緑の、東京ブログ

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

夏日の東京駅:佳境を迎えている丸ノ内駅舎復原工事(2)

2012年08月07日 17時42分55秒 | 東京駅周辺


資材置き場と化している丸の内駅前広場と臨時タクシー乗り場の間に歩行者用通路が設けられていて、南ドームから中央改札口まで徒歩で移動していきます。平日の昼間の時間帯の丸ノ内駅舎周辺は本当に人通りが少ないです。駅構内は凄まじいほどの人通りですが、ほとんどが乗り換えの乗客なので、駅の外に出てくるお客さんはほとんどいないのです。




岩崎弥之助が三菱社を継いだ同時期(1890年前後)に弥之助は日本陸軍から150万円で丸の内の練兵場跡地を買い取ることになります。当時は官営東海道本線の始発駅は新橋駅であり、日本鉄道(後に国鉄に買収される)の東北本線の始発駅は上野駅でした。まだ東京駅周辺は雑草が生い茂っており「三菱ヶ原」と呼ばれる始末でした。




私有地とはいえ明治天皇がお住まいの皇居前の一等地が荒れ地となっていることに対して世間の批判が始まります。社内外からの批判に弥之助は「竹でも植えて虎でも飼うさ」と周囲に言い続けていたそうです。ちなみに弥之助が購入した土地は丸の内だけでなく、同じ千代田区内の三崎町や、日比谷・数寄屋橋周辺も含まれていたそうです。




歩行者用通路から中央改札口建屋までは資材置き場の中に造られた狭い小路の中を進んでいくことになります。この場所のすぐ脇に工事用のプレハブ小屋があるので、関係者などの往来が頻繁にあります。




1894年(明治27年)に現在のJR有楽町駅前・東京国際フォーラムが建っている場所(高知藩屋敷跡地)に東京府庁の庁舎が完成します。それまでの東京府庁舎は日比谷公園の南側にありましたが、北東側へ移動したのです。当時はまだ官営東海道本線は新橋駅止まりであり、中央停車場(東京駅)も存在しません。




1889年(明治22年)に神戸まで全通した官営東海道本線の新橋駅と、日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29年)の第9回帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設することが可決されます。新橋駅は始発駅から途中駅となり、新線は丸の内・皇居の脇を通過するルートが採用されます。




官営東海道本線の延伸部の新線の線路が敷かれたのは三菱が買い取った私有地です。「政商」と言われるほどの力を持っている岩崎弥之助も、政府の鉄道建設に対して何も口を出すことはできなかったそうです。当時の日本政府は陸軍や海軍の軍事力によって支えられている軍事政権であり、鉄道を陸上戦闘の手段と考えていた陸軍に逆らうことはできなかったのでしょう。




日清戦争とその後の日露戦争が終わった1908年(明治41年)から建設工事が本格化し、1914年(大正3年)12月18日に開業しました。中央停車場は皇居(宮城)の正面の原野に設定され「東京駅」と名付けられました。1919年(大正8年)に中央本線が、1925年(大正14年)に東北本線が乗り入れ、1929年(昭和4年)には東側の八重洲口が開設するなど、徐々に発展していきます。




東京府庁舎が高知藩屋敷跡に建設された1894年(明治24年)に丸の内最初のオフィスビルである「三菱一号館」が竣工、これを皮切りにロンドンのロンバード街に倣った赤煉瓦街が建設され一丁倫敦(いっちょうろんどん)といわれるようになります。三菱の手でオフィス街が築かれたこの地区は、現在に至るも三菱グループ各社の本社や三菱地所所有のオフィスビルが集中しています。




行幸通り脇・丸の内ビル前から撮影した丸ノ内駅舎です。背後には八重洲口に建設された「グラントウキョウノースタワー」の高層ビルが建っています。




1893年(明治23年)に商法が施行され三菱社は「三菱合資会社」へと改組します。同時に弥太郎の長男・久弥が三菱合資の三代目社長に就任します。総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、長崎造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒の設立など、事業がいっそう拡大されました。1916年(大正5年)に弥之助の長男・小弥太が四代目社長に就任します。この頃から三菱財閥は来るべき「国家総力戦」の経済体制を支える存在となっていきます。




行幸通りの東端部を横切っていきます。2010年4月に交通解放された行幸通り、まだ知名度が低いためか閑散としていました。写真の右端に立っている「日本生命丸の内ビル」、真夏の午後の西日に照らされて真っ白に光り輝いています。




1917年(大正6年)に三菱造船、三菱製紙、1918年(大正7年)に三菱商事、三菱鉱業、1919年(大正8年)に三菱銀行、1920年(大正9年)に三菱内燃機製造、1921年(大正10年)に三菱電機と次々に分割化していきます。そして、満州事変から第二次世界大戦にかけて軍需の膨張拡大を背景に三菱の事業は飛躍的に拡大します。土佐藩の海運業から始めた三菱は、「三菱財閥」として戦前の激動の時代を支える存在に成長したのです。




行幸通りの東端部から撮影した丸ノ内駅舎です。まだ工事用のプレハブや工事用の仕切りが写っていますが、秋口にはほとんど撤去されて駅舎の全容を見渡すことができるようになるでしょう。




1945年(昭和20年)8月15日に日本は連合国にポツダム宣言を受託し無条件降伏、同年9月11日に東条英機内閣閣僚などに駐留軍から出頭命令が下されます。そして9月22日に「日本の商業及び生産上の大部分を支配し来りたる産業上及び金融上の大コンビネーションの解体を促進」することを旨とした「財閥解体」政策が三菱財閥に襲い掛かることになります。




地図の中心点は行幸通りの東端部です。関東大震災後に「不燃都市」を作るという計画の元に整備されました。

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