Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

近況2022/3

2022-03-22 11:02:50 | days
近況報告になります。

相も変わらずよくない家庭環境に悩まされていますが、最近は夜に出歩くのを増やして家から離れる時間が持てたためか、めまいや頭痛はだいぶ減り、食道と胃の不調も9割くらい改善しました。僕にはやっぱり、リフレッシュの時間が必要だったようです。このあたりも、だましだましやらないと、親父からの母や僕への攻撃が激しくなります。

さて、小説執筆は34枚で止まったまま。単純すぎるたとえではありますが、音楽のポップス曲なんかでいえば、「ブリッジまで来ました」という段階ですね。そこでなんですが、エンタメ性を増していくか純文学の方面の作品とするかで考えていました。これは、どこに応募するかで変わってくるので、この時期ならば『文學界』が視野にありますから、純文学だと思う方向へ舵を切ろうか、とあたまを整理しています。あるいは、北海道新聞の創作募集に応募するのもひとつの手です。このあたりは、今後の執筆状況によってくるでしょう。

二週間近く前に身内に不幸があり、家族葬に出席しました。亡くなったのが伯母さんなんですが、つきあいが長かったためか、これまで祖父母を見送ったときよりもずっと、「人が亡くなった」感が強いです。病院に通いづめだった従兄姉たちもかわいそうだし、訃報の電話を受けたときには慰めの言葉でもかけたかったんですよ。でも、こっちもショックだし、向こうとは温度差があるだろうなあということを考えてしまい、言葉も気持ちも空回るばかり。通夜と告別式、初七日と、仲の良い従兄ともあんまり話ができなかったので、二日前の20日の夜に従兄の家に出向き、フライドポテトをかじりながら夜中までいろいろ語らいました。後半はほとんど雑談で、ふざけた話をしながらになりましたが、それでもひさしぶりに話せてよかったのでした。

で、今日は今日で、午後からコロナウイルウスワクチンの三回目接種にいってきます。モデルナなので熱が出そうです。二回目のファイザーでも熱が出てだるくて、そのころ良くなりかけだっためまいや頭痛がぶり返しましたから、今回も同じようになったらいやなんですよねえ。まあでも、これが完了すると、体調面も戻ってきているし、創作活動や読書にも精を出せるのではないかなあ。

そんな感じです。
体調面って大切だなと、年齢的なものでしょうけれども、重く考えるようになってきました。皆さまもできるだけご無理なさらず、ご自愛ください。
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『絵はがきにされた少年』

2022-03-11 17:00:26 | 読書。
読書。
『絵はがきにされた少年』 藤原章生
を読んだ。

南アフリカとその隣国を中心にそこに住む人たちのごく一部にアプローチしたノンフィクション集。全11話。各話とも、およそ一部から全体が見えてくるようなつくりになっています。なぜそのようなつくりになっているかと言えば、環境や背景がインタビューした人物の周囲に漂っていて、そこを省略していないからだと思います。

アフリカのほとんどは植民地支配を受けていた土地柄です。もともとオランダ人やポルトガル人の家系だったのがアフリカに移住してその土地に根差すようになり代を重ねたアフリカーナーという白人や、現地人との混血、そして現地人たちがいて、複雑な人間関係や支配・差別の社会を作り、生きている。また、現地人のなかでも、その氏族によって力関係や差別がありますし、氏族ではない場合でも、ルワンダのツチやフツのような差別的な民族の分割がある。

そのような環境を作ったひとつには、たとえばダイヤモンドや金などの利権を独占するべく、英国人などが乗りこみ、自分たちの武力や文化の強さをつかって自分たちに有利な仕組みをつくりそこに現地人を閉じ込めてしまった、というのがあります。アフリカは人類発祥の土地だけれども、欧州からの植民地化によって(ある意味では、文明化を果たしアフリカを忘れた人類による傲慢な帰還によって)、そんなアフリカにずっと暮らし続けてきた現地民族は翻弄され蹂躙され搾取されてきたし、今もその影響下から抜け出せていない。

以前読んだ『はじめてのゲーム理論』によれば、人々の思惑にもとづく戦略的操作とは無縁の社会を、私たちは作ることが出来ない。思惑と戦略的操作に長けた欧州人が、アフリカにその論理と世界観を持ちこんで、別の世界観にいたアフリカの現地人をそこに強制的に詰め込んだ。賽は投げられてしまった、というわけ。それはすごく長いタイムスパンで考えればまた変わってきて、違うといえるのかもしれないけれど、ごく穏当に言って不可逆的な出来事になった。このあおりを現地人に食わせるだけ食わせる文化人たちの文化は、本当に成熟しているといえるだろうか。読んでいて、そんな問いが脳裏に浮かぶのでした。

