さんが、メンバーにくっついたりする甘えん坊キャラなところがあるのがイメージとして部分的にピッタリくるところもあったり、今までよりもより彼女たちのイメージがくっきりしたような気がします。

それよか、ほっこりでした。平和な中でたのしく活気あるさまは、眺めている人にも元気をもたらすものなんですねー。




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『「利他」とは何か』

2024-12-29 11:20:41 | 読書。
読書。
『「利他」とは何か』 伊藤亜紗 編 中島岳志 若松英輔 國分功一郎 磯崎憲一郎
を読んだ。

東京工業大学のなかにある人文社会系の研究拠点「未来の人類研究センター」に集まった研究者のうち、「利他プロジェクト」の5人のメンバーでそれぞれ<「利他」とは何か>について執筆したものをまとめたものが本書です。発刊は2021年。

「利他」といえば、「利己」の反対の行為で、つまり自分の利益を考えて振舞うのではなくて、他者の利益になるように助けてあげること、力になってあげることとすぐにわかるじゃないか、とせっかちにも僕なんかはすぐに答えを出してしまったりするのですが、本書を読んでみると、一言に「利他」といっても、たとえばそこに「利己」が裏面にべったりとひっついていることがわかってきて、かなり難しいのです。

そりゃあそうなんです。利他、とか、善、とか、すごく簡単であれば、とっくのとうにみんながそれを行っている世界が実現しているでしょう。それだけ、人間の表面的な欲望よりも、裏面的な欲望、それは自己顕示欲だったり承認欲だったり、見返りが欲しい欲求だったり、権力欲や支配欲だったりなどするものが、強烈に人間の根幹を成してもいるからなのかもしれません。だからといって諦めるのではなく、客観視することで自覚が芽生えるものでもありますから、善の押し付けで他者の迷惑になることなどをできるだけ防ぐため、こうした研究は役に立つかもしれません。また、すぐに役に立たなかったとしても、深い意味を宿した人間考察の記録としての面がありますから、知的好奇心を持つ人達らにこれから考えの続きを委ねることができるかもしれません。

それぞれの執筆者が「利他」について掴んでいるものは、言葉にしづらい抽象的で透明なといってもいいような概念でした。そんな概念を、研究者たちは言葉でなんとか表現しようと力を尽くしているようなところがありました。「利他」のあるべき姿を表現するのは、ストレートにはできないことのようです。なので、読者として受け取るときも、彼らが言葉で端的に表現できてはいないことをわかって、それでもなお、彼らが書き記した数々の言葉をいくつかの点とし、それらを読者が線で結び合わせて考えてみることが大切になります。そうやって見えてきた、まるで星座のようなものが「利他」、というふうになります。そんな星座のような「利他」座から、具体的な像まで想い浮かべることができたなら、その人の精神性が一皮むけるものなのかもしれない。

では中身にも入っていきますが、まず始めのほうで地球環境の問題も利他に関係するものとして触れられるのですが、「わあ!」と驚くようなトピックが語られていました。それは、アメリカ人の平均的な生活を世界のすべての人がするとしたら、必要な資源を確保するのに地球が五個必要だといわれているらしい、というところでした。こんなの普通だな、と思っている生活も、かなりの贅沢をしているんですねえ。僕らが様々な不満を持つ不公平な「社会」は、もっと大きな「世界」に包まれていますが、そもそもその「世界」自体においても不公平な構造をしている。強者と弱者の構造を当たり前のものとするならば、アメリカ人の生活、もっと広く言うと先進国の生活の何が悪い、ということになるますけれども、弱者をつくることで自分が強者となって快楽に溺れたり、贅沢をしたりするのってどうだろう、とも思える人も多いのではないでしょうか。強い者が弱い者を攻撃したりいじめたりするのって卑怯ですが、それを、卑怯っていうほどじゃないでしょ、というふうに詭弁と心理術で倒錯させてしまうその原動力がお金の影響を受けた人間心理なのかなあと思ったりもします。

では次のトピックへ。ブッダが、アートマンの否定というのをやった、と書かれています。アートマンは絶対的な自我のことで、ヒンドゥー教では、ブラフマンすなわち宇宙と本質的に同一のものとされていたそうです。で、ブッダは、絶対的な自己は存在しないと考え抜いたそうなんです。我はどこまで追求しても存在しない。これはブッダの開いた仏教でとても重要なところだそうです。ここは中島岳志さんの執筆部分にあったところでした。この、自我があると考えるか、無いと考えるかは、「利他」行為をするうえで、重要なポイントになるでしょう。

ここにつながるような部分を、伊藤亜紗さん執筆の章から引用します。
__________

「自分の行為の結果はコントロールできない」とは、別の言い方をすれば、「見返りは期待できない」ということです。「自分がこれをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」という押しつけが始まるとき、人は利他を自己犠牲ととらえており、その見返りを相手に求めていることになります。
私たちのなかにもつい芽生えてしまいがちな、見返りを求める心。先述のハリファックスは、警鐘を鳴らします。「自分自身を、他者を助け問題を解決する救済者と見なすと、気づかぬうちに権力志向、うぬぼれ、自己陶酔へと傾きかねません」。(p51-52)
__________

→ただまあ、自己犠牲とは見返りを求めない無償の行為なのではないのかな、という自己犠牲の定義に関わるところで考えてしまいもするのですけれど、それはまず置いておいて。自我があると考える向きが強ければ、自分がしてやっている、という意識が働くでしょう。「自分がやってあげている」という思いで、利他をするでしょう。そうすると、行為者としての感覚が、「自分自身を、他者を助け問題を解決する救済者と見なすと、」につながるような気がしてきます。となれば、「気づかぬうちに権力志向、うぬぼれ、自己陶酔へと傾きかねません」になっていくので、それはそれで、認知の歪みを呼ぶような性格の変容になってしまう。善いこと(善いだろうと自分が判断したこと)をしたがために、自分のパーソナリティによくない変化がもたらされてしまうのは、誰でも心外ですよね。



なかなかまとめきれないのであきらめることにして、ここからは引用をしていきます。

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「10時までに全員入浴」という計画を立てたとします。けれども、それを実行することを優先してしまうと、それがまるで「納期」のようになってしまって、お年寄りを物のように扱うことになる。お年寄りは、そんなビジネスの世界では生きていけません。計画を立てないわけではないけれど、計画どおりにいかないことにヒントがあるのだと村瀬さんは言います。

とくに「ぼけ」のあるお年寄りはこちらの計画に全く乗ってくださらないし、それを真面目に乗せようとすればするほど、非常に強い抗いを受けます。その抗いが、僕たち支援する側と対等な形で決着すればいいのですが、最終的には僕らが勝ってしまう。下手をするとお年寄りの人格が崩壊するようなことになります。だから計画倒れをどこか喜ぶところがないと。計画が倒れたときに本人が一番イキイキしていることがあるんです。――――伊藤亜紗、村瀬孝生「ぼけと利他Ⅰ」、「みんなのミシマガジン」2020年8月13日 (『「利他」とは何か』p56-57)
__________

