Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『ワーク・シフト』

2019-02-26 23:48:58 | 読書。
読書。
『ワーク・シフト』 リンダ・グラットン 池村千秋 訳
を読んだ。

2012年のビジネス書ですが、まだまだ十分に読み応えのある本でした。
7年経っても読める理由は、
この本で著者が行った未来予測がかなりの精度だったことにまずあるでしょう。
2013年ビジネス書大賞受賞作。

本書の趣旨はといえば、
2025年を設定した未来世界を考えることから仕事のあり方について
「どういったものがIT革命後の今に、そしてこれからに合ったものなのか」
を解き明かし、
新しい仕事や生き方の姿勢を提示するものでした。

「漫然と迎える未来」には孤独だったり貧困だったりする未来が待っていて、
「主体的に築く未来」には自由で創造的な人生が待っている。
そして、その「主体的に築く未来」にするためには3つのシフトが必要。
第一は、ゼネラリストからスペシャリストへのシフト。
専門技能を絶えず磨こうという話。
第二は、性格の異なる3種類の人間関係を築こうという話。
第三は、自分についてより深く理解し、価値観を再考し、
そのうえで、情熱を持ってなにかを行う生活へという話。

これが、まったく突拍子の無い話ではなくて、
ちゃんと地に足がついた論調なんですよねえ。
だから、きっちり読んでいくと、
その理路に当然ながら賛同できるし、
今の自分の方向性や考えと照らして、
旧来の生き方をしているか、
それとも未来的な生き方をしているか、
読者はその度合いを知ることができると思います。

未来には五つの要因があると著者は分析します。
1、テクノロジーの進化。
2、グローバル化の進展。
3、人口構成の変化と長寿化。
4、社会の変化。
5、エネルギー・環境問題の深刻化。
の以上がそれであり、
さらに本書ではそれらを32の現象に分け、
そこから未来予測をしています。
未来に生きる架空の人物の一日を通して、
具体的に、読者には予測された未来を感じてもらう。
そして、それから三つのシフトについて論じるというのが、
本書の体裁でした。

やっぱり、なんていうか、
こう言うとベタですけども、
これからの時代も生涯学習の時代なんだと思いました。
努力とか勉強とか、僕は嫌いなんですが、
好きで本を読むとかは大好きなんですよね。
きっと自分をよく見せるだとか他律性だとかがイヤなんです。

そうそう、ナルシシズムの話も載っていて、
ジェネレーションYだとかZだとかでこれはあると思いましたね。
自分の立位置が不安だと、
ペラペラと自分の良いところややってきたことを喋り出すのってある。
そうやって自分を安心させたいわけですが、
それはそれで、自己中心的以外のなんでもないんですよね。
けっこうみんな気付いていないと思いますが、
こういうの、若い人に多いですよ。
僕も若かったころそういう傾向はあったと思うし、
周囲を見てそう感じてましたもの。
自分たちが正しいとするんですよ。
大学のランクが中くらいだとしても、
もっと上のエリートよりも自分たちの方が
バランスがよくて真っ当だと思っている。
そういうのって今の若い人にもあります。
で、原因は、さっきも書いたように、
そうやって自分を安心させないと、
折れてしまうからなんです。

まあ、それはいいとして。

自分を変えたい人、
既存の価値観と自分の価値観が合わないことに不安を感じている人、
そういった人たちの盾となり安定剤となるような本だと思います。
おもしろかったです。
きっと『ライフ・シフト』もそのうち読みます。


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最大クラスの余震ということです。

2019-02-21 23:04:36 | days
また地震でした。

9月の地震に比べると、地震の大きさは1/30とのことで、
やはりあのときよりも揺れは小さかったです。
まあ、それでも、床に書類が散乱しましたけども。

僕の住む街は震度3表示。
それでも、縦に長いところの南側で、安平町に近いので、
もう少し揺れている感じがします。

またしても緊急地震速報が揺れの最中に鳴り響く……。
もうその段階では本の山をおさえていました。
ほんとうなら、こういう行動はよくないんですよね。
逃げるなりせよ、という、ね。

まずは今のところ、厚真火力発電所に異常はないと発表されています。
全道ブラックアウトだけは避けたい。
今は真冬じゃ。
なにに困るって、暖房に困る。死活問題。

あと牧場の様子も気になりますよね。
震源地近くは馬産地ですからね。
9月の地震では、
その時のダービー馬・ワグネリアンのお母さんが亡くなってしまった。
仔馬の出産シーズンでもありますし、
悲劇の無いように祈るばかり。

自分の生活にも支障が出ない事を祈ります。

ひとまず、大丈夫でした報告でした!

