Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

「傲岸さ」という貧しさを超える。

2019-10-23 23:28:47 | 考えの切れ端
自分から逃げてばかりいると、傲岸不遜な性質になると思う。

自分から逃げるということは、
虚栄心ベースで飾った自分をほんとうの自分として
他人に認めさせようということでしょう?
そして、そんな虚栄の自分の実現っていうのは、
他人よりも優位に立ちたい気持ちがまず先にある。
そこに傲岸さが存在しています。

そうやって優位に立ちたい気持ちをインスタントに達成してしまうから、
傲岸不遜でさらに薄っぺらな内容の人間になっていく。
その薄っぺらさからもっと逃げていくと
もっとどんどん傲岸不遜で薄っぺらい性質は深まっていくのだと思う。
歳を重ねるとそういう傾向が強まって目に余るようになる。

たいてい周囲には
「こいつ、逃げてるがために傲岸なんだな」
っていうのが直観的にわかられて見透かされているものだけれど、
本人はほとんど気付かないものなんですよね。
気付かれたかな、と思っても、
それだって煙に巻けるものだと楽観的に考えていたりもする。
自分もそういうところはあるし、そういう人も見てきたし、です。

自分自身から逃げ、
偽りの自分を作り上げてうまくやっていこうとするのは、
たぶん合理的なんです。
利己的な合理性。
自分以外みんな敵ならばそうやって生きていけばいい。
しかし、そうやって破綻するのが人間の不合理な心理面。
ではどうあればいいのか。
思いつきの仮説レベルですけれども、
それは、対極にあるものと混淆してやっていくのが、
合理性にしろ不合理性にしろ一貫してやっているよりも
健全ってことになるんじゃないのか。

ただやっぱり、
生きやすいうえに豊かだ、っていう世界は、
自分から逃げてばかりいる人たちの世界ではないよなあ、
と思えます。

自分と向き合うのはなかなか大変だったりするし、
それこそまとまった時間が必要なんですよね。
そういう姿勢をとれること、そのための時間を持てること。
というような世界の到来には、
少しずつでも、みんながそっちへシフトしていくことが大事です。
ひとりだけの行動では理解されなくても、
みんながそうだなあと思って行動すると、ちょっと変わってくる。

……と、なんだか「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
みたいになってしまった。
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『絶滅した奇妙な動物』

2019-10-21 00:35:50 | 読書。
読書。
『絶滅した奇妙な動物』 川崎悟司
を読んだ。

爆発的に多様な種類の生物が誕生した
5億年前のカンブリア紀から現代までに絶滅した
興味深い生体構造をした生きものを113種、紹介するイラスト図巻。

紹介されている生物が現代に近づいてくると、
まだ現代に生きている生きものに形状が近かったりし、
眺めていてファンタジー感くらいの感覚を受けるくらいなのですが、
何億年前だとか、何千年前だとかの生きもののイラストを眺めると、
まったくそこに可愛げを感じず、
人間がそもそも持っている感覚であるバイオフィリア(自然、生きものを好む性向)
が働かず、バイオフォビア(自然、生きものを嫌がる性向)のほうが発動します。
獰猛で凶暴で、知性を感じないというか、
まったく話し合えそうにない感じが怖いんだと思います。

しかし、恐竜にせよ、絶滅した魚類にせよ、
化石から、その生物がどうやって獲物をとらえていたかだとか、
生活していたかだとか、歩き方もそうですが、
いろいろな事実や仮説を導き出しているのはすごいなあと思いました。
古生物学者たちっていうのがいて、
いろいろ考えたり分析したりして、
この生きものはこういう生活をしていた、と判定してきた。

また、現代が含まれる第四紀では、
人間による絶滅がほぼ絶滅の理由になっている。
これまで地球生命は、7割から9割の種が死に絶える現象を5度、
つまり5度の大絶滅(ビッグファイブ)を経験してきているそうですが、
それはどれも気候が原因だったり隕石が原因だったりするようなんです。
けれども、現代の、
6度目の大絶滅とも呼べる生命種の大きな減少傾向は
前述のとおり、人類が原因。
きわめて異質な大量絶滅期に入っている、と著者は述べていました。

これこそが人類の傲慢なところだよなあ、
とこういうことを知ったときには、重く感じますよねえ。

恐竜の幼生くらいならペロリと呑みこんでいたと推測される大きなカエルだとか、
13メートルを超える大蛇だとか、
体重が一トンのネズミだとか、
そういうのも出てきます。
実際に存在していたのだと考えると、
世界を認識する脳の部分が揺さぶられるような感じがしておもしろいです。