→物扱いか、人間扱いか。介護現場に限らず一般社会でも、もっと人間扱いのふるまいやそういった気持ちの持ちようがつよくなるといいなあと思います。



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たとえばどうしても問題行動を繰り返してしまう人がいる。その人に対し「なぜこんなことをしたのか」と叱責するのでも、専門家がその人を診断して病名を与えるのでもなく、問題行動を起こした本人が自分について研究するのが当事者研究です。そして当事者研究においては、「外在化」といって行動を一度単なる現象としてとらえることが重要だと言われています。それはつまり、行動を神的因果性においてとらえるということです。
神的因果性においてとらえるということは、その人を免責することです。つまり自分がやってしまった問題行動をひとつの現象として客観的に研究するのです。そうすると、不思議なことに、次第にその人が自分の行動の責任を引き受けられるようになるのです。つまり一度、神的因果性において行為をとらえることで、人間的因果性への視線が生まれるわけです。(p173-174)
__________

→当事者研究という言葉を目にすることがありますが、こういう効果があるのだな、とわかる部分でした。でも、問題行動のある人が他責思考でいる場合はどうなんだろう、という気がしました。自分に責任はないとするところで神的因果性に近いですが、責任を他者という人間に背負わせている時点でまたメカニズムが変わっているのではないでしょうか。他責思考の人ってけっこういますし、自分もなにかの局面で責任逃れを反射的にやってしまって他人にかぶせるみたいなことは、とくに若い頃にやってしまったことがあります。そういうタイプの人は、どうやって神的因果性に向かわせるといいのでしょうねえ。



といったところなんですが、内容がなかなか難しかったうえに、何度も小休止を挟んでちまちま読んでしまったので、どこか誤読しているような感覚が強くあるんです、あるんですが、まあしょうがない。あしからず、ということで。




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『猫を棄てる 父親について語るとき』

2024-12-28 11:26:54 | 読書。
読書。
『猫を棄てる 父親について語るとき』 村上春樹 絵・高妍
を読んだ。

作家・村上春樹さんが、お父様が亡くなったことをきっかけに、自分の父親について、そして村上さんとの関係性について、時代背景である戦争について、実際に書きはじめてみることで考えを深めていったエッセイです。台湾出身の高妍さんが担当された表紙と挿絵は、なんだかぼんやりとした思索を静かに呼ぶような絵でした。

村上千秋さんという人が春樹さんのお父様で、京都のお寺・安養寺の次男として誕生します。安養寺の住職が村上さんの祖父ですが、もともとは農家の子だったのが、修行僧として各寺で修業を積み、秀でたところがあったらしく住職として安養寺を引き受けることになったようです。

僕は読む作家を血筋で選ぶことはないので(多くの人もそうだと思います)、作家と言えば全般的に、無から生まれた有に近いようなイメージで受け止めているところがありまして(もちろんそうではない方もいらっしゃいますが)、本書のように村上春樹さんのルーツが具体化していくと、また違った世界が開けたかのような、宙ぶらりんだと思っていたものが地面に根を張っていたことに気付かされたような現実的な感覚を覚えました。やっぱり過去ってあるんだ、という至極当たり前なことを知らしめられた驚きみたいなものでしょうか。

さて。やっぱり千秋さんは徴兵されているんです。それも3度も。戦争から生き残ることも数奇な運命を辿ってのことでしょうし、運命の気まぐれのように通常よりもずっと短い期間で除隊されることも、のちに生まれる子孫のことを考えれば、紙一重みたいな運命の揺れを感じます。春樹さん自身、次のように書いています。

__________

そしてこうした文章を書けば書くほど、それを読み返せば読み返すほど、自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚に襲われることになる。手を宙にかざしてみると、向こう側が微かに透けて見えるような気がしてくるほどだ。(p107)
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自分が誕生したというその出来事は、ほんとうに偶然であって、ちょっとした加減でそれは実現していないもののような、吹けば飛ぶような「事実」であると感じられる。これは、村上春樹さんだけの話ではなく、万人がすべてそうですよね。微妙で繊細な、1mmほどの運の加減で、僕らはそれぞれ、幸か不幸かこの世界に誕生している。そういった大きな運命観を感じさせられる箇所でした。



それでは、再び引用をふたつほどして終わります。

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いずれにせよその父の回想は、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈に焼き付けられることになった。ひとつの情景として、更に言うならひとつの疑似体験として。言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを――現代の用語を借りればトラウマを――息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繋がりというのはそういうものだし、また歴史というのもそういうものなのだ。その本質は<引き継ぎ>という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう?(p62-63)
__________

→ここで言われていることを家族の間でいえば、「世代間連鎖」にあたるでしょうし、歴史という大きなものにも当てはまることとしては「連続性」にあたるでしょう。これらは、ある意味でフラクタル的(全体と部分がおなじ形になる)なのだな、というイメージが上記の引用から浮かぶと思います。なんであれ、人の営み上、負の要素も正の要素も、引き継いで僕たちは生きています。たとえば「世代間連鎖」の暴力なんかは、それを止めるのがとても難しい。でもきっと、<引き継ぎ>にはその度合いがあると思うのです。どこまで深く受容して引き継げるか、自覚的であることができるか、そういった姿勢が、<引き継ぎ>によって自らが侵食されコントロールを失う状態に陥らないためにはやったほうがいいのだろうな、と僕は考えていたりします。




__________

父の頭が実際にどれくらい良かったか、僕にはわからない。そのときもわからなかったし、今でもわからない。というか、そういうものごとにとくに関心もない。たぶん僕のような職業の人間にとって、人の頭が良いか悪いかというのは、さして大事な問題ではないからだろう。そこでは頭の良さよりはむしろ、心の自由な動き、勘の鋭さのようなものの方が重用される。だから、「頭の良し悪し」といった価値基準の軸で人を測ることは――少なくとも僕の場合――ほとんどない。(p68)
__________

→お父様は京大の大学院までいって、家庭の事情で中退されたそうです。それはさておき、ここで春樹さんがどういう価値判断をする人かが見えています。たしかに、小説を書くのに心の自由な動きがままならなかったら、説明だらけの小説になってしまいそうな気がします。勘の鋭さのようなものも、ストーリーの要となるものがどこにあるのか、それがそれまでに書いた中で後につながる要素としてもう書かれていることに気付くことができるか、みたいなことはあると思います。それとは別に、頭の良し悪しで人を判断しないという職業的性質が、他者を見る目として柔らかな目となって機能すると思えるのですが、それって、人をモノ扱いせずちゃんと人間扱いする目でしょうから、こういったところはみんなが養えるように学校教育に組み込めばいいのに、なんて考えたりしました。創作の授業をやったらどうか、ということです。


