Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『きみはポラリス』

2020-02-27 20:55:14 | 読書。
読書。
『きみはポラリス』 三浦しをん
を読んだ。

すべて愛や恋をモチーフに作られた短編集です。

小説を読むときには、
その作者の文章のリズムに、
読んでいる自分の呼吸が合ってきてからが
ほんとうに楽しめる読書時間になっていくのではないでしょうか。

僕の場合、読書の始めの頃は、
ためつすがめつ、といった体で、
読書スピードもぜんぜん速くなりません。
内容もいくらか遠目に客観性をもって知っていく感じです。
でも、そのぶん、文章や文体、
言葉の選び方などの、
書くことにおける作家の頭の使いかたをわかるには、
いちばん都合のよい時間帯になります。

「ははあ、ここではこういう感覚で書いたんだろうな」
といったように、
作家が仕事をしている脳内状況を
ちょっと体験できるような感じがする(勝手な錯覚に近いかもしれないですが)。
なんというか、その小説を書いているときの作家の感覚が
ふわっと読み手の僕に重なってくる。
そこを、憑依、というと言い過ぎです。
作家があくせく過ごした時間の名残が、
読書する僕の傍らをすうっと通りすぎて、
半透明になった仕事の痕が眼前に流れていく。
これでもちょっと大仰ですが、
その感覚を言葉にするとこういうふうになります。

それで、文章に慣れてきますと、本の内部に深く没入してしまい、
もう文体がどうだとかは、ほとんどわからなくなります。
ただ、キャラクターがどこでどうしている、
どう行動しどういう心理にある、
といったことばかりに意識が集中して、
客観性がうすらぎ、なかば本と一体化していく。
これは、楽しいひとときです。
享楽です。
ただ、書き手としてなにかを学びたくて読んでもいるので、
どこか堕落してしまったような敗北感はあります。
でも、その敗北感すら、まあいいんだよ今は、
と打っ棄ってしまって読書を続けていく。

というような、小説の読み方が僕のスタンダードなのです。
怜悧な目で一冊読んだり、
ただただ楽しむために一冊読んだり、
メリハリつけて読むことができると、
書き手としての技術面はもっと早く向上するような気がするんですが、
なかなか、僕の性質的にはそうはならないんですね。

で、今回の『きみはポラリス』。
最初の二篇まではちょっと気持ちが乗らないし、
文章についても感じ入るものがないというか、
センサーが働かないというかだったので、
楽しめない読書になるのでは、と時間の浪費を危ぶんでしまいました。
二篇目の『裏切らないこと』の最初のシーンで描かれたものは、
おそらく村上龍『コインロッカーベイビーズ』から拝借したものでしたし、
オマージュなんでしょうけど、「そこを使うかー……」と思ってしまいました。
さらに話の展開の中で『赤毛のアン』の、
グリーンゲイブルズの二人の里親が元ネタなのでは?
と、野暮なことではあるんですが、気にしだしちゃって、
あんまり楽しめなかったんです。

が、しかしです。
三篇目の『私たちがしたこと』がよかった。
うわっ、と思ってしまった。好い意味でです。
当たり障りない話ではないものを、正攻法で書いている。
その後は十一篇目までしっかり楽しめました。
やっぱりプロの作家だ、直木賞を獲った人だ、と
読み終わったとき、満足の長い息が出もしました。

キャラクターものの作品では、
そのキャラクターがとても活き活きとしているし、
いろいろな話をこしらえることができる作家の引き出しの多様さも想像できました。
そして、それまでの作家の人生経験のなかからなんでしょうか、
アフォリズムのような、つよく読み手に実感を与える場面や心理描写などなど、
しっかりと文章に落としこめる技術と積極性があって、
そういうところは、僕ももっと身につけないといけないなあと感じ入りました。

三浦しをんさんの作品は『舟を編む』以来二作目ですが、
多作な方なので、またいつか、別の作品に触れてみたいです。


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短編執筆が始まっています。

2020-02-22 22:53:33 | days
新作短編小説にとりかかっています。
応募用です。

まだ1万字程度ですが、
たぶん、60~80枚くらいで物語は収束するのではないかなあ、
とだいたいの目星をつけてはいるんです。

でも、書きながら、設定や元々の物語の筋を修正したり大きく変えたり、
今回はそういう書き方をしていますから、
どうなるかについては明確には言えません。

本当なら、そのくらいの分量だったらば、
集中して2週間くらいで仕上げるものなんだろうけれども、
なかなか、環境として、そうはいかなくて、なんです。

だから、締め切りを3月末にしました。
これなら、僕でも相当余裕を持てるし、
かつかつな感じで書かなくていいですからね。

また、一度書き終えても、
それから書き直しすることに嫌気をもったり億劫になったりしてはいけないと
最近考え直しているので、すこしずつでも
書き直しの習慣をつけていきたい。
書き直しなどなんでもないことだ、という意識にしていきたい。

