元は作戦行動終了後、真っすぐ会社へ向かっていた。事務室の入り口で出迎えた掛川は、
「お疲れ様でした。あとは他のチームにまかせて。今日はもう大丈夫だから。」
と元を家に帰した。
それから数日、元はそわそわと浮ついた気持ちのまま毎日を過ごした。会社で会う美希ですら、普段よりも苛立ちを感じさせる表情をしていて、席についていてもたまに不安げに宙を見つめているときもあるのだった。
昼休みになると、元は美希にそれとなく庄司のことを尋ねたのだが、何も情報が無い、と三日間、同じ返答をされた。
あの日、元と荒木が麹町をうろうろしていた頃、庄司はひとり別働隊になって、どこかを歩いていた。そのときの足どりはわかっていないが、美希とは幾度かにわたって連絡を交わしていたのだという。美希が言うところでは、元と荒木が後方待機して出動の時を待つ役割にいたなかで、最前線の美希たちとの中間領域での警戒に庄司はあたっていたようだ。美希たちよりもいくらか広い視野で周囲を眺め、怪しい動きがないか気を配り、接触行動に移る際には速やかに援護するつもりだったらしい。
「『シジミチョウ』がマンションから出てきて私たちが尾行を開始したときにはまだ庄司は彼自身だった。でも、しばらくしてショートメールの言葉遣いがぞんざいになったのよ。おかしいと思って電話しても彼は出なかった。それでもショートメールはこっちへと送信され続けるの。この作戦には何名参加していたんだった? なんて書いてあったりね。おかしすぎるでしょ。だから私は独断で作戦をストップした。」
「『シジミチョウ』は知っていたんでしょうか。それで、向こうの組織にどうにかして連絡を……。そうそう、あのとき話していたんですよ。通信をハッキングできるといったって、手紙だとか落書きだとか、ローテクな手段を暗号でやられたらお手上げじゃないのかって。」
「でしょうね。『シジミチョウ』は私たちに勘付かれずに組織に助けを求めることに成功した。それどころか、私たちは逆襲されたわけだけど。あのとき、尾行を中止して引きあげるとき、前を歩いていた『シジミチョウ』はこっちを振り向いていたわ。確かよ。ちょっと笑っているように見えて、心臓に冷たいものを感じたわ。あなたたちにまで被害が無いことを祈ってショートメールを打ったの。庄司は途中から、ブラックバタフライズの人間のなりすましになっていたから。」
「俺がすぐに電話をよこして安心しましたか。」
「まあね。」
「そのわりにすぐ、電話を切ってくれましたね。」
「だから助かったんじゃない。」
二人は軽く笑った。やっとのことで、それまでのモノトーンの世界に何色かのパステル色が加わったみたいな空気になった。
その日の夕方、退勤時間の少し前に掛川から声をかけられ向かった会議室で元と美希は、あの日の深夜、庄司が丸尾町内で発見されていたことを知らされた。庄司には作戦中の記憶が無く、確保してからずっと保護下に置きながらさまざまなテストを行ったのだという。その結果、いくらかまとまった期間、施設で過ごしてもらうことになった、ということだった。
「じゃあ、俺たちはどうなるんですか?」
眉をひそめながら聞いてくる元に、腕組みをして立つ背の高い掛川は二人を正面から見下ろしながら言った。
「忘れるなかれ。君たちは人材派遣会社の社員なんだからね。がんばって。しばらく没頭してみてよ。あとは心配するな。野村さんは、週三日の午前中はスーパー七福屋の仕事もだったね。忙しくなるよ。がんばってください。」
一週間後、スーパー七福屋に新しい店長が着任した。美希によると、庄司は依願退職届を受理されていたそうだ。
元と美希の二人のホワイトドラゴンフライズ内活動については、しばらくのあいだ待機とする、とされたまま数カ月が経つ。クリスマスや正月が過ぎていき、もう元が住むアパートの隣家の庭では梅が咲き始めている。元は人材派遣会社の仕事のみをずっとこなした。意味のわからないデータ処理の仕事を回されることは一度もなかった。
ホワイトドラゴンフライズからは一度だけ、従来の半分の額ということで報酬がでた。あの作戦は失敗に終わったが、一応、機密情報を守り、危険を冒して追加の任務にもついたので、成功報酬を抜いた分だけ出たのだ。元はその額面にびっくりした。人材派遣会社の基本給のおよそ2.5倍もあったのだから。元はその金でスマホを最新機種の上位モデルへと買い替え、残りは口座に預けたままにした。
いつまた組織からプロジェクト参加の声がかかるかわからなかったが、たぶん、しばらくはないだろうと、元はなんとなく思うようになった。招集への心構えも緊張感も日に日に薄れていった。
ほとんど無駄遣いをしない元だったから、スーパー七福屋で働いていた時とは比較にならないほど生活は楽になったし、貯蓄の面でもこれからしばらくのあいだの安泰を保証できる上昇軌道に乗り始めた。実家からの仕送りは辞退することにしたし、それまで受け取っていた仕送りの分は、一部ではあるがいくらかのまとまった額として返す計画も立てていた。
暮らし向きに余裕が出てきたことで気持ちにもゆとりが生まれてきた。たまに飲む缶チューハイが缶ビールになった。昼飯も、会社でコンビニ弁当やカップ麺だったものが、近所のカフェでランチを取る日が多くなった。そして、そんなカフェランチの時間に、最近そこで働きはじめた若い女性スタッフと少しずつ懇意になっていったのだった。それが、元の気持ちのゆとりをさらに潤いあるものへと変えた。
若い女性スタッフの名前は南美といった。目鼻立ちのくっきりした細身の美人で、元は南美を遠くの席から眺めているだけで身体がほのかに熱くなるくらい初めから気になって仕方がなかった。短い会話だったとしても南美とコミュニケーションをすると、心を満たしている透明な自然水が炭酸水へと瞬時に変貌し、ふつふつと喜びの細粒を底の方から際限なく湧き立だせ続けるかのように活気づいてくるのだった。
あの作戦の失敗と、そこから切り離せない庄司の施設行き。そのショックによる鈍く澱んだ気持ちが、南美によってやっと再生しつつあった。元は内心そのことで南美に感謝していた。落ちついた物腰で率直かつ明るく接してくれることもあって、会えば会うほど惹かれる想いを強くしていた。
「キーマカレーセット、お願い。」
「大盛にしなくていいの?」
南美は元からの注文を書き込んでいる手を止めてそう聞いた。明るめの髪を後ろに束ね、いつも通りの茶色の長エプロン姿がよく似合っている。
「実はさっき会社で差しいれの串団子を食べちゃってね。ぺこぺこでもないんだ。」
「あらら。ちょっと詰め込むっていうだけのお昼ご飯なのかな。残念だなあ。」
「いや、キーマカレーが今日のランチメニューに載っていたのを見たらけっこうテンション上がったんだ。前に食べたときにすっごい旨かったから。さっきの団子が恨めしいわ。」
「ふふ。うちの、超絶美味しいですからね。気持ち、わかる。」
「南美ちゃんも食べたんだ。」
「うん。まかないで出してくれたの。感激のキーマカレーだったあ。」
瞳の輝きが増した。南美の、ほのかに影を感じさせる顔立ちの表情に、こうして自分との会話のなかでぱっと花が咲くのを見るたびに、元は明確な達成感と言ってもいいような手ごたえをしっかりと得るのだった。よし! やったぞ! と心の裡でこっそり快哉の叫びをあげるのと同時に安らかな気分にもなる、それでいて、毎度、なぜだかいくらか背中が丸まってしまう。そしてこれ以降、元は時間の経過がわからなくなる。状況への没入が始まるのだ。そして、いつも店を出てしばらく経ってから思う、幸福感って間違いなくこれだよな、と。
