奈良から歩き始めた「伊勢本街道」も伊勢へは後1区間残すだけとなり、まだ歩いていない大阪からの道を先に歩くことにした。
大阪から生駒山を超えて奈良への街道は「中垣内越え」「暗越」「十三越え」などがあったらしい。
その内「暗越(くらがりごえ)奈良街道」は大阪・奈良間を八里八町(約34キロ)最短距離で結ぶ。江戸時代には大和郡山藩の参勤交代の道として、伊勢参りの道として賑わったという。
先ずは伊勢街道の大阪の起点「玉造」へ
近年のお伊勢参りの起点「玉造稲荷神社」。
神社の屋根の上にビルが重なっているのも都会らしい。
古代には勾玉作りの集団「玉造部」の居住地であったという。
遅まきながら(遅過ぎ!)旅の無事を祈っておみくじを引いた。
私もTさんも「吉」 安心して歩き始める。
・・が、町の中の道標や神社探しはなかなかむつかしい。最初から迷ったり引き返したり。
2軒茶屋跡・八坂神社も探すのも手間取った。
細い道に入ると街道の面影が少し感じられるところもあった。
平野川・玉津橋から 都会の川は味気ない。 熊野大神宮
千日前線との合流点にあった石灯籠 説明板によると、この道標は1806年(文化3年)に建てられたらしい。 四角い石柱の上部をくりぬいて火袋にし、上に笠を乗せた珍しい形。
夜には旅人のために灯をつけたという。
元は北八尾街道との分岐点にあったのを、道路拡幅のためここに持って来られたので「行き先表示は正しいものではなくなっている」とのこと。
こんな小さな灯籠も旅人達には頼りになったことだろう。
町歩きで園芸植物・道端にも珍しいものはなかったが、ちょっと見かけない草が家と道路との間に生えていた。コミカンソウやヒメミカンソウとも雰囲気が違うし・・とちょっとちぎって持って歩いた。
調べてみたら ブラジルコミカンソウ(ナガエコミカンソウ)のようだ。
やった~!又初めての草に出会った。
もうお昼なのだが、食事出来る場所がない。飲食店がいっぱいあるのでお弁当はいらなかったかも。 公園も見当たらないし、神社境内も食べれそうではない。
深江稲荷神社 ここの大きいクスノキの根元でお弁当を食べた。
右)大きいイチョウにはギンナンがなっていた。
深江は菅笠作りが盛んだったらしく、現在も、伊勢神宮式年遷宮や天皇即位の大嘗祭に使われる菅製品は深江から献納されているそうだ。
本に書いてある標識を探して、近所の人に聞いたり、それでもわからなかったり・・
長瀬川のたもとの「大坂高麗橋元票」 迷って歩いた所にあった。明治には高麗橋が伊勢参宮の起点だったとか。時代によって起点も違うのか~。
JRを超え高井田・新喜多(しぎた)へ。
江戸時代の中頃まで河内平野の何本もに分かれて流れていた大和川は、大雨のたびに氾濫。
宝永元年(1704)に柏原市安堂から大阪湾に流れ込む「新川」が掘削され、水かさの激減した旧川筋では川床を埋め立てて新田が開発されたそうで、新喜多新田もその一つ。
開発を請け負った鴻池家の一統の両替商3人の名前をとって「新・喜・多」と名づけられたとも言われるらしい。
南北に長いその中を暗越奈良街道が東西に横切っている。
御厨行者堂 右)新御厨北大橋(第2寝屋川)
「枚岡」の地名や「すぐなら・いこま」といった道票が出てきた。
右)生駒山もだんだん近づいてきた
もちのき地蔵尊・おかげ灯籠 伊勢神宮の遷宮が行われた翌年、伊勢参りの感謝として伊勢講の人達によって建てられた。 右)花園ラグビー場が右手に見える所を左に入った。気がつくとマンホールはラグビーのデザインだ。
昔勤めていた会社のビルが見えた。なつかし~。
花園駅からカメのいる田んぼの用水沿いに歩いて通ったが、そんな田舎の雰囲気は全くない。
松原宿らしい所を通り・・・枚岡駅へは少し登り道。
予定より2時間ぐらい遅れて枚岡駅に無事到着。
山女も町歩きの時間を予想するのはむつかしいらしい。地図を見ながらもよく迷った。
