Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

鳴声ト変ワラナイ

2005-02-24 23:08:24 | 考えの切れ端
「まともである」という屈折、肯定する反逆。
そういったものに、僕はカタルシスを感じるのかもしれない。
というか、感じたのかもしれない。

とはいうものの、
「まともである」という屈折、肯定する反逆、と言い切ってみると、
本当に思っていたこととまるで離れてしまった感がある。

なにか言いたかった、ということだけが本当だ。

なに吠えてんだ?っていう犬と、そう変わらない。
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鮫ノ尾ノバンド

2005-02-23 23:06:06 | days
明日から売店出店業務だよ。
けっこう有名な某イベントへの出店です。
妙なヘアバンドを渡されていて、それだけが心配。
やっぱ、付けるんだろうな。うわーあ。
もう既に、試し装着の段階で写真をとられました。
・・・まぁ、がんばるかぁ。
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プライスレス感

2005-02-21 23:28:19 | 考えの切れ端
きっと、挨拶と同じくらいの回数、人は他人を値踏みしている。
僕も値踏みするし、値踏みされる。
ま、挨拶と同じくらいの回数っていうのは正確さを欠いているだろうけれど、
それほど多く行われている行為だと思う。

値踏みの精度は人それぞれだ。
値踏みのもとになる価値観も人それぞれだと思う。
値踏みを誤って失敗することもあるだろうし、
いつまでも値踏みしきれなくて、時間を無駄にすることもあるだろう。
また、そういう時は、値踏みを目的とした働きかけを行うこともあるだろうし、
それによって、逆に値踏みされることもあるでしょう。

話したり、遊んだりして、本当に寛げる相手というのは、友達にしても恋人にしても、
値踏みという門をくぐり抜けた関係だ。
その門は、人によっては函谷関のように、堅固なものであるかもしれない。
その門は、人によっては日本の城のように、本丸へと続くいくつもの門の一つであるかもしれない。
その門は、人によっては諸葛孔明の八卦の陣のように、いくら門をくぐろうと、
どこへも到達しないものであるかもしれない。
ま、これは行き過ぎたたとえかもしれません。

正門が開くのは信用の証。
そこに、どんな町が広がっているのか、営まれているのかとも考えられるわけで、
門が開いて、中が見えたときに、去っていく人もいるのでしょう。
見えない門を、くぐり抜けてしまうこともある。
不法侵入であったり、誘導であったりもするんですよね。

インターネットのプライスレス感って、どう定義したらいいのかねぇ。
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傍ラニ「ガム」ヲ

2005-02-20 23:59:30 | その他
ガムの香りはもう限界にきていると思う。
なぜって、ガムを噛んだらその香りがトイレの芳香剤と似ていたことがあるから。
それだけ、芳香剤ってもののかぐわしさが多様化したのだろうか。

日本人は香水の香りが激しいのを嫌うというから、そっち方面へは発展しないのだろう。
前に「ローズ味」と書かれたガムがあって食べてみた。
いやにエレガントな香りのするガムだったが、ブレイクはしないんだろうな。

ただ食感はいろいろある。
今でもあるだろうけど、10円ガムだとか。あの食感はけっこう好きでした。柔らかい。
ウォータリングキスミントも好き。柔らかいのね。

たぶんに決して無くならないであろうガムってもの。
存在に希薄な普遍性があって、手ごろな趣向品としてなにか愛着のようなものを感じてしまうポップ感。
そういうふうに考えてみると・・・・・、、 、 、 、 、???

まぁ、いいか。
ガムの好みで、好きなタイプがわかったりしないですよね。
味は、なんだかんだ、ミントが好きですね。
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余暇

2005-02-18 23:42:11 | days
『フリー・カルチャー』いう本に挑戦。読破してやるという心構えが、序文で跳ね返された。
情報量が多いのだ。一文一文の、単語の連なりで表されていることのイメージがでかく多いので、なかなか大変だ。
こういう本を読むのも久しぶりで、なんだか大学で「レポート書いてこい」と読まされる本みたい。
でもね、面白いことが書いてあります。
こないだ、吉本隆明・糸井重里の『悪人正機』を読んだんだけど、
そこの一つに、インターネットに関する本はどれもこれもインターネットが人を進化させると書いてあって、
それは違うんじゃないか、というようなのがあった。感性が発達するみたいなのはあるってね。
この本は後者に転ぶ本の気がしてるんだけど、どうだろう。
進化させるっていう論調も、どんな論理で言っているのかと気になりもするなぁ。
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My Favorite Mistake