元はなんでもない毎日が特別に思えるくらい楽しくなってきた。人材派遣会社の仕事にはそれほどストレスもない。組織のほうから声がかからない今だからこそと思い、南美をデートに誘おうとそのプランを夢想するようになった。
公園でゆっくり話をしたり、遊歩道をそぞろ歩きするのもいい。映画も良いな、今どんなジャンルのものを上映しているんだっけ。電車に乗って動物園に行くのもいいけど、一日がかりになってしまうか。食事は気取らないものがいいだろうか。あ、嫌いな食べものってなんだったっけ。南美の休みの曜日を聞いて日取りを決めて、このあいだ取得したばかりの有給休暇を使って、だな。
南美は若くて美人だから、男性客から多くの視線を集める存在。でも、俺は誰よりもあれこれ彼女としゃべる頻度が高い。それもいつからか、南美はタメ口で俺に接してくれている。親密度では誰よりもリードしている、といっていいだろう。大丈夫だ、きっとデートの誘いにオーケーしてくれる。南美はLINEをやっていない、と言っていた。今どき珍しかった。デートにオッケーしてくれたら、そのときに電話番号を聞こうと考えていた。
元はこのような段階から、自分はとても幸運な男だ、とのぼせた。もう楽しくてしょうがなかった。会社のパソコンで文書を作成中にも、知らず空想のほうへ頭を使いがちで、いけね、と気づいてディスプレイに注意を戻すことがたびたびという有り様だった。だから、美希から久しぶりに声をかけられた時にはぎょっとした。いつも通りですけど、という態度を取りつくろうのに少しの間どたどたと表情が騒いだ。
ちょっといい? と元は空いている部屋に誘われた。
「何か、組織から働きかけがありましたか?」
美希は会社では珍しく、黒ぶち眼鏡をかけていた。午前中、スーパー七福屋で勤務してからの出社日で、なんとなくそのままにしたのかもしれない。
「いいえ。参加要請はないわ。あなたもないままでしょ。」
「もう三カ月以上ないですよ。このままずっと部活の幽霊部員みたいになったらなったで構わないんですけどね。ははははは。」
短く、軽く、小気味のいい笑い声が空間に刻まれた。そして、すぐさまその場のもともとの沈黙に吸い込まれていった。無音に戻ったのを確かめるように間をひとつ置いて、美希がどこかで仕入れてきた話をしだした。
「あのね、私たちの存在が留保されて放っておかれている間にも、いくつものプロジェクトが立ちあがって遂行されていってるのは想像がつくわよね。なかにはあのときの私たちみたいにミスってしまった作戦もあるのでしょうけど、そういうものも含めてどんどん時間は流れていった。時間の流れは幾多の作戦を押し流していったの。要するに、戦況はめまぐるしく変わっていってるのよ。この町とこの会社に匿われた組織の重要性、低かった被探知性、それらが変化してる。かといって、ひとつの大事な拠点なんだから、もしも撤退することになったにしても、それを知った相手方が乗り込んできて相手の拠点にされるのはよくない。それで、ちょっと耳にしたんだけど。あのね、最近立ちあがったプロジェクトがあるの。名前は『キタテハ』。この作戦はこの町のなかで遂行されるらしいのよ。ブラックバタフライズは音もなくしれっとこの町に飛来してたみたいってわけ。これ、けっこうやばいわよね、喉元に切っ先をつきつけられているみたいで。」
「作戦実行は近いんですか?」
「まもなく、だそう。私には二、三日のあいだ仕事以外は自宅待機しろって通達が来てる。」
「俺にはないな。」
「それも実はちょっと知ってるのよ。だから、まさかとは思うけど危ない目に遭わせたくないからこうやって注意するためにここに連れ込んだのよ。この件は内緒だからね。」
「俺はもうノーマークでいいポジションだから、そんな話がこなかったんじゃないんですか。」
「そうだといいけどね。でも、万が一ってこともあるから、気をつけて。」
「はーい、了解しましたっ。」元が右手で敬礼の仕草をしておどけるので、美希は細い眉を寄せて睨んだ。「冗談ですよ。」
元は一応の礼を言ってその部屋を出ると、事務室に戻るまでの廊下の途中でまたもやデートの空想に心を浸し、おめでたく頬をゆるゆるにゆるめていた。組織の動向よりも、南美とのデートのほうが優先度がずっと高いのだ。元は短い口笛まで鳴らしてから事務室に入った。その様子を見送っていた美希の表情は薄暗く、そのまましばらく扉の前に立ち止まっていたが、そのうち気分を切り替えたのか、表情から不必要な力みが抜けると、何事もなかったように階段を上っていった。
翌日。南美が非番なのを聞いていたから、元はカフェには行かず、会社の机でコンビニ弁当を食べて昼休みを過ごした。その次の日、呼吸が慌ただしいくらい胸の中を期待でいっぱいにしながらカフェの重い扉を開けた。カランカランとドア付きの鈴が鳴る。わざわざ作ってみせるでもなく、自然とそうなる晴れやかな表情。見渡した店内にちらほら先客がいたが、忙しくメニューを聞いて回っているのは主人だけだった。
「あのー、南美ちゃんは今日も休みでしたか?」
主人は元を一瞥すると、
「今も昔も、若い女の子ってのはねえ……。」
と曇った表情で苦笑いした。南美はこの町を出ていったのだという。
別れの言葉も交わしあえず、突然に断絶させられることになった南美との関係に、元は言葉を無くした。昼飯を注文したものの、食べたものの味がよくわからなかった。夜、自室に帰ると、何を食べたのかも思い出せなくなっていた。
南美にはなんの伝手ももっていないことにため息が何度も出た。こんなに未練のある気持ちになったのは、元にとって初めてのことだった。胸がしくしくきしむ。気持ちはまるで酸欠のように満たされない。まさか……、と『キタテハ』が脳裏をかすめる。いや、でも……。打ち消すほうが勝るのだった。
外では肌を刺すような冷たい風が強く吹き、空きペットボトルかなにかが転がる音がやがて小さく遠ざかっていった。
それから数カ月が経った。
ある日、元の部屋を美希が訪れた。南美がこの町からいなくなるやいなや心にぽっかり開いた暗い穴を埋めてくれるかのように、その頃から美希からの声掛けが増え、ふたりは少しずつ親密になっていったのだ。美希の存在感が際立ってきたおかげで、元は少しずつ元気を取り戻していった。
それは静かで、くつろいだ夜だった。
ふたりはベッドを背に隣合って床に座り、小さな声で話をしていた。
「七福屋を辞めることになってから、もう一年近いよ。なんだかだいぶ変わったな、俺の人生。」
体育座りの美希が、反らせた両足の爪先を動かしながらそれを見つめている。
「元がいた頃と1/3くらいスタッフが変わったわよ。あそこも今、なんだかそういう時期なのよね。」
「庄司さんはどうしてるかなあ。」
「そうね。元気だといいけど。」
美希がそう言ってから、ふたりとも自然としばらく沈黙した。冷たい静寂がふたりの半そでの肌に等しく貼りついてくる。外を車が走り抜ける音がやけに大きく聞こえた。
「本当に俺たちの組織は秩序を守っているんだろうか?」
元もそれまでの美希と同じように前を向いたまま、声だけで話しかけた。
「世の中の無秩序化は少なくとも進んでいないように見えるわ。」
「でも、ホワイトドラゴンフライズがブラックバタフライズに出し抜かれたことだって無いわけじゃないんだろ?」
「ちょっとやられてもね、再秩序化の主導権をブラックバタフライズに握られなければなんとかなるのよ。」
「ふうん。俺には何が正しいのかわかりかねてる。難しすぎてわかんない。」
