Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

「安心」が失われているからこそ。

2021-10-05 21:48:26 | 考えの切れ端
ホントに「考えの切れ端」だという印象が、きっと強いだろう、今回の記事です。

不安を避け続けると認知が歪んでいくといいます。認知が歪むと、本来なんでもないものに対してこれは悪いものだ、と考えるようになるのだといいます。世の中、不安に思えるものが多く、不安に思いやすい人も多いでしょう? とすると、皆が不安と真正面から対峙してひとつずつ解消する姿勢でいれば、社会環境は悪化しない? なぜって、世の中の混迷の源には、それこそ全員が持つそれぞれの認知の歪みがあるのではないかという気がすごくするからです(コロナ禍はまた大きな不安ですし、ここではコロナ禍のことを言っているのではないのですが)。

失敗すると恥ずかしいものだし周囲からバカにされないとも限らないし、ずっと「あのときこんな失敗をしたな」言われ続けることもある。でも不安との対峙に対してだけは、そこで下手な失敗の仕方をしても周囲から笑われないというように「不安の心理」の理解が進むと、もつれた糸のような乱れ方をした社会環境はそれ以上もつれないのではないでしょうか。

息のしやすさや風通しの良さ。そう形容されるような社会で生きられるようになるためには、「認知の歪み」が蔓延しないことが大切なような気がします。まったく「認知の歪み」がないっていう状態には誰にもなれないと思うのですが、軽い重いはあるんじゃないでしょうか。不安なために他人にお仕着せるくらい重い、みたいに。

不安がおおかた解消される社会は「安心社会」でしょう。でもそれは無理な話で、と考えて作り上げるのが「信頼社会」や「契約社会」かもしれない。不安を解消できなくても、避け続けないでいる姿勢は「信頼社会」に近いだろうか。また、不安を敵視するまでいかなくても、不安を対象として皆で連帯する社会などはあるかなぁ。

「失われた何十年」だとかと言われたものだけれど、本質的に何が失われたかって「安心」が失われて、それが元に戻らない不可逆的な変化だからこそ次にどうするかを考えなくてはならないのではないかな。立て直しが効かないのは不安への対処がままならないからではないか、と考えるのですが、どうですか?

つきまとう不安。その原因を探って解決して安心を得よう、というのは第一の策かもしれない。でも、山のように不安はあって、さらに時代の進捗とともに新たにたくさん不安となるものが生まれてくる。そうなると、もう日常のメンタリティーじゃないかと思えてくるわけです。あるいはゲーム理論の分野にある「メカニズム・デザイン論」が希望でしょうか。社会の混迷って、不安への対処の仕方のわからなさが実は原因なのかも? 
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