Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

近況2024年5月

2024-05-29 11:43:44 | days
ひさしぶりに近況を書きます。

相変わらず、キレてばかりいて暴力的だったり問題行動のある父親が要介護度4の母親の主介護者で、僕はそれを助けつつ主に家事をしながら過ごしています。たまに役所へ資料を作って相談にいったり、支援団体に話を聞いてもらったりしつつです。

おそらく創作をしながらだからだと思うのですが、父親による家庭内の暴力が僕のメンタル面へのダメージとなりやすいのです。自分の内面を探りながら、また、さまざまに日常から感じられる情報の取り入れ量がクリエイターの場合は他の人よりも多くなりやすいそうなので、その処理にメンタルのエネルギーを使いもする(情報によっては、他者の気持ちになったり、できるだけ他者と同期しようとつとめたりするからです)ので、そういった自らのもろさを保護できていない状態で、叫び声のような怒鳴り声やそれにともなう暴力的なふるまい、暴言などの言動からダメージを負いやすいのだろうと考えています。

こういったところは、今読み始めているパーソナリティ障害の本の内容と照らすと表層的に重なる部分があり、他者からは勘違いされやすいだろうな、という気がしています。まあ、ちょっとしたフラッシュバックがあるので軽いPTSDのような状態ですから、それをパーソナリティ障害の範囲と解すれば、パーソナリティ障害に該当するのかもしれません。とはいえ、人格的に未熟だとか、そういったことではないと僕自身は考えています。父親のほうがよっぽど人格障害に該当しているのを感じます。

役所からは、僕が「両親に巻き込まれている状態」だと言われていますし、相談するたびに父親の暴力については「警察に通報するレベルに達している」と言われもします。ただ、警察は暴力装置と呼ばれるように、他律性を発揮して強制的に個人の人生をに介入して権力を行使しますから、これはほんとうに最終手段だなと考えています。無理やりに家族が離散させられて、僕は生活保護になるのが目に見えてもいるので。

というわけなのですが、一面的になりますが、以下に手短にですが、どういった方向で対応して、いまどうなのかについて、書いていきます。

こうしなければいけない、と制約やルールを厳しくして怒鳴りちらすというのがうちの父で、そしてそれらに対して不寛容だという性格をしているのです。母の世話・介護をしながらぎゃーぎゃーと叫ぶように怒鳴るので、ある程度は僕に任せなさい、と僕、ケアマネ、理学療法士でアプローチしたのが、かれこれ4年前です。

ですが、父親は他者を信じられないのでその気はなく、膠着した状態が続き、父は父で役所の人たちと話をして家の状況が悪いのは僕のせいだとするので、そのうち、役所からは僕がどこかに勤めないのが原因だとされるようになります。ですが、僕だってDVでボロボロですからどこかで働いてもうまくいかないのです。朝から暴力に接しながら出勤しても、頭は表面的にしか回らなくて応用がきかない。発作のように、脳の働きが硬直する。夜中にも母親が起きだしてそれで大騒ぎになるので夜も眠れず3か月ほどは毎日2時間前後の睡眠時間になり疲弊していきました。おまけに職場は不機嫌な空気とハラスメントのあるところ。
で、このあたりを役所の包括支援係に説明し、なおかつ、僕が子供のころからの家庭環境や僕のこれまで人生の送り方を説明したところ、「お父さんの方が変わるべきだったかもしれない、と反省しています」という返事を得ました。

話は戻りますが、父は僕にお願いするということはありませんが、こんなに困っているのでどうして手を貸さないと怒りはします。父が言わなくても察して手を貸せというような態度です。それでいて、手を貸しても、父が頼んだわけでもないし、そんなことは当たり前なことであって、僕には世話になんてなっていない、と平然と言い切るのです。

さらに言うと、僕が手助けして父が楽になると、今度はルールを厳しくしたり制約を増やし、それができないとまた同じように怒鳴り散らすのです。つまり、楽になったぶん、エスカレートする。だから、手を貸しても無駄どころか、より僕や母は苦しむことになっていくのでした。これは、父が完璧主義なうえに理想主義も強いからだと考えています。それらを家族に強制するのです。そして、完璧主義や理想主義を推し進めていく強迫観念も強い。くわえておそらく他者を支配することで幸福感を得られるので、その作用から逃れられなくなっているのだと思います。

