今、スランプです。制作は中止の状態です。いろいろあり過ぎて、絵を描くことは趣味以下になって、パレットの絵具は固まってしまい、ほこりがかかり始めています。
何かするために計画メモを作りますが、メモもなくしてしまい、すぐ作り直さなくてはなりません。一度に二つのことはできなくなりました。
買い物に行こうとしてメモを書き、それもなくして、必要なものとは別物を買ってくることが多いです。今回は蚊取りベープと殺虫スプレー、ティッシュを忘れ、帰宅して蚊に刺されて気が付きました。
元気が少し無いような気がしますが、この時期にプランターに《トマト、インゲン豆、小玉スイカ、バジル、セージ、唐辛子》は毎年植えているので、取りあえず植えました。水は自動水やり機を東京で買ってきたので、それに任せてます。もし猫の自動給餌機があったら、私はやる気のない長いスランプを延長することになるでしょう。少なくても、猫たちが空腹を訴え、私のところに集まると「仕方がないなあ・・・食べたら次は・・・ウン子だろう」。これは毎日の繰り返しで、洗濯と掃除同様、日常的に私の時間を奪って、やる気のなさから覇気を奪いきってしまう要因になっている。
私の手元には中途半端で止めている作品が何枚もあって、それらを眺めても、微塵も気をそそらない。こうして書いていると、制作が持続するときのことを思い出した。制作している時は次のプロセスが見えていて、頭の中で「完成」を想像しながら描き続けている。スランプの時はその完成画のイメージが失われて、何も見えない。ここで職業画家のような頑張りは無くても良いのだ。頑張ってしまうと「売り絵制作」のような自意識が失われた行動が始まり、それに慣れると「妥協」が身に着く。
「自分らしく生きる」がモットーなら、スランプも自分の一部として受け入れることが大切なのだろう・・・・しかし、なにかいけないことをしている様な気もするのは、昭和の教育を受けたせいだろうか。
「知に働けば角が立つ、情にさおさせば流される。とかくこの世は住みにくい・・・・どこへ行っても同じだと気が付いたとき、「詩(うた)」がある」という漱石の「枕草子」の一節の「詩」が見えなくなったら・・・・どうしたら良いのだろう?
そうそう、忘れ易くて困ったときは、昔からやってみようとしてやらなかったことを実行に移してみる。
で、今回は安い鶏の胸肉のハムを作ってみようと試みた。
まず味付けのためのソミュールを作る。塩1に砂糖2の割合を白ワインに加える。濃さはすし酢と同じく「しょっぱからず、甘すぎず」の関東風。コショウと月桂樹の葉を香りづけに入れ、これに胸肉を漬け込む。味は肉の奥まで浸み込まない程度に、2時間程度漬ければ良いだろう。これを弱火のオーブンでじっくり焼く。焦がさないこと。肉表面の一部を切り取って味見して、味が薄ければ、今度はつけ焼きの要領であぶる。時々、肉の表面を抑えてみて、プニョプニョとしなくなったら火が通っている。かちん子に焼かない。切ったとき肉汁が少し出てくる程度が良い。そして、今度はガステーブルに中華鍋を載せ、桜のチップを入れ、もち網を入れてから、ガスに火をつけて温めながらチップに火をつける。ガスバーナーで火をつけるのが簡単。チップが燃え始めたら肉を載せて蓋を占めて燻製にする。蓋を占めると中の煙が外に漏れだすほどになるが、火はすぐ消えてしまうので、好みのいぶし状態になるまで繰り返す。
冷ましたら肉を切ってみよう。薄くスライス状にして味を見る。ロンドンで食べた七面鳥のハムとそっくりの味だが、こっちの方が美味しい。酒の肴になるが、サンドウィッチの具になる。今回、実にうまくいった。
何か一つ成し遂げてみることは大切だろう。
こんなことをしながら、スランプが終わるのを待っている。
まだ書くつもりです。もうし訳アリません。
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