(掌編を書きあげたはいいものの、
送付する体裁にまでしていなくて、
「まだ締め切りはあるからいいや」と構えていました。
それでこの地震です。
やれるときにぱっぱっとやっとかないとですねえ)

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『知識ゼロからのボウリング入門』

2019-02-19 12:05:10 | 読書。
読書。
『知識ゼロからのボウリング入門』 山本幸治
を読んだ。

東大卒業のプロボウラーが教える、ボウリングの入門書。
ボーリングじゃないですよ、ボウリングが正式な書き方なのでした。

何度か書いたことがありますし、
きみはそうだったね、と思う方もいらっしゃると思いますが、
僕はボウリングが好きで、
マイボールを使い始めてから6年とか7年とか経ちます。
最高得点は246点を超えられないままですが、
アベレージが上がってきていますし、
不得手なスペア面をカバーできたなら、
もっとおもしろいことになるなあと、
今回、本書を手に取ったのです。

いやあ、入門書として良い本でしたよ。
基礎のおさらいができましたし、
あらたに、そうだったかあ、とわかった技術面の答えもありました。
まあ、重力を利用して、振り子の原理で投げると安定するだとか、
スペアなんかで目標のピンに投げるときは身体もそちらへ向けるだとかは、
ボウリング仲間の従兄が言っていたりして知っていたんですが、
従兄自身、この本を読んでいたのかなあと思うくらい、
同じような言葉遣いで書かれていました。

僕の欠点であり課題は、二投目の精度なんですよね。
一投目だとうまく重力を使えるんですが、
二投目でスペアを狙うときには、
曲がらない違うボールを使って、
違う持ち方と投げ方で投げるので、
どうも腕力で放っているらしいのがこの本でわかりました。
今度プレーしにいったら、
持ち方はカーブしないようにしますが、
一投目のように重力を使って投げてみようと思います。

スポーツとしてボウリングを見てみると、
ウォーキングや軽いジョギングと同程度の運動負荷だそうです。
10ゲームくらいやれば、なかなかの運動になりますよね。
それで、ボウリングは有酸素運動のため、
内臓脂肪を燃焼しやすいそうです。
走るとすぐ息が切れてしまったり、なんかジョギングって苦手だな、
っていう人には、うってつけの運動不足解消スポーツです。
ただ、プレー料金ってものがかかりますので、
そのあたりは考慮しなければですが。
ウォーキングだとか、いわずもがな、プレー料金なんてないですからね。

最近は桑田佳祐さんが音頭をとって
ボウリング大会を催しましたよね。
ボウリング人気がもっと盛り上がると楽しいですが、
マナーはちゃんと守ろうよね、と思います。
料金の安いボウリング場へいって、
隣のレーンでプレーしている兄ちゃんたちがひどかったことがありました。
スタッフさんたちも注意できずに遠巻きに見たりいなくなったりで、
大変かもしれないけれど、それじゃだめよ、とテンションを下げながら
従兄と目で会話したものです。

とまあ、ボウリングはマイボールを持つくらいまでやったら、
なおおもしろいので、ちょっと好きだなあ、くらいの人も、
奮発してマイボールを買ってやってみるようにするといいよ!
とおすすめしておきます。
マイボール、値引きだとかしてくれますから、ドリル代込みで
30000円弱だとかですかね。
初心者ボールとバッグとシューズで16800円みたいなのもあって、
僕はそこから始めたタイプです。
もうちょっとリーズナブルな値段で関われるといいのですが、
なかなかそうはいかないんでしょうね。