元は天井を仰いでため息をついた。
「わたしはね、表の世界と裏の世界、それぞれを人の意識と無意識のイメージに重ねて見ているところがある。無意識ばかりに気を取られていると生きていけないように、世界の裏側ばかりに浸っているとおかしくなる。」
「じゃ、俺たちは危ないじゃない。」
「無意識って相当の深さがあるのよ。ぱっと想像してみる以上にね。むやみに奥まで進んでいくと戻ってこられないこともある。」
「詳しいね。」
「本当は進学して心理学を勉強したかったから。今でもそういう本を手に取ったりする。」
「そうなんだ。美希は物知りだもんな。」
横を向くと、美希は目を伏せていた。白くつるりとした頬が、心なしかいつにも増して透き通って見える。このまま見つめ続けていると、彼女の裸の気持ちにまで辿りつけるような気がした。
「意識には意識の秩序があって、無意識には無意識の秩序があるんだと思ってる。両者はそれぞれに違う方法論で秩序を成り立たせていて、それぞれのやり方でそれを保ってるのよ。そして、意識上の何かが無意識に落ちていって無意識に影響を与えたり、無意識のものがふいに意識上に現れて意識に大きな影響を生むこともある。というか、そういうことの果てしない連続で私たちは前に進むようにして生きているんだと思う。」
「なんでそういう構造なんだろうね。」
「さあ。そのほうがダイナミックに考えたり思ったりできるのかもしれないし。もしくは、心っていうものの実感がよりリアルになるからなのかもしれない。」
「無意識っていや、偶然のつながりだとか、虫の知らせだとか、そういった不可思議なことが起こる世界なんじゃないの?」
「いいとこに気付いたわね。さっきも言ったけど、無意識ってほんとに深いから、予期できないような領域で、それこそ虫の知らせなんかが起こる。で、そんな無意識は意識と対になっているように思えたりするけど、意識を下で支えているのが無意識っていう捉え方のほうがあってるんだと思う。そして、意識の領域よりも無意識の領域の方がずっと広い。でね、たまに考えるの。無意識を完全に意識化する試みがあったとして、それを実際にやった人間は耐えられるのかって。同じように、裏の世界を表の世界の考え方で固めるために、ブラックバタフライズみたいな無意識の権化のような存在を滅ぼすことは、裏の世界を表の世界にすることになるんじゃないのか、それに世界は耐えられるのかって。」
「やっぱり難しいや。……そうだな、無意識が無くなったら意識ってすぐ壊れてしまうんじゃないかな? 下支えしているのが無意識ならば土台が傾いちゃうからね。逆に、意識が壊れても無意識がしっかりしていたら再生できそうじゃない?」
「そうかもしれない。そして、無意識といったら混沌としたもの。意識の世界での常識が通じない独特の秩序でできあがっているから、無意識の意識化は無意識を破壊してしまうわよね。とするなら、そのあとに出てくる答えは、破綻。」
「要するに、表の世界と同様の秩序に支配された裏の世界もそのために破壊されるし、行きつく先は両方の破滅、ってことになるね。」
「元と話していてまた一歩、見るべきものに近づけた感じがする。」
「怖ろしい真実。」
言葉とは裏腹に、元の表情はにこやかだ。内容にリアルを見出せていないからだろう。
「あのさ、美希。『自由の時には、秩序を思いやれ。秩序を守るときには、自由を思いやれ。』」
「誰の言葉?」
「俺のだよ。名言じゃない? 前にけっこう考えたんだよ。自由ってさ、自由だけで生きていけるものじゃないでしょ。自由って実際には責任が伴うもので、それは自分に対する責任もあれば、社会の秩序をたもつ社会的責任もある。」
「うん。」
「つい最近まではさ、自由とはもっと解放されてて翼を広げて大空を飛びまわるようなことだ、ってずっと思ってたんだ。でも、どうやら人間に与えられている自由はそういうものではないんじゃないかな。まあでも別に、自由と秩序のどっちかに決めなくてはならない、ということではないんだよな。ただ、本音や自由が幅をきかせすぎているきらいって今の社会にはある。かといって、強すぎる秩序が自由を窮屈にするべきではない。つけ加えて言えばさ、自由から出てくる本音には、悪い秩序を壊して新しい秩序を立てるという役割を持っている。そしてその秩序は、しばらく経ってみると古くなっていたり間違いに気付かされたりして、新しい時代が必要とした新しい本音に壊されていく。その繰り返しで、たとえば現代が成り立っていることは間違いないと思うんだ。そこで気をつけた方がいいのが、あまりに無自覚にやってるってこと。」
「うんうん。それで『自由の時には、秩序を思いやれ。秩序を守るときには、自由を思いやれ。』なのね。よく考えたわね。」
「ありがとう。つまり、思いをね、自由と秩序の間を往ったり来たりし続けることがベターで、そうやっていくために少しは自覚的になったらいいんじゃないかって思ったんだよ。でさ、さっきの美希の言っていた無意識と意識、裏の世界と表の世界の話。意識と無意識のあいだでいろいろやりとりがあって、それぞれに影響を与えあうって言ってたよね。」
「……元。今日はちょっと冴えてる。」
「俺が言いたいこと、わかったよね?」
「意識だけが自己ではなく、無意識だけが自己でもない。無意識と意識のあいだを往き来する振り子こそがほんとうの自己なのではないか、ってことでしょ。同じく、自由と秩序を往復し続ける振り子こそ、ほんとうの人間なんじゃないかってことでしょ?」
「そうだよ。つまり、振り子を止めてはいけないんだ。そのためには自覚すること。」
「その通りね。」
美希の表情も元のようににこやかになった。だがそれは、元とは違い、現実の奥、それも質感をもったままの姿にいくらか触れられた気がしたことによるものだ。
「元。あなた、良いことを言ったからご褒美にひとつ問題をあげるわ。考えてみなさい。」
「せっかくちょっとすっきりしたのに。またしばらく悩まないといけないのか。参っちゃうな。」
「まあいいから聞いて。問題のシェアよ。」
「わかりましたよ。」
「さっきの元の話ね。本音が新しい秩序をつくって、古くなったらそのときにまた新しい本音がもっと新しい秩序をつくる、ってことだったよね。」
「そうだね。そして秩序を守るのは、建前だったりするんだよ。つまり、本音が開拓して広げた土地、そしてそんな新しい土地を守り、保つものが秩序だし建前だったりする。時代はそうやって蛇行しながら流れていく。」
「そこでなのよ。本音が壊す秩序って、社会の大きな秩序だけじゃなくて本人のごく個人的な生活の秩序の場合もあるし、本人を本人たらしめている秩序の場合もあるじゃない? 本音を言いたいと思っても、その本音を言ってみてうまく通らなかったときに、自分を自分たらしめている秩序が壊されないとも限らないでしょう。そんな勝手なことを言うのか、なんて逆襲されてコテンパンにされちゃうことはある。その恐怖心で建前を使い、現状の秩序を守っちゃう人ってたくさんいる気がしない? わたし自身、そういうときってこれまでかなりあったと思うわよ。」
「俺もあるわ。考えてみると、たいていはそうだったかもしれない。」
「ここはどう解決したらいいと思う? 振り子だなんて言っていられないじゃない。自分を壊されないために個人的な秩序を守ること一択しか選択肢がなかったりしない?」
「そうだね。困ったところだね。」
「世の中の風通しが良い、だとか、公平さが行きわたってる、だとかが前提だったらまた違うのかもしれないけど。」
