それからしばらくまさみとは会わなかった。
会わなかったというよりは、気持ちの整理がついていないがために会えなかったのだ。
その間、こんな夢を見た。
僕は小学生で、真夏の林の中にいる。
周囲には友達もたくさんいる。
目の前には樫の木がそびえ立っていて、どうしてもその木に登りたくなって登り始める。
枝から枝をつたって、下も見ずにどんどん登っていく。
友達はみんな見ているだろうか?
僕の勇気に目を見張ってはいないだろうか。
登れるところまで登って、さぁどうだと下界を見下ろせば、豆粒みたいなみんなは僕にかまわず鬼ごっこをしている。
きゃあきゃあ騒いでとても楽しそうだ。
僕は「おーい!」と呼びかける。
声は届かない。
また「おーい!」と、もっと声を張り上げる。
だけれど、誰も気付く人はいない。
「おーい!おーい!おーい!………」
寂しさを通りこし、悲しみがやってきた。
とたんに喉の奥に小さなブラックホールのようなものが生じて、精気とでもいうべきものをどんどん、しくしくと吸いこんでいく。
少しずつ力が抜けていった。
枝に、つかまった手が、かけた脚が、わななく。
血の気すら、ブラックホールに吸い込まれていっているようだ。
そしてついに、地面に吸い寄せられるように、抜け殻のようになった身体が落下していくのがわかった。
力の源泉ってなんなのだろう、ということについて考えるひまもなかった。
意識が薄れ、真っ暗闇になる。
小さく、名前を呼ぶ声がした。
あぁ、夕飯の時間なのだ、家に帰らなきゃ、と思う。
心配をかけてはいけない、僕は良い子なのだ、と思う。
ブラックホールは、いつしか消滅していた。
多くのものを剥ぎとり吸いこんで、消え去った。
暗闇の中で、それを感じていた。
冬の寒さが今年はいっそう身にこたえる。
あれから僕は、会社と自宅の往復だけで過ごした。
たまの休日も部屋にこもって考え事をしたりぼうっとしたり、本を読むこともなければ映画を見ることも音楽を聴くこともなかった。
そんな日々が2週間ほど経過したころ、まさみからのメール着信があった。
最近音沙汰がないことを気にかけてくれた内容だった。
そして、今度一緒に話をしようという誘いが書かれていた。
あれからかなりの時間が経過したせいか、僕はまさみに会うことが怖くなくなっていた。
僕はとりあえずは自分を見つめる目を養うことができたようだ。
そのことだけでも、まさみに報告したい気持だった。
あくる夜、白楽館という落ち着いた雰囲気の喫茶店でまさみと落ちあい、話をした。
久しぶりにまさみの姿を見られて嬉しかった。
「元気だった?」
「元気よ、和馬くんは大丈夫?わたし、このあいだちょっときついこと言っちゃったから気にしちゃったんじゃないかって気にしてたの。連絡もないし」
「ごめんごめん。冬眠してたんだ」
「やっぱり冬眠するんだ、クマっぽいって思ってたけど」
「ちょっと臆病なところもクマっぽいかもな」
「またまた、柄にもないことを」
そう言って、まさみはからからと笑った。
そして、軽く咳払いをしてこう続けた。
「そうそう、あのね、あなたが結晶と呼んでいたもののことについて考えてみたの。たとえば、極端なところで言えば…、赤い花を見て、素敵だなって思う人もいれば、不気味だなって思う人もいるわけでしょう。そうそれぞれ決定づけて思うことが結晶なんでしょう?それと同じで、ある人の容姿だとか行為だとか言葉だとかにだって、人はそれぞれの印象を持つと思うの。それこそ、アラカルトって感じで」
「なるほど、結晶アラカルトってわけか」
「和馬くん言ったよね、人の一つの印象から、それこそ一事が万事みたいに全体の印象が作られてしまうって。それはやっぱり、そうしてしまっていることを自覚するべきだと思ったわ」
「うん、そうだよね。まさみが言った、アラカルトっていうとらえ方はすごくいいと思うな。自分の感覚で相手の印象を選んだんですってことが、一段階、外在化してわかることになるでしょ。…とかっていうと、わかりにくいよね、えーと、結晶アラカルト」
「だいたい、イメージはわかるから、いいよ」
穏やかにそう言ってからまさみは続けた。
「でも、良かった。和馬くん、思ったよりも元気そうで。それに、さっき、ごめん、って言ったでしょ。前はそういう言葉でてこなかったもんね。あの日以来、いろいろ考えさせちゃったかな」
「うん、いろいろ考えたんだ。等身大の自分ってやつを意識し始めたのさ。僕はたしいたことのないヤツで、そういうヤツは不遜な態度で身を滅ぼすことを知ったわけ」
ホットココアの甘さが、まさみとの打ち解けた雰囲気をより際立たせる。
