今まであまり縁のなかった奈良市の山手 五ヶ谷周辺を歩いた。
興隆寺町 米谷町 中畑町 山町 八島町・・・
風が強くて寒い一日だった。
「八坂神社」(興隆寺町)は標高280m
祭神は素戔嗚命、創建年代は不詳。
社叢は「ツブラジイが優占するこのあたりの典型的な植物群落で、奈良市の指定文化財」との説明板があった。
駐車スペースに車を停め、ウォーキングスタート。
昔は通学路だったという道を登る。
いい感じの野道は山道になる。
山道にはハナイカダが多い。
名阪国道の五ヶ谷インターを超える。ここは米谷町(まいたにちょう)
少し登ったところで庭に出ておられたおばさんが「下にあった小学校も廃校になり通学はスクールバスになっている」と言われた。 右)白山権現への分岐
古い道標には 右)「なら(奈良)かうりやま(郡山)」と読めた。 左)の字は読めない。
ウグイスカグラがポツポツ咲いていた。 だいぶ標高が高くなってきた。見晴らしもよい。
道標「左)やくしみち 中央には寿福寺と大きめに彫ってある。上に寿福寺があるのだろうと思って桜の花びらが積もる石段を登る。
ソメイヨシノが終わって八重桜が咲き始め。
手入れの行き届いてた境内は静寂そのもの。いい感じ。
中央に本堂らしい建物(「米谷山」の扁額)がある。 横の小さいお堂には「中之坊」の扁額があった。「寿福寺」の表示はない。
中之坊のお堂のそばの井戸のような石組の中に水はなく、石の間にイワタバコの葉があった。
鐘楼の横の狭く急な階段を登ると古い墓石の多い墓地。
右)そこからは見晴らし抜群。「米谷山」の屋根の下方、山の向こうに「下界」が見えた。
お墓のそばでどうかと思ったが、半分は墓石のない空き地状態だったので、景色を見ながらお弁当を食べた。
もう1段上にも墓地らしいものがあったが、そのすぐ横は名阪国道らしい。
境内を下るとお寺があった。
「瑠璃光山 寿福寺 上之坊」 ようやく「寿福寺」の名が出てきた。
ここが上にあるお寺も管理しておられるのかも。
「奈良の社寺」のホームページによると・・。
『「中之坊」は寿福寺の塔頭寺院・・』 『本堂のような建物は「大師堂」他の場所から移されたと伝わる。・・』中之坊の扁額のかかった小さい社は『地蔵堂?』『上之坊も寿福寺の塔頭寺院 昭和52年に新築された』
そして、『寿福寺は明智光秀の子、乙若丸の菩提寺で、かつては28坊を持つ寺院だったが、慶長2年(1597)の火災で大半が炎上。江戸時代には上之坊・中之坊・新坊・蔵之坊が残っていたが、安政元年(1854)の大地震で地滑りの被害にあっている。・・・』
元は大きいお寺だったようだが、火災や地震の被害にあったのだった。
ここは今日一番のお気に入りの場所になった。
ここから下る。
ミツバアケビやアケビの花が満開
前に見えてきたの集落は中畑町。上の数枚の田んぼにはもう水が入っていた。
道端にツクシがあった。やっぱり目をつむって通り過ぎることは無理。
中畑町集会所前の石仏は室町時代の作。大きいわらじをお供えして祈ると足の痛みを治してくださるとか。
お礼参りにはもう片方のわらじをお供えするらしい。
今は石仏の周囲にわらじのお供えはない。
さらに下って春日神社(中畑町)この社叢もツクバネガシが生育する貴重な森。
ずっと下ってきた。
名阪国道 中畑橋の下をくぐる。
名阪国道の天理東ICから福住ICにかけて続く急カーブ・急勾配の連続区間を通すために円を描くようなカーブになっていて、その形から通称Ωカーブ(オメガカーブ)といわれているらしい。
車を停めた八坂神社に戻って車で移動。
こんもりした森があったので入ってみた。御霊神社(奈良市山町)祭神は後に出てくる早良親王
次に大川池近くに車を停め、円照寺に立ち寄り、参道から崇道天皇陵へ。
八島地蔵尊を過ぎて山道を行くと池に出て、その向こうに「崇道天皇 八嶋陵」がある。
崇道天皇とは光仁天皇の皇子、早良親王のこと。早良親王がなくなった後に「崇道天皇」の追称(おくり名)が贈られた。
不幸な死に方をされ、その怨霊・祟りを恐れて、魂を鎮めるためあちこちに祀られているそうだ。
御陵はあっけらかんとして静か。薄日も射してきて、石のベンチでしばし(10分ほど)お昼寝タイム。
