みどりの野原

野原の便り

9月10日 丹生都比売神社・高野山 金剛峯寺

2024年09月10日 | Weblog

大型バス仕立ての歴史旅
バスの中で、案内役の方より、空海の生い立ち・遣唐使のこと、高野山の事などお話を聞き事前学習できた。

空海 幼名は真魚。31歳の時、遣唐使の留学僧として唐を訪れ密教を学ぶ。
帰国後846年に真言宗を開き、日本国内で仏教布教活動に力を注いだ。
空海入定後、80年以上が経過した921年、後醍醐天皇から生前の功績をたたえ「弘法大師」の諡号を贈られた。

「空海」と言ったり「弘法大師」と言ったりしているが、そういうことだったのか。

「空海のゆかりの地」は、近くにも、岡寺・川原寺・久米寺・益田池・・など、たくさんある。

水不足の地に、空海が杖をトンと突くと、そこから水が湧く・・
そんな「弘法の井」は全国に1400カ所もあるそうだ。
空海は超能力の持ち主。ほんまかいなという伝説や伝承も多い。

葛城山麓には空海が開いた真言宗のお寺がたくさんあるそうだ。
名前や伝説はよく聞いているが、知らないことが多い。

今日は「高野山」の前に「丹生都比売神社」を訪ねる。
名前も知らなかった神社だったが「丹生都比売大神が、神領・高野山を譲られ、その地に空海が根本道場高野山金剛峰寺を開かれた」という。
「丹生都比売大神と御子神 高野御子大神」は、金剛峯寺壇上伽藍に高野山の守護神としてお祀りされている。

そんな深いつながりがあり、丹生都比売神社は高野山・熊野・吉野地域とともに「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されている。
「高野山へお参りする前に、丹生都比米神神社にお参りする」のは古くからの習わしだそうだ。


バスから降りると、太鼓橋が見えた。下の池は鏡池。
鏡池には、紀伊風土記に「八百比丘尼が鏡を埋めた」との記述があり、江戸時代に池から鏡が出たそうだ。

太鼓橋は「輪橋」といい、人も渡れるそうだが、今は閉鎖中だった。

丹生都比売神社 拝殿 


本殿4殿(四社明神とも)は国の重文 


奥まったところに「石造り卒塔婆群」
手前の角柱は「大峰修験者の碑」。奥の家型のは「脇ノ宿の石厨子」
真ん中の大きい円形のは「光明真言板碑」といい、円形の部分に、梵字で「光明真言」が書かれているのだとか。


少し離れた山の中にある「貧女の一灯お照の墓」へ。
貧しい少女お照が、自分の髪の毛を売ったお金で養父母の供養の灯籠を献じた。
今も高野山奥の院にその灯が灯り続けているそうだ。


木の根元に「お照の墓」そこから少し登った所には父母の墓が並んでいた。

山をくだり、早めのお弁当を食べて、いよいよ高野山へ。バスで移動。

高野山金剛峰寺
(高野山へはコウヤマキの原生林を見に行った記憶があるが、写真を検索しても出てこないところを見ると、デジカメ写真を撮り始めた2003年以前のことのよう)

「高野山」と言っても高野山という山はない。
標高800mの山の上に広がる町全体が1つの寺であり、高野山という寺内町・宗教都市なのだそうだ。
117の院(その内53は宿坊)がある。 人口は2600人・その内お坊さんは700人もおられるとのお話。
明治4年までは女人禁制だったそう。女人堂が残る。

ここに約1200年前、唐から戻った空海が、「高野山金剛峰寺」を開創した。
境内地の中心部、多くの堂塔が建つ「壇上伽藍」を廻った。

主なところ。

①中門 

2015年に再建された。四天王が配されている。
四天王の内、持国天・多聞天の2体は江戸時代のものが残る。
(見なかったなあ)


中門再建に合わせて造立された現代の「広目天像」(西方を守護)
何と、胸に「セミ」が付いている。
セミの声が遠くまで響くように「すべてを見ている」ことを表現されたそう。


増長天(南方を守護)胸には「トンボ」
トンボは前にしか飛ばないことから「決して退却しないという強い意思」を表しているという。
可愛いセミとトンボ ブローチにしたい。

②六角経蔵


経典を納めるための蔵


基壇には把手が付いている。
把手を押して時計回りに1周すると「一切経を1通り読んだのと同じ徳が得られる」という。
もちろん、私も徳にあずかった。

③御社(みやしろ) 