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『カラスの常識』

2019-02-18 18:44:33 | 読書。
読書。
『カラスの常識』 柴田佳秀
を読んだ。

身近な野生動物であるカラスの生態・習性、頭の良さについてや、
人間とのあいだで問題になっている、
たとえばゴミを荒す問題や、
人間を攻撃する問題などや、
人間からのカラスへの対応の仕方、
また、どう付き合っていくべきなのか、
までを読みやすく論じた本です。

僕も学生時代になんですが、
カラスに後ろから頭を蹴られたことがあるんですよ。
それも、繁殖期の初夏ならありそうですけど、真冬で、
それも、バイトの屋外勤務の初日、という、
たぶん誰かと間違って蹴ったろ、と思えるような事件でした。
けっこうな首への衝撃でしたよ。
転びかけましたし。
頭はヘルメットを被っていたので怪我はなかったですが、
カラスのほうで、
「こいつ、ヘルメットだし」と
あまり手加減をしなかったのかもしれない。
もうね、痛いとか驚いたよりも、
恥ずかしい。
それに尽きるもんです。

さて、日本には大きく分けて二種類のカラスが棲み分けている。
森の中で暮らすハシブトガラスと、
農耕地や河川敷などひらけた土地で暮らすハシボソガラス。
ちなみに、都会に多いのはハシブトガラスだそうです。
都市はコンクリート・ジャングルって呼ばれもするくらいで、
森みたいなものなんでしょう。
また、海外には白黒のカラスも珍しくないようです。
中に絵が載っていますが、カラスとしての印象は全然違いました。

カラスはスカベンジャーとも言われる種類の鳥です。
スカベンジャーとは、ゴミや死体などを食物として、
自然界の掃除役を担う動物を表わす言葉なんだそうです。
それが、たとえば東京に大集中して、ゴミをあらし、
人生を謳歌して、どんどん増えていきもしました。
著者は、それは、ルールを守らない人間によってカラスを招き入れたのだ、
というように分析しています。
ゴミの日を守らない、ゴミをきちんとした体裁で出さない、
カラス対策にネットをかけるのも怠る、
などによって、カラスはとても生きやすかったわけです。
そんなことをしながらも、行政の方ではカラスを捕獲し、
全国では年に40万羽ほど殺処分しているそうです。

学校にカラスの巣ができて、
親ガラスが児童を攻撃するから駆除しようとなると、
その児童たちの意見として、
「人間の邪魔をするのだから、殺されて当たり前」
というものが飛び出したりもするのだとか。
カラスが増えたのは人間の暮らしかたによるもので、
そして、減らそうと捕獲し処分するのは人間の都合。
そして、そんなあり様を見たり感じたりしながら、
子どもたちのこころは荒んでいく、と著者は危惧します。
そのあり様を作っている大人たちも、
こころは荒んでいて、それを気にも留めていないのかもしれない。

そんなこんななんですが、
まだわかっていないところは、
はっきりと「わからない」と述べられ、
そういうところが続くと、
この本、大丈夫かな、なんて思いもしましたが、
読み終えたトータルの感じ、
それも最終章での論考が真っ当ですばらしかったので、
なかなかおもしろかった、と言えます。
雑学としても、
考えるタネとしても十分に役立ってくれる本だと思います。


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『何者』

2019-02-17 01:22:07 | 読書。
読書。
『何者』 朝井リョウ
を読んだ。

歴代二番目の若さで直木賞を受賞された朝井リョウさんの受賞作品です。

大学生の就活の話ですけれども、
このくらいの年齢の人たちって、まだまだ経験も思索も足りないのに、
いっぱしの大人でなければいけない、もしくは大人なんだ、
という意識のためなのか、小さくまとまってしまう人って多い。
というか、大部分の人たちってそうじゃないだろうか、
そして、今30歳、40歳、50歳を超えた人たちも、
かつてはそうだったのではないだろうか。

僕はアラフォーですけども、
若いころを振り返って、
今もバカだけど、当時もバカだったなあ、
教えてやりたい、叱ってやりたい、
と思うときの理由はこれだったりする。

まるでいろいろとなんでも知っている気になって。
ちょっとした物事はなんでも見通せると過信して。
年上の「大人の先輩」たちとも、
自分たちはもう同じ高さで肩を並べたんだというような気で。
あるいは、自分たちが一番優れた判断ができると思いあがりもして。