父は内省するタイプではないし、自分が悪いとも思っていないし、だから自分がもっとよくなろうだとか他者の迷惑にならないようにしようだとかも考えない。そういった意味での向上心はない。だから、こちらからどんなに働きかけて変えようとしてもまったく無駄ということになるんです。

お手上げなんですよね。ずっと耐えるほかない、ということになっています。耐えているだけ蝕まれる部分はあるので、それをどうセルフケアしていくかという話になってきます。


そういう状況の中にいて、なかなか原稿に向かう気持ちやエネルギーも足りていませんでしたが、今は半年ほど前に書いた、『死をめぐる、悲しみとまやかしの午後』の続きを書いています。完成形にして、note創作大賞に応募するつもりです。あとはほんとうの終いの部分を書いて、バランスを整え、推敲して、となります。


原稿をやっていく意味でもやっぱり、自分の心身をどう健康に保つか、です。だましだまし、うまく立ち回ることも大事だなと思います。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ヘヴン』

2024-05-23 00:23:01 | 読書。
読書
『ヘヴン』 川上未映子
を読んだ。

著者としては初の長編作品だったのが本作でした。

いじめや嫌がらせを受けている主人公「ロンパリ」と、女子のコジマ。ふたりの物語です。斜視のことを俗に「ロンパリ」という人があるそうで、ロンドンとパリという離れたところを同時に見ているみたいな意味のよくない言葉だったりします。

さて。第6章がすごかったです。あそこで書かれている善悪については僕も以前、自作短編執筆中に同じような考えを進めたことがありましたし、その短編に痕跡を残したものですけど、本書のほうはじっくりと分量を割いて書いていました。心から血を流すぐらい真剣に、対峙している。ひとつの気付きにとどまらずにいました。

僕がこのような善悪観(本書で百瀬という少年によって語られているのは、物事や行為に善や悪はなく、それ以前に欲求があるだけだという思想です。僕の場合は、人はすべて善を行い、それを悪だとするのは周囲や社会に過ぎないというものでした。近しい思想だと思います)にたどり着くときまで、本作は何年も先んじています。プラトンのソクラテス活躍シリーズにもこのような善悪観があったとは思いますけど、そこからさらに現実世界に落とし込んで論理を展開していたのが本作。わがままを言うと、この第6章で語られる思想に対して、「世界観」や「人間観」といった価値観の在り方が人の考え方を左右しているという視点をぶつけたいですね。世界観や人間感が歪んでると思わないか、とこの思想を述べた百瀬という人物にぶつけてみたくなります。こういう悪役とは格闘したくなるものですよ。しかしながら、この第6章の会話の応酬は見事に編まれていました。

この第6章目でぐぐっと深まっていったので、ふつうにおもしろい小説だったならば最後の章まであとはそのテンションを維持すれば成功だったのかもしれないのですけれど、そこから変容を続けて最後の章でさらに上げてきていました。佳境の部分では破局と混沌とをきれいにまとめあげずに凄みある表現をできる技術がありました。踏み込んで、さらに踏み込んで、まだ行くかっていう作り。胆力、勇気、体力、精神力、捨て身、腕、といったそれらがどれも高レベルじゃないと、こういう作品は書けないでしょう。百瀬とコジマの、どちらもどこか偏っていると思える思想が、最後に主人公の中で交差するところにはしびれる。そういった土壇場で成し遂げたような巧みさもありました。

序盤こそ抑制の塩梅のいい文体だと思いました。すっきりと、隙間が狭くなったり広くなったりしない文章で内容が進んでいっていましたから。そういった基盤の元、最後には快刀乱麻でしたねえ。ぎりぎりに攻めた難しい殺陣の予定を実際に行ったら、それ以上の震えるような結果を出してみせた、みたいな感じです。そして、絶望からのRebornでこの小説は締めくくられる。深くこの世界に入り込んだ読者としては、コジマはどうなったのだろう、という心配はあるのですけども、でも彼女のその後に希望を重ねたくなるのでした。

といったところです。最後に、ふたつほど引用して終わります。

__________

「わたしは――なんて言ったらいいのかな、だいたいいつも不安でしょうがないわけ、びくびくしてるの。家でも、学校でも。でもね、なんかちょっとでもいいことあったりするじゃない、たとえば君とこうやって話してるときや手紙を書いてるときね。それはわたしにとってとてもいいことなの。それでちょっとだけ安心してるのね。この安心は、わたしにとってうれしいことなの。でも、そのふだん感じてる不安もこの安心も、やっぱり自然なことなんかじゃなくて、どっちも特別なことなんだって思ってたいんだと思うの、たぶん。……だって安心できる時間なんてほんの少しだし、それに人生のほとんどが不安でできてるからってそれがわたしのふつうってことにはしたくないじゃない。だから不安でもない、安心でもない、そのどっちでもない部分がわたしにはちゃんとあって、そこがわたしの標準だってことにしたいだけなのかも」と言ってコジマは唇をあわせた。
「標準」と僕は復唱した。(p41)
__________

