緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

夏日の東京駅:佳境を迎えている丸ノ内駅舎復原工事(1)

2012年08月06日 13時40分17秒 | 東京駅周辺


JPタワー低層棟脇から丸の内駅前広場方向へ引き返して散策を続けていきます。皇居と中央停車場(東京駅)の間の南北に細長いエリアは「丸の内」といい、日本国内で一番地価の高いエリアとして有名です。2012年度の国土交通省実施の地価公示においては、それまで猛追し続けていた中央区の銀座4丁目と同額となりました。丸の内は名実ともに日本一のビジネス街としてこれからも発展していきます。




東京駅の丸の内は地図を調べてもらうとわかりますがこれまで大阪に本社機能があった大企業が集結しています。なので丸の内というのは「東京一極集中」と「大阪の衰退」の象徴のような場所であり、東京の繁栄というものは「1990年代までの日本一の大都会」であった大阪の経済力を犠牲にして成り立っているのです。人・物・金の集積機である東京のお隣の千葉県に住んでいる緑からすると東京の繁栄は素直にうれしいものですが、やはり後ろめたい気持ちはあります。




内装工事が実施されている丸ノ内駅舎南ウイング部の全景です。「丸の内」は「本丸の内」、江戸時代は江戸城の敷地であり全国の大名の屋敷が密集していました。明治維新後は大名屋敷は全て取り壊されて官有地となり、陸軍の兵舎・練兵場などになりました。その後大阪の三菱財閥の2代目当主・岩崎弥之助に150万円で払い下げられます。




2012年現在、丸の内周辺は30棟以上の三菱系列のビルが並んでいますが明治時代に誕生した「三菱財閥」と「岩崎弥之助」について振り返ってみます。創業者である岩崎弥太郎氏は明治維新直後の維新政府の樹立後の全国統一貨幣制度改革に乗じて莫大な起業資金を得ます。これは江戸時代まで流通していた藩札を大量に買い集め、新政府に買い取らせたのです。




その後坂本龍馬暗殺後に解散された海援隊の後進として設立された商社組織「九十九商会」の監督を土佐藩から命じられた岩崎弥太郎は政商として活躍することになります。九十九商会は大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷にありました。弥太郎は県から土佐藩所有の船三隻を買い受け、1873年に三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開していきます。




「JPタワー」の正面玄関にやってきました。写真には「郵便局・ATMは営業していません」という看板が掲げてありますが、7月17日より東京中央郵便局、ゆうちょ銀行本店及び郵便事業銀座支店JPタワー内分室がJPタワーに移転・オープンしています。




これまで「ゆうちょ銀行」の本店は丸の内の郵船ビル内にありましたが、7月17日よりJPタワーに移転しました。同行は総資産が約226兆円で、発足前まで業界トップだった三菱UFJフィナンシャル・グループの約198兆円を抜き、2008年(平成20年)末現在で日本最大の預金金融機関です。 都市銀行には含まれておらず、みずほ銀行以外で全国47都道府県全てに支店を有しているのはゆうちょ銀行のみです。




三菱財閥の話に戻りますが、三菱商会は西南戦争で政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結の残った軍需品の処分までまかされ、一挙に莫大な利益を得ることになります。三菱商会の台頭に危機感を抱いた長州閥と三井は三菱バッシングに打って出ます。その最大のものが、海運業を独占していた三菱に対して政府が音頭とって三井、渋沢、大倉らの財界人を結集して設立した半官半民の「共同運輸会社」でした。




復元工事によって見事に創建当時の姿となった丸ノ内駅舎。真新しい赤レンガの壁面が東京の新しい象徴となるのでしょう。「国を挙げての三菱潰し」と称された三菱商会と協同運輸の競争のさなか、岩崎弥太郎氏が死去します。死後、三菱と共同運輸の共倒れを恐れた政府が調停にたち、両社は合併して日本郵船を発足(1885年9月、資本金1100万円、うち岩崎家出資金500万円)します。




岩崎弥太郎のあとを受けて三菱総帥となったのが岩崎弥之助です。弥之助は三菱の事業を「海から陸へ」と方向転換し、それまで副業としていた炭鉱、鉱山、銀行、造船、地所などの発展に力をそそぎ、そのための新組織として「三菱社」を創します。いわばこれが後の財閥形成の基になりました。




東京駅丸の内口前にあった旧日本国有鉄道本社ビル(1987年 - 1997年までは東日本旅客鉄道株式会社本社ビル)・交通公社ビル(旧ジェイティービー本社)・東京中央ビル跡等を再開発して造られた「丸の内オアゾ」の一角に建っている「日本生命丸の内ビル」です。2004年9月に竣工した大理石調の高層ビルです。




1889年(明治22年)に創業した日本で3番目に古い生命保険会社です。滋賀県彦根で第百三十三国立銀行(現・滋賀銀行)の頭取をしていた弘世助三郎が関西の財界人に呼びかけて、社長に十一代目鴻池善右衛門を据え、片岡直温らを取締役にして資本金30万円の有限責任日本生命保険会社として大阪に発足させました。




1891年(明治24年)に株式会社(社名は日本生命保険株式会社)に改め、相互扶助の精神のもと1898年(明治31年)の第1回大決算において、日本で最初に契約者への利益配当を実施しました。第二次世界大戦中に戦時統合として、富士生命保険・愛国生命保険と合併しました。戦後は金融機関再建整備法に基づき、1947年(昭和22年)に相互会社(社名は日本生命保険相互会社)として再出発しています。




高度経済成長期である1963年(昭和38年)に東京日比谷に日生劇場を完成させます。1988年(昭和63年)2月4日に生命保険会社の総資産部門の世界ランキングで米国のプルデンシャル保険を抜いてトップにたちます。すでに新契約高・収入保険料・保有契約高の三部門で世界一になっていたので、これで四部門のすべてを制する「四冠王」に輝き、名実ともに世界第1位の生命保険会社となりました。




丸の内駅舎の復原工事中は駅前広場が工事用の資材置き場となっていましたが、この先資材置き場も縮小されていきます。そうなると丸の内駅舎の全景を見渡すことができるようになります。次回の記事でも東京駅丸の内駅舎の現況の写真と、引き続き三菱財閥の発展と、東京駅丸の内への進出を述べていきたいと思います。




明治時代の初期の丸の内は雑草が生い茂る「三菱が原」と呼ばれていたそうです。

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