それは、ひとつの若さだ。
カッコ悪いし、
カッコ悪いと指摘されたり、
カッコ悪さを馬鹿にされている、
笑われていると感じたら、激怒して、
逆に攻め立て、攻撃してしまう若さだ。

そうでもしなければ、立っていられない。
そういう折れやすさだって、若さのひとつの特徴だ。

まあ、いろいろ含まれた作品でした。
社会に迎合するってわけじゃないけれど、
いまの社会体制を肯定というか、受け入れる態度が前提でもあり、
かといって、重要な気づきを与えるキャラクターが、
そうではない考えをもっていたり。

主人公の目を通してマジョリティーの世界を見ているような気がしてくる。
それで終わってしまったら、僕はこの作品を批判したかもしれないけれど、
そうではなかったです。

作者は性格が悪いなあ、と思う。
作家なんてものはそうなんだろう、とも思う。
でも、この、主人公の気持ちの悪い部分を、
自分では内に持たずに書いているわけではないと思いました。
この物語は、一種の自己批判もこめられているのでは、と。
そして、ほんとうの成人を迎えるための階段をひとつ、
踏みだすための物語のようでもあります。
20歳で成人して、お酒もたばこも飲めるようになって、
表面上の振る舞いは成人だし、いっぱしの知識も知恵もつくのだけれど、
やっぱり精神面の成長が追いついていない
(なんていうとありきたりでしょうか)。
そこのところがうまく生々しく描けているところが
この作家の特徴のひとつだと思いました。

本作を読んでいて、何者、というキーワードで語られることで、
そして、匿名のツイッターがカギになっていることで、
僕自身のハンドルネームについて頭が向きもしました。
まあ、こんな話は誰も興味がないでしょうけども、
僕の、ますく555(mask555)というハンドルは、
この物語のような、何者かになるための仮面ではないんですね。
なんてことのない由来ですが、
ドラマにもなった『ガラスの仮面』で、
主人公の北島マヤが、千ものガラスの仮面をかぶる、と
その演技力の幅広さを評されるのですけども、
それにあやかってるんですよね。
いや、俳優になろうなんて考えたことは一ミリもないです、
当時は音楽をよく作っていたので、
いろいろな幅広い種類の音楽を作れるようになりたいために、
1000のガラスの仮面よろしく、
でもちょっと遠慮がちに、1000を555にして、
そして仮面をかぶろうという意味合いで、mask555に決めたんですよね。
ちなみに、13歳頃から本格的に聴きだしたYMOに、
「Behind The mask」という有名な曲があり、
それが好きだったから、なんかいいなとも思っていましたね。
……というわけで、すんません、どうでもいい話でしょ……、終わります。


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『生田絵梨花写真集 インターミッション』

2019-02-10 23:47:46 | 読書。
読書。
『生田絵梨花写真集 インターミッション』 生田絵梨花 撮影:中村和孝
を眺めた。

撮影者は乃木坂46の白石麻衣さんの30万部超えの写真集『パスポート』
と同じく、中村和孝さん。
いくちゃんのこの2nd写真集はもうすでに27万部発行されたとのことです。

愛くるしさ満開でした!!

二作目となる今回のいくちゃんの写真集は、
橋本奈々未ちゃんのラスト写真集とおなじNYが舞台。
奈々未ちゃんのときは切なさが溢れてきたので、
今回のNYの風景にもオーバーラップするものがあったけれど、
いくちゃんの存在感、はつらつさ、生命力、もちろん美しさで刷新されて、
彼女らしい素晴らしい写真集!との印象を持ちました。

大好きないくちゃんの写真集である今作を眺めてると、
いくちゃんは最強にかわいくてスタイル抜群でちょっともうわけがわからない。
いつのまにあんなに胸が大きくなってた??
腰がきゅっとしていてすごくきれい。
もうね、現実なのか夢なのかもわからないくらい。
ただ、そんななかでも、
いま最高の体験をしている!っていうのだけが感情としてあるのです。
楽しく愛おしい時間。そして見終えたあとの読後感、幸福な余韻。

こんなに素晴らしくて素敵で愛らしくて可憐で美しいいくちゃんと、
とても近しくなったような気分で過ごせた写真集タイムでした。
いくちゃんからの最上のプレゼントですよ。
元気になれないわけがない。
活力みなぎりますね。
ありがとう、いくちゃん!


