~8月13日の日記より~
正午をだいぶ回ってSRで出る。
用事を済ませて、ダム湖の駐車場の方に足を延ばす。
朝は気鬱になりそうな、とまではいかないけれど、夏特有の不安定そうな空模様だったが、昼頃には嘘のように晴れた。
ジャケットのせいもあるけれど、走っている分には風が心地よい。
自販機の近くにSRを停め、落葉松を囲む形で作られているいつものベンチで「スーパーカブ」の一巻目を、初めから読み始める。通算4回目。
「ないないの女の子」というキーワードを、これまで相当な色眼鏡、最近の言葉で言えばバイアスを掛けて見ていたんだなと思い始めている。
「両親なし、友人なし、趣味なし。ないないの女の子」。
「両親なし」に目を奪われ、あとの二つがその上で展開される話、として読んでいたように思う。
これじゃ、「家なき子」「小公女」「赤毛のアン」、ちょっとずれるけど「ハイジ」と同じになる。
「両親なし、友人なし、趣味なし」。これ、対等だった。
そして、これに「カブあり」と、くるのは、カブは趣味ではなく、自身を育てるツールと認識し始めるからだ。
「両親がいない」ということで、気の毒に思ってしまう。それどころか母親には逃げられた(捨てられた)となると、ただただ可哀想、不憫だと思ってしまっていた。
そうなれば、もう「ひたすら頑張って生きる健気な少女」にしか見えなくなってしまう。
けど、そんな設定に更なる逆境。決して可愛げのある容姿ではない。おそらくはずんぐりむっくりで、感情の読み取りにくい小さな目の、いかにも田舎の目立たない女子高生。極め付きは名前が「小熊」。苗字ならしょうがないけど名前だから。
ここまでやられて、小説の挿絵やコミック版の小熊の容姿を見るとあまりのギャップに戸惑いさえ覚える。
何度か読んでいるうちに、このいい加減極まりない母親は相当な教養と高い芸術的センスを持っているように見えて来るし、その教育を受けた小熊自身、決して鈍重な煤けたような子ではない。同じ失敗は繰り返さない、見ていて呆れるくらい確実に進歩する。現実に周囲の大人は全てその様子に感嘆している。気づいていないのは本人だけ。
「友人がない」のは要らないから。「趣味がない」のも、生きていく上で不要だから。その「生きる」ことだって、単に生きることを維持しているだけで、「生きたい」という欲求からではない。執着心が全くない。
「~のために生きる」という目的が見い出せてないんだから当たり前のことなんだけど。「生きる」ということに欲求の必要性を感じない、「生」は当たり前にあるものと思っている年代だ。
それがカブを手に入れてから、具体的に必要な物(心身両面で)を手に入れることで、段々に執着心を持つようになっただけなんだ、と分かって来た。
そうなると「両親なし」ということの、別な重要性が見えてくる。
両親がいたら、とてもじゃないけどカブを買うことなんてなかったろうし、それが自身を結果として育てていく道具になるなんてことは、あり得ない。まず、カブを買おうという発想すらなかったろう。
もしも、ということで考えても、手に入れたカブでこういう形で大きく成長する、なんてないだろう。
パンク修理だって別世界の出来事のまま。
現実、椎はいつまでたってもパンク修理なんかはできないだろうし、できるようになろうとも思わない。そんな時間は自分の理想のバールづくりに費やすんじゃなかろうか。
おそらくは大学生だろう、数人、新しいバイクでやって来て、大声で話している。
そばに行く気もないし、例によって仲間同士で喋っている中に、爺さんが入っても、そんなに話が続くわけもない。
何より、今まで以上に話そうという気が起きない。
正午をだいぶ回ってSRで出る。
用事を済ませて、ダム湖の駐車場の方に足を延ばす。
朝は気鬱になりそうな、とまではいかないけれど、夏特有の不安定そうな空模様だったが、昼頃には嘘のように晴れた。
ジャケットのせいもあるけれど、走っている分には風が心地よい。
自販機の近くにSRを停め、落葉松を囲む形で作られているいつものベンチで「スーパーカブ」の一巻目を、初めから読み始める。通算4回目。
「ないないの女の子」というキーワードを、これまで相当な色眼鏡、最近の言葉で言えばバイアスを掛けて見ていたんだなと思い始めている。
「両親なし、友人なし、趣味なし。ないないの女の子」。
「両親なし」に目を奪われ、あとの二つがその上で展開される話、として読んでいたように思う。
これじゃ、「家なき子」「小公女」「赤毛のアン」、ちょっとずれるけど「ハイジ」と同じになる。
「両親なし、友人なし、趣味なし」。これ、対等だった。
そして、これに「カブあり」と、くるのは、カブは趣味ではなく、自身を育てるツールと認識し始めるからだ。
「両親がいない」ということで、気の毒に思ってしまう。それどころか母親には逃げられた(捨てられた)となると、ただただ可哀想、不憫だと思ってしまっていた。
そうなれば、もう「ひたすら頑張って生きる健気な少女」にしか見えなくなってしまう。
けど、そんな設定に更なる逆境。決して可愛げのある容姿ではない。おそらくはずんぐりむっくりで、感情の読み取りにくい小さな目の、いかにも田舎の目立たない女子高生。極め付きは名前が「小熊」。苗字ならしょうがないけど名前だから。
ここまでやられて、小説の挿絵やコミック版の小熊の容姿を見るとあまりのギャップに戸惑いさえ覚える。
何度か読んでいるうちに、このいい加減極まりない母親は相当な教養と高い芸術的センスを持っているように見えて来るし、その教育を受けた小熊自身、決して鈍重な煤けたような子ではない。同じ失敗は繰り返さない、見ていて呆れるくらい確実に進歩する。現実に周囲の大人は全てその様子に感嘆している。気づいていないのは本人だけ。
「友人がない」のは要らないから。「趣味がない」のも、生きていく上で不要だから。その「生きる」ことだって、単に生きることを維持しているだけで、「生きたい」という欲求からではない。執着心が全くない。
「~のために生きる」という目的が見い出せてないんだから当たり前のことなんだけど。「生きる」ということに欲求の必要性を感じない、「生」は当たり前にあるものと思っている年代だ。
それがカブを手に入れてから、具体的に必要な物(心身両面で)を手に入れることで、段々に執着心を持つようになっただけなんだ、と分かって来た。
そうなると「両親なし」ということの、別な重要性が見えてくる。
両親がいたら、とてもじゃないけどカブを買うことなんてなかったろうし、それが自身を結果として育てていく道具になるなんてことは、あり得ない。まず、カブを買おうという発想すらなかったろう。
もしも、ということで考えても、手に入れたカブでこういう形で大きく成長する、なんてないだろう。
パンク修理だって別世界の出来事のまま。
現実、椎はいつまでたってもパンク修理なんかはできないだろうし、できるようになろうとも思わない。そんな時間は自分の理想のバールづくりに費やすんじゃなかろうか。
おそらくは大学生だろう、数人、新しいバイクでやって来て、大声で話している。
そばに行く気もないし、例によって仲間同士で喋っている中に、爺さんが入っても、そんなに話が続くわけもない。
何より、今まで以上に話そうという気が起きない。