すっきりして帰路につく。1
興隆寺町 米谷町 中畑町 山町 八島町・・・
風が強くて寒い一日だった。
「八坂神社」(興隆寺町)は標高280m
祭神は素戔嗚命、創建年代は不詳。
社叢は「ツブラジイが優占するこのあたりの典型的な植物群落で、奈良市の指定文化財」との説明板があった。
駐車スペースに車を停め、ウォーキングスタート。
昔は通学路だったという道を登る。
いい感じの野道は山道になる。
山道にはハナイカダが多い。
名阪国道の五ヶ谷インターを超える。ここは米谷町(まいたにちょう)
少し登ったところで庭に出ておられたおばさんが「下にあった小学校も廃校になり通学はスクールバスになっている」と言われた。 右)白山権現への分岐
古い道標には 右)「なら(奈良)かうりやま(郡山)」と読めた。 左)の字は読めない。
ウグイスカグラがポツポツ咲いていた。 だいぶ標高が高くなってきた。見晴らしもよい。
道標「左)やくしみち 中央には寿福寺と大きめに彫ってある。上に寿福寺があるのだろうと思って桜の花びらが積もる石段を登る。
ソメイヨシノが終わって八重桜が咲き始め。
手入れの行き届いてた境内は静寂そのもの。いい感じ。
中央に本堂らしい建物(「米谷山」の扁額)がある。 横の小さいお堂には「中之坊」の扁額があった。「寿福寺」の表示はない。
中之坊のお堂のそばの井戸のような石組の中に水はなく、石の間にイワタバコの葉があった。
鐘楼の横の狭く急な階段を登ると古い墓石の多い墓地。
右)そこからは見晴らし抜群。「米谷山」の屋根の下方、山の向こうに「下界」が見えた。
お墓のそばでどうかと思ったが、半分は墓石のない空き地状態だったので、景色を見ながらお弁当を食べた。
もう1段上にも墓地らしいものがあったが、そのすぐ横は名阪国道らしい。
境内を下るとお寺があった。
「瑠璃光山 寿福寺 上之坊」 ようやく「寿福寺」の名が出てきた。
ここが上にあるお寺も管理しておられるのかも。
「奈良の社寺」のホームページによると・・。
『「中之坊」は寿福寺の塔頭寺院・・』 『本堂のような建物は「大師堂」他の場所から移されたと伝わる。・・』中之坊の扁額のかかった小さい社は『地蔵堂?』『上之坊も寿福寺の塔頭寺院 昭和52年に新築された』
そして、『寿福寺は明智光秀の子、乙若丸の菩提寺で、かつては28坊を持つ寺院だったが、慶長2年(1597)の火災で大半が炎上。江戸時代には上之坊・中之坊・新坊・蔵之坊が残っていたが、安政元年(1854)の大地震で地滑りの被害にあっている。・・・』
元は大きいお寺だったようだが、火災や地震の被害にあったのだった。
ここは今日一番のお気に入りの場所になった。
ここから下る。
ミツバアケビやアケビの花が満開
前に見えてきたの集落は中畑町。上の数枚の田んぼにはもう水が入っていた。
道端にツクシがあった。やっぱり目をつむって通り過ぎることは無理。
中畑町集会所前の石仏は室町時代の作。大きいわらじをお供えして祈ると足の痛みを治してくださるとか。
お礼参りにはもう片方のわらじをお供えするらしい。
今は石仏の周囲にわらじのお供えはない。
さらに下って春日神社(中畑町)この社叢もツクバネガシが生育する貴重な森。
ずっと下ってきた。
名阪国道 中畑橋の下をくぐる。
名阪国道の天理東ICから福住ICにかけて続く急カーブ・急勾配の連続区間を通すために円を描くようなカーブになっていて、その形から通称Ωカーブ(オメガカーブ)といわれているらしい。
車を停めた八坂神社に戻って車で移動。
こんもりした森があったので入ってみた。御霊神社(奈良市山町)祭神は後に出てくる早良親王
次に大川池近くに車を停め、円照寺に立ち寄り、参道から崇道天皇陵へ。
八島地蔵尊を過ぎて山道を行くと池に出て、その向こうに「崇道天皇 八嶋陵」がある。
崇道天皇とは光仁天皇の皇子、早良親王のこと。早良親王がなくなった後に「崇道天皇」の追称(おくり名)が贈られた。
不幸な死に方をされ、その怨霊・祟りを恐れて、魂を鎮めるためあちこちに祀られているそうだ。
御陵はあっけらかんとして静か。薄日も射してきて、石のベンチでしばし(10分ほど)お昼寝タイム。
すっきりして帰路につく。1