28000歩近く歩いた。
大阪から生駒山を超えて奈良への街道は「中垣内越え」「暗越」「十三越え」などがあったらしい。
その内「暗越(くらがりごえ)奈良街道」は大阪・奈良間を八里八町(約34キロ)最短距離で結ぶ。江戸時代には大和郡山藩の参勤交代の道として、伊勢参りの道として賑わったという。
先ずは伊勢街道の大阪の起点「玉造」へ
近年のお伊勢参りの起点「玉造稲荷神社」。
神社の屋根の上にビルが重なっているのも都会らしい。
古代には勾玉作りの集団「玉造部」の居住地であったという。
遅まきながら(遅過ぎ!)旅の無事を祈っておみくじを引いた。
私もTさんも「吉」 安心して歩き始める。
・・が、町の中の道標や神社探しはなかなかむつかしい。最初から迷ったり引き返したり。
2軒茶屋跡・八坂神社も探すのも手間取った。
細い道に入ると街道の面影が少し感じられるところもあった。
平野川・玉津橋から 都会の川は味気ない。 熊野大神宮
千日前線との合流点にあった石灯籠 説明板によると、この道標は1806年(文化3年)に建てられたらしい。 四角い石柱の上部をくりぬいて火袋にし、上に笠を乗せた珍しい形。
夜には旅人のために灯をつけたという。
元は北八尾街道との分岐点にあったのを、道路拡幅のためここに持って来られたので「行き先表示は正しいものではなくなっている」とのこと。
こんな小さな灯籠も旅人達には頼りになったことだろう。
町歩きで園芸植物・道端にも珍しいものはなかったが、ちょっと見かけない草が家と道路との間に生えていた。コミカンソウやヒメミカンソウとも雰囲気が違うし・・とちょっとちぎって持って歩いた。
調べてみたら ブラジルコミカンソウ(ナガエコミカンソウ)のようだ。
やった~!又初めての草に出会った。
もうお昼なのだが、食事出来る場所がない。飲食店がいっぱいあるのでお弁当はいらなかったかも。 公園も見当たらないし、神社境内も食べれそうではない。
深江稲荷神社 ここの大きいクスノキの根元でお弁当を食べた。
右)大きいイチョウにはギンナンがなっていた。
深江は菅笠作りが盛んだったらしく、現在も、伊勢神宮式年遷宮や天皇即位の大嘗祭に使われる菅製品は深江から献納されているそうだ。
本に書いてある標識を探して、近所の人に聞いたり、それでもわからなかったり・・
長瀬川のたもとの「大坂高麗橋元票」 迷って歩いた所にあった。明治には高麗橋が伊勢参宮の起点だったとか。時代によって起点も違うのか~。
JRを超え高井田・新喜多(しぎた)へ。
江戸時代の中頃まで河内平野の何本もに分かれて流れていた大和川は、大雨のたびに氾濫。
宝永元年(1704)に柏原市安堂から大阪湾に流れ込む「新川」が掘削され、水かさの激減した旧川筋では川床を埋め立てて新田が開発されたそうで、新喜多新田もその一つ。
開発を請け負った鴻池家の一統の両替商3人の名前をとって「新・喜・多」と名づけられたとも言われるらしい。
南北に長いその中を暗越奈良街道が東西に横切っている。
御厨行者堂 右)新御厨北大橋(第2寝屋川)
「枚岡」の地名や「すぐなら・いこま」といった道票が出てきた。
右)生駒山もだんだん近づいてきた
もちのき地蔵尊・おかげ灯籠 伊勢神宮の遷宮が行われた翌年、伊勢参りの感謝として伊勢講の人達によって建てられた。 右)花園ラグビー場が右手に見える所を左に入った。気がつくとマンホールはラグビーのデザインだ。
昔勤めていた会社のビルが見えた。なつかし~。
花園駅からカメのいる田んぼの用水沿いに歩いて通ったが、そんな田舎の雰囲気は全くない。
松原宿らしい所を通り・・・枚岡駅へは少し登り道。
予定より2時間ぐらい遅れて枚岡駅に無事到着。
山女も町歩きの時間を予想するのはむつかしいらしい。地図を見ながらもよく迷った。
28000歩近く歩いた。