~8月8日の日記より~
結局、カブで出たのは10時前。
晴天ではあったが、あのじりじりと焦がされるような日射しではない。
ダム湖のほとりの駐車場には車が数台。
坊さんが藤棚の下のベンチで弁当を食べている。なんだかシュールだ。
よく見ると駐車している車の中で、若い坊さんも弁当を食べている。
坊さんが二人、思い思いの場所で弁当を食べている、となるとシュールさはなくなる。
何故、別々に食べているんだろう。車の中で食べれば涼しかろうに。
若い坊さんが外で食べている→いじめられている。
年長の坊さんが外で食べている→シュール。
でも、二人の坊さんは親子かもしれないんだし。
8月8日。盆が近いから早めの檀家回り、だろうか。
こんなやり取り。
「藤棚の下の方が風が吹いて気持ちええで」
「ふ~ん。座席の方が楽でええわ。エアコンあるし」
「今日はあと二軒やったかな」
・・・などと。勝手に科白をつけてみた。
本を読む時にいつもカブを停めるところへ、歩道を通って行こうと見ると、軽トラが歩道に半分ほど乗り上げて停まっている。中に人もいる。
停め方が変わっている。わざわざ20センチほどの段差を、歩道に直角に乗り上げている。意図が分からない。
坊さんのシュールさに対抗した???
でも、カブは通れたから擦り抜けて、いつもの場所で「スーパーカブ」3巻の終わりの方を読み始める。
小熊が緩んでいたシリンダーヘッドのボルトを誤って捩じ切ってしまい、腰上から分解しなければならないことを知って絶望するところ。
小説では顔を腕で掩(おお)った、とだけ表現され、挿画では腕で掩った顔は悔し涙を流している。
この後、小熊はカブとの人生の「楽しぃ夏」を終わらせ、大人の「味気ない秋」に踏み込まなければならない、とネガティブに「大人の分別」をしようとする。
元の「何もない女の子」に戻るしかない、それがおとなになるということ、と初めて持ったカブに乗るという「意欲」を捨てようとする。何度読んでも苦しくなる、というか身につまされる。
生長しよう、という気持ちを抑え込んで生きるのが大人なんだ、と社会が圧迫してくる。
礼子も椎も何とか手助けをしたいと思うのだけれど、何もできない。
結局、椎の祖父の「私は今も夏だ」という一言に、小熊自身が衝き動かされ、エンジンの解体修理に取り組む。
小説だからと言ってしまえばそれまでだけど、周りの援助というものは全く力にならないのが普通。
でも、逆に、その全く力のない援助があってこそ、当人でさえ信じられないほどの自身の力が発揮される。
下世話な言い方では「豚も煽てりゃ木に登る」。
でも、登ってしまえば、登ったもんの勝ちじゃないか。
そして、豚も木に登れるのだ、と社会を反省させることになる。
結局、カブで出たのは10時前。
晴天ではあったが、あのじりじりと焦がされるような日射しではない。
ダム湖のほとりの駐車場には車が数台。
坊さんが藤棚の下のベンチで弁当を食べている。なんだかシュールだ。
よく見ると駐車している車の中で、若い坊さんも弁当を食べている。
坊さんが二人、思い思いの場所で弁当を食べている、となるとシュールさはなくなる。
何故、別々に食べているんだろう。車の中で食べれば涼しかろうに。
若い坊さんが外で食べている→いじめられている。
年長の坊さんが外で食べている→シュール。
でも、二人の坊さんは親子かもしれないんだし。
8月8日。盆が近いから早めの檀家回り、だろうか。
こんなやり取り。
「藤棚の下の方が風が吹いて気持ちええで」
「ふ~ん。座席の方が楽でええわ。エアコンあるし」
「今日はあと二軒やったかな」
・・・などと。勝手に科白をつけてみた。
本を読む時にいつもカブを停めるところへ、歩道を通って行こうと見ると、軽トラが歩道に半分ほど乗り上げて停まっている。中に人もいる。
停め方が変わっている。わざわざ20センチほどの段差を、歩道に直角に乗り上げている。意図が分からない。
坊さんのシュールさに対抗した???
でも、カブは通れたから擦り抜けて、いつもの場所で「スーパーカブ」3巻の終わりの方を読み始める。
小熊が緩んでいたシリンダーヘッドのボルトを誤って捩じ切ってしまい、腰上から分解しなければならないことを知って絶望するところ。
小説では顔を腕で掩(おお)った、とだけ表現され、挿画では腕で掩った顔は悔し涙を流している。
この後、小熊はカブとの人生の「楽しぃ夏」を終わらせ、大人の「味気ない秋」に踏み込まなければならない、とネガティブに「大人の分別」をしようとする。
元の「何もない女の子」に戻るしかない、それがおとなになるということ、と初めて持ったカブに乗るという「意欲」を捨てようとする。何度読んでも苦しくなる、というか身につまされる。
生長しよう、という気持ちを抑え込んで生きるのが大人なんだ、と社会が圧迫してくる。
礼子も椎も何とか手助けをしたいと思うのだけれど、何もできない。
結局、椎の祖父の「私は今も夏だ」という一言に、小熊自身が衝き動かされ、エンジンの解体修理に取り組む。
小説だからと言ってしまえばそれまでだけど、周りの援助というものは全く力にならないのが普通。
でも、逆に、その全く力のない援助があってこそ、当人でさえ信じられないほどの自身の力が発揮される。
下世話な言い方では「豚も煽てりゃ木に登る」。
でも、登ってしまえば、登ったもんの勝ちじゃないか。
そして、豚も木に登れるのだ、と社会を反省させることになる。