→そして、その標準を自分自身がちゃんとわかっていないと、ぜんぶがほんとうにだめになるような気がする、とコジマは続けます。そのとおりだ、と僕は思ったのです。なんていうか、標準感覚を失くしかけているから余計にわかるんですよ。このコジマという女の子の名前は、名字なのか下の名前なのかはっきりでてきません。まあ「小島」とか「児島」を当てて想像しやすいのですが、あえてカタカナ表記なので、リストの娘でワーグナーの妻だった女性(ニーチェとも交友がある)が、コジマという名前だったから、もしかして彼女由来かなと思いもしました。文化的セレブの名が託されたかのようで、ご加護がありそうというか、どこか拠り所となりそうというか、そんな気がしてきます。村上春樹さんの「カフカ君」みたいな命名手法へのオマージュだったりするんでしょうか。


__________

 駅について帰りにスーパーによった。買い物客はあまり好ましくない目で喪服の母さんと制服の僕をじろじろと見た。母さんは気にするそぶりもみせず、かごにほうれん草やたまねぎやスライスされた豚肉なんかを入れていった。塩をかけないで入ったけれどいいのと僕がきくと、スーパーは強いからいいんじゃない、と言った。買い物袋をふたつとも僕が持ったマンションについてエレベーターを待ってるときに、ついて来てくれてありがとう、と母さんが僕の顔を見ないで言った。つぎあったらまたついていくよ、と僕が言うと、母さんはため息を吐いて僕の肩を抱き、困ったような顔をして笑ってみせた。(p139)
__________

→なんでもない箇所なのだけど、なんだか好ましい倦怠と健全の間という気がするのでした。うまく言えませんけど、こういうのは好きです。主人公の、父の再婚相手であるこの母は、こういうどこか調子のくだけた人で、だからこそなんだか信じられる人なんですよね。こういう人はいいですよね。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『自分の価値を最大にする ハーバードの心理学講義』

2024-05-18 12:41:50 | 読書。
読書。
『自分の価値を最大にする ハーバードの心理学講義』 ブライアン・R・リトル 児島修 訳
を読んだ。

最近その発展が目覚ましいといわれるパーソナリティ心理学の知見と幸福度をまじえて語られていく本です。著者は、ハーバード大学卒業生のアンケートによる投票で3年連続人気教授に選出された方です。ここぞというところのユーモアのセンスがよく、楽しみながら読み進めていけるうえに、わかりやすく学びや気づきを多く得られる良書でした。

__________

私たちは、他者を理解しようとする試みを通して、自分を深く理解することになり、自分を深く理解することによって、世界を違った視点で捉えられるようになり、もっと自分の能力をいかすことができるようになります。(p1)
__________


→本書を読み進めていくと、人ってほんとうに多面的にふるまうし(そして、多面的にふるまってよいのだし)、様々な傾向を持った人たちがいることがわかります。「人はこうあるべき」というように、自分の性質に寄せたかたちでなされた意見って数多くあります。僕もそういう意見を言ったり書いたりしますが、それらは自らの願望に沿う形で周囲や社会の在り様を画一的にしようという目的が隠されていることが、本書を読むことの副産物としてわかってきました。もっと、人それぞれであることを認めあい、棲み分けていくのがもっとものような気がつよくしてくるのでした。また、好きな人のことをもっと知りたい、理解したい、と思い、行動することは、自分自身を深めもするようだということが、引用の文章からわかります。人に惹かれるのってとってもいいことですね。

パーソナリティ心理学では、「評価基準」という考え方を重要視します。内向的か外向的か、面白いか退屈か、かっこいいかかっこ悪いか、明るいか暗いかなどを、人は○か×かで判断しがちなことを本書は指摘しています。そしてそれを評価基準と読んでいます。実際は、内向的か外向的かにしても、15:85だとか、60:40だとか、割合があるものですが、0か1かみたいに判断してしまいがちだそうです。そして、その○×評価基準方法が、人を苦しめてしまう。極端なだけに、自分自身でだったり他者からだったり、それが駄目なこととされてしまうと、寄って立つ柱を失うので、とても不安定になってしまいがちだということです。