というところでした。100ページちょっとの分量の、淡々とした短いエッセイです。でも、村上春樹さんの作品をたくさん読んできましたから、知らずにできあがっている心の中の「村上さん領域」を埋めるパーツがひとつ手に入ったような感触のある読書体験になりました。こうやって最後になってからやっといいますが、「猫を棄てる」エピソードが、些細な微笑ましさを含んでいて、それが小さなちいさな救いになっていると思いました。




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『心の野球 超効率的努力のススメ』

2024-12-27 11:17:38 | 読書。
読書。
『心の野球 超効率的努力のススメ』 桑田真澄
を読んだ。

高校時代はPL学園で甲子園で大活躍をし、プロ野球選手になると読売ジャイアンツで長年エースとして実績を残し、最後はメジャーリーグに挑戦しパイレーツでユニホームを脱いだ野球人、桑田真澄さん。彼が2010年に出版した自らの野球哲学、ひいては人生哲学の本が文庫化されたものが本書です。彼がずっと背負い続けた背番号「18」と合致する、全18章仕立てでした。

桑田さんといえば、天賦の才能を持った選手という印象と共に、日々一歩一歩、確実に向上していく選手というイメージもある方でした。努力を積み重ねていくことを愚直に体現した人、といってまったく間違いにはならないでしょう。他方、プロとして駆け出しのころには、不動産で騙されて多くの借金を背負ったり、先発投手情報をよそに流して野球賭博関連に関与したという偽記事の被害に遭ったり、メンタル面で追いつめられた時期を過ごされている。遠征先の札幌で、自殺を考えたこともあった、と本書では述べられていて、その心理状況がそのままのかたちで説明されていたりします。

さて、そんな桑田さんですが、「努力は楽しまなければならない」と本書の始めの方でまず述べています。彼は表の努力と裏の努力の双方が大切だといいます。表の努力は技術や体力などを向上させるための選手としての努力。裏の努力はトイレ掃除や草むしりなどの仕事を人の見てないところでしっかりやる努力。裏の努力は運やツキ、縁をもたらすと経験から述べているのです。

努力は量より質だし、努力と休養を「いい加減(「not 適当」であり、「よい塩梅」という意味のほう)」でやっていくのが身になる、と。努力の質の面では、毎日短時間でもコツコツ続けていくことを桑田さんはやってきて、超合理的かつ超効率的だと自ら評価していました。

桑田さんの言う、裏の努力、徳を積むことが自分に運や縁をもたらすことは僕にもわかります。余談ではありますが、以前、財布の中に3000円しかない状態でしばらく過ごさなきゃならない時期に、募金運動中の集団を見つけたんです。そのとき自分から歩み寄って100円だったけれども募金箱に入れました。赤い羽根をくれそうになったのだけど、少額だし断って帰宅しました。そしてその後……。二週間ほどで、30万円近く手に入れていた。まあ、競馬だとかのあぶく銭ではあるのだけれど、桑田さんのいう裏の努力や徳を積むことの跳ね返りを考えると、もしかするとこれ、僕のケースにも当てはまっているのではないかなあ、と思ったのでした。

閑話休題。次のトピックに移ります。

メリハリのある生活、生活のなかにリズムを持つこと。それらを桑田真澄さんが著書で「こういうのいいんだよ?」というふうに記されているのですが、想像してみるとすごく合点がいきます。朝6時に起きると決めたならば、なにがなんでもそれを守ることも説かれていて、こういうことでメンタルが強くなるから、とあり、それも納得がいきます。僕個人の場合ですと、介護をしていて大変なのって自分のリズムを被介護者に合わせるために崩れていくことですし、「朝6時に起きる」と決めても夜中に介護しなきゃいけなくて睡眠不足に陥り、「朝6時に起きる」が守れないことが起こる。決めたことを守ることでメンタルが強くなるのと反対に、守れないことでメンタルが削れて弱くなるのかもしれなくて、少しずつ疲れていって、しんどさは増していくのです。自分で決めた規律をひとつでも守れてリズムのある部分を作ることは、メンタル保護の観点からも大切かもしれないです。

あと、驚いたのが、PL学園からスカウトがきて、進学を決めたときの話。桑田さんには他校からもわんさか誘いが来ていて、なかには、桑田さんがウチに来てくれるのならば、他の野球部員もまとめてうちに進学してもらう、というものがあったそうです。でも、桑田さんはPLと決めていた。そこを担任の先生が、他の生徒もまとめて入れてくれるというのだから、他校の方にしろ、と勧めました。桑田さんが断ると、「友達を裏切って自分のわがままでPLに行くという薄情者」という烙印を押されてしまい、中学校にいられなくなって、三学期は転校を余儀なくされたとのこと。これはひどい話だなあと思いました。時代精神でしょうね、自分が他者の犠牲になるのでなければ許されないとされてしまう。主張してはいけない、自分の人生であっても人に譲らなければいけない、そういった考え方が当たり前のものとして多くの人が内面化していたんだと思います。僕も自分のメンタリティーを考えてみると、そういったところをよく気にするところがありますし、昔の時代の名残なんだろうな、と感じさせられました。



それでは、ここからは引用を。


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完璧を求める思いと心の平和は水と油だ。現状よりいいものばかりを求めていると、不満のみが増殖されていく。現状に満足し、感謝し、人生を楽しむ。完璧ばかり追い求めなければ、人生はそれ自体で完璧なのだ。(p85)
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→言い得てます。完璧を求めるというのはつまり理想主義のことです。そこで現実にきちんと目を向けてみると、実はそこに完璧さが見いだされるという、法話のような哲学だと思いました。



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しかし、ピッチャーの商品価値は、監督やコーチの価値観に左右されてしまう。このピッチャーを使うか、使わないのか、商品価値は各々の基準で決まってしまう。同時に、他人の評価を気にしてそれにあわせようとすると、自分を見失ってしまうことにもなる。「絶対」ということはありえない。(p103)
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→上司や先輩がいて、いろいろ指図や指示、命令をされて従わなくては行けなくても、自分自身のボスは自分なのだということをしっかりわかっていることって重要なんですよね。自分を見失うと、なにをやってもうまくいかなくなりがちです。僕も、気をつけないとと気を引き締めました。



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指導者が「一日に1000回素振りをしろ」と言う。身体ができあがっていない子どもたちが1000回全力で素振りできるはずがない。どうしたって1000回できるようにペース配分をしてしまうし、そのペース配分をした素振りを筋肉が覚えてしまうから、スイングが鈍くなるという悪循環に陥る。そうなってしまうのであれば、50回を全力で、一回一回集中して素振りをしたほうがよっぽど効果がある。少し考えればわかることだけれど、それがわかっていない指導者が本当に多い。(p115)
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→これは小説を書くことがうまくなりたい場合もそうです。ただ多作であったり枚数を書いていけばいいというものではない。そうすると、手を抜くところを覚えてしまい、言語化していく言葉が鈍くなるというのはあります。



