Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『なつかしい時間』

2021-11-26 22:01:27 | 読書。
読書。
『なつかしい時間』 長田弘
を読んだ。

1995年から2012年までの17年間、NHK「視点・論点」で著者が担当した48回分と同じ時期に話した別の3篇をあわせて収録したエッセイ集です。

現代において「時代の影」へと追いやられてしまった尊いものに目を向けるような問題提起のエッセイ集といったふうでした。「そこが問題なのではないですか」にいたるまでの分析や感じていることが細やかです。だから読んでいて「うん、たぶんそうなんだろうなぁ」とこちらが思えるという、理解する上での納得という土台に乗っかるような問題提起なのです。少なくない章でその具体的な答えを探し実行するのを読者に委ねていましたが、その問題提起に至るまでのなかで、近代の古典などを引いたり紹介したりしながらですから、読んでいてもなかなかおもしろみがあるのです。文学世界の碩学の話を聞いている気分になります(著者は詩人です)。

どういった事柄を問題として提起しているか。たとえば、発信力ばかり叫ばれる今、受信力だって同じくらいいやそれ以上に大切ではないか、というようなことを述べていらっしゃる。これは98年の時点でこう考えておられるのでした。受信力については、リテラシーを磨こうという言説が今、これに対応しだしていますが、本書の後半で著者もリテラシーについてしっかり書いています。

また、風景の中で自らの小ささを感じる経験がとぼしいから、尊大な人が増えたのではないかという説にも、そうかもしれないと思いました。「風景の中にいる」ってことをしないですよね、なかなか、自分も含めて多くの人がそうなのではないでしょうか。

といったように、本書では言葉や記憶や風景や対話、そして時間といったものを、温故知新のように、かつての在り方を知り今また再び確かめることの大切さを問い、訴えたものだと言えるでしょう。とはいえ、説くとか訴えるとかの言葉を使ってでは本書の感想としてはズレてしまいます。もっと、解きほぐされた言葉で、言葉にならないものがあることを見据えた上で語りかけてくれています。

著者自身の豊かな世界観から発せられる数々の考察は、現代人の貧しい世界観を自問するきっかけとなるものだと思います。世界観なんてものを俎上に載せると、正しいか正しくないかでの二択で世界観が語られたり、散文的に乱立する世界観をイメージしたりしがちかもしれません。でも、この本から学べることはそういった種類の見方ではなく、その世界観が豊かなのか貧しいかです。

僕がそこから感じたのは、まず豊かな世界観を持つようになってから、たとえば経済を考えてみてはどうなのだろう、ということでした。また、多様性といわれますが、多様性の前段階に豊かであること。そうした豊かさの基盤が、多様性だって根付かせてくれるのではないか。同じフィールドで共存しうるというのはそういうことなんじゃないでしょうか。

……などなど、きっと何度も本書を読み返せば、いっとき豊かな気分になったその効果が板についてきそうな気がするのでした。


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『ピアニストの脳を科学する 超絶技巧のメカニズム』

2021-11-19 23:22:16 | 読書。
読書。
『ピアニストの脳を科学する 超絶技巧のメカニズム』 古谷晋一
を読んだ。

クラシックのプロのピアニストは、どのように演奏をしているのか。指の動き、身体の動き、楽譜の理解とそれに沿った進行、ミスへの対応、演奏表現の仕方などなど、その脳の仕組みは素人やアマチュアとどう違いどう優れているのか、また、身体に差はあるのかなどを、MRIやPETといった近年に発達した科学技術装置での観察や各種実験での結果から解き明かしていく内容です。一言でいうと、これらは「音楽演奏科学」という学問分野にあたるのですが、この分野からの一般に向けた研究報告でもあるでしょう。

たとえば「音楽教育は幼少時からしたほうが伸びる」と俗に言われますよね。それは本当なのだろうか? という問いへの解答や(これは本当なのですが、大人になってからの音楽教育によっても音楽の能力は発達します)、「モーツァルトを聴くと頭がよくなる」のは本当か? への解答(モーツァルトに限らずクラシック音楽によって一時的にIQが上がるらしい)といったような世間でささやかれているような話題への言及もあるのです。しかし、本書で扱われるトピックはもうちょっと硬派です。そのなかでも、僕には脳の部位の発達の話よりも、身体的な部分での違いの話のほうがおもしろかった。