また、それに絡んで、ヒト志向とモノ志向があると述べられています。外見や言動に注意を払うなど、心理的に解釈しようとするのがヒト志向です。これはもっともですし、一般的なように感じられますが、モノ志向の人は、客観的なデータに固執するところがあるそうです。つまり、統計的にこうだからこの人はこうだろうだとか、こういった類型に当てはまるからこの人はこうだろう、というようなパターンだと思われます。

評価基準は僕らが物事を見るための枠組みになりますが、閉じ込める檻にもなると著者は警告しています。だから、自分にはこういう評価基準があるのだ、と自覚的になれるとよいのだろうと推察されます。そうできたならば、柔軟な姿勢で評価基準を変える努力をできますし、不寛容さに縛られることも減るのではないでしょうか。そして、評価基準は多いほうがよいそうです。そのほうが、環境の変化に対処しやすいのだとあります。

パーソナリティは遺伝的に決まっていたりしますが、たとえばもともと内向的な人が、社会で働くときには外向的にふるまったりします。それはその状況や場所が要求するのでそうせざるをえなかったのでしょうけれども、本書では、そういったもともとのパーソナリティの枠を超えたふるまいをすることは、自身の視点を増やすなどポジティブな効果があるとして肯定されています。しかしながら、自分のパーソナリティを越え続けるとかなりのストレスになるので、もともとのパーソナリティを出しながら安らげる場所を持つことが大事だと述べられていました。この部分は、自分探しにの話にもつながってくるでしょう。もともとの自分と社会的な自分が入り乱れてどれが基本の性質なのかわからないから自分を探すというのはあるのではないか。または、私的な自分と社会でふるまう公的な自分の落としどころを探すというのもありそうです。社会での振る舞い方をどうするか、社会的な部分での自分を探すという意味です。

本書ではほかに、ABCD性格診断のタイプAについて述べてある箇所や、セルフモニタリングの高い人と低い人、自己解決型と他者依存型などについて述べている箇所があります。タイプAとは、いわゆる押しが強い人です。「競争的」で「いつも時間に追われて」いて、「自分だけではなく他者に対しても要求が高く」、「声が大きく」、「話がのろいと感じると割って入り」、「タスクに集中すると身体が発する信号に鈍感になる」などの特徴があります。タイプAが有名なのは、心臓発作のリスクが高いからだそう。でも、こういった人って珍しくないですよね。企業で欲しがる人、正社員として欲しがられる人、出世する人は、たいていタイプAかもしれません。ちなみに、セルフモニタリングの高い人も出世しやすいです。セルフモニタリングの高い人は、カメレオンのように、人や場所に応じて自分のふるまいを変えられる人です。誠実性という面においてはマイナスですが、反対に、コミュニケーションを円滑にすすめるタイプです。

そんなところですが、とにかく気づきを得られるトピックの多い本だこと! 以下では、箇条書き的に書いていきます。

・精神病者と精神病者ではないけれども変わり者とされる人とクリエイティブな人は、性質が似ています。みな、制約を嫌う点などがそう。入ってくる情報を制御するフィルターの目が粗い彼らは、情報過多になりやすいのでした。精神病者の場合は、情報を処理しきれず調子を崩していく面があります。では、どういった違いで精神病者になるかクリエイティブな人になるかが決まるのでしょうか。それはひとつに、知性の高さがポイントになっているようでした。うまく情報を仕分けしたり、解釈したりという知性が、分水嶺となっているようです。とはいえ、きっぱり割り切れた判断基準ではないのだと思います。

・人はなにかをコントロールできる、あるいはやろうと思えばできる状態にあると、比較的すくないストレスを受けるだけで済むようです。以前、「コントロール心理学」の分野で得られた知見だとしてなにかの本で読んだことでもありました(いったい、何の本で読んだんだっけ)。この、「支配にどんな意味や効力があるのか」を研究する分野がアメリカにはあるんですよね。支配・被支配について重く考えるのって、やっぱり欧米だなって感じがしてきます。コントロールできるから、という安心やそれによるストレス耐性は、希望を持つことによる効能と似ていると思いました。