「やっぱ、この件でも無自覚はよくないんだよ。自分自身という秩序を守るために建前を使ったんだ、って自覚することで、本音を頭の隅っこでだったとしてもキープしていられるんじゃないかな。そんでさ、本音を失くさないことは、自由を失くさないことになるから。」
「だけれど、現実には無自覚な姿勢ってすぐに無くならないでしょ。仮に、元の言ったような、みんなが自覚的に振り子のようでいられる世界が将来実現したとしても、それまでのあいだの私たちはどうする? 一時、自由のかけらをどこかに落としてしまった人たちに、自覚的になれ、って唱えているだけ? 過渡期にもっと効果的な処方箋はないの?」
「美希はなんだと思う?」
「そのためのルールや法律なんだろうね。建前っていう自己努力で守られる秩序は局限的というか瞬間的というかで、そうじゃなくてきっちりした枠組みで世の中をくくってしまってしっかり守るのはルールのほうよ。法の下の自由。」
「じゃ、建前なんてほんとうは必要ないのか。」
「ううん、法やルールがあったとしても、建前や我慢によって秩序を守ろうとする努力は必要じゃないかな。法やルールの下で生活するならばあとは自由で良いのだ、としてしまうと、自制心が薄くなるのよ。自分で考えて判断する力も弱くなると思う。そうすると、内なる欲望が強くなっていきそう。そしてその結果、強くなりすぎた欲望に動かされる存在に人間はなっていくように思えるわ。」
「内なる欲望か。人間は欲深いからね。」
「『わたしたちは、彼らの博愛心にではなく、彼らの自己愛に訴えるのである』」
「それは誰の名言? もしかして美希の考えた名言?」
「アダム・スミスよ。自己愛という本音を肯定することこそが、経済を世界の中心に据える今の資本主義世界のテーゼよね。お金への欲望、要するにお金への本音が正統化されて空気のようにまでなったから、秩序への意識が希薄になっているのかもしれない。人間たちは秩序なんて考えなくていい、本音で生きていれば自然と秩序は出来あがってくる、って経済学者たちは考えたのだけれど、そうやってできあがっていく秩序も人間も、最善ではないように思えるのよ。疑問に思っちゃう。」
「だからか。今のこの世界で、秩序なんて誰も考えていないのかもしれない。ホワイトドラゴンフライズじゃなきゃ、俺だって秩序について考えもしなかったし。」
「でもね、みんなが建前を振りかざしすぎて、建前こそが普通っていう安定状態になってしまったら、それはそれで大きな問題があるのよ。それはね、次第に建前が染み込んでいくために自分の本音がわからなくなっちゃうってこと。そのうち自分の本音も、自分が大事にするものも忘れちゃう。つまりはさっき元が言ったように、本音と自由を失くしてしまう状態がこれなんだけれど、そうなったらもう、人はだんだん思考が浅くなってしまうし、最後には考えること自体を止めてしまう。そうやって、強欲でずる賢い一部の人たちに支配されるだけの存在になり下がるわ。強力な社会思想に席巻されてそうなった過去を実際に人類は持ってるから。」
「ふうん。」
「自由も秩序もね、どちらかに傾くと危険。わかった? 結局、その意味は何かっていう思考の癖を、できるだけ真摯に持つ姿勢でいることよ。」
「もうわかんなくなってきた。ギブアップしていいかな。」
「元のそういう頭の悪いところがいちばん好き。」
「いじわるだな。」
元は美希が皮肉をあまりに屈託なく言うので笑いだした。
「元が、振り子のように揺れ続けることだ、って言ったのは素晴らしかった。わたしは人の自制心に賭けたい。現代の自由な人々の自制心の成長にこそ賭けたい。」
美希はずっと本音を話し続けていたに過ぎなかった。
外はいつからか雨模様で、ぽつぽつと湿った雨音が室内にも入り込んできていた。涼しすぎるな、と元は呟いた。
それから数週間が経ち、いまだ、美希へは組織から次のプロジェクトへの参加要請はなかったが、元にはついに新しいプロジェクトからの招集がきていた。
元と美希は半同棲するようになっていた。話をすればするほど、気が合うことがわかったのだ。
いってきます、と部屋を出た元は、しばらくしてスーパー七福屋で使う会員カードを持ちっぱなしだったことに気付き、それは美希と共有しているものだったので、買い物当番だった美希に渡すべく、通勤途中で引き返し、小走りでアパートの階段を駆け上がっていく。
そのとき、組織から持たされている不審通信センサーが反応を示しバイブレーションした。不思議に思いながらそっとそれをオフにして、静かに部屋の前まできて鍵を差し込みドアを少し開けると、美希の話し声が聞こえた。
「……この町のホワイトドラゴンフライズはこれで片付きます。」
耳を疑った元は心底驚きながらも、逡巡の末に思い切って勢いよく自室のドアを開けた。
「なんの話だ? 美希。」
「なに? どうしたの? 会社は?」
美希の視線が宙をふらついている。
「今、はっきりと聞いてしまったよ。君がブラックバタフライズだったとはね。スパイをしてたのか。」
美希は苦笑する。
「ブラックバタフライズじゃないわよ。でも、わたしはヘマをしたようね。」
「じゃ、なんなんだ? ふつうに警察か何かなのか?」
「そんなわけないじゃない。」
美希の表情が金属のような生気のないものに変わり、得体のしれなさを感じた元は怖くなって部屋を後ずさる。
「元、待って。話を聞いて。お願い。」
迷った。しかし、美希の声音にいつもの温度を感じもし、元は歩みを止めた。
「秩序を守るのも、無秩序を作りだすのも、やっているのは裏の世界。前に話しあったわよね、意識と無意識についても。このせめぎあいは、すべて無意識の内で行われているようなものにすぎないのよ。あなたもわかっているとおりだけど、ホワイトドラゴンフライズは秩序を守りたがっている。ブラックバタフライズは一見、秩序を壊そうとしているけれど、そのあとに新秩序を作りだすのがねらい。わたしたち、そう、わたしたちはね、裏の世界を本来の無秩序の状態、誰かのコントロールの及ばない状態に帰すことが目的なの。それが自然だからよ。誰かが支配するべきものじゃない。元、あなたが言ってたことだって、表の世界で堂々とやるべきことなの。わかる? 表の世界でやるべきなの。」
「ホワイトドラゴンフライズの反乱軍ってわけか。」
「あのね、細かい話だけど、レジスタンスっていって欲しいな。あと、ホワイトドラゴンフライズだけじゃない。こっちにはブラックバタフライズからだっているわ。わたしたちはね、カメレオンズと呼びあってる。」
そのとき、元は背後から何者かによって羽交い絞めにされ、みるみる目の前を暗くした。気を失い、糸を切られた操り人形のようにだらりとなる。
「元。あなたはこの町をでたほうがよかったんだよ、ほんとうに。」
どうする? と元を床に寝かせながら顔をあげたのは丸刈りの男だった。
私に任せて。何かあったらすぐ呼ぶから大丈夫。でも、と男が怪訝そうに返すと、大丈夫、と美希は力強く会話を断ち切った。
姿勢を仰向けにされ、意識を失ったままの元に、美希は毛布をかけてあげた。足を崩して傍らに座り、元の頭を撫でる。細めた目と長い睫毛。そこからまっすぐな眼差しを元の無表情になった顔に据えて小さな声でゆっくりと言った。
「すべての始まりなのよ。これは、始まり。」
【了】
参考:『つながる脳』藤井直敬 新潮文庫
『会社はこれからどうなるのか』岩井克人 平凡社
『一〇〇分de名著ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』 二〇二〇年 二月』Eテレ