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『エッセンシャル思考』

2019-10-19 23:02:17 | 読書。
読書。
『エッセンシャル思考』 グレッグ・マキューン 高橋璃子 訳
を読んだ。

エッセンシャル思考とは、
「より少なく、しかしより良く」
をまずは信条として仕事や生活を進めていけば、
そういったシンプルな生き方こそが生産性を高め、
幸福な人生に繋がるものなのだとする考え方です。

人は、エッセンシャル思考か非エッセンシャル思考かに分けられる。
とはいえ、エッセンシャル思考の核を持ちながら
非エッセンシャル思考の行動を取る場合もあるし、
非エッセンシャル思考の核を持ちながら、
エッセンシャル思考の行動を取る場合もあります。
それを、どんどん、エッセンシャル思考ばかりを選択するようにしたらいい、
というのです。

本書を読んでみると、
僕自身はエッセンシャル思考の核を持ちながら、
非エッセンシャル思考の行動も取ってしまう事があるタイプだなあと自己診断しました。

エッセンシャル思考の人は、
仕事の戦略では、いろいろな方向に力を分散するのではなく、
「なにかひとつだけしかできないとしたら、何をするか?」を念頭に置き行動する。
そのために、明確な目標を置く。

<目的が明確でなければ、人を動かすことはできない。
目的もわからない仕事では、やる気も出ないからだ。
どれほど熱心にコミュニケーションやチームワークを教え込み、
360度評価で風通しのいい体制をつくろうとしても、
目的が明確でなければ、あがて問題が巣食い、はびこっていく。
・・・・・・・・・・・・・(中略)
目的が明確でないとき、人はどうでもいいことに時間とエネルギーを浪費する。>
(P152-153)

目的が明確ではない組織はどうなるのか。
著者はこう分析しています。
パターン1として、「社内政治が蔓延」する。

<仕事のゴールが見えずどうすれば勝てるかわからないので、
「上司の歓心を買う」という不毛なゲームに逃げ込んでしまうのだ。
その結果、本来なら仕事に注ぐはずの時間とエネルギーは、
表面的な自己演出やご機嫌取りに費やされる。
不要なだけでなく有害で、生産性を著しく下げる行動だ。>
(P153-154)

これは会社という組織だけの話ではなくて、
組織であれ、個人であれ、当てはまりますね。
個人でいえば、他人の目ばかり気にして、いい車にのったりいい家に住んだり、
ということが目的化してしまうことを著者は述べています。
もっといえば、コミュニティや小さな町にもこのことは当てはまると思います。

パターン2として、「なんでも屋になる」が挙げられています。
明確な目的がないため、次のようなことになると書かれています。

<それぞれ目先の利益のために行動するようになる。
といっても悪気があるわけではないし、
個人レベルでは本当に重要な仕事をしているのかもしれない。
だが各自が別々の方向に進んでいたら、
チーム全体としてどこにもたどり着けない。
1歩進むたびに5歩下がるというありさまだ。
同じことは仕事以外にも当てはまる。
あまりに多くのことに少しずつ手を出していたら、
本質的なゴールにたどり着けない。
努力の方向性がバラバラで、成果が足し算されないからだ。
・・・・・・・・・(中略)
思想家のラルフ・ワルド・エマーソンもこう述べている。
「人と国を滅ぼすのは、作業としての仕事である。
すなわち、自分の主目的を離れ、あちらこちらに手を出すことである。」
(P154-155)

そのための解決策は、「本質目標」を定めることなのですが、
詳しくは本書をあたってください。

その他、「バッファ(緩衝)」「線引き」「編集」など、
いろいろな側面から、
エッセンシャル思考の実践についてわかりやすく説明されています。
なかなか本当にやるには難しそうなところもあるのですが、
きっと、みんなの理解があると、
みんながエッセンシャル思考を実践していけるという種類のものだと思うので、
広く世に広まっていったら、
日々がより楽しくなるだろうし、ストレスも減るだろうし、
生きやすくもなるんじゃないかなというイメージが湧きました。

2014年の全米ベストセラーということで、
ちょっと古くなってしまいましたが、
それでも十分、そして今後も通じること間違いない良書でした。


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『ことり』

2019-10-16 22:47:54 | 読書。
読書。
『ことり』 小川洋子
を読んだ。

人間の言葉を話さなくなり、
その代りに小鳥のさえずりを理解する兄と、
その兄の言葉を唯一理解する弟。
のちに「小鳥の小父さん」と呼ばれるようになる弟を主人公にした、
哀しくも優しい作品でした。

派手な出来事はほとんど起きないし、
大なり小なり、何か事件のようなものごとが起きたときにも、
社会のはしっこにポジションを取るような小父さんを
まるごと包む空気ごと
(それはきっと、小父さんとそのポジションの相互作用で出来ている空気)
描かれているので、
穏やかで控えめでつつましい印象のまま、話は進んでいきます。