・都市は情報が多いから、情報過多にならないためにそこで生活する人々は無関心になっていく、という考察がありました。とてもスマートな視点です。たとえば他者と関わり合いになることは情報を得ることであり、情報処理が必要になるから、そうならないように情報を遮断するために無関心になる、というものでした。けっこう納得がいきましたが、どうでしょうか。まあみんながみんなそうではないですけれども。

・「このほうがいい」とか「これはだめだから、こうしよう」だとかの意見ってよくあります。自分もそう言いますし。でも、それって、「こうなったらいいのに」という願望に基づく画一性の実現へ向かっている考えであることが多いです。人それぞれ志向も性質も違うことはほんとうに大切なんだよなあ、と本書を読み終えて痛感しました。

ほんとうに、よい本でしたよ。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人を型にはめ、指図する心理の三つのポイント。

2024-05-12 10:04:43 | 考えの切れ端
とくに私生活において迷惑に感じられる、他者からの「型にはめ、指図してくる」行為というものがあります。(くわしいところは、前回の記事で触れました。)今回は、そういった「型にはめる」心理を分析し、どう直してもらうかについての処方箋にまで触れる内容です。では、はじめます。

他人に対して「こうやれ!」と指図するタイプの人々の心理は、一般的に次の三つのポイントで説明できます。

楽をしたい欲求:
他人に教えることは手間がかかりますが、型にはめて指示すれば自分自身は楽になります。

他者をコントロールする欲求:
他人を支配することで幸福感を得る人々もいます。支配によって自己満足を感じることがあります。

理想主義(原理主義)による強制:
自分の理想が絶対であり、それを他人にも強制することで、自己満足を得る人々もいます。
しかし、このような指図をする人々は、実際には自分自身が完璧であるわけではありません。そのため、他人に対して厳しく指摘することで、自分自身の不安やストレスを感じることがあります。つまり、さらに疲労感が増すこともあります。

それでもって、「型にはめて指図」して完全にうまくいくわけはないのだから、他者をがみがみ怒るはめになります。すると、その人はいら立ち、ストレスを感じ、疲労する。疲労すると、もっと楽になろうとしてもっと型にはめだすという悪いサイクルに陥ります。そのサイクルを断ち切る心理を阻み、おそらく補助しさえするのが、絶対性をまとった理想主義(原理主義)です。

(※理想主義に関して、生成AI・Copilotによる注釈 → 理想主義は、自分の信念を絶対的なものとして捉え、それを他人にも押し付ける傾向があります。しかし、柔軟性を持ち、他人との協力や理解を大切にすることで、より健康的な人間関係を築ることができるでしょう。)



いかがでしょうか。では、どのように工夫して、このようながんじがらめになった心理をどう変えていけばいいのか。解決は難しい! と感じられるかもしれませんが、以下に、Copilotから得られたアドバイスを元に処方箋を書いていきます。

(1)「まっ、いいか」と言う:
完璧主義を治すために、「まっ、いいか」を口癖にしてみましょう。少しうまくいかないだけですから、怒るなどの投げやりな行為に走らないで諦めず、柔軟に考えることが大切です。

(2)結果を手放す:
努力した結果、物事がうまくいかなかったとしても「めげない」ようにしましょう。結果を手放すことで、幸福度が高まり、生産性も向上します。今回は今回の結果だけなんですし、次は次で頑張れでいいのです。

また、完璧主義には「適応的完璧主義」と「不適応的完璧主義」の2つの種類があります。適応的な考え方を身につけることで、ストレスを軽減し、柔軟性を持った人間関係を築ることができるとのことです。適応的完璧主義は現実的にできるもので、不適応的完璧主義は、現実にできっこない空想的な理想主義と言い換えることができるでしょうか。

というところです。ここまで読んでくださってありがとうございました。

前述の通り、今回の記事は、前回の記事「怒りたくなかったら人を型にはめない。」の続編となる内容です。興味を持たれた方はぜひ、遡って読んでみてください。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『口語訳 遠野物語』

2024-05-08 13:09:21 | 読書。
読書。
『口語訳 遠野物語』 柳田国男 佐藤誠輔 訳 小田富英 注
を読んだ。

原典の『遠野物語』は1910年、のちに民俗学の祖となる著者・柳田国男によって自費出版されたものです。その文語体の文体の美しさが本書の解説でも素晴らしいと言われていまして、こうして口語体にすることで、面白みや美しさが損なわれてしまうのですが、それでも文意をわかりやすく伝えるべく挑んだ冒険作と評価されています。