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そんなある日、藤田(元司)さんにこう言われた。「桑田、野球っていうのは、もういいやってやめてしまうようではダメだよ。これでもかこれでもかってくらい食らいついていけよ。それが本当に野球に愛してる男のやることじょないか……」
僕は藤田さんのその言葉を聞いた瞬間、背筋がゾクゾクした。(p141-142)
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→のちに、数字が伴わなくなって、「潮時じゃないか」「引き際を考えろ」という先輩たちがいたそうなのですが、ボロボロになるまでしがみつけとおっしゃったのは藤田さんだけだった、と。そしてその藤田さんに桑田さんはとても感謝しているのでした。でも藤田さんは、自分でそう言ったことを「桑田、悪かったな」と後年、謝っていたそうです。



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身体の使い方を覚えるというのは、ある動きをするときに、今まで使えていなかった筋肉を使えるようにするということと同時に、その動きの邪魔をする筋肉をあえて使わないようにすることも大事なのだ。(p224-225)
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→これも小説を書くときに感じていたことととても似ています。あるシーンを書いていて、「あっ」とひらめくように哲学的なことが浮かんでくるのですが、それを原稿のそこのところに書いてしまうと流れが悪くなるし、おそらく読者の集中もちょっと切れてしまう可能性がある。でも、主浮かんだこともなかなか素晴らしくて、書かないともったいような気がする。それが、ここで桑田さんがいう「その動きの邪魔をする筋肉をあえて使わないようにする」から考えると、その哲学的なアイデアは書かないほうがベターになりますし、実際そうなんだと思えます。



__________

なぜならば、「格好悪い」というのは、人の評価で、人の評価ほど曖昧なもの、いい加減なものはないから。だって、それを評価している人間自体が完璧ではない。この世の中に「完璧な人間はいない」から。(p234)
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→これも、他人に自分を委ねてしまわないことの大切さが述べられている箇所でしょう。自分をしっかり持つことは、自分のことを考えて自分をよく知ることから始まるのかもしれません。そういった内省の習慣があってこそ、他人の評価に振り回されない自分が形づくられていくのかも。それと、世界をよく知ることも大事ですね。他者からの見方の替わりになるような客観性というものを持ちつつ、自分をしっかり保つこと、でしょうか。



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野球のいいところは、一緒に戦っている実感を味わえることだと思う。自分がよければみんなを助けてあげられるし、自分が苦しいときは誰かが助けてくれる。お互いが声をかけるとか、そういううわべのことだけじゃなくて、目に見えない信頼とか想い、そういう気持ちはベンチからも遠くで守っている野手からもマウンドには伝わってくる。そうやって一つの心でつながる野球が僕は好きだ。(p310)
__________

→これが、桑田さんの野球観の根底にあるものでした。僕にはとっても共感できる考え方です。



というところでした。本書に書かれていることは、選手としての桑田さんのイメージとオーバーラップするような論理の組み立て方だと思いました。シンプルに少しずつ構築していって、そのスタイルで高いところには上っていき、深いところには踏み入っていく。そうして見出したものをまたさらに積み重ねて、自分の目指すところへと進んでいく。
今、桑田さんは巨人の二軍監督をされていたはずです。どんな野球をそして指導をされているのか、好奇心が湧いてきました。




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『かがみの孤城 上・下』

2024-12-17 21:02:46 | 読書。
読書。
『かがみの孤城 上・下』 辻村深月
を読んだ。

かがみの孤城に集められた7人の中学生。彼らは5月から3月までのあいだ、鍵探しと鍵の部屋探しを課されます。鍵を見つけ、鍵の部屋を探し当てたものは、そこで願いをひとつ叶えられるというミッションです。また、7人の他にもうひとり、彼らを集めた張本人である狼面の少女が監督者として、たびたび出現しますが、年齢不相応の話し方がおもしろいです。ギャップの妙、というものがあります。

「言葉が通じない」と主人公のこころが思うところがあります。こころがひどいいじめを受けた真田さんや、担任の伊田先生に対して強く。また、様々な地区から集まった中学一年のクラスで、最初から遠慮もなく自分たちが主人公というように自己都合優先で、つまりでかい顔をして学校生活をするタイプの人たちがでてきますが、これは僕にとってもそういう人たちがいたなあ、と眠っていた記憶が甦るシーンでした。しかしよく、こういったことを言語化して、物語にできるものだなあ、と感嘆しましたねえ。

ここは下巻につながることではあるんですが、こころがいくら説明しても気持ちが通じず、「言葉が通じない」ような自己都合の強い傾向で、生きづらい人の気持ちを想像もできないような人たちを、「ああいう子はどこにでもいるし、いなく、ならないから」(下巻p170)と断じるセリフがあります。これには僕なんかはいい歳をしていながらも、身が引き締まる思いで読んでいました。

あと、登校せず勉強もせず外出もせずひきこもっている主人公・こころが「怠け病」だと思われることを嫌がり、恐れているシーンにいくつか出くわすんです。「怠け病」というのは、そういうレッテルを貼りやすい人がいるんですよね。「怠け病」に見える人には、だいたいにおいて事情があると僕は思うほう。

上巻は5月から12月まで。7人が、お互いを知っていき、絆が深まっていきます。


* * * * *


下巻は、大きく物語が動き、「なんだ、いきなりやってきたな!」といった感のクライマックスはぐいぐい読んでしまいました。

内容にはあまり触れずに、抽象的ではありますが、以下に感想を。

「だいたいみんな、同じようなものだ」という多数派の幻想に目をくらませられがちな、「個別性」というもの。人はそれぞれ違うもの。環境も能力も違うのだから、違って当たり前です。そして、この作品に出てくる7人の中学生たちが抱える生きづらさも、それぞれが誰のものとも当たり前に違う、個別の生きづらさだったりします。それを本作はわからせてくれるところがあります。

最後、エピローグは10ページほどの分量で書かれていました。正直、エピローグ直前までは、「なるほど、そういうことだったか」という、謎解きができた知性的な脳の部分ばかりが活動してしまい、物語の整合性に気を取られるような気分でいました。しかし、それが見事だったのが、上下巻併せて700ページ以上の物語が、その10ページで驚くほど見事に終点へ着地するそのさまです。読者の昂った気持ちが、すっと、それもワンランク上の清澄な場所に昇華されておさまる感覚というか、それまでの物語の重みが闘牛のようにこちらへ走り飛んでくるなか、作者がひらりと赤いマントを翻してその勢いを削ぎ、いなしながら、読後の余韻のほうへと転化して、おさまるところへとおさめてしまうというか。ちゃんと、読者の感情面をふくらませて、納得と感動をさせて、終わらせていくのですから、作者の「物語る力量」を見た気がしました。