そんなところですが、
どうやら風邪気味なんです。
ここ数日、気管のあたりに違和感があります。
熱はないのですが、
もしや新型コロナウイルスではないか、と
勘ぐってしまいます。
だって、すべてがすべて重症化するものでもないのでしょう?
だとすれば、可能性はなくはない。
軽く済めば逆に幸いなんじゃないだろうか。
まあ、新型コロナウイルスかどうかはわかりませんが。
マスクがいっこうに買えない人としては、
このまま軽く済んでくれたら非常に助かる……
という願望が、ただの風邪を新型コロナウイルスにしたいのかもしれません。
あしからず、です。

対策は、手洗い、うがい、などですよね。
くれぐれも気をつけていきましょう。

というところで話は「執筆」に戻りますが、
そんな状況下でも、
これは仕事なので、ちゃんとやっていこうと。
稼ぎにはならないことでも、自分からやっていく仕事だから、
と胸を張って取り組んでいきます。
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『戦略がすべて』

2020-02-16 00:32:26 | 読書。
読書。
『戦略がすべて』 瀧本哲史
を読んだ。

著者の瀧本氏は昨年急逝されました(ご冥福をお祈りいたします)。
根本から物事をみて、ドラスティックに方策を生みだすような印象を、
あまり存じ上げないながらも瀧本氏には持っていましたが、
本書を読んで、やっぱりそういう方だったなあ、と
しっかり確認したようにもなりました。

ただ、「戦略がすべて」といわれても、この資本主義世界、いや、
グローバルな競争社会、ましてや衰退する日本社会に居て、
その中でうまく泳いでいく方法をわかろうとすることには、
僕はけっこうな抵抗を感じるタイプなんです。
なんていうか、そもそも世の中の仕組みを疑っているところがあるんです。

本書は、著者が24のケースを分析し、
快刀乱麻にそれらの多様なケースで勝つための方程式を
それぞれに編みだし解説していく。
つまり、この世の中の仕組みを疑うなんて野暮であって、
その前提は崩さずにうまくやっていこうとするスタンスのように
最初は思えたのですが、
読み進めていくと、そういう狭い意味での戦略もありながら、
もっと大きな枠組みでの戦略も「いいよ、考えなさい、やりなさい」と
しているふうでもあるのでした。

要は、どんな次元の問題であってもいいから、
戦略をもって事に臨むように、というんですね。
なので、世の中の仕組みを改善したところがあるならば、
そこも、戦略を持って臨むならば、著者は何も文句は言わないでしょう。
そういう意味で、著者は戦略というものをピュアに扱っていると言えます。

「戦略」ってどういう位置付けになるんだろう、
と思う方もたくさんいらっしゃると思います。
まず、「戦略」があって、次に「作戦」があり、最後に「戦術」がきます。
このあたりも、最後の章で著者が整理してくれているので、読んでみるとより詳しく学べます。
「戦術」というのは、現場のことでの動き方だとか仕事の仕方です。
日本人はこの「戦術」ばかりは長けているのだそうです。
言われてみるとそうかなあという気がします。
現場は優秀なのに、管理したり方針を決めたりするデスクワークの側に力が無い、
というのはよく言われますしね。
「作戦」は現場での目標として設定されるようなものでしょう。
そして「戦略」は、大局をみて決めていくものです。
既存のルールや価値観にしばられず、新しい考え方で競争に勝っていくためのもの。
それは、たとえば駅伝なんかのように、
同じ道をみんなで走って競争するようなイメージとは違う。
新しいルートをつくるのもありだし、競技のルールを変えてしまうのもあり。
それこそが、実際の、この世界競争社会での競争のやりかただと言います。
そのために、戦略的思考をできるようになりましょう、と著者は主張するんです。
たしかにそれは言えてるなあと思いました。