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『IT社会事件簿』

2019-02-09 22:54:57 | 読書。
読書。
『IT社会事件簿』 矢野直明
を読んだ。

ネットが一般社会に普及した黎明期から2013年までの、
主にネットが原因となったり手段となったりして世間を騒がせた事件を、
海外の動きも含めながら再確認していく本です。
(あとがきに2015年までの、
本書が単行本から携書化されるまでの2年間の主だった事件も収録)

いろいろと記憶がよみがえりますね。
それと同時に、順序立てて客観的に当時を振り返ることができる。
尖閣諸島の事件(中国の漁船が海上保安船に衝突した映像がYouTubeにアップされた事件)なんか、
もうそれこのあいだじゃん、みたいに感じる。
インターネットが普及してから、知らない間にたくさんの時間が流れたなあと、
あらためて感じもしました。

自殺ほう助事件である「ドクター・キリコ事件」、
ビデオデッキの修理に関する問い合わせがトラブルになった
「東芝アフターサービス事件」、
自殺志願者が集まるサイトから集団自殺が多数発生した時期もあるし、
学校の裏サイトの書き込みが元となって、
小学生女子が小学生女子を殺してしまう事件もありました。
ファイル共有ソフト・ウィニーの問題、
株誤発注事件、
ライブドア事件、
村上ファンド事件。

また、東日本大震災時のネットの活用のされ方を振り返ったり、
ウィキリークスの話や、
アノニマスのサイバー攻撃の話、
アラブの春なども扱っています。

序盤はそうでもないですが、
読んでいくにつれて、
各事件や問題を、社会学的だったり情報学的だったり、
それこそ追跡取材による視点で、著者なりに考察をし、
各々の側面や、深いところを照らしだしています。

こういう、「ITだけ扱いました」という類の本であれば、
まあ、ステレオタイプな考え方だとは思うのですが、
安直に編んだなら、こうこうこれだけの事件があった、というだけで、
事件の羅列と、ネット側からしか見ない杓子定規な評価だけで終わりそうです。
本書はそうならずに、
事件、ひいてはサイバー空間自体を揺さぶってみようという試みが読み受けられる。
呑みこまれずに、対象化していたい、という姿勢です。
リテラシーや情報倫理が必要だ、というような、
著者流の意見も随所に出てきて、
それがたびたび肯けます。

それでも、さらりと読み終えてしまえる文体と分量なので、
今までのサイバー空間の趨勢というか、
ダークサイドばかりですが、
振り返っておさらいするにはうってつけの本だと思いました。

著者 : 矢野直明
ディスカヴァー・トゥエンティワン
発売日 : 2015-02-26

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「無関心」という病理への気づき。

2019-02-07 00:50:27 | 考えの切れ端
前回の読書記事で予告したとおり、

イギリスの精神分析医による著作『人生に聴診器をあてる』より、

「何よりも妄想とは、私には誰も関心を持ってくれないという意識の副産物なのだ。
(中略)そんな妄想が、世界中に見放されているという絶望から、
彼女を守ってくれたのである。」

という見識を今回は深掘りしてみます。
(個人的に2019年の2月にして、2019年最大の発見だと思っています)

上記の見識を別の言い方で表現してみれば、

妄想(とくに被害妄想)は、
自分に対する周囲の無関心の意識から生まれる。
無関心にさらされていることにより弧絶感は命を脅かすほどだから、
自己防衛反応として妄想が生じる。
そうやって、自らを守っている。
わたしは誰にも忘れ去られている、という思いを封じ込めるため、
本能が被害妄想を発動させる、
となるでしょう。

『人生に聴診器をあてる』のここの部分によれば、
被害妄想がなぜ生じるかいろいろな仮説があるそうだと書いてあります。
著者は、その多くの仮説に通底する部分を彼なりに読み解き、
無関心さが被害妄想を生じさせている、と記したように書いてあったと思います。



