壺阪山駅前「高取 観光くすり町」のゲート。
高取は、飛鳥時代に天皇が「薬狩り」を行ったと伝えるところ。
動植物も豊かで自然に恵まれたところだったようだ。
江戸時代中期ぐらいからは奉行の許可を得て「大和売薬」として置き薬の行商をして歩くようになった。
子供の頃、家でも「置き薬」があった。
日頃使いそうな薬を先に預かっておき、使った分を次に来られた売薬さんに支払う。そして、また補充。という方式
信用の上に成り立っていた商売だったと思う。
高取は富山と共に薬売りが盛んだった。
マンホールには、町の木 カエデ 町の花 ツツジ のデザイン。
「土佐街道」に入る。
ここは高取城の城下町として栄えた所。
「土佐町」の名の由来は、飛鳥時代初期、大和朝廷の都造りに召し出された土佐(高知)の人が、任務を終えて帰郷する時には朝廷の援助がなく帰郷できず、ここに住み着つき、郷里の「土佐」名をつけた。
当時の雰囲気を感じられる町並。
道路の両脇の石畳は阪神淡路大震災の後の復旧工事で出た石が活用されているそうだ。
石畳には、薬草になる植物のタイルが埋め込まれている。
歩きながら数えたら・・
タンポポ 2枚・ナンテン 3枚・センブリ 2枚・ゲンノショウコ 2枚・
ドクダミ 3枚・キキョウ 3枚・クズ 2枚・アオキ 3枚・ナズナ 2枚
9種類、合わせて22枚のタイルがあった。みなおなじみの植物だ。
左)札の辻には「右 つぼさか よしの みち」の道標がある。
右)「高取町道路元標」
道標を3基見た。
十五丁 埋もれそうな十丁?十一丁? 七丁
「これは高取城の丁石?」家に帰って、道標に詳しい息子に尋ねたら「観音院道の丁石」とのこと。
「前に行ったやろ 観音寺跡」と言われ・・うすうす思い出す。
あ~。あの荒れていたところ・・残りの丁石が少し残っていたね。
去年の3月16日に行ったのだった。すぐ忘れる・・
その時のブログが出てきた。参照 ココ
土佐街道には高取城にあった建造物が移築されていたり、城下町時代の建物や跡が残っている。
「松の門」高取児童公園の入り口に移築。
県文化財 植村家長屋門
他にも、重文 臼井家(伊勢屋)屋敷跡・伊勢屋屋敷跡・田塩家住宅長屋門
石川医院 表門は、高取藩主の下屋敷表門を移築したもの。
現在も開業中。など・・
コンピューターグラフィックで高取城を再現したもの。
明治に取り壊されたが、明治の頃の写真も残ってる(高取城址の近くにあった)
近代城郭では日本一の高低差。
日本3大山城の1つに数えられた。
高取城址には今も立派な石垣が残る。
破却せず残っていればどんなに良かっただろうか・・いつも思うが、
583mの山の上。管理も大変だろう。
途中に「馬冷やし」という所があった。
山の上まで荷物をつんだか、人を乗せたか・・馬もそれは疲れたことだろう。
観察した植物。
イヌカタヒバ ヒイラギ
ミントが道端に繁っていた。
メンバーのお1人から
「アメリカ ケンタッキーダービーを観戦する時、ミントで作った「ミントジュレップ」が欠かせない」というお話。
「シロップに若いミントの葉をつぶして入れ、炭酸水と氷とバーボンウイスキー」を混ぜる」と、作り方まで教えてくださった。
知らない話を聞くのが大好き。それに「ミントジュレップ」おいしそう。
別のメンバーがコハナミゴケを見つけた。
地衣類で、赤い部分は胞子をつくる子器という部分。
水路のセキショウの香りを嗅いだり。
ある人はスギの枝に作ったトックリバチの(空の)巣を見つけ・・
ニューサイランやチョウセンマキも栽培されているようだった。
条件が良ければ花もさくという。見たいものだ。
テイカカズラの実からふわふわと飛んできた種子。
長い種毛が付いて、風で遠くに運ばれる。
シホウチクは稈の断面が四角(角は丸い)竹。
ちょうど倒れていたのがあって、節の部分の気根のようなものや、稈の表面には細かい刺状の突起があるのもよくわかった。
タケノコは秋に出る。この竹もまだ枝が伸びていない若竹だ。
砂防公園近くでは紅葉がきれいだった。
道路端に紅葉の吹き寄せ。
紅葉を見ながら弁当を食べ、ゆっくり下る。
道横の水路のダイサギ。
すぐ近くを歩いているのに全く気にせずに悠々と歩いていた。
帰り道で妹が見つけた鬼瓦。この紋は何かな?
これは「丸に一文字 割桔梗」という植村家の家紋、ということがわかった。
高取の町・土佐街道、色々楽しめた。
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