作者の「物語る力量」といえば、設定やプロットは練られていますし、キャラクター構築ではそのキャラクターの心理がどう形成されたのかが、納得のいく形で為されているなあと思いました。ただ、こうやって事前にきちんと裏側や細部を決めて物語を作ると、あれはこういうことだし、これはこうだし、これは作者がこう考えたのだろうな、などと、すべて理詰めでわかってしまうきらいがあります(「おそらくこうだろう」という推測も含めて「わかる」とすると、です)。これは今の時代傾向としてそういう物語が好まれているというのはあるでしょう。仕掛けたものががおさまるところにすべておさまってすっきりするということもそうです。ですが、「わからない」ということを感じさせることも大切ではありますし、これはきっと好みや気分の問題なのかもしれませんが、ちょっと、この物語がまた違う形で編まれていたら、というifをうっすらと想像せずにはいられなかったのでした。







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『恐怖と不安の心理学』

2024-12-09 23:54:41 | 読書。
読書。
『恐怖と不安の心理学』 フランク・ファランダ 清水寛之・井上智義 監訳 松矢英晶 訳
を読んだ。

著者はニューヨークで開業している心理療法士です。セラピー現場での経験と、学んできた知識とがうまく融合したような知見が語られていて、とてもエキサイティングな読書となりました。

心理学や精神医学分野の読書感想ではそうなることが多いのですが、今回も勉強モードでの長文レビューとなります。今回はより箇条書き的なレビューですが、ご容赦ください。後半部はいくつか引用をまじえながら書いていますので、まずさらっと知りたい方はスクロールしてそちらから目を通してみてくださるとわかりやすいかもしれません。



暗闇という状況に恐怖を感じるように、人間はできています。それは原始の頃から。夜行性の肉食動物に襲われる危険がありましたし、それでなくても、歩けば足を踏み外してケガをしてしまったり、どこかに体をぶつけてしまったりしがちでした。それゆえのこういった恐怖は、脳の深いところで発生するらしいです。まだ下等生物だった頃からの機能としてあったそうです。

それでこんな心理実験が載っていました。何枚かの写真を被験者に見せるというのがその実験で、写真にはそれぞれ別々の人が写っており、被験者はそれぞれにどのくらい危険を感じるかの印象を答えるというものです。これを、実験する部屋の明度を低くして薄暗くした中で行うと、写真に危険を感じる度合いが増すそうです(まあ、影が射して、人相が悪く見えるだろうなあとは思いますが、そもそもそれこそが、そういったかたちでの「闇」による心理的影響と言えるものかもしれません)。

不安症の人などは、部屋を明るくして過ごすといいのかもしれないですね。電気代がかかるからと、不安性的な貧困妄想の人もいますけれど、そうやって薄暗い中で過ごしがちだとさらに不安度は増していくのでしょう。(あと別な話ですけど、薄暗い中にいると眼圧が上がりますから、明るくすることで緑内障のリスク減にもなったりします)



一方と他方を結びつける「比喩」は想像力を使う行為ですけれども、そうして比喩を使うことによって培った想像力の作用で、他者の心を慮ることができるようになる、という本書に書かれた気づきは見事です。心はそうやって発達していった、すなわち比喩の能力が心を作っていったとする理論でした。他者の心ってわかりません。でも想像はできます。そしてそれは比喩的なもの、とする考え方でした。こうして思いやりや同情が生まれ、かたや、嫉妬や裏切りも生まれました。なかなかに説得力があります。



空っぽな心を感情で満たしたい、喜びでも怒りでもいい、という欲求があってセラピーを受けにきた患者が、パートナーへの怒りを表出し心をそれで一杯にしているシーンがありました。怒りの奥には悲しみがあり、つまり悲しみや裏切りへの傷つきを怒りにしていた。これらの気持ちを自分で許容できるようになれば良い傾向だそう。

怒りを伴って表れる世代間連鎖の暴力も、もしかすると幼少時の満たされなかったりした悲しみや傷つきがその奥にあるのかもしれません。また、介護が必要になった伴侶への怒りと暴力も、その奥には伴侶の状態への悲しみとともに、自分だけが残された悲しみ、寂しさ、傷つきがあるのかもしれないなあ、と思い浮かびました。

こういう視点で、修復的正義の介入って望めないものなんでしょうか。暴力があると相談したら「はい、分離します」じゃなくて。この方面でのマニュアルがまだないでしょうし、ということは前例もないわけで、進んでいかないというのはあるのではないか。



ここからは引用をはさみます。まずひとつ目。
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意識化されない心(無意識)を、フロイトは疑いの目で、ユングは希望の目で眺めた(p118)
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→フロイトは無意識を、ジキルとハイドの、凶暴な二重人格のほうのイメージに近い、抑圧への反発といった捉え方をし、ユングは無意識のなかに眠る、心の自己治癒能力の存在を感じていました。

フロイト理論は20世紀を超えなかったけれど、この理論を用いていたときの精神分析とは「心の闇をのぞき見よう」とする行為といったイメージがあります。そうやって症状の原因を知り解決へ導いていく。このやり方だから恐怖を感じるのでしょう。それでなくとも、自分と向き合うことが怖いという人が多数だそうです。いまや、こういった自分の内部にダイブするようなものに近い手法を使うのは一部の小説作家のみなのかも。

心理療法は認知行動療法の時代に入りつつあるというような印象の文章が書かれていました。認知行動療法は、考え方や意識感覚に働きかけてよくない症状をなくしていこうというものなので、心の闇を見つめなきゃという恐怖を感じなくていい療法です。まああえて苦手なことをさせる暴露療法なんかもありますけれど。

だから、もっと認知行動療法が周知されて、問題行動のある人が心理療法を怖がって受けないでいて周囲を苦しめ続ける(そして自分も苦しみ続ける)ことが減っていって欲しい、と僕なんかは思うのです。怖くない心理療法なんだ、って多くの人に知られると、このあたりは変わってくるのではないか。


次はトラウマからの世代間影響の話を。人がはねられる交通事故を見たことがある親がそれをトラウマとして持っていると、子供と交差点を渡るとき、手を固く握りしめたりするなど、過度に制御的になるという。そしてこういった場合、人生全般においても過度に子どもに対して制御的になる、と。過保護もこの範囲にあるでしょう。

そうして子供はどうなるかというと、子どもは脅威評価を親の振る舞いから学び取るので、過度に制御的に扱われると脅威評価という主観的なものが歪む。つまり、個人のセキュリティシステムのメインの軸に欠陥ができてしまう、と。