ピアニストの個性によって違いはするんです。ですが、たとえばトレモロ(親指と小指で二つの音を交互に打鍵する)を奏でるとき、アマチュアでは手首や指などに力が入りがちなのに対して、上級者は肘をより回転させているという傾向の違いが出る。こういうような例が他にもいろいろ出ているのですが(たとえば、手首や指よりも肩の力を使うというように)、きびしい練習を重ねることで、身体の使い方が変わってくる。より省エネで演奏できるようになることもそうですが、効果的に音を出したり、速弾きしたりするとき、身体の使い方に要領があって、それを為すための工夫を身につけられるかどうかが大きいようです。人によっては意識的にはっきりと自覚して身につけるのか、無意識に身体が覚えていくのか、どうも後者の傾向のほうがどちらかといえば強いように感じました。そして、そんな無意識的な力の加減やテクニックを、現代の科学は解き明かせるようになってきたのです。昔ならば経験論で語られ伝えられた演奏技術が、こうして証左が得られるというか、科学の客観性で捉えられることで、理解が進むことになっていきます。そればかりか、今後はこの研究結果からさらにピアニストの現場へのフィードバックが起こるかもしれない。そうすると、より効率的に技術を習得できる人、つまり従来よりも短時間かつ習得レベルも高いピアニストが出てくるのではないでしょうか。

また、ピアニストに多い故障や病気について書かれた章もあります。どこかが特化すると、別のどこかに無理がかかりもするでしょう。腱鞘炎、手根幹症候群、フォーカル・ジストニア(スポーツ選手のイップスに近い)の三つをとくに取り上げていました。これらについては、まだ発症のメカニズムや克服の処方箋がわからなかったりするところがあるようです。しかし、やはり「音楽演奏科学」の発達などで、こういった病気にあてる光が多角的になるぶん、解決への糸口へは近づいていっている、と言えると思うのです。

そのように考えていくと、未来って明るいです。ピアニストになるためのノウハウが充実し、病気にならないための姿勢やケアの仕方などが明らかになり、さらに万が一病気になっても克服するすべが見つかる。そういった方向をはっきりと向いているなぁと思えた学問分野でした。

僕もこどもの頃にちょっとだけピアノをやりましたが、本書で書かれている「肩で弾く」というのはなんとなくわかるところでした。でもまあ、僕の場合は不真面目すぎて、それでもなぜか音感だけは鍛えられて残ったタイプでした。……とかなんとか、僕についてはこれくらいで。


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「ダーク」というデフォを回避するには。

2021-11-17 14:38:33 | 考えの切れ端
今回は、この世界に住まい世間に属する僕らの態度のなかでも、「素直に言ってしまえばダークサイドだよね」といえる地点からはじめます。

せせこましくて、陰湿で、歪んでいて、汚くてっていう悪い姿勢でいたほうが足をすくわれにくいのってみんなわかってるじゃないですか? グループ内だとかの閉じた世界では特にそうだし、開かれた世界でも匿名を使ってそうしがちですよね。より狭い範囲でしか通用しない善、または自分だけの善(つまり利己かつ悪)に忠実にというふうに。

人が自然とそうなってしまう世界観や人間観は、たぶん代々しぜんと継承されていく、あるいは形作られていっています。少なくともここ三代世代くらいの時代感覚で考えるとそう言えそうな気がします。そこに逡巡を経験する時期はあったとしても、とりまく社会環境に抗わずに適応するようになるからだと思います。大人になって以後をも含めた人の成長過程が抑圧や影響を受ける社会環境に、結局は取り込まれるからじゃないでしょうか。

そこにはまず、社会環境を自然環境のようにみるというように、もっと言えばたとえば神様が創り上げたものだというように「社会環境だって偉大な力で創られた確固として揺るぎない、まるで真理かのような仕組みなんだ」という意識からはじまって、それが抜けないからなのではないでしょうか?

大きく見てみれば、知識量の少ないこども時分のまま、大人になってもそれほど知識量が変わっていないことにひとつ、その大きな要因があると見てとれるところがあります。というか、それまでの「揺るぎない基盤である社会環境」という前提を疑えるほどの知識量を蓄えないまでもふつうに生活できてしまうから知識量が増えないんです。知識量を増やさずいても、とりあえず一生をそれほどの苦難無しで送ることができる人が多い(ただ、そういう人たちが他者にしわ寄せを与えているケースは山ほどあるでしょう)。

社会環境って完全ではないし、完璧でもない。また、最悪ではないかもしれないけれど最善とは程遠い。そういったものを無批判で受け入れて、「社会環境の手のひら」の上で暴れまわるのが、せせこましくて、陰湿で、歪んでいて、汚くてっていう姿勢を生むんじゃないでしょうか。手持ちの札が少ない分、無理をしたりルール違反をしたりしがちになってしまいます。そういう手合いが増えれば、数の論理で、ルール無用が暗黙のうちに認められるあるいは流されてしまうようになってしまいます。

「社会環境の手のひら」っていうように擬人化して書きましたが、そのまま擬人化を続けながら僕の意見を書くと、手のひらも含めた「人間存在」を僕たちが創りだしたり育てたりする発想で「社会環境」を見つめ直したらどうなんだろうということです。

そのほうが健全だし、生きやすいんじゃないかなぁと思えるんですよね。現状のままだと、以下に書くような「○○○○」的姿勢に自動的になってしまいがちです。

→「本当はあいつが一番悪いから一言いってやりたいんだけど、やり返されること必至だしそれだとまるで敵わなくて被害は甚大に。かたや、こいつは悪いわけではないが俺よりいい生活をしているのが癪。でも言い返してもこないしやり返してもこないから被害の心配はいらない。だからこいつで鬱憤発散」的。

こういう「すれっからし化」は、知識量を増やすことによって回避できるようになるきっかけのひとつになり得るなあという話でした。あと、知識量によって前提を疑えることが大切です。がっちり先入観になっているものって多いですからね。
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『火花』

2021-11-13 22:27:57 | 読書。
読書。
『火花』 又吉直樹
を読んだ。

大きな話題となった、芸人・又吉直樹さんのデビュー作にして第153回芥川賞受賞作。

味の濃い小説という印象がまず先に立ったのです。しっかりと表現しながらも幅広い読者層に届くような文体がまずあって、繰り広げられるドラマも検討されていくテーマも最初の一歩目から最後のゴールへの一歩までしっかり味があるといいますか。まるで茶碗の中の米粒一つ一つがおいしいと味わうような読書でした。そこには、本書のクライマックスの部分とかぶるところでもあるのですが、純文学であっても商業性(広範囲にウケる面白み)を考えて取り入れている点が基本部分にあるのだろうと思いました。

主人公の若手芸人・徳永が地方の営業で出合った先輩芸人・神谷に魅せられていきながら、そのなかでの葛藤や憤りまでをも受けて止めていく話というのが、一本の筋です。

この本が世に出た時期と前後してしまいますが、今年の春に『コントが始まる』という芸人を主人公にしたテレビドラマがありました。とてもおもしろくて、胸をついてくるところもふんだんにある佳作だったなぁと今でも印象深く思い出すことができますし、とても楽しむことができたドラマだったのですが、このドラマを見ていたおかげで僕が本書に入り込みやすかったところはあると思います。芸人世界の日常って、わかりそうでわかっていませんが、その濃い空気感を知ったのはこのドラマによってのものでした。しかし、本来は、この『火花』あってこその『コントが始まる』だったのかなと、読了して感じるところです。

あと、又吉さんの人生が実際にそうなのかもわからないですが、よい女性ばかりでてくるなぁというか、芸人さんの近くに現れる女性ってみんな素敵なのかなぁという感想を持ちました。なので、女性が手放しに「よい存在」と描かれていて、女性礼讃(まあ、芸人さんの下積みをささえてくれるのですから、その情には圧倒されているのかもしれない)みたいなところがちょっと気になりました。

そしてやっぱり、笑いが巧みでした。技巧をみせびらかすでもなく才能に酔うでもなく、おもしろくてなんぼだ、っていうふうにおもしろさの度合いが重視されていると思ったし、それで話のなかでまったく浮いてないのですから、バランスの調整力も見事です。そこはやっぱり、さっきも書いたように商業性のある人だっていうことなんです。作為性を感じさせないで、作為的にやる。悪い意味ではないです。作為的にやったほうが、読者をおもしろがらせることができるからでしょう。そしてしっかりクライマックスで盛り上がるし、そこできちんと本質を描く。このハーモニーが作品を締め、徳永と神谷というキャラクターを昇華させたのではないかなぁ。