24のケースがありますから、さまざまな話題にも触れることができます。
例をだすと、
同時代にノーベル賞受賞者がよくでた大学では、
それぞれ分野が違っても交友できるネットワークがつくれる環境があったといいます。
それが意味することは、イノベーションやその元になる画期的なアイデアを生みだすのは、
異分野に属する者同士での交流にあるようだ、という答えです。
また、オリンピックが今年開催される予定ですけれども、
選手の育成のためには、コーチの育成や練習施設にたいするあらたな考え方と
その考え方を反映した施設の造営などが効力を持った、という話。
選手やチームがすごくがんばった、と大会中なんかには
彼らにばかりスポットライトが当たり報道されます。
でも、選手もチームもシステムの一部であって、
より大きなくくりそのものをレベルアップあるいは深化させたことで、
結果が出ていることが述べられていました。
そういったいろいろな話はとても面白いです。

あとは、好い意味でこころに引っかかった点。
それは、自分の考え方、視野の蛸壷化をやわらげたり防いだりするのに、
他者の、自分とは違う思想に触れることが良いとあげられていたところです。
自分と違うものに目をつぶったり、
見てみないふりをしたりするのではなくて、
受けとめてみよ、ということですね。

たまに、口に出していってみて、
「きっとみんな同じような事を考えているのではないかな」と思っていたら、
全然そんなことはなくて面食らうようなときがあります。
さらにいえば、自分が稚拙であることに気づいたりも。
そんなときに、自分の死角があったんだなとハッとするものなんですよねえ。
蛸壷化していたか!と。

でも、場合によっては、
さらに他者の話(異なった意見や思想)を聴いていくと、
自分の考えをもっと詳しく話せば自分の方の正しさが証明できそうだぞ、
なんて逆に思えてくるときもあります。
きちんと論理が伝われば、みんな肯くだろう、と。
(まあ、往々にして、どちらが正しいみたいなのは不毛だったりもしますが。)

だけれども、そういうときにハッとした時点で抱いている自説は、
蛸壷化したものではなくなるのかもしれません。
なぜなら、知らぬものを知り、そのうえで自分の思想を洗い直しているからです。
少なくとも、蛸壷性が緩和していますよね。

また、他者の思想が自分のより陳腐ではないかと思ったとき、
その他者の思想が生まれた背景、
支えている考え方まで思いを巡らしたなら、
それは視野の狭い人のできることではないので、
頑強な蛸壷化ではないのではないのでしょうか。

Win95の頃からネットをやってる者としては、
情報や思想の蛸壷化に関しては、
根深さとともに常に頭のどこかででもいいから念頭にあるようじゃないと
危ないなという気がするんですよね。
ちょっと忘れているとすぐ蛸壷化しますから、ホント。
と言っていても、気付かない部分はきっと蛸壷化しています。

まあ、そういうことも考えながらの読書になりました。
「戦略」ってこういうことを言うんだなあ、と
本書ではじめて気付くことができる人は多そうです。
そういう意味で、
みんなを唸らせるような、将棋でのとても鋭い一手みたいな本だなあと、
拍手して讃えたくなりました。
こういうのは、「創造した」ときっぱりいっていい論説モノです。
解説文とか説明文とかではなくて、
日本人にとっての弱い部分を補強するかのように創造した、というような。
ここまで書けば言うまでもないですけれど、おもしろかったです。


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『養生サバイバル』

2020-02-11 19:24:47 | 読書。
読書。
『養生サバイバル』 若林理砂
を読んだ。

昨今の、若者を中心とした食事事情はいったいどういった具合なのか。
いかに忙しくても、そのまま食べたり炒めたりゆでたりぐらいはできるはず、と
そう著者は当初考えていたそうです。
しかし実際は、鍋もない、包丁もない、
電子ジャーもないという状態が珍しくない。
もっと「食」から離れている人は、
外食にせよ、コンビニで売っている惣菜にせよ、そもそもあまり食べない、などなど、
思っている以上に「食」がおろそかになっていることがわかってきた。

そこで、東洋医学を学び、鍼灸師であり、
自らの生活で試しながら食品添加物についてや有機野菜などについても
研究してきた著者が、
この「食」事情ではよくない、と根本からの食指南を記したのが本書です。
食事にお金をかけない、食事をとろうとしない、
食事する余裕がない、自炊する余裕がない、
などなどの傾向のある人が多いそうですが、そういう人たち向けです。