セキュリティシステムの欠陥によって、四六時中の過剰警戒状態になってしまったりするそうです。なおかつ本書の例では、母親が鬱病かつ表情を読めないタイプだと、子供は成人した後も自分の願望や欲求が意識にない状態になってもいました。心の奥にしまい込み鍵をかけた状態になるんです。要は他者に過剰同調するためなのですが、感情の分からない母親を優先して自分を合わせてしまう経験が続くことでそういった心理機構ができあがってくるんだと思います。

それでもって、こういう本を読みながらだとセルフカウンセリングになりやすくて、自分の場合はどうかなと内省することにもなるんですよね。僕の、ストレスによる頻脈は、過剰警戒の証左ではないか、など浮かんでくる。母親は僕が子供当時、あまり表情が読めなかったし、すぐに不機嫌になったし、本の例に適合するところがありました。

話は戻り、子どもの心理傾向ですが、遺伝、環境の両方が言われるなか、親に似ているところは親の振る舞いから学んでいたり、親自身の脅威評価からくる制御、すなわち価値観の押し付けが似せさせる面があると本書から学んだのでした。で、過保護、過干渉という制御が子どものセキュリティシステムを歪めてしまう、と。

ということは、親が強迫症で過保護、過干渉や強制や支配がきついと、子どものセキュリティシステムが歪むということになります。でも、親自体もセキュリティシステムが部分的にあるいは全体的に歪んでいるのは確かで、そっちはトラウマ経験から来たのか、親(子どもにとっては祖父母)からの制御がきつかったからかは、当人しか分からなそうではあります。

過保護・過干渉でセキュリティシステムが歪むと過剰警戒、過剰同調になるということです。人に気を使いすぎて集団の中では疲れやすい人、表情や機嫌を読み気遣うことにエネルギーが取られて仕事に能力を発揮できない人はこういった育ち方をしているのだろうと読み解けると思います。実は僕もこのタイプ。



自らの感情の動きを見つめてちゃんとわかることは大切で、セラピーでもそうするようクライアントに言っているがありました。たぶん、これは基本なんでしょう。で思ったのが、自分の感情への感知力が低い人は、そんな自分でも感知しやすいように大げさな振る舞いをするではないか、ということ。仮説です。細やかじゃなくても、感情を知るという心理療法的な対応できますから。ただ、他者からすれば、大げさなのはやかましかったり、ときに迷惑になったりします。とくに日本人は静かだといわれるのが思い浮かびます。アメリカ人や中国人は声が大きくて、アクションも日本人からしたらオーバーです。それは、感情をわかりやすくして、自分の感情をよくしるための無意識的な防衛戦略なのかも、とちょっと思ったのでした。

さて、僕はちょっと短編を書いたりしますけれども、小説を書くことの治療効果は、こういった、心理の動きを追うこと、さまざまな感情の発生を見逃さないことが、原稿に登場人物の心理を書き込んでいくうえで欠かせないことですから、その大きな副産物としておそらくあるでしょう。創作って、こういった面からも、おすすめですね。

自分の中で沸き起こる感情をわかるには、自分に素直であればいいんです。体面を重んじる人や虚勢を張りがちで人に自分をよく見せたい人は、自分に対して偽るので、なかなか自分に素直になれないでしょう。くわえて、偽った自分を本当の自分のように思い込んだりする自己暗示にもかかると思うんですけど、どうでしょうね?

とはいえ、誰でも自分をよく見せたいから、素直になるのが思うよりずっと難易度が高くなるものなんです。素直になれたりなれなかったりを繰り返しながら、自分としてのベターをやれれば及第点なのかもしれない。

過去の経験や外的な事情で心理が硬くロックしている場合ですとなかなかうまく素直になれないでしょうから、少しずつ自分の感情を思うようにして、解きほぐしていく方法をとることになるのだと思う。セラピーで、感情を自覚するように促していっているケースが、本に書かれています。またここでおすすめしたいのが、心理描写の細やかな小説を読むことです。たとえば辻村深月さんの書かれる小説は、こういった面でとてもよさそうです。



では、また引用を。ふたつ続きます。
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動物の生活から遊びが欠落すると幸福感も減退する。人間の場合はさらに、遊びが欠落あるいは抑制されると、より重大な心理的機能不全につながることがわかっている。そこで遊びが抑制される原因を探ると、恐怖がその主犯として浮かび上がる。(p33)
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「子どもや成人それぞれが創造力を発揮でき、そして自分のパーソナリティのすべてを使うことができるのは遊びのなか、唯一、遊んでいるときなのである。そして創造的であるときのみ、人は自分自身を発見する。」(精神分析医 D・W・ウィニコット p156)
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→遊ぶ人こそ自分がわかる、ということです。恐怖が遊びを制限させる、というのは、公園で危険だと認定された遊具が撤去されたり、「危ないからそっちへいくな」と制されたりすることでわかると思います。しかしながら、危険を感じる遊びで、人は学び成長もするようですし、引用にもあるように、創造的になって、自分のその時点での身の程も知れるということです。



次の引用は、暴行による影響のメカニズムです。
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当然のことだが、この種の麻痺状態を経験した性的暴行の被害者は、自分に起こったことを恥と感じる。このひどい出来事を止めることができなかったこと、責任感、これほどの侮辱を受けたあとには当然生じる自分が無価値だという感覚、これらのすべてが恥の基盤となる。この神経生物学的方略に付随する恥の思いが、性的暴行の犠牲者が名乗り出て事件の話をしたがらない理由として引き合いに出される。自由の喪失、虐待を止めることができなかったために感じる無力感、個人の主権を犯されたという経験、これらがすべて一緒になって犠牲者に、自分は人間以下だと思わせる。(p43-44)
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→性的暴行による被害の酷さがどういうものかがわかる箇所です。ただ、自由の喪失、虐待を止められなかった無力感、個人の主権を犯された経験、というのは、性的ではない虐待でもあるでしょう。これらが自尊心を損なわせることになります。自尊心が低いとつよい不安を抱えやすくなると、僕は近しい人を見てそう理解しているのですが、これはなかなかに厄介で、そこから自制心が弱くなって暴力に繋がることは珍しくないのではないか、と考えています。