「遠野」はアイヌ語が語源のようです。たとえば、「トオノ」の「トオ(トー)」は湖を表すのだ、と。アイヌは北海道のみならず、東北やロシアにもダイナミックに活動域を広げていたと、以前読んだことがあります。その痕跡をこうして身近に感じられると、遠い話ではないような気がしてきます。

さて。61ページのあたりなどで、いくつかの段に渡って語られるザシキワラシのお話はよく知られていると思います。それまで屋敷に宿っていたザシキワラシに逃げられた瞬間から、馬屋で大蛇が出て、主人に「そのままにしておけ」と言われたのを聞かず、下男たちが面白がっていたぶって殺してしまう。すると、馬草の中からさらに小さな蛇たちがわんさか飛び出してきて、それも下男たちがみな殺してしまう。そのあと蛇塚を作るのですが、相当な量の死骸があったそうです。それからまもなく、下男がみたことのないキノコを屋敷の敷地内に見つけ、食べれるかな、と話し合っていると、また主人が「やめておけ」というのを聞かず、おからといっしょに混ぜながら炒めれば食べられるなどという下男の中でも物知りとされている男の言葉を信じて食べてしまう。もちろん、一家は全滅。その屋敷の繁栄はあっという間についえたというお話がありました。これは、遠野物語といえば語られる代表的なお話のひとつでした。まあこの話は、下男の無知無教養が不幸につながっているわけですけれども。
明治時代の学者・南方熊楠がザシキワラシに対する解釈として、人柱で家の土台に埋められた男女の子どものに対する意識、あるいは彼らの霊だとした、という逸話も注釈に載っていました。人柱ってそんなにありふれた行いだったのでしょうか。ちょっと認識が揺らいできます。

個人的に好きな話が、143ページにある72段目のお話「子ども好きのカクラサマ」。雨ざらしになった、木彫りの神様の座像です。これを子どもたちがひっぱり出しては川に投げ、道路の上を引きずり、そのうちこの座像の目も鼻もわからなくなるほどおもちゃにされていました。この乱暴な扱われ方に一言言わずにおれなかった大人たちが、「そんなに乱暴にするもんでねえ。ちゃんと元のところさ返しておけ」と子どもたちを叱り、子どもたちは従います。すると、子どもたちを叱った大人たちは足が動かなくなるものがでたり、高熱を出して寝込むものが出たりなどしました。不思議に思って、ある者に拝んでもらうと、あの座像であるカクラサマがでてきてお告げをします。「この大人たちは、おれがせっかく子どもたちと、楽しく遊んでいたものをじゃましたがら、少し罰を与えておいた」。大人たちはお詫びをし、元の体に戻してもらったそうです。
木彫りの神様って昔はよくあったのかもしれないですね。余談ですが、木彫りの神様の座像と読んで思いだすのが木彫りの仏様の像でした。これらは円空や木喰らによるものが伝えられていますよね。このあたりもちょっと知りたくなってきます

また、明治29年の大津波の話も、さらりと語られていますがすごいです。38.2メートルの津波が三陸を襲い、日清戦争の凱旋記念花火大会に来ていた大勢のひとたちが全滅したりしたと注釈にありました。溺死者は2万2千人だそうです。2011年の東北大地震時の大津波をほうふつとさせます。

あと、とある峠のお堂の話にあるのですが、その壁に、旅人たちが、盗賊にあったとか、不思議な女とすれ違ったときにニコっと微笑まれたとか、猿にいたずらされたとか書き記していくのが昔からの習わしだと『遠野物語』にある。なんだか、「今も昔も」なメンタリティーですよね。こういう風俗・習俗の源流が知れるのはおもしろいです。

本書を読んで『遠野物語』の内容を知った後は、ぜひ原典にあたってその文体の調子から丸ごとを味わってほしい、というような願いが本書には込められています。昔の文語体で読むのは骨が折れそうでハードルの高さを感じますが、ちょっと余裕が持てたときなんかに、挑んでみたいです。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ストーリー・セラー』

2024-05-06 19:46:29 | 読書。
読書。
『ストーリー・セラー』 有川浩
を読んだ。

「致死性脳劣化症候群」と名付けられることとなった、世界でひとつしかない奇病であり難病に患う妻。その妻は作家です。妻とのなれそめから語られていく、夫婦の物語でした。一人称にとても近い三人称視点での語りで、小説としてはどことなくくだけた感覚を覚えました。