ではまず、日常における「無関心」ってなんだろう、どういうことだろう、
というところを見ていきます。
たとえば、ぱっと思い浮かぶ「無関心」から連想される場所である都会は、
人間関係が希薄でしょうし(特に隣近所の付き合いなんてない)、
「無関心」さが強いと言えるでしょう。
地方の比較的ベタベタした人間関係を嫌い、
それで都会に出てきたんです、という理由を語る人はたくさんいると思います。
つまり、都会人はプライバシーを重んじる傾向が強い。
そんなプライバシー重視の価値観は、
「無関心」に近接しているものです。

そして、時代に先行していた都会の人々の「無関心」さは、
現代になると広まっていきました。
現代人の、たとえば子どもたちのコミュニケーションの取り方を
30~40年くらい前と比べてみれば、
個人と個人がぶつかり合うケンカは少なくなったと言われます。
もっと昔と比べたなら、
さらに顕著に減少していることが分かるんじゃないでしょうか。
ケンカはお互いを肉体的にも精神的にも傷つけあいますが、
コミュニケーションの範囲に入る行為です。
それが、現代に近づくにつれて、
無視する、ハブるなどの(ツイッターならブロックもそうでしょうね)
コミュニケーションの範囲外の行為が増えていきます。
嫌いな人やモノなどには興味をもたないし、無視する。
無視とは、対象を無いものとして位置付けるということです。
それは関心を持たないという事であり、すなわち「無関心」ですよね。
そういった、精神的にも体力的にもコストをかけない
ディスコミュニケーションの増加が、
他者への「無関心」を促進してきました。
だから、個々人の妄想は強くなる傾向になってきたのかもしれません。
その証左として、都会では精神を病むひとが増え、
遅れて、現代人全般にも精神の調子をくずす人が増えてきた。
精神分析やセラピーを受ける人も、
何十年か前に比べて増えてきただろうし、
珍しくもなくなりました。

というように、
ここまで筋道立てて考えてみて、
「無関心」が妄想を生み、また、それゆえに精神を不調にもする、
という作用はまったく的外れではないように考えられないでしょうか。



だからといって、
現代人は、対策もなく、
「無関心」による被害妄想に呑みこまれ続けようとはしていないと考えています。
それが「無関心」による作用なのだと意識していなくても、
無意識的な行動や、
時代の流れとして、
抵抗したり、乗り越えようとしたりしているように見えます。

例をあげると、
けっこう嫌われたりする行為ではありますが、愚痴をこぼすという行為。
愚痴をこぼすことは自己開示であり、
自分に関心をもってもらいたい気持ちの表れと解釈することができます。
また、自らを理解してもらいたいという気持ちがありますよね。
「無関心」は最上級にきついですが、たぶんに無理解もその次くらいにきついです。

時代の流れとしては、
議論から対話へというもの。
議論をするより、対話をして共感を得ていこう、という意識が強くなっているように、
僕なんかには見えているのですが、いかがでしょうか。
いや、議論がなくなっていってると言いたいわけではないのですが、
対話によってできるだけ共感していきたい欲求が
だんだん強くなっているようにも思えるのです。
そしてそれは、自分への「無関心」のつらさを
少しでも癒そうとする表れかもしれない。
対話は、「あなたに関心をもって、話を聞こうと思っていますよ」
という意思表示をお互いに暗に示しながらするものです。
具体的な問題解決もあるかもしれないけれど、
関心がもたれているという意識で救われるというのもあるのではないか。

また、くだらないという考えの人もいますが、
承認欲求というものも、「無関心」による弧絶感を
ふせぐためのものかもしれない、とも考えられるところです。
承認欲求のために、有害なことをする人もいます。
人に無視されるのがつらいから、
嫌がることをしてでも自分を忘れさせないようにする心理が働く人はいるのでしょう。
日常レベルで考えると、小さなところだと誰にも心当たりがありそうです。
それだけ、自分は忘れ去られた存在だと認知することは耐えがたいことなのです。