次は不安症について。
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不安という名前でくくられてこの統計のなかに(成人の1/3の人が一生にどこかで不安に悩まされるという統計のこと)含まれる障害には、恐怖症、強迫性障害、パニック障害、心的外傷後ストレス障害などがある。治療しないままこれらの障害が進行すると、患者は病の前に無力となり、犠牲者となる。自らの人生に向き合うこと、自尊心、自己決定のすべてが減退するようになる。(p89)
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→不安症を放置しておくと進行していって、そうなると自尊心も決断力も弱くなっていき、様々な問題を先送りしてしまう流れに乗ってしまいます。このことは想像に難くないのではないでしょうか。これがひどいと、家族間のコミュニケーションがうまくいかない問題なども棚上げしたり、精神面での不安定さや抑えられない衝動的な怒りを繰り返すのを放置したり、自尊心の低下ゆえに粗探しや揚げ足取りをして他者のポジションを低めて相対的に自分のポジションが高くなったことを確認することで自尊心を保とうとしたりします、これも近しい人を見ていての見解です。そして、先送りがほんとうに酷いと、自分の寿命が来るまで、対処せずに逃げ切ろうとします。自分の暗闇と向き合えば、苦しみを克服できるのに、そうせず、苦しんだまま長い時間を過ごすことを選んでしまう。そればかりか、周囲の人をも苦しめてしまいます。

権力やお金を手に入れて、自分が脆いという感覚を遠ざける力とする行為があります。でもそれで得られる安心は擬似的なものなので、安定は得られず、本当の自分から遠ざかることでもあるため、苦しみは増していくといいます。そうして、その結果、ますます脆い自分から生じる不安のために、ますます困った行動をとるようになってしまう。

自分と向き合って、暗闇を知っていきそれと対峙して乗り越えたり受け入れたりすることで、精神的な健康が得られるといいます。権力や地位、金銭で補強する行為は自己を肥大させ、本当の自分を遠ざけてしまうんです。なんだか、老害を起こす人の核心を見たような気持ちになります。

このあたりについての引用も下に。

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比喩的に言えば、壁を築き、私たち自身の一部を地中に埋めてしまい、あるいは走って逃げることだ。だが、私たちの内面で起こっているものは相当に厄介な問題をはらんでいる。私たちの心は、記憶とのつながりを断ち切り、望まないものを仕切りで隔て、パーソナリティをいくつもの小さい部分に分割する能力をもっている。そして、こうした防衛行動が慢性化すると、満たされた幸福な状態の自分を回復するのは非常に難しくなる。(p127-128)
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→心の苦痛や苦悩が脅威となって、上記のような防衛行動を取ってしまうということでした。しかしながらそれは、自分自身に背を向けることであり、心を失うことでもあるのです。だから、苦痛や苦悩と向き合うことが、それらを克服するために必要だということになります。心の問題って、こういったパラドックスになっているのでした。

さらにもうひとつ、関連した引用を。
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だが、セラピストの仕事をしてきてわかったのは、私たちがもっとも恐れる精神的苦痛に敢えて飛び込み、通り抜けるのが、回復への道だということである。たぶんこれが(本書での)最後のパラドックスであり、理性的な脳では解決されないものである。(p233-234)
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→前述のように自分自身と向き合うのは多くの人にとって恐怖だといいます(僕にとっては疲れるものだという認識のほうがあります)。でも、敢えて飛び込むのが正しい道だと著者は言っています。昔読んだ「他人への怒りは全部かなしみに変えて自分で癒してみせる」という枡野浩一さんの短歌を覚えているのですが、内面化された怒りを自覚して、その源へと還元して対処してることに、今思うと震えそうになります。



恐怖が転じて虐待を生む、その虐待は恐怖を生む、という繰り返しで、虐待行為は世代間伝承トラウマとも呼ばれる伝染現象としてずっと人間の中に伝わり続けるとのこと。

そんな悠久の流れである負の濁流を、最後の子孫が防波堤となろうとすると、ものすごい圧力にバラバラになりかける、あるいはバラバラになっておかしくないものだと思います。この負の連鎖に自分が取り込まれないように気をつけつつ、さらに親世代に抵抗をしつつ、濁流をできるだけ浄化して次の世代に託すイメージで、僕なんかはやっていきたいほうです。そして、巻末のエピソードでは、この世代間伝承を食い止めた人がでてきて、それは勇気と希望を与えてくれます。

世の中なんて変わらないという人からすると、いや、世の中ちょっとは変わるという人からしてみても、自分が担い手となり流れを変えようとするのは他者には誇大妄想に映ってもしょうがないかもしれません。でもやるんだ、ってことに落ち着くものなんです、不思議と、なんだか。実存主義的にそうなるんでしょう。

そして、これ↓
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社会変化は社会を構成する個人の集団的心理状態に依存している。(p176)
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→僕の考え方も一緒なのでした。政治は大事でしょうが、政治家に任せていればいいってわけでもないんです。



というところで、最後にひと段落残して終わります。とてもよい本でしたが、力量的にまとまらなかったので、そこは諦めて、もうひとつ感じたことを書いて締めます。



比喩的な意味で、暗闇は恐怖で、光は安心を意味します。だから、光ですべてを照らしてしまえばいいとする考えは一般的です。本書にありますが、完璧に光で照らせば解決するんだ、という姿勢です。正しい行いを貫徹すればいいのだ、と。しかし、光あるところに必ず影ができるように、光が暗闇を作ってしまいます。正義の名のもと、拷問がおこなわれ、プライバシーが侵され、古くは魔女狩りや悪魔祓いが行われてきた、と著者は説きます。どこまでも暗闇を根絶しようとがんばるのは、そうすることで恐怖は無くなると信じているからです。これらについて本書には、はっきりとした解決策は書かれていません。そこで僕が出しゃばりますが、前に書いた小説で暗闇を取り扱ったとき、仏教の教えを採用して、暗闇というものそれは影でもあるものだから、と考えました。どうやっても影はついてくるものですから、それならば、もうそのことは諦めて受け入れることが最善ではないか、と。生き物とは、そういった負い目のある存在だと受け入れる。そう考えた上でならば、許し合えそうな気がするんです。できうるかぎりの善、それは押しつけの善ではなく、個人の範囲でそういった善を為し、誰かに働きかけるときはおずおずと慎重かつ下からの態度で。それが、影を持つ存在だと自覚したことで取ることのできる行動様式なんじゃないだろうか、と。このあたりは、ネット上の誹謗中傷ってすごいな、と感じたことがきっかけで考えたことでした。


とりとめがないですが、これにて終了です。ぜひ手に取っていただきたいなあと強く願う本でした。著者陣GJ!