まさみはホットラムチョコレートを飲んでいるが、彼女もまた、このテーブルに漂う温かくて甘い雰囲気を強く感じていることと思う。
「そうやって態度を改めてくれたのって、そこまで私を好きでいてくれていることだって受け止めて良いんだよね?」
まさみは少し表情を引き締めて、僕の返答に重みがあるかどうかを確かめる準備をしている。
僕はそのままの感情をこめて、
「僕とつきあって欲しい」
と言った。
まさみは躊躇しなかった。
笑顔で、すっと右手を差し出してきて、僕は嬉しさにまごつきながらも、その手を握り返した。
僕は誤解を恐れないがために、いろいろなものを無意識に近いところで誤解をすることになっていたようだ。
誤解することから自由だという気持ちが、自省の念を忘れさせた。
まさみとのこれまでのやりとりで目が覚める思いがした。
彼女は美人なだけではない、しっかりと本質を見つめられる素晴らしい女性だ。
その後、僕らはたびたび会い、笑いあい、意見を交換しあい、いろいろなものを見て、たまには口論もした。
でも、お互いを尊重する気持ちを忘れていない。
雲が風に乗り、雪が降り、太陽や月が昇っては沈み、星たちは瞬いた。
そんな日々を流れる、時間というものが、なんだか急に僕らの味方についてくれたかのような気がしたのだった。
なぜって、時間の流れの中から得られた充実が、まるで時間を忘れさせるものだったからだ。
僕らは、お互いについて考え、話し合う時間を十分にもちながらも、時間の長さに飽きることも、短さを疎むこともしなかったし、焦りもしなかった。
時間というものからアラカルトした結晶が、そのようなものだったのだ、僕らはお互いに。
そんな時の流れから、いくつかの考えを得たのだが、それはこのようなことだ。
好きな者同士でも、別個の人間同士。相いれない部分、わからない部分、好みの違いがどうしてもでてくる。
そういったときに、すぐさま拒絶感をもたないことが大事なのだ。
自分自身が絶対なのではない。
自分というものがかけがえのないものならば、相手もかけがえのないものなのだ。わかりあうということは、そういうことを踏まえることなのかもしれない。
僕らの雪融けから一カ月。
ようやくこの街にも雪融けがやってくる時季になった。
そんな折、突然、彼女が交際一カ月のお祝いだとしてプレゼントをくれた。
くれたのは、なんと、バカでかいクマのぬいぐるみだった。
「なんでまた…」
あまりの巨大さとその唐突さに僕は絶句した。
まさみははしゃぎながら、
「あなたが冬眠するクマさんだったから、今があるんじゃない」
と僕の頭をぱしぱし叩き、
「嬉しい?」
と訊くので、やっと我に返った僕は
「嬉しい」
とクマを受け取った。
クマはちょっと目が離れすぎていて、間抜けな表情にみえないこともないのだが、それも愛嬌なのだろう。
こうやって僕らの交際を演出してくれるまさみに感謝した。
「で、お返しは?」
いたずらっぽくまさみが言う。
「キスは医者に止められてるんだ」
「オードリー・ヘプバーンの映画にそんなセリフがあったね」
そういって彼女はふふふと笑った。
「そう。君が喜ぶと思って言ってみたの」
「じゃあ、ただ言っただけ?ほんとにキスしてくれるんじゃないの?」
「クマは唇が無いから、ぺろぺろ舐めるしかできないんだけど、それでいいかな?」
「そんなこと言ったら、誤解されるよ!」
そう言って、彼女はやさしくキスしてくれた。
僕らはどのように、お互いからアラカルトしたのだろう。
夢中だったので、そのことについて僕はよく覚えていない。
でも、確かに、場面場面で、自分の意思で彼女からアラカルトした結晶があるのだ。
その小さなたくさんの結晶が、二人の絆を強めた。
しかし、気をつけなければいけない。
この幸せの急成長期に考えたくはないことだけれど、所詮、結晶はアラカルトしたもの。
数学の答えのように絶対なのではない。
そこを面白く感じるか、不安に感じるか。
きっと、どちらの気持ちも忘れてはなるまい。
妖しい結晶もあれば、美しい結晶もあり、脆い結晶もあれば、硬い結晶もある。
それとて、僕次第であると同時にあなた次第なのだ。
【終】
会わなかったというよりは、気持ちの整理がついていないがために会えなかったのだ。
その間、こんな夢を見た。
僕は小学生で、真夏の林の中にいる。
周囲には友達もたくさんいる。
目の前には樫の木がそびえ立っていて、どうしてもその木に登りたくなって登り始める。
枝から枝をつたって、下も見ずにどんどん登っていく。
友達はみんな見ているだろうか?
