地震や災害などが起きると、必ず「死者○○人」という文字が大きく躍る。
それは、果たしていいことなのか、とひねくれものの私は考える。
数字で、災害の悲惨さを訴えたいのだろうが、数字を目にしただけで納得してしまわないだろうか。
本来なら、公にすべきことはたくさんあるはずなのに、それが数字に隠れてしまわないだろうか。
地震の規模を伝えるとき、マグニチュードという単位を使う。
震源地と深さも教えてくれる。
これは、わかりやすい。
そして、専門家が出てきて、ナントカプレートとナントカプレートが接するところで、大きな歪みが生まれて、大地震が発生しました、と説明してくれる。
これも、わかりやすい。
おそらく、誰もがわかる説明手法だと思う。
あとは、その地震がなぜ大きな被害を及ぼしたかも必要だろう。
崩れたビルの耐震強度は、どうなっていたのか。
救援隊は、規定どおりの素早さで来て、被災者を救ったのか。
ライフラインはどの程度被害を受け、復旧の見込みはいつになるのか。
政府や自治体の対応は、適切だったか。
いろいろ報道しなければいけないことがある。
しかし、センセーショナルに「死者何人」と書くと、そこですべてわかった気にならないだろうか。
「大変だ」
「地震は怖い」
そこで、終わってしまわないだろうか。
同時多発テロのとき、「死者何人」という報道が終わると、なぜか救助に携わった消防隊員がヒーローになった。
職業としての消防隊員を無理やりヒーローにする手法というのは、アメリカが抱えている対外問題の目を逸らそうとしているとしか、私には思えなかった。
政府とマスコミが手を組んで、ヒーローを作り上げ「アメリカの団結力」を示すために、世論を誘導したのではないか、と私は今でも疑っている。
だから、「死者何人」という報道は、何か大事なものを隠すために、誰かが情報操作をしているのではないかと、私は邪推しているのだ。
ただの邪推。
ひねくれものの邪推。
それは、果たしていいことなのか、とひねくれものの私は考える。
数字で、災害の悲惨さを訴えたいのだろうが、数字を目にしただけで納得してしまわないだろうか。
本来なら、公にすべきことはたくさんあるはずなのに、それが数字に隠れてしまわないだろうか。
地震の規模を伝えるとき、マグニチュードという単位を使う。
震源地と深さも教えてくれる。
これは、わかりやすい。
そして、専門家が出てきて、ナントカプレートとナントカプレートが接するところで、大きな歪みが生まれて、大地震が発生しました、と説明してくれる。
これも、わかりやすい。
おそらく、誰もがわかる説明手法だと思う。
あとは、その地震がなぜ大きな被害を及ぼしたかも必要だろう。
崩れたビルの耐震強度は、どうなっていたのか。
救援隊は、規定どおりの素早さで来て、被災者を救ったのか。
ライフラインはどの程度被害を受け、復旧の見込みはいつになるのか。
政府や自治体の対応は、適切だったか。
いろいろ報道しなければいけないことがある。
しかし、センセーショナルに「死者何人」と書くと、そこですべてわかった気にならないだろうか。
「大変だ」
「地震は怖い」
そこで、終わってしまわないだろうか。
同時多発テロのとき、「死者何人」という報道が終わると、なぜか救助に携わった消防隊員がヒーローになった。
職業としての消防隊員を無理やりヒーローにする手法というのは、アメリカが抱えている対外問題の目を逸らそうとしているとしか、私には思えなかった。
政府とマスコミが手を組んで、ヒーローを作り上げ「アメリカの団結力」を示すために、世論を誘導したのではないか、と私は今でも疑っている。
だから、「死者何人」という報道は、何か大事なものを隠すために、誰かが情報操作をしているのではないかと、私は邪推しているのだ。
ただの邪推。
ひねくれものの邪推。