社会の、「苦しむアフリカの人たちを助けよう、そのために寄付しよう」という動きについては、アフリカだけじゃなくてアジアなどでもそうですが、よく目にしてきたと思います。多額にせよ少額にせよ、寄付したことがある方はけっこうな数いらっしゃるかもしれない。僕も、募金箱に100円玉を入れたりなどしたことがあります。

本書でも後ろから二つ目の章である「『お前は自分のことしか考えていない』」にて、このような、他国の困っている人を助けることについて、著者の考察と葛藤が書かれています。困っている国に援助金をもたらしても、困っている人たちにわたるまでに官僚などが中抜きをしがちだったり、そもそも困っている人たちが無料で食料を与えてもらうことでその文化のギャップに大きく戸惑うことがあるともありました。

たとえば、彼らアフリカの人がうまくとうもろこしを育てることができても、食べられる量はわずかだったりします。貧しい食糧事情の中、その土地の人たちはそれでも自活して生きている。ある年、作物が育たなくなり食糧危機の支援で他国から無料で食糧がはいってくる。それは何日分かの食糧でしかないし、でも彼らはそれを遠慮なく食べるのですが、そこで空しさを感じるといいます。これまで苦労しながらわずかな食料を得てなんとか生きてきたのですが、でもそこにはある種の充足感があったのです。しかし、危機になって与えられた無料の食べ物は、無料なのに普段の食生活のレベルを凌駕する豊かさの食べ物だった。そこにみじめな思いが生じるのです。食糧や援助を受けるくらいなら、農業の助けや仕事を作ってくれたほうが、困っている人たちの尊厳は守られるのです。

また、困っている人を助けることについての人々の浅慮を指摘する部分にも大きく考えさせられました。

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そして実際に金銭も時間も心情をも彼らのために費やした。(p222)

→ 人を助けるためには、自分のあらゆる部分を削り取られる覚悟が必要で、それはたとえば介護も同じだなあと僕なんかには考えられるのでした。

◇◇◇◇◇

一人のアフリカ人でもいい。自分が親しくなったたった一人でいい。貧しさから人を救い出す、人を向上させるということがどれほどのことで、どれほど自分自身を傷つけることなのか、きっとわかるはずだ。一人を終えたら二人、三人といけばいい。一般論を語るのはその後でいい。いや、経験してみれば、きっと、多くを語らなくなる。(p225-226)

→ ここでも述べられていますが、人を助けようとすると、そのために自分が傷つき、損なわれる部分も少なからずある。すなわち、犠牲がどうしても払われることになるのですが、援助や助けに対して、一般にそのあたりに対するイメージや思慮に乏しいことの指摘になっているのでした。
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このほか、第二章の「どうして僕たち歩いてるの」も、重くのしかかってくるテーマではありますが、考えさせられる内容でよかったです。人種差別の世界を見抜いた自分の子どもとの対話からあぶりだされる苦しい葛藤についての話です。本章から答えは得られませんが、南アフリカ世界の仕組みに触れることで、人間の心理の難しさや社会の仕組みの難しさについて考えるきっかけが得られると思いますし、そもそも気付けていなかった人間存在の困難な問題を知ることにもなるでしょう。

といった中身です。本書のなかでは、ノーベル文学賞を受賞した南アフリカの作家、J・M・クッツェーの名前や作品、その人がたびたび登場します。興味深かったですし、そのうち彼の作品に触れてみようかという気持ちになりました。難しい世界の、日常に現れるさまざまな難しい案件であったり瞬間であったりを経験して、屈せずに、力強く創作へと昇華したその「人の力」にまずすごいなあと思います。もちろん、クッツェーという知性でこそのなせる技なのでしょうが、エネルギーのほうに今の僕は惹かれるのでした。


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『教育の力』

2022-03-05 03:26:20 | 読書。
読書。
『教育の力』 苫野一徳
を読んだ。

人間がもとめる「自由」というものをぐっと深く考えた末に得られる社会の根本原理から立ちあげた教育論でした。そもそも教育はどうして必要なのか。それは各人の自由を担保するためなのだと著者は論じます。

古代、農業の勃興によって蓄財が生まれたのち、人々はそれを奪い合うようになります。そのような争い、戦争は、「生きたいように生きたい」という種類の「自由」によって起きている、と二百数十年前の哲学者たちは見抜きました。つまり「自由」への欲望が、争いを生んでいるのだ、と。そこで考えられたのが公教育でした。ヘーゲルのよると、「自由」でありたければ、お互いの「自由」を認めあわなければならない。これを「自由の相互承認」といいますが、公教育によって「自由の相互承認」をできる人々を育て上げようとしたのが、公教育のもともとのはじめなのだというところに、その目的は行き着くのでした。要するに、現代の「自由」というものは、やりたい放題わがまま放題することではなく、自分の「自由」のためには他者の「自由」を認める必要があるという自覚のはっきりある「自由」なのだと定義されていました。そういった現代的な自由、そして争いを回避する自由のために教育があるのだというのが教育の根本原理なのでした。