ちょっと話はそれますが、
一昨年リリースされた、坂本龍一さんのアルバムのタイトルが『async』でした。
asyncとは非同期を意味します。
坂本さんは、作品へのインタビューのなかで、
自然の音やリズムは非同期で満ちていて、
決して規則的に繰り返すものではない、というような認識を表わしていました。
で、作品を聴いてみると、僕にはある種、都会的に聴こえましたし、
オープニング曲の「andara」などは、孤独の悲しみから生まれたようにも感じました。
僕の解釈としては、非同期つまり同期しないというのは、
自分のペースを守るという価値観がそこにあるということです。
「自分は自分」であり、
それはプライバシーを重くみる現代人に繋がらないかなと思えるのです。

ここで話が元に戻るのがわかると思いますが、
非同期を無関心と重ねる見方も可能なんです。
ですから、
asyncは非同期の可能性を拓いたというより頂点を迎え限界を示した、
と、ぱっと考えた感じですけど、僕なりにはそうなります。
または、思想というより美学としての非同期を提示したのかな、とも。



もうひとつ、オプションみたいな考えを付け加えておきます。
『人生に聴診器をあてる』に書いてありましたが、
セックスやマスターベーションは抗鬱剤であり、
性的な妄想は精神安定剤、というのがそれです。
経験上、首肯できるものなんですが、
なかでも性的な妄想っていうのは、
これはひとつの、「無関心」によって生じる妄想が、
被害妄想へいかずにうまく見つけた出口なのではないかと思えます。
しかし、ここにも限度があるようなのは、
性的なトラブルや犯罪がよく取りざたされるニュースを目にするところにあります。
精神安定をはかるための性的妄想だけじゃ、
癒されなくなってしまったのかもしれないです。

さきほど書いた、妄想の出口という観点からもう少し考えてみると、
神様、という妄想で救われることがあるだろう、ということです。
信仰心があって、神様を信じていれば、妄想の出口として、
神様のほうへとその妄想は向かう。
そういう道筋が頭の中にできあがっていたならば、
「無関心」による耐えがたい苦痛を回避するのに、
被害妄想へいかずに、神様が自分を見ていてくれている、
という妄想へ向かっていくのではないでしょうか。
もっとイメージを膨らませて考えてみれば、
いったん、被害妄想を生じさせてしまっても、
神様を信じていたならば、
それすら昇華できてしまうかもしれない可能性も見えてきます。
これが、宗教が人を救ってきたメカニズムの大きな一つかもしれない。

そして、スピリチュアルが流行るのも、
妄想の出口として機能しているとしたら……?
そんなことも「無関心」を考えるうちにその範疇にはいってきます。

現代人はバカになった、
とそうネット上なんかで言われているところにでくわすことがありますが、
実はそれって真実ではなくて、
「無関心」によって妄想過剰状態になっているからなのかもしれない。
妄想によって事実誤認が多くなるでしょうし、
リテラシーがないなんて言われるその原因に、
妄想にひっぱられて、
それこそ妄想めいた自分勝手な解釈をするというのがあるならば、
そこには「無関心」が原因として疑われます。



では、僕たちは、「無関心」から脱却して、
過分な妄想とオサラバすることができるのでしょうか。

ツイッターで、無視をする自由はあるんだ、という考えにも出合いました。
それは、表現の自由を守るのである、と。
なるほどなあと思いましたが、「無関心」を肯定しすぎると、
受け手のリテラシーが上がってきませんから、
突出した素晴らしい表現があってもわからない、だとか、
それこそ「無関心」などの現代的な病巣の周辺のものにしか気付けない、だとか
そうならないかなあ、と杞憂かもしれないですが、考えてしまうのです。
また、自由には責任もともないます。
無視する自由には、人を病ませる可能性がある。
そういうことを、しっかり受け止めた上での自由であってほしい。
そうなれば、無視やスルーがお手軽なものとしては
認識されなくなるのではないか。

また、犬や猫などのペットは、
なつくと飼い主に対して
「あなたのことを忘れるなんてありえませんよ」というくらい、
関心をもってくれ、
それによって絆で結ばれます。
それは、弧絶感・孤独を軽減して、それゆえに妄想を生じにくくする。
そういう作用があると思います。



と、かなり長くなりました。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
この「考えの切れ端」が少しでも役立ちますように。