どちらかといえば、
どぎつい原色ではなく、
パステルの淡さといった配色を感じるような文学作品です。
やわらかでさりげなく繊細な光がふりそそいでいます。

文体や語り方、内容、といったものから出来あがるこの世界観は、
世界がどういうぎらぎらした方向へ蠢いていっても、
失くしてはいけない大切なものだよなあと感じられるものでした。
そして、本作品内の描写というものが、
的確でありながら角が無い感じがして、
作品を支える細くても丈夫な
無くてはならない柱たちになっているように読み受けました。

小父さんの一生は、
傍目に、ささやかな人生、というようにも感じられるのですが、
そういう美しさをも許容していく世界であればいいよなあ、とも思いました。
生き方として、小父さんのような生活の仕方が合っている人は
たくさんいるのではないか。
そういった人たちを、支えるまではいかなくても、
近くに体温を持って立っていてあげられるような感覚を与えてくれる
作品でもあったのではないかなあ。

こういう、落ち着きある読書体験ができる本に出合えて、
そういった体験ができるのも、読書の好いところですね。


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『「こつ」と「スランプ」の研究』

2019-10-08 20:12:50 | 読書。
読書。
『「こつ」と「スランプ」の研究』 諏訪正樹
を読んだ。

サブタイトルに「身体知の認知科学」とあります。

人はどのように物事を認知し、考え、理解していくのか。
そういったことを学問として研究していくのが認知科学。
本書は主に、身体知をとりあげています。

たとえば本書では、野球のバッティングの上達には、
体感を言葉にすることが大事だとされる。
足の踏ん張り、身体の開き方や、肘の折りたたみ方など、
バッティングする際の身体の体感を意識して、
どうやっているかを言葉にしてさらに意識する。
すると、言葉で意識したことによって修正点が見つかり、
それを身体に試すことになる。
そして、それがどのくらい成功したか、
どのくらい失敗したかをまた言葉にして意識し、
さらに修正していく。
それでうまくいっても、
状況や環境や自分の肉体の調子が変わればまた、
その方法ではうまくいかなくなりますから、
また言葉で捉えなおすということが繰り返されます。

また、感じていることを言葉にし、それを行動にフィードバックすると、
さらに感じることが変わって、また言葉が変わります。
さらにさらに、その変化した言葉によって、
行動もまた変わっていくという繰り返しになります。
これを進歩とか洗練というのかは、本書では書かれていませんが、
先鋭化という問題も含めて、
言葉で突き詰めていくという本書の方法の筋は
いたってわかりやすい直線的な方法のようにも感じられます。
しかし、突き詰めた先に袋小路が待ち構えていてもそこでストップせずに、
たえず変化していくものだという、
言葉と身体の相互作用のダイナミックさを説いているのがよかったです。

おそらく、袋小路は「スランプ」なんです。
とすると、先鋭化というものも「スランプ」なのかもしれません。
「スランプ」だって言葉にしていくことをやめずにいることで乗り越えられやすくなる、
というようなことも本書には書いてあります。
先鋭化したものを辿っていって言葉で解きほぐし、
基礎の段階から再定義しなおすなど、
言葉をさらに紡いでいくことによって、
先鋭化すら乗り越えられるんじゃないか、
という可能性をこのあたりから感じました。
きっと性急じゃなければ、光は見えるのです。

居心地の悪さを感じること、そして工夫して居心地の良さを創ること。
たとえば、カフェでひとりくつろいでいるときに、
隣席に二人組のおしゃべりな女性たちがやってきて居心地が悪くなる。
でも、身体の向きを変えて、女性たちに背を向け加減にすることで、ましになる。
というようなことが、身体知である、と著者は説明します。

感性というものも、言葉と身体のやりとりにおいて大事だと解き明かしています。
感性は着眼点です。その人ならではの着眼点で紡ぎだされた言葉があり、
その言葉によって身体は変化していきます。

と、まあ、僕が語るくらいなら、本書をまるごと、ずいずいと読んでほしいのです。
思っていたよりずっと骨太で、無駄が無く、内容がしまっていて濃厚で、
難しいところはあれども、総じて親切な説明といった体です。
おもしろいし、ためになる良書です。

言葉の捉え方なんかでは、
僕がこれまで独自に考えていたものが立証されたところもありました。
また、言葉にすることが大事、だという考えは、
『弓と禅』的な世界観・方法論を信奉する人からすると、「ちょっと待った!」
となるでしょうけれど、そういう要素ももちろん否定はせずに、
本書の、言葉が重要だとする論述も呑みこんでみるのがいいのではと思いました。
小説を書く行為にも類推して応用できる論述です。
そういう方面の人にだって是非おすすめしたいですね。
もっといえば、あらゆる生活面・仕事面で適用できるものでした。
それなりに読解力を磨かねば読めないかもしれないですが、
ほんと、良い本だったので、おすすめしたくてしょうがありません。


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