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『黙って喋って』

2024-12-03 22:47:45 | 読書。
読書。
『黙って喋って』 ヒコロヒー
を読んだ。

本を読むことで旅をする。行ったことのない土地、異国、ファンタジーの世界、未来そして過去の世界。ひととき、日常を忘れ、本の世界に浸る。そうやって、本を読む人たちはリフレッシュしたりする。知らなかった世界を知るばかりか、考え方を教えられるというよりも発見するに近い経験をしたりもする。と、まあ、ここまで書いたことも、読書のほんの一面に過ぎないとは思います。

ピン芸人・ヒコロヒーさんによる全18編の短編集『黙って喋って』はどんな世界へ読者を連れて行ってくれるのか。簡単にいうとそれは、若い年代の女性がしっかりと地面を踏みしめながら歩いていく日常の世界へだと思う。そこには恋愛がもれなくくっついていて、テーマとしてはそっちがメインにはなっている。ただ、「薄い」ともいえず、「浅い」ともいえないくらいの日常のあれやこれやの場面の記録が虚構世界に刻まれていることで、虚構世界が現実世界の匂いをしっかりと帯びている。だから、生まれた土地を離れて住み着いた地方都市なんかで希薄な人間関係にある人や、引っ込み思案で引きこもりがちな人、つまり、メインストリートは華やかすぎるから棲み分けを選んだような人が、選ばなかった世界を覗くこと、つまり生々しいifの現実を虚構世界で体感することが本作品集からはできそうな気がするのでした。でも、不用意にページをめくると咽てしまうかもしれません。

もちろん、メインストリートまたはメインストリートの端っこを歩く人たちが本書のページを繰ってもおもしろいと思うと思います。誰それの体験談を読むみたいな感覚になるかもしれない。

さて、すべてに唸りながらも僕が「これいいじゃないですか」とあげたくなったのは二編です。まずは「覚えてないならいいんだよ」です。学生時代に仲の良かった女子の心理が隠されての再会。主人公の男子は、彼女との「生きるスピード感」が違う。そのため、最後になる会う時間に対する覚悟も、その時間の味わい方も、期待していたりしてなかったりすることも食い違っているのだけど男子はよくわかっていない。ラストまで淡々と流れていきますが、うっすらと後悔のまじった軽いため息に似た苦味のような気持ちが生まれる余韻を味わうことになりました。僕にとってそれは悪くないものでした。二人が住んでいた同じ世界が、ある時点から分岐してしまって、別々の世界を生きることになってしまったような切ない感じすらありました。

次に挙げるのは「問題なかったように思いますと」。舞台はどこかの企業。本社から出向してきた女性社員が、なあなあでなし崩し的に横行するハラスメントが満ちる職場でひとり戦う。その姿を見る主人公の別の女性社員が、処世術を優先した生き方に圧倒されながら、それと相反するまっすぐな生き方との間で揺れるんです。
それでは引用をまじえながら。


__________

 社会で生きるということ、その上で自分を楽にさせてくれるものとは諦めることであると、悲観的な意味合いではなく現実的に、いつからかそう心得ることができていた私にとって、凛子さんの芯を剥き出しにするような部分は解せないものがあった。恋人の有無を聞かれても、ある女性社員の容姿を嘲るような冗談めいた会話を振られても、たとえ自分自身にその矢が向いてきたとしても、その場を凌いで笑顔で対応していれば決して波風が立つことはない。そのくらいのことならやればいいのに、なぜ頑としてやらないのか、何の意地なのだろうか、もっとしなやかに生きればいいのにと、何度も彼女に対して、そう思っていた。
 笑いたくないジョークにも適当に笑い、苦痛だと感じる質問にも態度に出さず愛嬌で逃げる、傷つくようなことを言われても傷ついていないふりをしていれば彼らにとっての「やりやすい」を創造することができ、それこそがこの社会で生きる「術」なのだと理解して、諦めて、迎合していくことは、単純に自分自身が楽に生きていくための知恵であり、要領だった。(「問題なかったように思いますと」p226-227)
__________

→悪い慣習が連綿と続いていくのはこういった保守的な姿勢があるからですが、それって自分が生き抜くためのものですから、糾弾するみたいにはいかないものでもあるとは思います。
また、以下の箇所もおもしろいので引用します。


__________

「いいえ、私の部署内でのハラスメントを感じたことは特にありません」
 癖づいたように笑みを浮かべて言えば、男性社員は納得いかない様子で顔を歪めた。内密になんてされるわけがないことくらい、ここで話したことはすぐにどこかに漏れ伝わることくらい、そうすればこの組織で居心地が悪くなってしまうことくらい、簡単に分かる程度には私も社歴を重ねていた。(「問題なかったように思いますと」p230)
__________

→これは人事部からの調査の場面ですが、実際、社内に労働組合がある場合もこうだったりしますよね。


本書の総合的な感想をいえば、食い違いやわかりあえていない部分を抱えながら一緒にいる男女の女性側の気持ち、それはたぶん淡い孤独感で、日常生活の背後にひっそり佇んでいたりするものだったりすると思うのだけど、そういう場面を言語化しています。書くことをしているなあって思います。

また、本書をカウンセリングをする誘い水みたいな位置づけでの感想を言うと、誤解を恐れずに言うことにはなるんですけど、「言葉で説明のつくものって、小さいし浅くないだろうか」というのがどろっと出てきます。また、対話において、自分は何でも善だと表現したくなったりするのって、相手によっては僕はあります。ちょっとでも良くなかったら相手にそれはだめだと目くじら立てられちゃったりするから、それに反論するにはまだ言語化は無理な段階だし、自分の内側からもそのモノ・コトをさらえていないので、かえって偽ったりします。それがまた後の災いになることもあるんですが。これは相手によります。


というところで、最後にまた引用を。
__________

「春香、お母さんの言うこと聞きな。あっち行くよ」
夫が割り込んできてそう告げると、春香はいやだあと言って、また身体を左右に振った。まだ幼いのに、なのか、幼いから、なのか、子どもは自分の判断を疑うことを知らない。すると唐突に、できるだけ、何にも惑わされず、そのままでいてほしいと、なぜだか強くそう思った。今のまま、自分が良いと思ったことを信じることをやめずに、そうして、すきな靴を履いて出かけて、いろいろな人と出会い、たとえそれが悲しくてつらい気持ちを与えるものだったとしても、きっとそれがいつかあなたを支えるものになるのだろうと、きらきらとした無垢な表情でこの小さな靴を見つめる彼女に、なぜだか、急にそう思わされたのだった。(「春香、それで良いのね」p218)
__________

ヒコロヒーさんから、さまざまな考え方や思想がキャラクターとともにあふれ出ています。それと、一文の長さが長い文章をわかりやすく巧みに使う技術がある書き手だと思いました。

惜しまれるのは、書き手が芸能人の分だけ損をしているところ。その人の経歴や芸風や声音、話し方、外向きの性格などの個人情報が知られすぎていてとても損だと思うんですよ。小説作品にまるで関係のない作者のイメージを読み手はどうしても引きずってしまって、意図せずに作品の言葉づかいなどに挿し込んだり重ねたりしてしまいがちになるものです。そういった読者心理の働きがマイナスになってしまう。そのぶんを考えて、作品自体にプラス0.5点を加点して、☆5点満点とさせていただきます。でも、もしももしも作家がエゴサをして5点満点を見つけてしまったときに慢心されてしまうと不本意なので、こうして書き残しておく次第です。また小説を書かれるかもしれないですからねー。


朝日新聞出版
発売日 : 2024-01-31


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