精神的に余裕が無いときは、
「黒か白か」みたいな考え方しかできなくなったりしますし、
また、食事をとるようになると、転職する気力がでてきたり、
生きていくためにもうちょっといいところで働こうと思えてきたりする、
というような論述で序盤から始まっていきます。
つまりそのようなふうに、
著者が食事周辺の現象として見てとれているということです。
これは、とても好ましい視点だと感じました。
現代日本の硬直性は、食の貧困にその大きな原因があるのかもしれない、と見えてくる。
衣食足りて礼節を知る、じゃないですが、
食がほんとうにおろそかになっていると、
普段の生活上で、なにかしらの行動も起こせないし、
物事を考えようとしても、
考え方に柔軟性や寛容さが失われてしまいそうです。
そのような筋で「食」を見てみれば、
「食」を改善するだけで、人々の意識がおおきく変わりそうにも思えてきます。

オールオアナッシングみたいな考えを食事にも持ってしまいがちなんでしょうね。
これって日本人的なのかもしれません。
完璧主義の裏返しとして、
ちゃんとした食事をとれないなら、食べなくてもいいや、と
極端なまでに逆側に針を振ってしまう。
本書はそこを柔らかくときほぐす姿勢でさまざまなトピックが語られていきます。

具体的には、
調理の初歩としては、電子レンジだけでOK、だとか、
まず一日500円以内で食べていこう、だとか、
とっつきやすい「つかみ」を、
「食」から離れている人たちにつかんでもらうところから、
段差のあまりないような少しずつのステップアップの仕方を示しつつ、
自分を養生できる段階まであがっていってほしい意図があります。
調理方法や、最低限そろえてほしい調理器具の紹介と解説もありますが、
たとえば野菜を買っても腐らせてしまったことがあったならば、
そのときの「失敗したな、お金を無駄にしたな」という
心理がそこにあることが著者はわかっていますから、
そこはわかるよ、というふうに寄り添いつつ、
じゃあ、慣れるまで野菜は買わなくたっていい、といった解決策を提示してくれる。
コンビニで売っている炒め調理用野菜をその場で袋を少し開けてもらって
電子レンジでチンしてもらい、温野菜にして野菜をとる方法などがそれです。
これは、トラック運転手の方たちがやっていたのを見たことがあるそうです。
知恵ですよね。

また、簡単に、要点を述べるかたちで炭水化物や脂質、糖質などの説明もあります。
雑学を知っていくかのように知識をつけることができそうですし、
これを一冊、本棚に立てかけておいて、気がついたときにまたパラパラめくって
再確認するのにも向いています。
惜しむらくは、本書の価格が1200円(税別)と、それなりの値段だということですかね。
食費を一日500円以内から始めようとする人にとってはちょっと決意が要りそうです。
まあ、本屋で立ち読みしてみて、自分に合いそうならば買って読んでみる、
という書籍購入の王道で接してみるのがよさそうです。


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『いま見てはいけない デュ・モーリア傑作集』

2020-02-10 22:02:19 | 読書。
読書。
『いま見てはいけない デュ・モーリア傑作集』 ダフネ・デュ・モーリア 務台夏子 訳
を読んだ。

映画監督アルフレッド・ヒッチコックが手がけた
『レベッカ』や『鳥』という映画の原作は、
今回読んだ傑作集の著者であるダフネ・デュ・モーリアによるものです。
本書のタイトルにもなっている『いま見てはいけない』も、
ヒッチコック監督ではないですが、
70年代に『赤い影』として映画化されているそうです。

全5編あるなか、
まず、先陣を切っている表題作の『いま見てはいけない』から。
ヴェネツィアに観光旅行に来ている、
水難事故で幼い娘を無くしたばかりの夫婦の夫が主人公です。
旅先で出会った、霊感を持つらしい老姉妹に、
夫は不信感を持つのですが……。
エンタメの神髄的な、語りのうまさ、構造や設定の巧みさ、
そして、終わり方の見事さに、もう舌を巻きました。
読了した瞬間、あっ、と思ったら頭が真っ白になり、
しばらく放心したため、その次の作品を読むのをあきらめて
寝たくらいです(まあ、すでに夜中でしたが)。

続いて、『真夜中になる前に』。
ギリシャのクレタ島へ休暇にやってきた美術教師の男性が主人公。
なにげないところで生じる奇妙さの連続が、
それを気にすることでどんどん日常を歪めていくような話。
人間心理の怖さとしても読めるし、
神話を織り交ぜているので、祟りだとかそういうオカルト的にも読めます。

次に、『ボーダーライン』。
父の死の瞬間にひとり立ちあう事になったまだ20歳の役者志望の娘が主人公。
父の旧友に会いにいくことからドラマが始まっていきます。
世界の表裏をつうじて、進行するラブストーリー的なところがありますが、
主人公の女性の冒険というか、彼女が個人的に探偵ごとをするので、
サスペンス形式みたいになっています。
ちょっとしたハードボイルドとも言えるんじゃないだろうか、女性が主人公でも。
敵対しながらも惹かれあう、っていうところがよかったです。

そして、『十字架の道』。
急きょエルサレムのガイドの代役をまかされることになった
若き牧師を中心とした群像劇です。
群像劇ものってたぶん読んだことがなかったですから、新鮮でした。
こんなに複雑になるものなんだ、と。
登場人物がみんな独自の世界観のなかで生きていて、
違う方向を向いて生きています。
それをちまちま克明に書いていったら、
たぶん読み手は面倒くささを感じると思うのですが、
作者はちゃんと踏みとどまって、物語的な佳境にもっていく。
ちゃんとエンタメにしています。

最後に、『第六の力』。
これはSFです。
主人公が出向を命ぜられた先が、
政府筋の、あやしい研究をしているらしい研究所なのです。
まず、そこまでたどり着くまでの描写で何度も笑えます。作者の力量ですね。
デュ・モーリアという人は、こういう技術もあるんだなあ、と。
物語の終わりにむけて、だんだんシリアスにもなっていきますが、
その高低差は計算されているんでしょうね。
科学面での細かいところの設定では、とりあえずの説得力をもっています。
作者がいろいろな知識をそれなりの深さで取り入れる力量があるからですね。
さすがの知的体力。
そして、その裏付けとなるような設定を読者の腑に落ちる段階に作り上げたならば、
そこから壮大な幻想の影を持った現実的物語はすすんでいきます。
そういう構造を見つめてみると、やっぱり序盤にいくつかの笑い、滑稽さを持ちこんだのは、
全体のバランスのとり方として上手だなあと思えます。

というような、5編です。
いろんなことをやっています。
そりゃあ、5編だけを集めているわけですから、
その他の作品を読んでみない分には断定できませんが、
焼き直し的なものは一切ない。
すべてまっさらなところから作り上げた、
オリジナリティー十分の、独立した5編でした。
肝が座っているというか、体力があるというか、
姿勢が違うというかで、すばらしいです。

僕は今回、デュ・モーリアに触れるのは初めてでしたが、
長編『レベッカ』と、そして『鳥』の収録されている短篇集もそのうち
読んでみようと思いました。
おもしろかったです。


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『はじめての構造主義』

2020-02-02 19:23:45 | 読書。
読書。
『はじめての構造主義』 橋爪大三郎
を読んだ。

1988年刊の本です。
その時代の空気を思い出させる、特有だった軽妙な文体がなつかしい。

ジーンズのリーバイ・ストラウス(リーバイス)を
フランス語読みするとレヴィ=ストロースなのを今さらながら知ったのでした。
という枕からはいりますが、
今回読んだのは、人類学者で構造主義の本丸、
レヴィ=ストロース中心の構造主義解説書なのでした。
構造主義の入門書は通算二冊目になります(入門から先に進めません……)。

レヴィ=ストロースの人類学を見ていけば、
最近読んだ本たちによくでてきた、
黒人奴隷の問題の出口がわかってくるかもしれないという予感の元、読み進めていきました。
まあ、構造主義自体もう何十年も前にでてきたものなので、
そのころからすでに開かれた出口ではありますが、
今でも解決されていない問題ですし、
かといってそれ以降よい方向へ向かわせてもきただろうから興味がありました。

構造主義の「構造」とはなんぞや、といえば、
人間でも物事でも社会でも、その根っこの部分の仕組み、みたいなもの、
と言えるでしょう。
因数分解していって残ったところで眼前にあらわれる法則、と言い換えてもいいです。
そして、付け加えるならば、
それははっきりと言葉にできないし、
はっきり見えません。
それが「構造」なんだと理解しています。

たとえば、言葉にするとき、文章にするときに、
その元となる動機があると思うんです。
それは言葉になる前の状態なので、
ふわふわどろどろと形もなく、まだ名付けられてもいない。
そういうところを動機とし、スタートとして、
言葉が生まれる。
もうちょっと厳しく言うと、
言葉に当てはめる。
要は言葉という枠にはめることなので、
言葉になる前のふわふわどろどろしたものと、
言語化したものは等価ではありません。

まあ今回はそこのところはいいとして、
そのふわふわどろどろしたものを見つめてみる行為と、
「構造」を見つめてみる行為はちょっと似ているんじゃないでしょうか。
そんな見方をして知覚するのが「構造」なんじゃないでしょうか。
「構造」というものについては、まあ、そのくらいにしておきます。

レヴィ=ストロースの構造主義的人類学で見えてきたのは、
欧州中心主義の否定です。
それは、奴隷にされたアフリカの黒人や、
アメリカ先住民、オーストラリア先住民、アジア人など、
いわゆる未開の(あるいは未開とされた)民族への差別を許さないものでした。
欧州人は自分たちが優れている前提で彼らを頂点とするヒエラルキーを作りました。
そして、レヴィ=ストロースは、そんなヒエラルキー由来の、
欧州人が自分たちよりも下位に位置する民族たちからはいくらでも搾取をしていいのだ、
という植民地主義の間違いを露わにしたのです。
著者の橋爪さんは、
「西欧近代の腹のなかから生まれながら、西欧近代を食い破る、相対化の思想である」
と本書のはじめのほうで構造主義を表現していました。
そのくらい、衝撃的な思想なんですね。

本書はレヴィ=ストロースの仕事をなぞっていってくれています。
そこで、こういうレヴィ=ストロースの知見がでてきます。
「価値があるから交換する」ではなく「交換するから価値がある」でもなく、
「ただ交換のために交換する」というものです。
それをレヴィ=ストロースは、
人類学からコミュニケーション論に持っていったそうですが、
その点も僕には大いに肯けました。
その知見を通して私たちの日常生活を見てみると、
人は、内容なんかなかったとしても、他者に声をかけることが実は一番の目的
っていう欲求的な所(「構造」)に行き着くからです。
僕もそう思う人ですし、そのような小説を書いたこともありますから、
なお肯きました。

また、以前にリップマン『世論』を読んだときにでてきて、
そうだよなあ、と思った知見ですが、
人それぞれ考え方が違うから、それぞれが同じ対象に対して違う真理を見てしまう、
というのがありました。
人は見たいようにそれを見る、っていうものですけれど、
どうやらリップマン以前に、カントがその哲学で、そこをいろいろやったんですね。
本書で解説されていました。

だから多人数でいろいろな考え方をぶつけあう議論をしよう、っていうのが
ネット世界でもありますけれど、そういうものを含めてカント的ですよね。

それと、ひところ言われた「集合知の高みにたどりつけるのでは」っていう考え方よりも、
カントの言うような、
「みんなで話し合えばとりあえず中の上くらいのところには落とせる」
という考えを前提としたほうがうまくいきそうです。

一人や二人じゃたどりつけない高みを、みんなの知恵をだしあって目指そう!
っていう志で議論していくと、唯一の真理を目指すみたいなことになる。
そこで、たとえばイカロスの話。
彼は翼を得てどんどん太陽へと目指して飛んでいき、
そのうち太陽熱でロウ製の翼が溶けて墜落死した神話だけれど、
比喩的に読めてくわばらくわばらと思っちゃいます。

あと、今ちょっと出てきましたけれど、
「真理」についての構造主義の態度も「なるほど」と思えます。
「真理」とは「制度」だっていうんですが、
そこへの理路がおもしろいです。
ここに書き連ねるのは大変なので(何ページも写してしまわないといけない)割愛しますが、
とても説得力がありました。

と、まあ、そんなところです。
構造主義って実はその考え方が、けっこうこの日本の、今日において、
断片的にだけれど、いろいろなところに食い込んでいるように思えました。
それは個人個人のなかでも、
ちょっとしたところに構造主義的な思考回路を持っていたりするという影響を受けている。
こういった思想関係、近代から構造主義、そしてポスト構造主義なんかを
入門書レベルであってもみんなが体系的に学んだら、
たぶん思いのほか国民の生きざまが骨太になっていく、
そんな予感めいた思いを抱きつつの読了となりました。
おもしろかったです。


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