僕の勇気に目を見張ってはいないだろうか。
登れるところまで登って、さぁどうだと下界を見下ろせば、豆粒みたいなみんなは僕にかまわず鬼ごっこをしている。
きゃあきゃあ騒いでとても楽しそうだ。
僕は「おーい!」と呼びかける。
声は届かない。
また「おーい!」と、もっと声を張り上げる。
だけれど、誰も気付く人はいない。
「おーい!おーい!おーい!………」
寂しさを通りこし、悲しみがやってきた。
とたんに喉の奥に小さなブラックホールのようなものが生じて、精気とでもいうべきものをどんどん、しくしくと吸いこんでいく。
少しずつ力が抜けていった。
枝に、つかまった手が、かけた脚が、わななく。
血の気すら、ブラックホールに吸い込まれていっているようだ。
そしてついに、地面に吸い寄せられるように、抜け殻のようになった身体が落下していくのがわかった。
力の源泉ってなんなのだろう、ということについて考えるひまもなかった。
意識が薄れ、真っ暗闇になる。
小さく、名前を呼ぶ声がした。
あぁ、夕飯の時間なのだ、家に帰らなきゃ、と思う。
心配をかけてはいけない、僕は良い子なのだ、と思う。
ブラックホールは、いつしか消滅していた。
多くのものを剥ぎとり吸いこんで、消え去った。
暗闇の中で、それを感じていた。
冬の寒さが今年はいっそう身にこたえる。
あれから僕は、会社と自宅の往復だけで過ごした。
たまの休日も部屋にこもって考え事をしたりぼうっとしたり、本を読むこともなければ映画を見ることも音楽を聴くこともなかった。
そんな日々が2週間ほど経過したころ、まさみからのメール着信があった。
最近音沙汰がないことを気にかけてくれた内容だった。
そして、今度一緒に話をしようという誘いが書かれていた。
あれからかなりの時間が経過したせいか、僕はまさみに会うことが怖くなくなっていた。
僕はとりあえずは自分を見つめる目を養うことができたようだ。
そのことだけでも、まさみに報告したい気持だった。
あくる夜、白楽館という落ち着いた雰囲気の喫茶店でまさみと落ちあい、話をした。
久しぶりにまさみの姿を見られて嬉しかった。
「元気だった?」
「元気よ、和馬くんは大丈夫?わたし、このあいだちょっときついこと言っちゃったから気にしちゃったんじゃないかって気にしてたの。連絡もないし」
「ごめんごめん。冬眠してたんだ」
「やっぱり冬眠するんだ、クマっぽいって思ってたけど」
「ちょっと臆病なところもクマっぽいかもな」
「またまた、柄にもないことを」
そう言って、まさみはからからと笑った。
そして、軽く咳払いをしてこう続けた。
「そうそう、あのね、あなたが結晶と呼んでいたもののことについて考えてみたの。たとえば、極端なところで言えば…、赤い花を見て、素敵だなって思う人もいれば、不気味だなって思う人もいるわけでしょう。そうそれぞれ決定づけて思うことが結晶なんでしょう?それと同じで、ある人の容姿だとか行為だとか言葉だとかにだって、人はそれぞれの印象を持つと思うの。それこそ、アラカルトって感じで」
「なるほど、結晶アラカルトってわけか」
「和馬くん言ったよね、人の一つの印象から、それこそ一事が万事みたいに全体の印象が作られてしまうって。それはやっぱり、そうしてしまっていることを自覚するべきだと思ったわ」
「うん、そうだよね。まさみが言った、アラカルトっていうとらえ方はすごくいいと思うな。自分の感覚で相手の印象を選んだんですってことが、一段階、外在化してわかることになるでしょ。…とかっていうと、わかりにくいよね、えーと、結晶アラカルト」
「だいたい、イメージはわかるから、いいよ」
穏やかにそう言ってからまさみは続けた。
「でも、良かった。和馬くん、思ったよりも元気そうで。それに、さっき、ごめん、って言ったでしょ。前はそういう言葉でてこなかったもんね。あの日以来、いろいろ考えさせちゃったかな」
「うん、いろいろ考えたんだ。等身大の自分ってやつを意識し始めたのさ。僕はたしいたことのないヤツで、そういうヤツは不遜な態度で身を滅ぼすことを知ったわけ」
ホットココアの甘さが、まさみとの打ち解けた雰囲気をより際立たせる。