しかしながら、日本では明治期に公教育がスタートするなかでこの根本原理の上から「自由の相互承認」がきちんと目指されたことはありませんでした。富国強兵、つまり国家のための教育からはじまり、戦後になっても労働にかなう人物を作り上げるための教育という面が強かった。ただ、労働のための教育という考え方は、子どもが大人になって自由を得るためにはまず労働できることだとなります。社会のための教育か、子どものための教育か、という論争は尽きないそうですが、こうして考えていくと、そのどちらにも当てはまることであることがわかっていきます。教育は、個人の「自由」のためそして「自由の相互承認」の感度をあげるためであり、他方、「自由の相互承認」によって、社会を豊かかつ平和にしていくためである、と。

これらは序論のところで述べられているものです。まだ一般福祉についてや、平等と競争についての考察があるのですが、こうして序論のところだけでもしっかり押さえておくだけで教育に対する視点がかなりクリアになるのです。そのクリアになった視点のまま読み続けることで、この先展開され積み上がっていく著者の教育論の妥当性がよりわかるようになります。

現代は知識基盤社会と呼ばれ、生涯ずっと学び続けなければいけないような社会になりました。ここを踏まえて、著者は、これからの教育を「学びの個別化」「学びの協同化」「学びのプロジェクト化」の三つに分けて解説し、その融合による教育を説いていきます。「学びの個別化」は、それぞれの性格や性質にあわせて学習を進めていこう、というもの。「学びの協同化」は、わからないところを教え合うなど、学び合える学習の有り方。「学びのプロジェクト化」は、洋服を作るだとか宇宙の成り立ちを知るだとか、ひとつの目標のためにみんなで力を合わせながら、いわば学び方を学ぶような体裁で自主的かつ自律的に行う学習の有り方。このなかでは、100年以上前にアメリカでデューイが提唱した「新教育」の見直しがありました。幾度と批判を受けながら、それでもなお良いところの多い「新教育」を、ICT技術のある現代でこそ考え直す。そういった考え方で、さまざまな「新教育」由来の教育方法を紹介していました。

また、人間関係の流動化をはかるために校舎の建築様式・デザインを考える必要性も述べられています。ここのところで、短いながらも解説されていた「群生秩序」というものが、子どもの頃から嫌悪していたマインドでした。「この、くそったれ!」と言いたくなるくらいに、です。

「群生秩序」は、狭く閉じた世界での窮屈な人間関係のなかで生まれる秩序だと言えると思います。善悪の判断が恣意的で、その場のノリや空気で決まるものです。「弱いくせに賢いからあんたは悪だ」というように。ここでは「同質性」が深くかかわっている。「同質性」を予定調和できないものは悪、というようなマインドは、残念ながらどこにでもあるし、それこそ蔓延しているでしょう。現代においてミルフィーユ状に何層もの階層があって棲み分けがなされていて、そのひとつひとつの層に「同質性」が求められる。「同質性」を作り上げている基盤には、「不安」や不安を元とした「強迫観念」があると思います。「不安」を抱えるなんてことはしょうがないことなのですけれども、その不安の解消の仕方をどうするかなんです。「同質性」で「不安」解消するのは不健全。でもどうしたらいいかわからない、モデルがない、というマインドがそこにはあります。

この「同質性」をうまく回避するやり方をも、これからの教育では子どもたち自らが考えていけるようになればいいです。そして、そのあたりも視野に入れた教育の改革を、著者たち教育学者の理論をもとにしたりなどして、この先30年くらいのスパンで、少しずつじっくりと進められていくのでしょう。よりよく学べて、心の安定のケアもなされる教育が少しずつ実現の方向へと歩んでいっています。未来を生きる人たちがより豊かな生を生きられるようになるためには、現代にある障壁や苦悩というネガティブなものが問題提起となって役立つのです。そう考えていくと、社会や人生にいろいろなことが起こっても、ちょっとポジティブにいられると思いませんか。

本書は2014年発行のもので、さらに著者は僕よりも年下でしたが、ものごとを人の欲望や関心にまで遡って考えるところなど、今の僕の考え方に近いところがあり、びっくりしました。なんだか、いきなり言い当てられたみたいに。

丁寧な言葉で論理を解きほぐしながら進んでいく内容ですし、読み易いタイプの論説本でした。おもしろかったです。


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