というのが、本書のSide-A。もうひとつ、Side-Aと対になる、ほぼ同分量の物語Side-Bも収録されています。

著者の有川さんはラノベ出身のためか、軽めの文章なのですが、どことなく空虚なようでいて人肌の温度のしっかりある質感がよかったです。そして、ぐっと引き込まれるエモさもあります。

では、ここからは引用しながらになります。ネタバレにもなりますので、ご注意を。


__________

「何も起こってないときに普通に付き合ってる分には普通の善良な人たちだよ、って前に言ったよね」
 彼女はそう前置きして話し出した。
 うちの家族はね、私以外の皆が皆、現実に向き合う能力のない人たちなの。困ったことや悪いことが起きても、じっと我慢してたら、無視してたら、いつか何とかなるって思ってて、誰かがどうにか片付けなきゃどうにもならないことをいつまでもいつまでも先送りにする人たちなの。父は強がってるけどその筆頭で、しかも王様なの。たとえば母が「これは何とかしなきゃまずいんじゃない?」って言っても怒鳴りつけて黙らせる人なの。
 父には何を言っても無駄なの。だから家族は昔から父には何も言えなかったし、今更もう何も言わない。そのくせ父は、自分で引っ張って引っ張ってこじれきってから「どうにかしろ」って家族の誰かに問題をなすりつけるのよ(p101)
__________

→Side-Aより。これってうまく言えてるなあ、と思いました。たとえば僕自身の、ごく近くの周囲、そしてちょっと遠めの周囲までの範囲なんかはたいていこのように「何も起こってないときに普通に付き合ってる分には普通の善良な人たち」だったりするんですよ。世間的にはどうなんでしょう? やっぱりありふれていたりしますでしょうか。……というか、かつての自分もそうでした(忘れるところでした)。とくにコミットせずとも、自然と解消していくのが、周囲のこじれやちょっとした問題だと思っていました。でも、解消しきれていないでうっちゃられるそういった問題が、水面下で積もりに積もっていって、目の前に顕れたときには横綱級になっていたりもするんです。うちの母親は先送りのこういうタイプだし、父親もごく家庭内のこと、介護の一コマだとかではこじれきってから「どうにかしろ」となります。肌感覚でわかるところでした。


__________

日曜日の夕方、彼女は一時間近くも病院をたらいまわしにされた。理由は後に詳しい友人が教えてくれたが、精神科や心療内科に通っている患者は、それだけで受け入れを拒否されるのだと言う。たとえ倒れた原因が脳卒中かもしれなくても、心筋梗塞かもしれなくても、精神病による通院歴があるだけで「精神病で緊急を要する症状は出ないので、受け入れはできない」と一まとめに蹴られる。彼はそんなことを知らなかったので、一一九番のオペレーターの指示のまま彼女の現在の通院状況と病歴や投薬内容を告げた。(p115-116)
__________

→Side-Aより。まず二点ほど指摘したいです。ひとつは、精神科や心療内科に通っていない患者でも、受け入れに1時間やそこらのかなりの時間を要することは珍しくないこと。もうひとつは、精神科や心療内科に通っている人はひとくくりに「精神病」ではないこと。精神病となると重いほうなのでしょうけれど、○○障害、○○症候群、など、精神病とまで呼ばれない疾患が多くあるものです。それを踏まえて言うのですけれど、さいきんは、精神科や心療内科には、もっと気軽にかかるべきだ、というもっともな論調がありますし、実際アメリカなどのように軽く来院できたほうが苦しみが軽くなると思います。でも、引用にあるように、救急時に受け入れを拒否されるなどの「選別」対象になってしまう。薬の管理が病院側でできないから入院はお断りなんて言われて拒否さることもあります。このあたりが社会的かつ世間的に解消されないと、精神科や心療内科に通うことへの障壁は低くならないです。また、そういった診療科へかかる人への差別も少なくなりません。気軽な感じで行けるというアメリカなんかは、救急時の扱いはどうなってるんでしょう?