2005-02-17 22:51:44 | days
あれ、ケイタイのメール受信ができない。あ、利用停止になっ・・・。
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ブルース

2005-02-16 21:35:50 | 一言。
現実において善意は死んだ、と叫びたいときもある。
歌や映画などにしか善意は残されていないんじゃないか、と問い掛けたい時もある。
こんなとき、ブルースという音楽が存在してくれたこととそのミュージシャンに、とてつもなく感謝する。

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視界、シロ

2005-02-15 23:41:54 | days
先週の土曜から今日までで1mくらい雪が積もりました。
雪雲が、どうやら停滞しやがったようです。
こんな時期、鹿はどうやってやりすごしているのでしょうね。
会社の近辺には鹿がいて、2度見ました。
角の無い2頭は、斜面からこちらを見下ろして、僕の顔をみつけるや、
下半身をオタオタさせて逃げていきました。
赤ん坊に見つめられて手を振ってやったら泣きそうな顔をされたときのに近い気持ちになりました。
りっぱな角をもつ雄鹿は、車のサイドを悠然とキャンターし、草むらにダイブして消えました。
奈良で鹿の群れにせんべえをやった時にも感じたんだけど、あいつらと意志の疎通をもつことって
かなり難しそうですよね。
手塚治虫の『ブッダ』には、シッダルタが森の動物たちを相手に説法している場面があって、
その動物たちのなかには鹿がいるんですが、実際の鹿をみたところありえなく思えますね。
他の動物たち、たとえばキツネだとかクマだとかはありえるのかと問われたら困りますけれど、
クマだったら、人間を襲うという行為でコミットしてくるでしょう。
キツネも、エサをもらうことに一心不乱なので、コミットしてきてます。
それが、鹿はせんべえをもらうときにもどこか醒めているように感じました。シビアです。
だけど、バンビなんてのがあるわけでしょう。
鹿と、森や山の中で出会うと、違った印象をうけるのかもしれませんね。
それも、こちらが行き倒れ状態だったりするとなお良さげ。
そこで初めて、鹿の情を発見できるかもしれない。
木の実や、食用の葉っぱなどを運んでくれるだろか。
顔を寄せてきて、ペロっとひと舐めしてくれて去っていくだろうか。
まさか、踏みつけていかないだろうな。何かと勘違いして、角で小突いたりしないだろうな。
まぁ、車の近くに出現したときに窓をあけると、首を突っ込んでくるらしいので、
単に感情や動作が平静な動物なのかもしれませんね。

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砂岩網

2005-02-14 23:50:19 | 考えの切れ端
意味が少し違ってくるのですが、
以前、「思考ハ砂ノ如ク」(カテゴリ:考えの切れ端)で書いたことの答えになりうるような、
知識のしっぽをみつけました。
これを公表することで、僕の社会性の遅れが明るみにでてしまうのかもしれませんが、
それは、ナレッジマネジメントです。検索してください。
このナレッジマネジメントを、どう現実的に取りいれてカスタマイズするかで、
ハッピーなシステムが生まれるかもしれません。
また、オルタナティヴなヴィジョンが浮かぶかもしれません。
おおざっぱに調べたところでは数年前からある経営論だそうですが、
この考え方へ至る源流はもっと以前からあるように感じています。
それも、たぶん、音楽の分野で。あるいはインターネット的なのか。
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HOWL'S MOVING CASTLE

2005-02-13 23:56:15 | 映画
『ハウルの動く城』を観てきた。
(以下、ネタバレあります。)