『火花』は徳永視点の話でしたが、神谷視点でもなにかまた別の、ちょっと違うかたちのおもしろいものになりそうな気がしました。そういうところ、著者は考えた末にこの形に決めたのだろうとは思うのですが。

というところですが、やっと読めて大満足の作品でした。


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『ホモ・ルーデンス』

2021-11-11 22:44:35 | 読書。
読書。
『ホモ・ルーデンス』 ホイジンガ 高橋秀雄 訳
を読んだ。

若い時分から言語学に秀で、歴史学、文化史に功績を残したホイジンガの晩年の大作です。タイトルにあるホモ・ルーデンスとは「遊ぶ人」という意味です。ホイジンガの考えのなかでは、人間は遊んでこその存在。遊びの中の真面目さもよし、娯楽としての遊びもよし、命を賭けた遊びも認めます。そして本書の最後のほうでは、「すべては遊びなり」という言葉が本論を締めくくるのに「ふさわしい結語として湧きあがってくる」と書いてあります。

遊びのなかに遊びとして文化が生まれる、と大きく、そして濃密に論じ始めて、それから法律、戦争、競技、詩、哲学、芸術といった相を「遊びの論」の観点から見ていくという流れです。なかなかややこしいですが、ここぞというところで肯かせられたり気付かされたりする部分は多く、ホイジンガと共に対話を重ねながら読者も考えを深めていくといった読書になりました。

ホイジンガの定義する遊びとはどうなのか気になると思いますので、以下に引用します。
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 もう一度だけ、遊びの本来の特徴と思われるものを数え上げてみよう。それはある時間、空間の限界のなかで何か意味をもって進められていく一つの行動である。それは、目で見てわかるある秩序にしたがい、自らの意志で受け入れた規則によって、物質的有用性あるいは必要性の領域の外で行われる。そのムードは熱狂と陶酔のそれであり、またそれが奉献のためにあるのか娯楽のためにあるのかに応じて、神聖なものになったり、単に祝祭的なものになったりする。高揚感と緊張がその行為に伴い、歓びと心のほぐれがそこに生まれる。(p276)
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つまり、時間や場所が限定されていて、決められたルール(あるいは、あらかじめ踏まえているルール)に則って行われるもの。生活上または仕事上などで必要だったり役に立つことだったりといった有用性はまず念頭におかれないのです。

裁判も決闘も戦争も遊びの範疇であることが本論からわかるのです。しかし、本論自体にホイジンガであっても白黒つけられていない部分があって、そのために本論のそこかしこに揺らぎを感じます。なので、やっぱり「読みながら自分で考えてみる」という行為がつよく求められてきます。どんな本でもそういった性質をもっているものですけれども、本書は現代人の書くものに比べるともっと、出来あがっていないどろどろしたものを放り投げてくる感があります。

僕のいう、その揺らぎの最たるものが「遊び」と「真面目」の二項対立の図式です。これは本書の「遊び論」についてまわっていることのなかで最大のテーマに位置すると思うのです。でも後半では、遊びの反対が真面目、というようにごく単純に語られる部分があって、反対に前半では、真面目は遊びのなかにでもあるものだが真面目のなかに遊びはない、だから遊びは真面目を内包するものであり真面目より大きなものだといえるというように論じている部分がある。こういうところは後世にその分析を委ねたのかなと考えるところですが、後世に生きる僕のような一般読者ではその分析は困難なのでした。

子どものふざけあいから命を賭けた遊びまで、どうやら人は遊ぶことから始まる存在のようです。ただ、世界大戦の頃から言われる、現代の「全面戦争」は遊びとは言えないものになってしまった、と。名誉や誇りをかけて戦う近代までの戦争は遊びの範疇だと解釈できたのに、現代の全面戦争は遊びから逸脱してもはや遊びではないというようなことをホイジンガは言うのです。真面目にやってしまうことになり、陰惨さが増大した。

ホイジンガによると「遊び」があってこそ文化は生まれる。そして「遊び」が失われるということは滅びへ向かっていくこととなる。たとえば全面戦争というものを考えると滅びへ向かうものだとよくわかる。また、僕の読解だと、全面戦争だけじゃなく、人の負の感情や、負の感情に寄り添ったりする行為も、遊びから逸脱したものなんじゃないか、とふと思ってしまう。悲しみや苦しみといった人間のマイナスの感情について考えを及ばせると、そこに「遊び」はないように感じるということです。すわちそれは滅びへ向かうものだと考えることができるし、実際そういう性質のものだとも思います。

