昨夜、そして今日で、いとこの息子さんのお通夜、お葬儀が終わった。
死んだばあちゃん(私の母)の実家の話で、子供の頃は、お盆、お正月、お祭りなど節目にはそのお宅に行った思い出がある。
ばあちゃんにすれば自分の育った家で、一番ゆったりできる場所だったのだろう。
ばあちゃんにすれば自分の育った家で、一番ゆったりできる場所だったのだろう。
古いドラマのような話だけれど、ばあちゃんは娘時代に最初嫁いだ相手が太平洋戦争で持っていかれ、今でいえば、バツイチ。
きっと気持ちの上で辛いこともあったのだろう。
よく泊ってきた記憶もある。
よく泊ってきた記憶もある。
そしてその家には、ばあちゃんの兄弟姉妹がいつもより集まって、必然、その子(私世代)もつながりができた。
だから今回のいとこの息子さんの件は、いとこ夫婦の気持ちを思うとわが事のようにショックである。
あまり調子のよくないハートの動悸がとまらない。
あまり調子のよくないハートの動悸がとまらない。
昨夜のお通夜は、公務員系の家系ということもあり、また現職で発病後間もなく亡くなったこともあり、会場(田舎の)が混乱するほどたくさんの人がお悔みにきてくれた。
こんなにたくさんの人に思いを残しての旅たちっていうのはよくない。
お葬式は、参列者がすかすかで、それほどまでに長生きし、かつ生きるための作務をつづけ、フェードアウトするのがいいなぁと正直思った。
『野垂れ死に』という言葉があるが、自他を意識しつつ、静かに自分の生活を維持し、最期は一人でもいい。
自分のできることを続け、静かに消えるのが望みかな。
自分のできることを続け、静かに消えるのが望みかな。
仏教にはいろいろな意味不明の漢字があるけれど、
『一切皆苦』
生きることは、人生は思い通りにはならない。
生きることは、人生は思い通りにはならない。
『諸法無我』
人は思い通りにはならない力のなかで生かされる相対的な存在であり、変化を変化として捉え、変化(息子の死)を自分のこととして受け入れていくしかない。
人は思い通りにはならない力のなかで生かされる相対的な存在であり、変化を変化として捉え、変化(息子の死)を自分のこととして受け入れていくしかない。
このあたりが、思い切り納得できた。
納骨した今も残念でしかたがない。
納骨した今も残念でしかたがない。
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<今日は何の日>
今日は、『念仏の口開け』
<今日は何の日>
今日は、『念仏の口開け』
正月の神様(年神様)が念仏が嫌いであるということから、12月16日の「念仏の口止め」からこの日までの正月の間は念仏は唱えなかったんだそうです。
神様仏様が好き嫌いがあったんじゃ、人は救えないですね(笑)。
実は神も仏も、好き嫌いのある普通の人ってことではないでしょうかね。
実は神も仏も、好き嫌いのある普通の人ってことではないでしょうかね。