気になったのは、ソフィーにかけられた呪い。
劇中でこの呪いについて語られているのは「他人には話せない」ものということと、
複雑な呪いだ、ということである。
後に、王宮へ向かう際に、呪いをかけた当人の「荒地の魔女」と出会うのだが、
ソフィーは我を失うように怒ったりはしない。逆に、階段を登るのに四苦八苦している魔女を
気遣ってさえいる。自分の人生を著しく変えられた、加害者の魔女なのに。
また、ソフィーはストーリー中に何度か若返ったりもしていて、この呪いの秘密にもっとも迫った
シーンは、「引越し」をした後に、ここに住まないかとハウルに家を紹介された場面だと思う。
ハウルと一緒にいて話をしているうちにソフィーは若返っていて、「私は一度もきれいだったことなんかない」
みたいなことを言う。そして、ハウルは「きみはきれいだ!」と彼女の言葉を振り払うように言うのだが、
too lateで、次の瞬間ソフィーはまたシワシワのおばあちゃんに戻っている。

ソフィーって、慎ましくて、保守的で、地味なタイプなんですよね。
高望みはしないように心がけているようでもあるし、
ある種の諦念かもしかすると社会性にしばられているかのようでもある。
ナチュラルな節制ともいえるのかな。まだ18歳だっていうのにねえ。
「荒地の魔女」の呪いっていうのは、ソフィーの背中をちょっと押す程度のものというか、
相手の力を利用して技をかけるのに似ている、と僕は解釈してます。
ソフィーの持つコンプレックスや消極性などを見抜き、それを負の要素として呪いをかけたのではないでしょうか。
呪いっていうものは、負の要素の背中を押すことだと思うんですよ。
その人とはまるで関係の無い、とんでもない災難・不幸ではない。
たとえば、「あの人に隕石があたってしまえ」とかあるとするでしょう、それだけじゃ呪いじゃないわけで。
「あの人が一日に5食たべつづけるならば、隕石よ、当たれ」ならば呪いですよ。
対象の人物の、性向や精神といった行動原理をつつきますよね。
そういうところでは、呪いのほうが魔法よりも人間的で、現実味がある気がします。

それで、そんな呪いを主人公のソフィーがかけられてしまう。
序盤は、何がカギなのかがわからないし、理不尽な魔法のように思えるのですが、
ストーリーが進むにつれてなんとなく呪いのカギがみえてくる(ような気がする)。
結論からいいますと、と言いながらはっきりとは言えないのですが、たぶんカギは
主体性と愛の欠如(or弱さ)とネガティブな自意識でしょうね。
そこが変化しないと、呪いは解けないんだと思う。
また、エンディングでもソフィーの髪の色だけ老いていたけれど、きっとハウルの子供でも産めば
元に戻るのかもしれないよ。もうね、そこは愛の完成みたいなさ。
あるいは、ソフィーのポジティブな要素に呪いがかかっている可能性もある。
そこはいいとしてだ。ソフィーにかけられた呪いを考えると、すごく象徴的なんですよ。
こんなのでおばあちゃんになっちゃうんだったら、この世の中にどれだけおばあちゃんがいるやらってね。
それで、おばあちゃんになってみて、18歳であるがゆえのしがらみが消えて、
自分を飾る意識や必要がなくなって、思うままに動いて、それが真っ直ぐだったから、
あんなハウルみたいなのに惚れられちゃう。
それに、真っ直ぐが全て正しいことじゃないことも描かれてるでしょ。
で、そういうの見て女性が喜んだり感動したりすると、男も嬉しいんだよな。
ただ、そこで優生学的な方向へは行かないでおくれと言いたい。

呪いについてはこのへんで。
ハウルはアナキン・スカイウォーカー(スター・ウォーズ)やデビルマンみたいなところがあるよなぁ。
手をひらひらさせて超能力(魔法)を使うところなんか、ジェダイじゃん。
また、動く城に入城したソフィーが、「カルシファーにいれてもらったんだよ」と、
悪気なく言うその悪知恵、のけぞりそうになったね。カカシのカブを使うところもそうなんだけどさ。
老犬も愛嬌あるんだよな。テケテケテケテケって小走りでハァハァ言ってさ。
面白かったな。
しかし、しかしだよ。
それにしてもだ。
まったくハウルってやつは幸運な男だぜ!ちきしょー!
と、何故か捨て台詞を吐いて、終わっときます。
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