たいていのことが「遊び」だと知ると楽な気分で生きられるのではないでしょうか。僕はそういう気分になりました。しかしながら、「ほぼすべてのことは遊びである」と割り切った意識を常に強く持とうとすると、悲しみや苦しみの感情、共感、慈しみ、愛情などといったものが薄っぺらいもののように感じられてきます。これは遊びの大きな一面である「娯楽のイメージ」に引きずられることもありそうだけれども、それより遊ぶことの独善性が関係していないだろうか。そして、その姿勢では、たとえば小説は書けなくなるでしょう。

「遊び」以外のものに目を向けると疲れるし、取り込まれる恐れもあるものだと思う。滅びの性質をもつものと自らはしっかり対峙して「遊び」の領域に立って臨めればいいのでしょう。そう考えていくと、小説とは、「遊び」以外のものを「遊び」とつなぐものなのではないのだろうか。「遊び」と「遊び以外」の境界線上に立ち、両者を断絶させない行為が小説を書くことかもしれない。たとえば他者のマイナスの感情に対してまっすぐ見つめるということをする。できるならば寄り添う、手を差しのべる、それは滅びから脱するため。小説を書くとはそういった行為なのかもしれない。

閑話休題。

十九世紀にはいってから遊びから真面目へと傾斜していったと語られています。その流れの下流にいま現代があるとしても、「それでいいのか?」感があります。真面目、真面目でやってくと行き詰りますから。さらに、本書の前半で「遊び」を無くして滅ぶことにも言及がありますし。じゃあ現代の一般大衆の遊びってなんだろう、とちょっと考えてみると、ゲーム機やスマホ、パソコンなどのゲームって盛んな分野だからそれで真面目から距離を置くような時間や体験になっているのかな、と思えます。

遊びと真面目をしっかり弁別している現代であるがために、そうじゃないものを攻撃したり排斥したりする態度ってあるなあと思います。そこの窮屈さというか気持ち悪さはあるんですよねえ。汽水域みたいなところにも独自の価値や意味はあるように思いませんか。On-Off、ゼロ-イチじゃなくて。グラデーションとして考えてみる。

そうやって、遊びは真面目に負けそうになっても騙し騙し生き延びていくのかもしれません。もしくはどこかのタイミングで復権していくことだってあり得る。というところで、真面目な分野の最たるものについてホイジンガが述べているところを引用します。
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 こういうわけで造形作品には、それが生命を吹き込まれ、享受されるための公的な行為の場が欠如している結果、この分野では遊びの因子のための余地が、もともとないように見えるのである。造形芸術家は、どれほど創造衝動に憑かれていようと、一人の職人のように緊張し、一心不乱になって働き、絶えず己れを検討しては改めてゆかねばならない。彼の感激もそれをいまだ構想しているうちは、まことに自由奔放で激しいであろうが、いったん制作の実行に移れば、彼はつねに、造形する手わざに服従してゆかねばならない。こうして作品の制作にあたっては、遊びの要素などどうやら存在しないように見えるし、また、それを眺める、鑑賞するという場合にいたっては、
まったくそういう点がないのである。それには何ら可視的な行為というものが含まれていない。
 このように物を創る仕事、職業といった性格が、造形芸術に対して遊びの因子が働くのを阻止している。(中略)物を製作する人間の課題は真面目なもの、責任重大なものである。すなわち、遊びめいたものは、いっさいそれとは無縁なのである。(p342-343)
_____

これには建築も含まれると思うのですが、この引用文の内容をあてはめてみると腑に落ちますね。こういう業界って、ルーズさをまといながら、でも、真面目を尺度としていますし、そうじゃなかったら使うのに危険な建築物になってしまいます。そこで、文化を創る人間として、滅ばないための人間として、わきまえる知性が欲しいですし、この業界の外にもおなじ真面目な尺度を優先的にあてはめられだしたら敵わないな、という気がします。

というところで御終いです。

遊びを復権しうるものは、まずは知的好奇心と、そのあとの学びの行為にあるかもしれない、そういった予感のようなものがちょっと芽生えました。


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