まさみはホットラムチョコレートを飲んでいるが、彼女もまた、このテーブルに漂う温かくて甘い雰囲気を強く感じていることと思う。
「そうやって態度を改めてくれたのって、そこまで私を好きでいてくれていることだって受け止めて良いんだよね?」
まさみは少し表情を引き締めて、僕の返答に重みがあるかどうかを確かめる準備をしている。
僕はそのままの感情をこめて、
「僕とつきあって欲しい」
と言った。
まさみは躊躇しなかった。
笑顔で、すっと右手を差し出してきて、僕は嬉しさにまごつきながらも、その手を握り返した。
僕は誤解を恐れないがために、いろいろなものを無意識に近いところで誤解をすることになっていたようだ。
誤解することから自由だという気持ちが、自省の念を忘れさせた。
まさみとのこれまでのやりとりで目が覚める思いがした。
彼女は美人なだけではない、しっかりと本質を見つめられる素晴らしい女性だ。
その後、僕らはたびたび会い、笑いあい、意見を交換しあい、いろいろなものを見て、たまには口論もした。
でも、お互いを尊重する気持ちを忘れていない。
雲が風に乗り、雪が降り、太陽や月が昇っては沈み、星たちは瞬いた。
そんな日々を流れる、時間というものが、なんだか急に僕らの味方についてくれたかのような気がしたのだった。
なぜって、時間の流れの中から得られた充実が、まるで時間を忘れさせるものだったからだ。
僕らは、お互いについて考え、話し合う時間を十分にもちながらも、時間の長さに飽きることも、短さを疎むこともしなかったし、焦りもしなかった。
時間というものからアラカルトした結晶が、そのようなものだったのだ、僕らはお互いに。
そんな時の流れから、いくつかの考えを得たのだが、それはこのようなことだ。
好きな者同士でも、別個の人間同士。相いれない部分、わからない部分、好みの違いがどうしてもでてくる。
そういったときに、すぐさま拒絶感をもたないことが大事なのだ。
自分自身が絶対なのではない。
自分というものがかけがえのないものならば、相手もかけがえのないものなのだ。わかりあうということは、そういうことを踏まえることなのかもしれない。
僕らの雪融けから一カ月。
ようやくこの街にも雪融けがやってくる時季になった。
そんな折、突然、彼女が交際一カ月のお祝いだとしてプレゼントをくれた。
くれたのは、なんと、バカでかいクマのぬいぐるみだった。
「なんでまた…」
あまりの巨大さとその唐突さに僕は絶句した。
まさみははしゃぎながら、
「あなたが冬眠するクマさんだったから、今があるんじゃない」
と僕の頭をぱしぱし叩き、
「嬉しい?」
と訊くので、やっと我に返った僕は
「嬉しい」
とクマを受け取った。
クマはちょっと目が離れすぎていて、間抜けな表情にみえないこともないのだが、それも愛嬌なのだろう。
こうやって僕らの交際を演出してくれるまさみに感謝した。
「で、お返しは?」
いたずらっぽくまさみが言う。
「キスは医者に止められてるんだ」
「オードリー・ヘプバーンの映画にそんなセリフがあったね」
そういって彼女はふふふと笑った。
「そう。君が喜ぶと思って言ってみたの」
「じゃあ、ただ言っただけ?ほんとにキスしてくれるんじゃないの?」
「クマは唇が無いから、ぺろぺろ舐めるしかできないんだけど、それでいいかな?」
「そんなこと言ったら、誤解されるよ!」
そう言って、彼女はやさしくキスしてくれた。
僕らはどのように、お互いからアラカルトしたのだろう。
夢中だったので、そのことについて僕はよく覚えていない。
でも、確かに、場面場面で、自分の意思で彼女からアラカルトした結晶があるのだ。
その小さなたくさんの結晶が、二人の絆を強めた。
しかし、気をつけなければいけない。
この幸せの急成長期に考えたくはないことだけれど、所詮、結晶はアラカルトしたもの。
数学の答えのように絶対なのではない。
そこを面白く感じるか、不安に感じるか。
きっと、どちらの気持ちも忘れてはなるまい。
妖しい結晶もあれば、美しい結晶もあり、脆い結晶もあれば、硬い結晶もある。
それとて、僕次第であると同時にあなた次第なのだ。
【終】