「お疲れ様でした。あとは他のチームにまかせて。今日はもう大丈夫だから。」
と元を家に帰した。
それから数日、元はそわそわと浮ついた気持ちのまま毎日を過ごした。会社で会う美希ですら、普段よりも苛立ちを感じさせる表情をしていて、席についていてもたまに不安げに宙を見つめているときもあるのだった。
昼休みになると、元は美希にそれとなく庄司のことを尋ねたのだが、何も情報が無い、と三日間、同じ返答をされた。
あの日、元と荒木が麹町をうろうろしていた頃、庄司はひとり別働隊になって、どこかを歩いていた。そのときの足どりはわかっていないが、美希とは幾度かにわたって連絡を交わしていたのだという。美希が言うところでは、元と荒木が後方待機して出動の時を待つ役割にいたなかで、最前線の美希たちとの中間領域での警戒に庄司はあたっていたようだ。美希たちよりもいくらか広い視野で周囲を眺め、怪しい動きがないか気を配り、接触行動に移る際には速やかに援護するつもりだったらしい。
「『シジミチョウ』がマンションから出てきて私たちが尾行を開始したときにはまだ庄司は彼自身だった。でも、しばらくしてショートメールの言葉遣いがぞんざいになったのよ。おかしいと思って電話しても彼は出なかった。それでもショートメールはこっちへと送信され続けるの。この作戦には何名参加していたんだった? なんて書いてあったりね。おかしすぎるでしょ。だから私は独断で作戦をストップした。」
「『シジミチョウ』は知っていたんでしょうか。それで、向こうの組織にどうにかして連絡を……。そうそう、あのとき話していたんですよ。通信をハッキングできるといったって、手紙だとか落書きだとか、ローテクな手段を暗号でやられたらお手上げじゃないのかって。」
「でしょうね。『シジミチョウ』は私たちに勘付かれずに組織に助けを求めることに成功した。それどころか、私たちは逆襲されたわけだけど。あのとき、尾行を中止して引きあげるとき、前を歩いていた『シジミチョウ』はこっちを振り向いていたわ。確かよ。ちょっと笑っているように見えて、心臓に冷たいものを感じたわ。あなたたちにまで被害が無いことを祈ってショートメールを打ったの。庄司は途中から、ブラックバタフライズの人間のなりすましになっていたから。」
「俺がすぐに電話をよこして安心しましたか。」
「まあね。」
「そのわりにすぐ、電話を切ってくれましたね。」
「だから助かったんじゃない。」
二人は軽く笑った。やっとのことで、それまでのモノトーンの世界に何色かのパステル色が加わったみたいな空気になった。
その日の夕方、退勤時間の少し前に掛川から声をかけられ向かった会議室で元と美希は、あの日の深夜、庄司が丸尾町内で発見されていたことを知らされた。庄司には作戦中の記憶が無く、確保してからずっと保護下に置きながらさまざまなテストを行ったのだという。その結果、いくらかまとまった期間、施設で過ごしてもらうことになった、ということだった。
「じゃあ、俺たちはどうなるんですか?」
眉をひそめながら聞いてくる元に、腕組みをして立つ背の高い掛川は二人を正面から見下ろしながら言った。
「忘れるなかれ。君たちは人材派遣会社の社員なんだからね。がんばって。しばらく没頭してみてよ。あとは心配するな。野村さんは、週三日の午前中はスーパー七福屋の仕事もだったね。忙しくなるよ。がんばってください。」
一週間後、スーパー七福屋に新しい店長が着任した。美希によると、庄司は依願退職届を受理されていたそうだ。
元と美希の二人のホワイトドラゴンフライズ内活動については、しばらくのあいだ待機とする、とされたまま数カ月が経つ。クリスマスや正月が過ぎていき、もう元が住むアパートの隣家の庭では梅が咲き始めている。元は人材派遣会社の仕事のみをずっとこなした。意味のわからないデータ処理の仕事を回されることは一度もなかった。
ホワイトドラゴンフライズからは一度だけ、従来の半分の額ということで報酬がでた。あの作戦は失敗に終わったが、一応、機密情報を守り、危険を冒して追加の任務にもついたので、成功報酬を抜いた分だけ出たのだ。元はその額面にびっくりした。人材派遣会社の基本給のおよそ2.5倍もあったのだから。元はその金でスマホを最新機種の上位モデルへと買い替え、残りは口座に預けたままにした。
いつまた組織からプロジェクト参加の声がかかるかわからなかったが、たぶん、しばらくはないだろうと、元はなんとなく思うようになった。招集への心構えも緊張感も日に日に薄れていった。
ほとんど無駄遣いをしない元だったから、スーパー七福屋で働いていた時とは比較にならないほど生活は楽になったし、貯蓄の面でもこれからしばらくのあいだの安泰を保証できる上昇軌道に乗り始めた。実家からの仕送りは辞退することにしたし、それまで受け取っていた仕送りの分は、一部ではあるがいくらかのまとまった額として返す計画も立てていた。
暮らし向きに余裕が出てきたことで気持ちにもゆとりが生まれてきた。たまに飲む缶チューハイが缶ビールになった。昼飯も、会社でコンビニ弁当やカップ麺だったものが、近所のカフェでランチを取る日が多くなった。そして、そんなカフェランチの時間に、最近そこで働きはじめた若い女性スタッフと少しずつ懇意になっていったのだった。それが、元の気持ちのゆとりをさらに潤いあるものへと変えた。
若い女性スタッフの名前は南美といった。目鼻立ちのくっきりした細身の美人で、元は南美を遠くの席から眺めているだけで身体がほのかに熱くなるくらい初めから気になって仕方がなかった。短い会話だったとしても南美とコミュニケーションをすると、心を満たしている透明な自然水が炭酸水へと瞬時に変貌し、ふつふつと喜びの細粒を底の方から際限なく湧き立だせ続けるかのように活気づいてくるのだった。
あの作戦の失敗と、そこから切り離せない庄司の施設行き。そのショックによる鈍く澱んだ気持ちが、南美によってやっと再生しつつあった。元は内心そのことで南美に感謝していた。落ちついた物腰で率直かつ明るく接してくれることもあって、会えば会うほど惹かれる想いを強くしていた。
「キーマカレーセット、お願い。」
「大盛にしなくていいの?」
南美は元からの注文を書き込んでいる手を止めてそう聞いた。明るめの髪を後ろに束ね、いつも通りの茶色の長エプロン姿がよく似合っている。
「実はさっき会社で差しいれの串団子を食べちゃってね。ぺこぺこでもないんだ。」
「あらら。ちょっと詰め込むっていうだけのお昼ご飯なのかな。残念だなあ。」
「いや、キーマカレーが今日のランチメニューに載っていたのを見たらけっこうテンション上がったんだ。前に食べたときにすっごい旨かったから。さっきの団子が恨めしいわ。」
「ふふ。うちの、超絶美味しいですからね。気持ち、わかる。」
「南美ちゃんも食べたんだ。」
「うん。まかないで出してくれたの。感激のキーマカレーだったあ。」
瞳の輝きが増した。南美の、ほのかに影を感じさせる顔立ちの表情に、こうして自分との会話のなかでぱっと花が咲くのを見るたびに、元は明確な達成感と言ってもいいような手ごたえをしっかりと得るのだった。よし! やったぞ! と心の裡でこっそり快哉の叫びをあげるのと同時に安らかな気分にもなる、それでいて、毎度、なぜだかいくらか背中が丸まってしまう。そしてこれ以降、元は時間の経過がわからなくなる。状況への没入が始まるのだ。そして、いつも店を出てしばらく経ってから思う、幸福感って間違いなくこれだよな、と。