__________

 それを訊いたら、正気に戻ってしまうような気がした。誰かを好きになる瞬間は、正気じゃない。(p185)
__________

→Side-Bより。人を好きになるときって、頭がヘンになっている状態だなんて聞いたり読んだりしましたけど、この作品の著者もそう思うんだなあと。というか、そういう認識でいて欲しいです、大前提としてみんなが踏まえていること、みたいに。「ああ、頭がちょっとヘンになってるんだね」とくすくす笑われながらも微笑ましいと思われて許容されるっていうようにです。


__________

あたしたちを助けてくれない世間体など知るか。あんたたちも含めて。(p212)
__________

→Side-Bより。あんたたち、というのは、こまごまと干渉してくる両家の親のことです。そうなんですよね、すごく困っていて、誰かに助けてもらえるならありがたいのに、助けてもらえることなんかまずなくて、でも、そんな周囲の世間体は守らないといけない、みたいな不文律というか、暗黙の常識みたいなものってあるなあといつも感じています。そう感じているからこそ、この一文に小気味の良さを感じて共感が芽生える、という。


というところでしたが、最後にひとつ。事後論理と事前論理について、さいきんぼんやり考えているのですけど、この小説は、…というか本作に限らず他の多くの小説がそうだったりすると思うのですが、事後論理でつくられている作品といった感じでした。つまり世界のいまの在り方をまず肯定して、そこから構築している、というような。カフカの「世界と君との戦いにおいては、世界の側につきたまえ」という言葉のその通りの実践という感じがします。そればかりか、ほんとうに常識というか、定石なのかもしれないなとも思えてしまいます。世界をひっくり返したいと思っても、まずは肯定から入れという意味かな、なんて、考えてしまうところです。そして、本作は、そういう意味では、世界の前提を疑って、そこに挑むというよりは、世界の盤上は揺るぎないものだ、とそこは疑わずに、その盤上で生きづらさを言語化し、その世界をひっくり返さない範囲で、つまり世界のルールを変えることなく(ときにルールが失われているための生きづらさもあったりするので、失われたルールを再登場させるなどもありますが)、格闘する、言い返してみる、モヤを取り払ってみる、今一度そのあたり常識のもともとのところに立ち帰ってみる、などしている感じがします(……と考えましたが、世界の側につく、というところはもっと考える余地があり、ちょっと怪しい論述になっていることを認めます)。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

怒りたくなかったら人を型にはめない。

2024-05-02 22:32:49 | 考えの切れ端
たとえば子どもに「こうしなさい!」と指図する親がいる。それは子どもに「教える」のではなく「型にはめている」。型にはめるのは、子どものためになることではなく、親自身のためになること。型にはめておくと、自分が楽だからだ。

これ、介護もそういうケースがある(うちの親父がそうだ)。薬の時間だからこっちへこい、早くしろ、何度言わせる、この薬から順に取れ、すぐに水を口に入れろ、早く飲み干せなどなど、一から十まで指図をして型にはめ通しにしたりする。それで少しでも滞ると激怒する。自分が楽にならないから。

日常に於いて、人を型にはめ通そうとするのはかなりの暴力だ。また、型にはまらなかったときに激怒し怒鳴り散らすそのエネルギーはまったくの無駄使いであるし、怒鳴り声を聞かされるほうには少なからずダメージがあって、Win-Winならぬ、Lose-Loseになっている。なのに、型にはめる行為を選択するのは、実に愚かしい。

「型にはめる」と、その対象者も行為者も人間性を失うことになる。軍隊、兵士を考えてみればわかる。型にはめて人間性を失くさせて(機械にしてしまう)、それで人殺しができるようにしている。

社会を考えてみても、「社会の歯車」という言葉があるように、人を型にはめることは、人を人間性から遠ざけて機械のようにすることにあたる。でもふつうは、社会(仕事)という場ではなんとか折り合いをつけてやっていくものだけど、家庭の場でも型にはめるという行為をし続けると、型にはめるほうもはめられるほうもおかしくなってしまうだろう。まっとうな人間性に反している行為なのだから(人を尊重する姿勢とは真逆なのだから)。

家庭という、型にはめられない場所で過ごせる時間があるから、社会に出ているときには型にはまっていられるとも言えそうだ。ならば、なおさら、家庭(仕事以外の時間)では型にはめない、はめさせないことが大切になるのではないのだろうか。

というわけで、家庭という場、仕事から離れている時間に、自分が楽をしたいからといって他者を型にはめるのはよしたほうがいいんじゃないだろうか、ということでした。疲れているのはわかるのだけれど。型にはめていると安心(つまり不安が源にある)なのもわかるけれど。

そして、その不安を生じさせるのが孤独感であることも知っているのだけれど。

型にはめなければ、それがうまくいかないときに怒るなんてことも生じないので、怒りたくなかったら人を型にはめないことだ。そういった「怒りのコントロール方法」もあると思う。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする