まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

違和感

2019年11月28日 | 読経の日々

昨夕、例のお風呂ラジオを聞きながら、寒かった日中の体に熱を戻した。

NHK R1のニュースで、救急救命でも延命処置を希望しないということが可能になるらしいという話題を聞いた。

実は医療に対しここ数年上手く言えない違和感を持っていたが、ホイ!と薄くなった頭頂を叩いた。

40歳代のころから、脈が飛ぶとか息切れがするとかの自覚症状はあった。
今はさらに進み、頻脈が出始めた。

といっても、不調の時に100前後で、腹式呼吸でリラックスすると支障はない。シルバーバイトで若い人たちと違和感なく作業もできるし、日々の生活にも問題ない。

ドクターは、血液をサラサラにする薬を一生飲み続けるか、ハートビートの電気信号の異常回路を焼き切るオペを進めてくれる。

ここに違和感がある。

たしかに服薬をすれば、脳血栓などのリスクは下げられるだろうし、カテーテルで回路を焼き切れば今より快調になるのかもしれない。
で、延命した時間で何をするの?

父母がくれたこの体の限界(現世を生きるというチャンス、ツール)を大事にしてはダメなんだろうか、とも思う。

長期の痛みは苦しい!
回復が可能で、医療で和らげるならそうして欲しい。

でも、臓器の寿命やガンなどでは、本人の意思が大切ではあるけれど、若い年齢層から、見守る医療ってのもあってほしい。

寿命を受け入れる、そこにも生き様、生まれてきた存在感ってのもあるんじゃないか。

ハートが弱っていることは、今更検診のドクターに指摘されなくても自覚している。

最初に指摘された時から、20数年生き延びた。
人は、簡単なことで死んでしまうけれど、案外丈夫でもある。

だからこれからも大丈夫、などとはまったくおもわない年齢になった。

日々是好日。
深夜の動悸が激しいので、朝を迎えれば、本当に有難いと思う。

弱っていく中にもいろいろ気づくこともある。

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<今日は何の日>
今日は、浄土真宗の開祖・親鸞聖人(90歳)の入寂だそうです。(旧暦:現在の暦では、1月16日)

浄土真宗の祖、親鸞さん、今では普通のじいさんの年齢ですが、当時は仙人級ですね。

団体的には無宗教で、ずっと神も仏も関係なく生きてきました。

でもここ数年仏教に関心がおき、『歎異抄』も読むようになりました。

わが家は曹洞宗で、『正法眼蔵』ですが、どちらも己に向き合うこと、己と同じ気持ちで他を利し、他を利して生きることが自分もラクに生きられる。
日々の行為は、お釈迦さまのいわれる規則正しい生活(道徳的に良いこと)をして日々を過ごすのが一番ラクに生きられる。
そんな感じを受けています。

私は関節が固くて、座禅はとてもじゃないけど組めません。
でも、字田舎の野山の土手に腰かけて、修証義を静かに読経してみると、なるほどな、と日々思う毎日です。

足を組むという形ではなく、心の向きあい方こそが大事なんですね。

 

コメント
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