元はなんでもない毎日が特別に思えるくらい楽しくなってきた。人材派遣会社の仕事にはそれほどストレスもない。組織のほうから声がかからない今だからこそと思い、南美をデートに誘おうとそのプランを夢想するようになった。
公園でゆっくり話をしたり、遊歩道をそぞろ歩きするのもいい。映画も良いな、今どんなジャンルのものを上映しているんだっけ。電車に乗って動物園に行くのもいいけど、一日がかりになってしまうか。食事は気取らないものがいいだろうか。あ、嫌いな食べものってなんだったっけ。南美の休みの曜日を聞いて日取りを決めて、このあいだ取得したばかりの有給休暇を使って、だな。
南美は若くて美人だから、男性客から多くの視線を集める存在。でも、俺は誰よりもあれこれ彼女としゃべる頻度が高い。それもいつからか、南美はタメ口で俺に接してくれている。親密度では誰よりもリードしている、といっていいだろう。大丈夫だ、きっとデートの誘いにオーケーしてくれる。南美はLINEをやっていない、と言っていた。今どき珍しかった。デートにオッケーしてくれたら、そのときに電話番号を聞こうと考えていた。
元はこのような段階から、自分はとても幸運な男だ、とのぼせた。もう楽しくてしょうがなかった。会社のパソコンで文書を作成中にも、知らず空想のほうへ頭を使いがちで、いけね、と気づいてディスプレイに注意を戻すことがたびたびという有り様だった。だから、美希から久しぶりに声をかけられた時にはぎょっとした。いつも通りですけど、という態度を取りつくろうのに少しの間どたどたと表情が騒いだ。
ちょっといい? と元は空いている部屋に誘われた。
「何か、組織から働きかけがありましたか?」
美希は会社では珍しく、黒ぶち眼鏡をかけていた。午前中、スーパー七福屋で勤務してからの出社日で、なんとなくそのままにしたのかもしれない。
「いいえ。参加要請はないわ。あなたもないままでしょ。」
「もう三カ月以上ないですよ。このままずっと部活の幽霊部員みたいになったらなったで構わないんですけどね。ははははは。」
短く、軽く、小気味のいい笑い声が空間に刻まれた。そして、すぐさまその場のもともとの沈黙に吸い込まれていった。無音に戻ったのを確かめるように間をひとつ置いて、美希がどこかで仕入れてきた話をしだした。
「あのね、私たちの存在が留保されて放っておかれている間にも、いくつものプロジェクトが立ちあがって遂行されていってるのは想像がつくわよね。なかにはあのときの私たちみたいにミスってしまった作戦もあるのでしょうけど、そういうものも含めてどんどん時間は流れていった。時間の流れは幾多の作戦を押し流していったの。要するに、戦況はめまぐるしく変わっていってるのよ。この町とこの会社に匿われた組織の重要性、低かった被探知性、それらが変化してる。かといって、ひとつの大事な拠点なんだから、もしも撤退することになったにしても、それを知った相手方が乗り込んできて相手の拠点にされるのはよくない。それで、ちょっと耳にしたんだけど。あのね、最近立ちあがったプロジェクトがあるの。名前は『キタテハ』。この作戦はこの町のなかで遂行されるらしいのよ。ブラックバタフライズは音もなくしれっとこの町に飛来してたみたいってわけ。これ、けっこうやばいわよね、喉元に切っ先をつきつけられているみたいで。」
「作戦実行は近いんですか?」
「まもなく、だそう。私には二、三日のあいだ仕事以外は自宅待機しろって通達が来てる。」
「俺にはないな。」
「それも実はちょっと知ってるのよ。だから、まさかとは思うけど危ない目に遭わせたくないからこうやって注意するためにここに連れ込んだのよ。この件は内緒だからね。」
「俺はもうノーマークでいいポジションだから、そんな話がこなかったんじゃないんですか。」
「そうだといいけどね。でも、万が一ってこともあるから、気をつけて。」
「はーい、了解しましたっ。」元が右手で敬礼の仕草をしておどけるので、美希は細い眉を寄せて睨んだ。「冗談ですよ。」
元は一応の礼を言ってその部屋を出ると、事務室に戻るまでの廊下の途中でまたもやデートの空想に心を浸し、おめでたく頬をゆるゆるにゆるめていた。組織の動向よりも、南美とのデートのほうが優先度がずっと高いのだ。元は短い口笛まで鳴らしてから事務室に入った。その様子を見送っていた美希の表情は薄暗く、そのまましばらく扉の前に立ち止まっていたが、そのうち気分を切り替えたのか、表情から不必要な力みが抜けると、何事もなかったように階段を上っていった。
翌日。南美が非番なのを聞いていたから、元はカフェには行かず、会社の机でコンビニ弁当を食べて昼休みを過ごした。その次の日、呼吸が慌ただしいくらい胸の中を期待でいっぱいにしながらカフェの重い扉を開けた。カランカランとドア付きの鈴が鳴る。わざわざ作ってみせるでもなく、自然とそうなる晴れやかな表情。見渡した店内にちらほら先客がいたが、忙しくメニューを聞いて回っているのは主人だけだった。
「あのー、南美ちゃんは今日も休みでしたか?」
主人は元を一瞥すると、
「今も昔も、若い女の子ってのはねえ……。」
と曇った表情で苦笑いした。南美はこの町を出ていったのだという。
別れの言葉も交わしあえず、突然に断絶させられることになった南美との関係に、元は言葉を無くした。昼飯を注文したものの、食べたものの味がよくわからなかった。夜、自室に帰ると、何を食べたのかも思い出せなくなっていた。
南美にはなんの伝手ももっていないことにため息が何度も出た。こんなに未練のある気持ちになったのは、元にとって初めてのことだった。胸がしくしくきしむ。気持ちはまるで酸欠のように満たされない。まさか……、と『キタテハ』が脳裏をかすめる。いや、でも……。打ち消すほうが勝るのだった。
外では肌を刺すような冷たい風が強く吹き、空きペットボトルかなにかが転がる音がやがて小さく遠ざかっていった。
それから数カ月が経った。
ある日、元の部屋を美希が訪れた。南美がこの町からいなくなるやいなや心にぽっかり開いた暗い穴を埋めてくれるかのように、その頃から美希からの声掛けが増え、ふたりは少しずつ親密になっていったのだ。美希の存在感が際立ってきたおかげで、元は少しずつ元気を取り戻していった。
それは静かで、くつろいだ夜だった。
ふたりはベッドを背に隣合って床に座り、小さな声で話をしていた。
「七福屋を辞めることになってから、もう一年近いよ。なんだかだいぶ変わったな、俺の人生。」
体育座りの美希が、反らせた両足の爪先を動かしながらそれを見つめている。
「元がいた頃と1/3くらいスタッフが変わったわよ。あそこも今、なんだかそういう時期なのよね。」
「庄司さんはどうしてるかなあ。」
「そうね。元気だといいけど。」
美希がそう言ってから、ふたりとも自然としばらく沈黙した。冷たい静寂がふたりの半そでの肌に等しく貼りついてくる。外を車が走り抜ける音がやけに大きく聞こえた。
「本当に俺たちの組織は秩序を守っているんだろうか?」
元もそれまでの美希と同じように前を向いたまま、声だけで話しかけた。
「世の中の無秩序化は少なくとも進んでいないように見えるわ。」
「でも、ホワイトドラゴンフライズがブラックバタフライズに出し抜かれたことだって無いわけじゃないんだろ?」
「ちょっとやられてもね、再秩序化の主導権をブラックバタフライズに握られなければなんとかなるのよ。」
「ふうん。俺には何が正しいのかわかりかねてる。難しすぎてわかんない。」
元は天井を仰いでため息をついた。