最後に、昔からのお気に入りの引用で締めようと思います。

「話の内容というのはさして大切なものではないんです。
大切なのは、信頼をもって話し、共感を抱いてそれを聞く、そこにあるんですよ」
(『草の竪琴』カポーティ 新潮文庫)

場合によっては、沈黙すらそうである。

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『人生に聴診器をあてる』

2019-02-05 23:56:35 | 読書。
読書。
『人生に聴診器をあてる』 スティーブン・グロス 園部哲 訳
を読んだ。

イギリスでベストセラーになったベテラン精神分析家によるエッセイです。
ほぼ、受け持った患者の話で、読むごとに読者の自己点検になる、
あるいは近しい人を当てはめての分析になるでしょう。
「ああ、そういうことだったか」などと、
自分で内省するだけでは気付けないような、
精神分析家にかからないとわからないようなことが閃いたりします。
つまりは、これは読書というよりも、深い内省をすることになる本です。
読むことでたくさんの気付きが得られるでしょう、しかし、
そのぶん、かなりの精神力を消耗すると思います、僕はそうでした。

ここ十数年で750冊以上の本を読んでいますけれども、
読んでいる最中に、その読書がきっかけとなって4日間寝こんだのは初めてです。
もううつ病になるのだろうかと思うほどでした。
30~50ページずつくらい毎日読んでいたのですが、
そのうち寝床から起き上がれなくなり、
それでも一日に8時間くらいはなんとか起きていられたので、
執念でまだ読書を続けたり休んだりして、
残り50ページくらいのところで復活。
そういうわけですから、これは人によってはかなり苦しみますし、
読むことで精神面のバランスを崩す方もいらっしゃるのはまず間違いない。
僕個人としては、自分の家の環境や両親との関係などなどが込み入っていますので、
本書の各章でそれぞれでてくる精神危機がこれもそうだあれもそうかも、
とどんどん周囲や自分に当てはまり、
精神危機の救いようのない、
まるでコングロマリットみたいになったように感じられるほどでした。

怖いですねえ。
そういう本に出くわすこともあるんですねえ。
まあ、たいていの人はそうかもしれませんが、
内容に浸染するような性格の極めて強いタイプの読書だと、痛手をこうむります。
たとえば僕は、学生時代に頭痛持ちで、そのためにあまり読書をしませんでしたが、
それでも頭痛薬に頼ることなく生活していました。
でも、今回はヤバイような気がして、頭痛薬を買ってきて何度か飲んだほどです。
いろいろな本を飲み下してきて(読み下してきて)、
それなりに解毒作用のある身体(頭)だと思っていましたが、
きっついものってのはあるもんです。
でもしかし、そんな本にダイブして得た大きなものもありました。
転んでもただでは起きない。
その一番大きな収穫とは、

「何よりも妄想とは、私には誰も関心を持ってくれないという意識の副産物なのだ。
(中略)そんな妄想が、世界中に見放されているという絶望から、
彼女を守ってくれたのである。」

という見識です。

妄想過剰になっちゃう人たち、
薬を処方されるくらいまでになる人たち、
みんな辛かったんだなあと、
妄想の出どころが他者からの無関心の意識だと知ってうるうるきました。

現生人類の累計人口は1000億人前後(プラスマイナス約200億人)
と試算されるとなにかで読みましたが、
そのなかに少なからず他者からの無関心の意識のために妄想過剰となり
精神(脳)に疾患をかかえてしまい、
そのまま亡くなったり殺されたりした方がほんとうに大勢いただろうと推察できる。
そういう皆がいたことは僕は忘れたくないタイプなんです。

僕はそういう思いを基盤として創作していきたいです。
もしも魔法が使えたなら、
過去に遡ってまでのすべてのそういう人たちの孤独な思いを消したいくらい。

このあたりはもっと深掘りして、
次回、<考えの切れ端>カテゴリーの記事としてアップしますので、
読んでいただけたら嬉しいです。
2019年のまだ2月にして、僕の今年最大の発見だと思います。
とはいえ、どこかに、僕が書く内容と同じような論文があるだとか、
そもそも、精神分析の世界ではとっくの昔に常識とされているだとか、
いやいや、論理上あっているように見えるけれど間違いだよだとか、
あるかもしれないですが、とりあえず書いてみます。

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