高野山開創の際、鎮守として、地主神、丹生明神・高野明神 を勧請された。
寺の中に鳥居のある神社 神仏融合の象徴。

④西塔

天保5年(1834)再建された多宝塔
高野山は織田信長の焼き討ちなどで、ほとんどの堂塔が消失している中、ここだけは焼き討ちから逃れた。
木造の建物が残るのはここだけという。

⑤三鈷の松

三鈷とは両端が3つに分かれた仏教法具
この松は3葉だ。

弘法大師空海が、修行を終えて唐から帰国する際「真言宗を広める拠点はどこにするか」を探るため、三鈷杵を投げた。
帰国後「高野山の松の木に、三鈷杵が引っ掛かっているのを見つけ、ここを拠点と定められた」と言われる。
そう思えば3葉の松もありがたい。
持っていると幸せになると言い、「三つ葉の松落ち葉」を探す人もいた。
(テーダマツかリキダマツじゃないの?と言っては身の蓋もない)

⑥御影堂

本尊は弘法大師 屋根は檜皮葺

➆金堂

昭和9年(1934)再建。本尊は薬師如来
重要な儀式はここで行われるそうだ。

⑧根本大搭

高さ48、5m。朱も鮮やかな高野山のシンボル「根本大搭」
昭和12年(1937)再建 総コンクリート造り。
内陣には立体曼荼羅が配置されているという。
入口から覗いた。

⑨東塔

江戸時代再建の搭が消失後、昭和58(1983)に再建された。

⑩智泉大徳廟

智泉大徳は弘法大師の甥で、一番弟子。
亡くなった智泉を供養するために書いたという詩文は胸を打つ。

蛇腹道を通り・・
バスで奥之院へ移動。
⑪奥之院へ。

「南無大師遍照金剛」と書かれた参道へ。
「南無大師遍照金剛」とは「弘法大師空海に帰依する」という意味だそう。


奥之院への道。左右には夥しい墓が並んでいる。


崇源院(徳川秀忠夫人=「お江(おごう)」)墓所
この五輪塔は奥之院墓石の中でも最大(高さ6.6m)


豊臣家墓。豊臣秀吉墓所
応其上人にいさめられてやめたとはいえ、信長に続いて高野山を焼き討ちしようとしていた秀吉の墓がなぜここに?

奥之院参道には約20万基の墓があるそうだ。
「宗派問わず、敵味方関係なく、空海のそばで眠りたいと願う心」を受け入れているとのこと。
そうか~。広い心、大切ですね。

織田信長の他、武将の墓がいくつもあった。
企業の墓も多く・有名人の墓もある。
花菱アチャコさんの墓は楽しい飾り付き。

句碑もある。

芭蕉句碑「父母のしきりに恋し雉の声」
山口誓子「夕焼けて西の十萬億土透く」
高山虚子「炎天の空美しや高野山」

今日は歴史サークルと文化サークル共催の行事。
資料と共に、白紙の紙が1枚入っていた。
句が出来たら提出してください・・ということらしい。
・・・う~ん。できるかなあ?


「本阿弥七基石塔」というらしい。
「空・風・火・水・地」の文字が、梵字ではなく、漢字で書かれているのが珍しい。

豊臣秀吉をいさめて高野山攻めをやめさせ、高野山を焼き討ちから救い、高野山の復興に尽力された「応其上人」の御廟もあった。

ここからは聖域

御廟橋(下は玉川)
この橋を渡ると、いよいよ弘法大師空海の御廟の霊域(聖域)に入る。
写真撮影も禁止。

スギの森も薄暗く、枝にはサルオガセが垂れ下がり神聖な雰囲気が漂う。
 
奥まったところに弘法大師空海の御廟があり、そばにある燈籠堂に入った。
地下の法場(勘違いしていたため削除)燈籠堂には1000年以上灯り続けている「消えずの火」があり、
そばには「貧女の1灯」もあった。

弘法大師空海は高野山で入定されたそうだ。
亡くなった後も「空海は高野山奥の院で永遠の瞑想中で、人々のために今も祈りをささげている」と考えられており、高野山では毎日2回の食事を奥之院に運ぶ「生身供(しょうじんぐ)」という行事が、入滅後から現在まで1200年もの間、続けられているというのは驚きだ。
弘法大師空海の偉大さもわかった気がする。

個人で来たのでは広すぎて訳がわからなかったと思う。
要所で説明を聞きながら回ったので、興味深く回れた。
聞き間違いや間違いがあるかも。お許しください。

コメント
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