「わたしはね、表の世界と裏の世界、それぞれを人の意識と無意識のイメージに重ねて見ているところがある。無意識ばかりに気を取られていると生きていけないように、世界の裏側ばかりに浸っているとおかしくなる。」
「じゃ、俺たちは危ないじゃない。」
「無意識って相当の深さがあるのよ。ぱっと想像してみる以上にね。むやみに奥まで進んでいくと戻ってこられないこともある。」
「詳しいね。」
「本当は進学して心理学を勉強したかったから。今でもそういう本を手に取ったりする。」
「そうなんだ。美希は物知りだもんな。」
横を向くと、美希は目を伏せていた。白くつるりとした頬が、心なしかいつにも増して透き通って見える。このまま見つめ続けていると、彼女の裸の気持ちにまで辿りつけるような気がした。
「意識には意識の秩序があって、無意識には無意識の秩序があるんだと思ってる。両者はそれぞれに違う方法論で秩序を成り立たせていて、それぞれのやり方でそれを保ってるのよ。そして、意識上の何かが無意識に落ちていって無意識に影響を与えたり、無意識のものがふいに意識上に現れて意識に大きな影響を生むこともある。というか、そういうことの果てしない連続で私たちは前に進むようにして生きているんだと思う。」
「なんでそういう構造なんだろうね。」
「さあ。そのほうがダイナミックに考えたり思ったりできるのかもしれないし。もしくは、心っていうものの実感がよりリアルになるからなのかもしれない。」
「無意識っていや、偶然のつながりだとか、虫の知らせだとか、そういった不可思議なことが起こる世界なんじゃないの?」
「いいとこに気付いたわね。さっきも言ったけど、無意識ってほんとに深いから、予期できないような領域で、それこそ虫の知らせなんかが起こる。で、そんな無意識は意識と対になっているように思えたりするけど、意識を下で支えているのが無意識っていう捉え方のほうがあってるんだと思う。そして、意識の領域よりも無意識の領域の方がずっと広い。でね、たまに考えるの。無意識を完全に意識化する試みがあったとして、それを実際にやった人間は耐えられるのかって。同じように、裏の世界を表の世界の考え方で固めるために、ブラックバタフライズみたいな無意識の権化のような存在を滅ぼすことは、裏の世界を表の世界にすることになるんじゃないのか、それに世界は耐えられるのかって。」
「やっぱり難しいや。……そうだな、無意識が無くなったら意識ってすぐ壊れてしまうんじゃないかな? 下支えしているのが無意識ならば土台が傾いちゃうからね。逆に、意識が壊れても無意識がしっかりしていたら再生できそうじゃない?」
「そうかもしれない。そして、無意識といったら混沌としたもの。意識の世界での常識が通じない独特の秩序でできあがっているから、無意識の意識化は無意識を破壊してしまうわよね。とするなら、そのあとに出てくる答えは、破綻。」
「要するに、表の世界と同様の秩序に支配された裏の世界もそのために破壊されるし、行きつく先は両方の破滅、ってことになるね。」
「元と話していてまた一歩、見るべきものに近づけた感じがする。」
「怖ろしい真実。」
言葉とは裏腹に、元の表情はにこやかだ。内容にリアルを見出せていないからだろう。
「あのさ、美希。『自由の時には、秩序を思いやれ。秩序を守るときには、自由を思いやれ。』」
「誰の言葉?」
「俺のだよ。名言じゃない? 前にけっこう考えたんだよ。自由ってさ、自由だけで生きていけるものじゃないでしょ。自由って実際には責任が伴うもので、それは自分に対する責任もあれば、社会の秩序をたもつ社会的責任もある。」
「うん。」
「つい最近まではさ、自由とはもっと解放されてて翼を広げて大空を飛びまわるようなことだ、ってずっと思ってたんだ。でも、どうやら人間に与えられている自由はそういうものではないんじゃないかな。まあでも別に、自由と秩序のどっちかに決めなくてはならない、ということではないんだよな。ただ、本音や自由が幅をきかせすぎているきらいって今の社会にはある。かといって、強すぎる秩序が自由を窮屈にするべきではない。つけ加えて言えばさ、自由から出てくる本音には、悪い秩序を壊して新しい秩序を立てるという役割を持っている。そしてその秩序は、しばらく経ってみると古くなっていたり間違いに気付かされたりして、新しい時代が必要とした新しい本音に壊されていく。その繰り返しで、たとえば現代が成り立っていることは間違いないと思うんだ。そこで気をつけた方がいいのが、あまりに無自覚にやってるってこと。」
「うんうん。それで『自由の時には、秩序を思いやれ。秩序を守るときには、自由を思いやれ。』なのね。よく考えたわね。」
「ありがとう。つまり、思いをね、自由と秩序の間を往ったり来たりし続けることがベターで、そうやっていくために少しは自覚的になったらいいんじゃないかって思ったんだよ。でさ、さっきの美希の言っていた無意識と意識、裏の世界と表の世界の話。意識と無意識のあいだでいろいろやりとりがあって、それぞれに影響を与えあうって言ってたよね。」
「……元。今日はちょっと冴えてる。」
「俺が言いたいこと、わかったよね?」
「意識だけが自己ではなく、無意識だけが自己でもない。無意識と意識のあいだを往き来する振り子こそがほんとうの自己なのではないか、ってことでしょ。同じく、自由と秩序を往復し続ける振り子こそ、ほんとうの人間なんじゃないかってことでしょ?」
「そうだよ。つまり、振り子を止めてはいけないんだ。そのためには自覚すること。」
「その通りね。」
美希の表情も元のようににこやかになった。だがそれは、元とは違い、現実の奥、それも質感をもったままの姿にいくらか触れられた気がしたことによるものだ。
「元。あなた、良いことを言ったからご褒美にひとつ問題をあげるわ。考えてみなさい。」
「せっかくちょっとすっきりしたのに。またしばらく悩まないといけないのか。参っちゃうな。」
「まあいいから聞いて。問題のシェアよ。」
「わかりましたよ。」
「さっきの元の話ね。本音が新しい秩序をつくって、古くなったらそのときにまた新しい本音がもっと新しい秩序をつくる、ってことだったよね。」
「そうだね。そして秩序を守るのは、建前だったりするんだよ。つまり、本音が開拓して広げた土地、そしてそんな新しい土地を守り、保つものが秩序だし建前だったりする。時代はそうやって蛇行しながら流れていく。」
「そこでなのよ。本音が壊す秩序って、社会の大きな秩序だけじゃなくて本人のごく個人的な生活の秩序の場合もあるし、本人を本人たらしめている秩序の場合もあるじゃない? 本音を言いたいと思っても、その本音を言ってみてうまく通らなかったときに、自分を自分たらしめている秩序が壊されないとも限らないでしょう。そんな勝手なことを言うのか、なんて逆襲されてコテンパンにされちゃうことはある。その恐怖心で建前を使い、現状の秩序を守っちゃう人ってたくさんいる気がしない? わたし自身、そういうときってこれまでかなりあったと思うわよ。」
「俺もあるわ。考えてみると、たいていはそうだったかもしれない。」
「ここはどう解決したらいいと思う? 振り子だなんて言っていられないじゃない。自分を壊されないために個人的な秩序を守ること一択しか選択肢がなかったりしない?」
「そうだね。困ったところだね。」
「世の中の風通しが良い、だとか、公平さが行きわたってる、だとかが前提だったらまた違うのかもしれないけど。」
「やっぱ、この件でも無自覚はよくないんだよ。自分自身という秩序を守るために建前を使ったんだ、って自覚することで、本音を頭の隅っこでだったとしてもキープしていられるんじゃないかな。そんでさ、本音を失くさないことは、自由を失くさないことになるから。」
「だけれど、現実には無自覚な姿勢ってすぐに無くならないでしょ。仮に、元の言ったような、みんなが自覚的に振り子のようでいられる世界が将来実現したとしても、それまでのあいだの私たちはどうする? 一時、自由のかけらをどこかに落としてしまった人たちに、自覚的になれ、って唱えているだけ? 過渡期にもっと効果的な処方箋はないの?」
「美希はなんだと思う?」
「そのためのルールや法律なんだろうね。建前っていう自己努力で守られる秩序は局限的というか瞬間的というかで、そうじゃなくてきっちりした枠組みで世の中をくくってしまってしっかり守るのはルールのほうよ。法の下の自由。」
「じゃ、建前なんてほんとうは必要ないのか。」
「ううん、法やルールがあったとしても、建前や我慢によって秩序を守ろうとする努力は必要じゃないかな。法やルールの下で生活するならばあとは自由で良いのだ、としてしまうと、自制心が薄くなるのよ。自分で考えて判断する力も弱くなると思う。そうすると、内なる欲望が強くなっていきそう。そしてその結果、強くなりすぎた欲望に動かされる存在に人間はなっていくように思えるわ。」
「内なる欲望か。人間は欲深いからね。」
「『わたしたちは、彼らの博愛心にではなく、彼らの自己愛に訴えるのである』」
「それは誰の名言? もしかして美希の考えた名言?」
「アダム・スミスよ。自己愛という本音を肯定することこそが、経済を世界の中心に据える今の資本主義世界のテーゼよね。お金への欲望、要するにお金への本音が正統化されて空気のようにまでなったから、秩序への意識が希薄になっているのかもしれない。人間たちは秩序なんて考えなくていい、本音で生きていれば自然と秩序は出来あがってくる、って経済学者たちは考えたのだけれど、そうやってできあがっていく秩序も人間も、最善ではないように思えるのよ。疑問に思っちゃう。」
「だからか。今のこの世界で、秩序なんて誰も考えていないのかもしれない。ホワイトドラゴンフライズじゃなきゃ、俺だって秩序について考えもしなかったし。」
「でもね、みんなが建前を振りかざしすぎて、建前こそが普通っていう安定状態になってしまったら、それはそれで大きな問題があるのよ。それはね、次第に建前が染み込んでいくために自分の本音がわからなくなっちゃうってこと。そのうち自分の本音も、自分が大事にするものも忘れちゃう。つまりはさっき元が言ったように、本音と自由を失くしてしまう状態がこれなんだけれど、そうなったらもう、人はだんだん思考が浅くなってしまうし、最後には考えること自体を止めてしまう。そうやって、強欲でずる賢い一部の人たちに支配されるだけの存在になり下がるわ。強力な社会思想に席巻されてそうなった過去を実際に人類は持ってるから。」
「ふうん。」
「自由も秩序もね、どちらかに傾くと危険。わかった? 結局、その意味は何かっていう思考の癖を、できるだけ真摯に持つ姿勢でいることよ。」
「もうわかんなくなってきた。ギブアップしていいかな。」
「元のそういう頭の悪いところがいちばん好き。」
「いじわるだな。」
元は美希が皮肉をあまりに屈託なく言うので笑いだした。
「元が、振り子のように揺れ続けることだ、って言ったのは素晴らしかった。わたしは人の自制心に賭けたい。現代の自由な人々の自制心の成長にこそ賭けたい。」
美希はずっと本音を話し続けていたに過ぎなかった。
外はいつからか雨模様で、ぽつぽつと湿った雨音が室内にも入り込んできていた。涼しすぎるな、と元は呟いた。
それから数週間が経ち、いまだ、美希へは組織から次のプロジェクトへの参加要請はなかったが、元にはついに新しいプロジェクトからの招集がきていた。
元と美希は半同棲するようになっていた。話をすればするほど、気が合うことがわかったのだ。
いってきます、と部屋を出た元は、しばらくしてスーパー七福屋で使う会員カードを持ちっぱなしだったことに気付き、それは美希と共有しているものだったので、買い物当番だった美希に渡すべく、通勤途中で引き返し、小走りでアパートの階段を駆け上がっていく。
そのとき、組織から持たされている不審通信センサーが反応を示しバイブレーションした。不思議に思いながらそっとそれをオフにして、静かに部屋の前まできて鍵を差し込みドアを少し開けると、美希の話し声が聞こえた。
「……この町のホワイトドラゴンフライズはこれで片付きます。」
耳を疑った元は心底驚きながらも、逡巡の末に思い切って勢いよく自室のドアを開けた。
「なんの話だ? 美希。」
「なに? どうしたの? 会社は?」
美希の視線が宙をふらついている。
「今、はっきりと聞いてしまったよ。君がブラックバタフライズだったとはね。スパイをしてたのか。」
美希は苦笑する。
「ブラックバタフライズじゃないわよ。でも、わたしはヘマをしたようね。」
「じゃ、なんなんだ? ふつうに警察か何かなのか?」
「そんなわけないじゃない。」
美希の表情が金属のような生気のないものに変わり、得体のしれなさを感じた元は怖くなって部屋を後ずさる。
「元、待って。話を聞いて。お願い。」
迷った。しかし、美希の声音にいつもの温度を感じもし、元は歩みを止めた。
「秩序を守るのも、無秩序を作りだすのも、やっているのは裏の世界。前に話しあったわよね、意識と無意識についても。このせめぎあいは、すべて無意識の内で行われているようなものにすぎないのよ。あなたもわかっているとおりだけど、ホワイトドラゴンフライズは秩序を守りたがっている。ブラックバタフライズは一見、秩序を壊そうとしているけれど、そのあとに新秩序を作りだすのがねらい。わたしたち、そう、わたしたちはね、裏の世界を本来の無秩序の状態、誰かのコントロールの及ばない状態に帰すことが目的なの。それが自然だからよ。誰かが支配するべきものじゃない。元、あなたが言ってたことだって、表の世界で堂々とやるべきことなの。わかる? 表の世界でやるべきなの。」
「ホワイトドラゴンフライズの反乱軍ってわけか。」
「あのね、細かい話だけど、レジスタンスっていって欲しいな。あと、ホワイトドラゴンフライズだけじゃない。こっちにはブラックバタフライズからだっているわ。わたしたちはね、カメレオンズと呼びあってる。」
そのとき、元は背後から何者かによって羽交い絞めにされ、みるみる目の前を暗くした。気を失い、糸を切られた操り人形のようにだらりとなる。
「元。あなたはこの町をでたほうがよかったんだよ、ほんとうに。」
どうする? と元を床に寝かせながら顔をあげたのは丸刈りの男だった。
私に任せて。何かあったらすぐ呼ぶから大丈夫。でも、と男が怪訝そうに返すと、大丈夫、と美希は力強く会話を断ち切った。
姿勢を仰向けにされ、意識を失ったままの元に、美希は毛布をかけてあげた。足を崩して傍らに座り、元の頭を撫でる。細めた目と長い睫毛。そこからまっすぐな眼差しを元の無表情になった顔に据えて小さな声でゆっくりと言った。
「すべての始まりなのよ。これは、始まり。」
【了】
参考:『つながる脳』藤井直敬 新潮文庫
『会社はこれからどうなるのか』岩井克人 平凡社
『一〇〇分de名著ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』 二〇二〇年 二月』Eテレ